2021年3月31日水曜日

犬ヶ島 (2018)

ウェス・アンダーソン監督が、再びストップ・モーション・アニメーションに挑戦した作品は、何と日本が舞台になっています。

前作「ファンタスティック・Mr.フォックス」は、秋のイメージで全体に黄色味を帯びた色調をベースにしていましたが、今回は場面によってけっこう多くの色使いを見せてくれます。

基本的には犬たちの台詞は英語で、人間の台詞は日本語。もともと犬が日本語を話すことは無いので、吹き替え版よりも字幕版でみることをお勧めしたい。

今回も、アンダーソン作品常連の方々が声の出演で多数登場しています。中心となる犬たちの声は、リーヴ・シュレイバー、ブライアン・クランストン、エドワード・ノートン、ボブ・バラバン、ビル・マーレイ、ジェフ・ゴールドブラムが担当。雌犬の声はスカーレット・ヨハンソン、アンジェリカ・ヒューストン、サポートで登場する犬は F・マーリー・エイブラハム、ティルダ・スウィントンらです。

人間の役を担当しているのは、コーユー・ランキン、野村訓市、高山明、伊藤晃、オノ・ヨーコ(!)、村上虹郎、野田洋次郎、渡辺謙、夏木マリといった面々。交換留学生でアメリカから来た女の子は、グレタ・ガーウィグで、彼女だけは英語(たまに片言の日本語あり)。

まずは、プロローグ。昔々、犬が大嫌いな時の君主小林は、犬を絶滅させようとしましたが、少年侍が小林を討ち取り犬たちを救った・・・そこで一句、「人間に 我背を向ける 窓の霜」。なんだかわかったようなわかんないような俳句です。

20年後の日本、メガ崎市という場所が舞台になります。その暴君の子孫にあたる小林市長は、犬を駆逐するため、密かに犬の病原体をバラまき、おかしくなった犬たちをことごとく沖合のごみの島に捨てていました。

その最初の一頭になったのがスポッツで、両親が亡くなったため市長の養子になったアタリ少年の護衛犬です。アタリは何とかスポッツを助けようと、一人果敢に犬ヶ島に渡り、島に捨てられた犬たちに助けられながらスポッツを探すことになります。

そして、いろいろこーなって、あーなって、昔の言い伝えを再現するようなことになって、アタリ少年が詠む俳句が「何故ゆえに 人類の共 春に散る花」です。これもまた、わかったようでわかんない。

とにかく、男の子が大切にしている友情とか、勇気とか、情熱とか、いろいろなものをアンダーソン流の笑いを混ぜながら表現しています。対象が犬であることで、かえって恥ずかしい感じもなくストレートに描けているのではないでしょうか。

一見、犬派 vs 猫派のような内容ではありますが、そこにはほとんど焦点をあてなかったことで、人間を含む動物全体に対して訴える普遍的な内容になったように思います。

登場する日本趣味は、日本人からすると大袈裟な感じがしないでもないのですが、和太鼓演奏、銭湯っぽい風呂、大相撲、ヤンキーに女の子、握り寿司作りとか、映画として違和感が出るほどのものではなく、むしろ楽しめるものになっています。

これまでの作品を全部見てみると、これほどまでに映像に対するこだわりがある監督というのは珍しい。一目でこの映画の監督を言い当てられるというのは、すごいことです。普通なら似たような雰囲気で、登場する俳優も同じなので飽きられてしまいそうですが、一つ一つの作品が確実に新しい何かを感じさせてくれます。

あえてランキングをつけてみると、「グランド・ホテル・ブダペスト」、「ダージリン急行」、「ファンタスティック・Mr.フォックス」あたりをベスト3にしておきますが、習作的な初期の数本を除いて、どれも甲乙つけがたい作品ばかりです。今後もアンダーソン監督の映画は注目する価値があります。

アンダーソン監督の最新作は「The French Dispatch」で、コロナの影響で遅れていましたが、今年の夏の公開が決定したようです。相変わらずの面々が繰り広げるスタイリッシュ・コメディに期待大です。



2021年3月30日火曜日

グランド・ブダペスト・ホテル (2014)

8本目のウェス・アンダーソン監督作品で、監督のこだわりがつまった、今のところ最高傑作の呼び声が高い映画です。

初めて導入されたアンダーソンのこだわりは、スクリーンサイズを一つの作品の中で変えてしまうという手法。この映画では、スタートの現代で一人のファンが作家の墓を訪れ、1985年に作家が自分の書いた小説を思い出し、1968年に小説の元ネタを知る、そしてそのネタは1932年に始まるという構成になっていて、それぞれの時代で異なるスクリーンサイズを用いることで時間軸の変化を示しています。

現代は1.85:1のビスタ・サイズ(いわゆるワイド画面)ですが、周りを黒枠で覆って全体を狭く見せています。1985年になると、その黒枠を拡大してより狭くなる。1968年は2.35:1のシネマスコープ・サイズで上下に黒い部分が残り左右は画面いっぱいに伸長します。そしてメインの1932年は137:1のスタンダード・サイズとなって、上下は一杯になりますが、左右に黒枠が入る。

普通なら、字幕を付けて説明するだけとか、古いものほど彩度を下げ、場合によっては白黒にするというのが簡単。あるいは、現代と1985年は削除しても話は成立するところなんですが、アンダーソン監督は、自分の美意識であるピンクを中心にした色彩豊かな情景を最優先として、ここでは映画の入れ物を変更するという斬新な方法で時を遡る雰囲気を表現しようとしています。

横長のシネマスコープ・サイズでは、アンダーソン監督のカメラの横への平行移動によるシークエンスの連続的な移動が実に効果的ですが、面白いことにスタンダード・サイズでは正方形に近くなり、人の動きやカメラの移動が画面の上下に変わってくる。この場合は高低差や前後の奥行に幅が出てくる演出に変わってくるのです。

さて舞台は、東欧の架空の国ズブロフカという国、高級リゾートとしてかつて栄えたグランド・ホテル・ブダペストです。1968年、今はさびれたこのホテルに作家(ジュード・ロウ)が訪れました。そこで、ホテルのオーナーであるムスタファから、何故このホテルに関わるようになったのかの経緯を聞くことになりました。話し込む二人の後ろで、手持ち無沙汰に座っているのはカメオ出演となったクリエイターの野村訓市氏。ホテルのフロントを受け持つのはジェイソン・シュワルツマンです。

1932年、ここには訪れる客から絶大なる信頼を寄せられるグスタヴ・H(レイフ・ファインズ)というコンシェルジェがいました。徹底的なサービス精神は、時には老婦人のお相手すら厭わない。そこへ身寄りのいないゼロ(トニー・リヴォロリ)という名の青年が、新米のロビーボーイとして登場し、グスタヴにホテルマンのイロハを叩き込まれるのです。仲間のホテルマンにはオーウェン・ウィルソンが混じっています。

ゼロは町で人気の三段重ねシュークリーム職人であるアガサ(シアーシャ・ローナン)と仲良くなります。アガサの右の頬にはメキシコの形の赤痣があるのですが、監督のこだわりの一つなんでしょうけど、何故かはまったく不明です。メディアの特典映像に、このシュークリームのレシピが動画付きで詳細に紹介されています。

ある時、長年の付き合いがあるマダム・D(ティルダ・スウィントン)が急死し、何とその遺産である高価な絵画がグスタヴに贈られることになったのです。グスタヴとゼロが汽車でマダムの邸宅に向かう途中、すでにファシズムが迫ってきていて、二人は列車の中で秘密警察?ヘンケルス(エドワード・ノートン)によって検閲を受けます。

息子のドミトリー(エイドリアン・ブロディ)は激怒し、用心棒兼自称探偵のジョプリング(ウィレム・デフォー)と共に、グスタヴを罵倒するのでした。帰り際に、グスタヴはゼロと一緒に絵画を盗み出してホテルの自室に隠しました。ホテルの弁護士であり、かつマダムの遺言執行人を演じるのはジェフ・ゴールドブラム。なお、マダムの屋敷のメイド役で レア・セドゥが登場します。

ドミトリーらは、グスタヴを陥れマダム・Dの殺人容疑で刑務所に送ることに成功しました。しかし、ここでも親切なコンシェルジェ魂で仲間を作り、外からのゼロの協力もあって脱獄に成功。

ここで登場するのが、「鍵の秘密結社」という謎の組織。どうも有名ホテルのコンシェルジェが横につながって、時には政局にも影響するような活動を秘密裏に行っているらしい。まず、グスタヴが電話をしたのはビル・マーレイ演じるムッシュ・アイバン。アイバンが連絡を取るのがムッシュ・ジョルジュで、ウォレス・ウォロダースキー(ダージリン急行、ファンタスティック・Mr.フォックス)。続いて登場するのがワリス・アルワリア(ダージリン急行)が演じるディーノやボブ・バラバン(ムーンライズ・キングダム)演じるマルチンです。

鍵の秘密結社の結束力と情報網によって逃亡した二人は、事件の鍵を握るマダムの執事が雪山の上の修道院に隠れていることを突き止め向かうのです。ここまでは、アンダーソン監督らしい実にスタイリッシュな笑いを含んだサスペンス・コメディという感じですが、ここからはまるで往年の「007」みたいなアクション・コメディに変貌します。

いろいろな映画のオマージュ感じさせるシーンを散りばめ、複雑な構成の割にはスピーディに息つく暇を与えず展開させる編集が見事です。多くのアンダーソン一座の面々が登場するので、こういう常連の俳優を見つけるのも、アンダーソン作品の楽しみの一つ。

この雰囲気が気に入ると、もうアンダーソン・ワールドは病みつきになること間違いなしです。

2021年3月29日月曜日

SAKURA 2021 @ たまプラーザ


たまプラーザ駅の北側、東急SCのある駅前通りも桜並木があって、この時期はやわらかいピンク色に染まります。

昨日はあいにく雨でしたが、日中は大したことはありませんでしたが、夜からは強い雨になり花散らしの雨になってなければいいんですけど。

温かい日差しが射せば、駅前の広場でゆっくりしたいところですけど、雨で寒いし、そもそもコロナのこともありますから、そうもしていられません。

とは言っても、人出は多い。見かけたレストランなども、普通に人が入っている印象でした。とにかく注意するしかないですけどね。

2021年3月28日日曜日

SAKURA 2021 @ 荏田南町


荏田南町の丘の上に、荏田介護老人保健施設あすなろがあります。施設に続く道沿いに、たくさんのソメイヨシノの苗木が植えられたのは、施設が開所した2005年のこと。

たまたま、うちのクリニックと開院の時期がほぼ同じで、どらも「あすなろ」を名乗ったのは偶然ですが、以来この桜の成長は自分のことのように興味深く見てきました。

今では10m以上の高さになったたくさんのソメイヨシノが、春になると咲き誇って丘をピンクに染め上げるのは壮観です。

今年も上の方から咲き始め、下の方もだいたい満開になってきた感じです。私有地ですから、勝手に中に入ってお花見をするわけにはいきませんが、この付近の桜の名所として定着しています。


2021年3月27日土曜日

SAKURA 2021 @ 早渕川土手


横浜市営地下鉄センター南から、うちのクリニックのあるベルヴィル茅ケ崎ビルを通り越した裏にはホームセンターのコーナンがあって、そのさらに裏には早渕川が流れています。

ここも、土手沿いに桜が並んでいるので、毎年この時期は目の保養にもってこい。

ソメイヨシノよりも開花が早めで、色も赤みが強いので、山桜系ではないとか思うのですが、本当のところはあずかり知らぬところです。

去年までは、この土手は桜の下に菜の花がたくさん咲いていたのですが、きれいに整地されてしまったのか、今年はまったく菜の花はありません。

ピンクと黄色のコントラストがよかったので、残念です。


2021年3月26日金曜日

SAKURA 2021 @ 茅ヶ崎城址公園


都内は満開のようですが、横浜北部のこのあたりでは、今年の桜は8分咲きという感じ。週末は満開となり、一番の見ごろになりそうです。

コロナ渦の影響で、お花見をしようという雰囲気にはなりませんが、そんなことは花には関係ありません。

本来なら、春到来のメイン・イベントのはずで、たくさんの人を見下ろすことが無くても、誇らしげに咲いています。


2021年3月25日木曜日

ムーンライズ・キングダム (2012)

これは、まさにウェス・アンダーソン監督による「小さな恋のメロディ(1971)」みたいなもの。

「小さな恋のメロディ」は、劇場でも見ましたし、その後テレビでも見ました。少年と少女が幼い知恵を絞って、追いかけてくる大人たちから逃げて駆け落ちする話。最後はトロッコに乗って、たぶん自由な世界に向かっていくところで終わっていました。ビージーズの挿入歌も素晴らしく、サントラ盤も購入した記憶があります。

屋内のシーンについては、もう完成されたアンダーソン・ワールドは安心して見ることができます。カラフルな色彩使いと左右対称の完璧な構図はいつも通り。そこを横への平行移動と、回転するカメラがスムーズに場面を見せてくれます。

今作の問題は屋外と、暗いところでのシーンが多いこと。意識的にセットを構成することができにくいし、そもそも色彩も上がりません。今までの作品よりカット割りが多い感じはしますが、それでも人物を真横からとらえたり、自然の風景をうまく利用した対照的構成はこだわり抜いている。

舞台設定は1965年。ニューイングランド沖にあるニュー・ペンザンス島(架空の島)。両親がいない12歳のサム・シャカスキー (ジャレッド・ギルマン)は、里親から出されてこの島のボーイスカウトのキャンプで共同生活をしていましたが、仲間からは変人扱いされ嫌われ者でした。

島に両親(ビル・マーレイ、フランシス・マクドーマンド)と3人の弟と住む12歳のスージー・ビショップ(カーラ・ヘイワード)もまた、うるさく自分を認めてくれない親や大人たちに不満を抱いて本の世界に没頭していました。

たまたま知り合った二人は、1年間にわたって文通を続け、ついて駆け落ちを決行します。とは言っても、島という限られた範囲での行動は限界があるので、このあたりは微笑ましい。

島でただ一人の警官であるシャープ警部(ブルース・ウィリス)やボーイスカウトのウォード隊長(エドワード・ノートン)は、二人を探し回り、やっとのことで島の知られていない入り江でキャンプをしているところを発見しました。

二人は離れ離れになりますが、ボーイスカウトの仲間たちは、サムに対して取ってきた態度を反省し、二人を逃がすことに成功します。しかし、その頃島には大型のハリケーンが近づいていました。

毎度おなじみのビル・マーレイ、二人の結婚を認める臨時神父のちょい役でジェイソン。シュワルツマンといったお馴染みが登場。スージーのカーラ・ヘイワード、隊長のエドワード・ノートン、司令官のハーヴェイ・カイテル、福祉局員のティルダ・スウィントン、ナレーション役のボブ・バラバンらも新しくアンダーソン一座に加わることになります。

主人公の子役二人は初めての映画出演ですが、何しろ怖くない警官を演じるブルース・ウィリスを含めて、これだけ名優で脇を固めていることで隙の無い作品を作り上げています。

スージーが持ち歩くトランクの中には、架空の小説の本が6冊。いずれも、半分本気で話が作ってあるあたりは、小道具にこだわるアンダーソンの遊び心がよく表れています。またスージーはいつも双眼鏡を使いますが、これもこだわりの一つ。遠くは見えても、近くは意外と見えていないということ。サムは近眼で眼鏡をかけているので、こっちは逆に近くは見えても遠くは見えない。

この二人の恋がいつまで続くのかはわかりませんが、こどもの時って誰しもがこれと同じとまではいかないにしても、何か冒険に出たくなることがあったはず。大人になると守りに入って、冒険はできなくなってしまう。この映画は、二人を通じて見るものに何かを思い出させてくれて、温かい気持ちになれるのです。

2021年3月24日水曜日

ファンタスティック Mr.FOX (2009)

ウェス・アンダーソン監督り新境地を開いた傑作は、何と全編がストップ・モーション・アニメーションの手法で作られました。

ストップモーション・アニメーションは、静止している物体を1コマ毎にわずかに動かしながら撮影する(コマ撮り)ことで、まるで動いているように見える技術です。通常の映画なら30コマ程度必要なので、例えば60分の動画を作るのに、30コマ×60秒×60分で10万8千回の撮影が必要で、かなりの忍耐と労力を要することは想像に難くない。

古くはレリー・ハリーハウゼンによる怪物が登場する映画、「シンバッド七回目の航海(1958)」や「アルゴ探検隊の大冒険(1963)」などが思い出されます。最近は、ほとんどCGに取って代わられてしまいましが、他の方法では代替えできない味があります。

アンダーソンは、「ライフ・アクアティック」でほとんどの水中生物を、ヘンリー・セリックの助けでこの技法を用いて撮影しました。おそらく、この時にセリックから手ほどきを受けて、今回の映画に生かすことを思いついたのでしょう。

それぞれの登場人物(動物)は10~30cm程度の大きさの精巧な人形で、これを一コマずつ微妙に動かすことは大変です(実際は24コマ/秒)。アンダーソン映画の特徴的なシークエンスはここでも取り入れられているのですが、カット割りすれば簡単なところを、平行移動で表現するのは特に難易度が高い。

原作は、児童文学作家のロアルド・ダールによる「父さんギツネバンザイ」で、ダールの映画化されたほかの作品としては「チャーリーとチョコレート工場」、「BFG」、「魔女がいっぱい」などがありますし、「007は二度死ぬ」や「チキチキ・バンバン」の映画脚本も書いています。

まず、声優陣がすごい。主役のMr.フォックスはジョージ・クルーニー、Mrs.フォックスがメリル・ストリープ。顔出しの無いアニメですから、日本語吹き替えで観てもいいんですが、この二人の声が実にはまっている。息子のアッシュは、天才マックスのジェイソン・シュワルツマン、アナグマの弁護士はビル・マーレー、敵のネズミはウィレム・デフォー、学校のコーチはオーウェン・ウィルソンというアンダーソン一座の面々です。

彼らはスタジオでマイクの前に勢ぞろいして録音するのではなく、実際に屋外だったりどこかの家の居間で、キャラクターの動きにできるだけ近い演技をしながら台詞を言い、その時に発生する音も同時に収録するという方法が取られていることも特徴的です。

フォックスは結婚と子供の誕生を機に、泥棒家業から足を洗い、新聞記者として生活しています。しかし、野生動物の本能から、人間のビーン、ホギス、ハンスの食糧倉庫に盗みに入り、怒った彼らと全面戦争になる。

そこに夫婦の愛、父親のように強くなれない息子の悩み、仲間との信頼など、定番中の定番ともいえるテーマが嫌味なく収まっているのは、やはり良質な原作によるところが大きい。ですが、短いエピソードの集まった原作を、雰囲気を継承しつつ一つの流れにつなげていったのは、脚本を書いたアンダーソンとノア・バームバック(「ライフ・アクアティック」の脚本)の手柄でしょう。

これらの経験は、次のストップ・モーション・アニメーション制作にもつながるのです。

2021年3月23日火曜日

ダージリン急行 (2007)

ウェス・アンダーソンの5作目の監督作品。これまでの10年間の作品で、少しずつその特徴を積み重ねてきましたが、ここでそのすべてが融合した映画が完成したようです。

冒頭、アンダーソン一座のメンバーであるビル・マーレイがビジネスマンとして登場。彼はインドのどこかで、タクシーに乗って駅へ急いでいる。到着したら、列車が発車したばかりで、マーレイは駆け出して何とか乗り込もうとするのですが、彼の足では追いつけない。基本的にマーレイの出番はおしまい。何て贅沢な役者の使い方でしょうか。

走るマーレイの横を抜いて、列車に乗り込めた男がいます。いきなりのスローモーションを駆使しての横への平行移動のシーンとなり、ここまでの数分間でアンダーソン・ワールドがすでに全開という感じ。

彼が乗り込んだ列車が「ダージリン急行」で、彼の名前はピーター。演じているのは、「戦場のピアニスト」でアカデミー主演男優賞を受賞しているエイドリアン・ブロディ。後ろの雑多な二等客車から少しずつ前に移っていき、特等のコンパートメントの一部屋に入ると、そこにいたのは弟のジャックで、天才マックスを演じたジェイソン。シュワルツマンが演じます。彼はこの映画の脚本にも参加しています。

さらに登場するのが、お馴染みオーウェン・ウィルソンが演じる長男のフランシス。彼が、このインドの旅を計画して、父親の葬儀以後疎遠になっていた兄弟を集めたのです。フランシスは、この「心の旅」を通じて再び兄弟の絆を取り戻したいと説明します。

彼らは食堂車に行って、それぞれの悩みを打ち明けあいます。フランシスは、この直前にバイク事故で顔中傷だらけで、頭に包帯を巻いたまま。ピーターは、もうじき子供が生まれるというのに妻との離婚を考えている。ジャックは元カノのことで悩んでいたりします。

ここもあえて同席する彼らとは無関係のインド人を加えることで、対称性を意識した絵作りをしてくるところはうれしい。この最後までセリフのの無いインド人を演じるのは、これもお馴染みとなったクマール・パラーナ。

フランシスは長男としてリーダーシップをとろうとしますが、どの組み合わせでも二人になると、もう一人を悪く言うという、兄弟間の信頼関係が無くなっていることがよくわかる。ジャックは特等を世話する係のリタに言い寄ったり、停車駅で毒蛇を買い込んだり、ついには喧嘩をしてスパイス・スプレーをバラまいて列車から強制的に降ろされてしまいます。

フランシスは、旅の本当の目的が、父親の葬儀に来なかった奥地の修道院にいる母親に会いに行くためのものだと話し、彼らは荒れ地のような田舎を歩いていく羽目になりました。途中で、川で溺れた少年たちを助けるのですが、一人だけは死んでしまいます。遺体を抱いて村に行くと、彼らも葬式に参列することになります。

父親の葬儀のことを思い出し、一つの気持ちにまとまっていたことを思い出した三人は、母親のいる修道院に到着しました。母親は、これもアンダーソン一座のアンジェリカ・ヒューストン。母親は、過去は終わったことと言い、言葉を使わず自分を出すように言います。

夜になって、列車の回想シーンが登場し、ジャックの元カノが一瞬登場しますが、これが何とナタリー・ポートマンという贅沢さ。母親は翌朝姿を消してしまいました。三人は再び、列車に乗り込みます。走り出した列車に飛び乗る際に、持っていたたくさんの荷物は放り出してしまいます。「オー・シャンゼリゼ」の歌が聞こえ、エンドロールが流れます。

ストーリーを書き出してみると、どう見てもコメディではなく、アンダーソンのおそらくテーマである家族再生の話。今回は天才的な常識を逸脱した人物は登場しませんが、三人の兄弟の考え方の違い、あるいはインドの異文化とのミスマッチが笑いを誘う作りには感心します。

自然に用いられているインドのカラフルな景観は、まさにアンダーソン素材として実にうまく取り入れられています。また、カメラの平行移動はさらに進化して、回転するような移動によってカットで繋ぐところも連続したシーンになっているのも面白い。

実は、この映画の前日譚として「ホテル・シュバリエ」という短編が作られており、ここではジャックと元カノのナタリー・ポートマンの逸話が描かれていて、ポートマンの見えそうで見えないお宝映像が出てきます。

2021年3月22日月曜日

緊急事態宣言解除


https://toyokeizai.net/sp/visual/tko/covid19/

緊急事態宣言が解除されます。

現状は、緊急事態宣言による感染者数の減少は底をついた感があり、このまま続けていてもその実効性については甚だ疑問が生じています。

従って、解除されるのは「もう安心です」という意味ではないことを、誰もが認識しておく必要があります。現実には、新規感染者数は少しずつ増加している状況であり、実効再生産数(一人から何人に感染しているかを示す)も1を超えています。

これ以上宣言を延長していると経済がもたないという意見がありますが、宣言解除が「経済活動の再開」と理解することは間違いだと考えます。解除されても、今までの同じような注意深い行動が必要だということです。

ワクチン接種はしないよりはましだと思いますが、切り札というのもなるかはまだ五里霧中という感じがします。実際、横浜市については、医療関係者向けはいつになったら始まるのかいまだによくわからない。ましてや、一般の方向けはどうなっているのでしょうか。

クリニックでも、当然、引き続き感染症対策は続行し、注意深く診療を続けます。そのために、来院した方々にいろいろとご不便をおかけしていますが、何卒ご理解いただきご協力をお願いいたします。

2021年3月21日日曜日

ヤッターマン (2008)

あ~、なんか久しぶりに能天気な映画を見ちゃった、という感想しかない。こういう映画のニーズがあることはわかるけど・・・

1975年に始まったタツノコプロ制作のテレビ・アニメ「タイムボカン」の後番組が、1977年~1979年の「ヤッターマン」ということで、当時はずいぶんと人気があった。リアルタイムとしては、高校生だった頃の「タイムボカン」は多少見ましたが、「ヤッターマン」は知ってはいましたがほとんど見ていませんでした。

この映画を最も楽しんだのは、自分より一世代下の方々じゃないかと思います。ですから、監督をした1960年生まれの三池崇史が「できる限り当時のアニメの雰囲気をそのまま実現した」ということは、三池さんは当時はかなりのアニメ好きだったのかと。

内容は確かに、ほぼ30分物アニメを4本つなげたような感じで、紹介編、活躍編、決戦前編、決戦後編という感じ。ヤッターマン1号(櫻井翔)、ヤッターマン2号(福田沙紀)、ロボットのヤッターワンとオモッチャマが、ドクロベエが率いる泥棒一味である、ドロンジョ(深田恭子)、ボヤッキー(生瀬勝久)、トンズラー(ケンドーコバヤシ)と対決というお決まりの展開。

映画としてメインのストーリーは、海江田博士(阿部サダヲ)が探しているドクロストーンを巡って、善玉・悪玉が戦うというもので、行方不明になった博士の娘の翔子(岡本杏理)がヤッターマンと行動を伴にします。

ギャグ・アニメとしてはそこそこ面白かったのですが、それを実写版、それもアニメの雰囲気のままにするというのは・・・だったら最初から劇場版アニメで良かったんじゃないのと言いたくなる。そもそもほとんどがCGで描かれてますからね。

それほどバカバカしい内容で、俳優さんがリアルに全力でギャグをするのは「頑張りましたね」とは言えるけど、一方で「可哀そうに」という感じも無くはない。

アニメ版声優の小原乃梨子さんたちが寿司屋の客で特別出演したり、阿部サダヲが「ファイトクラブ」さながらに一人格闘したり、最後の最後に実際には作られていない「来週の予告」を流したりと、いろいろアイデアを盛り込んでいるのはわかります。

まぁ、はっきり言って、この映画の一番の見所は深田恭子のドロンジョ・コスプレ。深キョン・ファンの方は必見です。そこんとこ以外は・・・まぁ、いいか。

2021年3月20日土曜日

お彼岸


今年は、3月17日の水曜日から3月23日の火曜日までが春のお彼岸。

そして中日となる春分の日は、本日、3月20日です。

春分の日というと、3月21日というイメージがあるんですが、それは昭和の人間の証拠。昭和の時代には、8割がた21日だった。

暦の関係で少しずつずれが出て、20日と21日の割合は平成になると半々に近くなっています。

今後の30年間は、20日の方が多くなり、21世紀後半は21日は無くなります。

ふぅ~ん、ってなもんですが、なんにしても日ごろ忘れがちの祖先を思い出して、心を落ち着けて穏やかに過ごしたいものです。

2021年3月19日金曜日

アンダーワールド ブラッド・ウォーズ (2016)

目下のところ、シリーズ最新作、第5作目がこれ。

まだその手があったのか、という感じでヴァンパイア族とライカン族の抗争に集中した話になっていて、前作でモダン化しすぎたシリーズ・カラーが復活しました。

前作で登場したセリーンの娘、イプはその血を求めて相変わらずライカンから狙われています。セリーンは、イブの身の安全のため別れ、その行方すら知りません。ライカン族を新たに統率し強力にしたのはリーダーのマリウスで、彼はイブの行方を求めてセリーンを襲撃してくるのです。

ヴァンパイア族はあいかわらず古き因習に縛られ、血の純潔を絶対視して、掟を破ったセリーンは追放されました。しかし、新たに元老院のメンバーになったセミラは、マリウスの力が脅威になってきた現状を考えると、セリーンを呼び戻し処刑人の訓練に当たらせることを考えていました。

前作で、セリーンをサポートしたデヴィッドの父親トーマスは、元老院に意見できる存在なので、セミラはトーマスからセリーンを戻すことを提案させます。しかし、セミラの真の目的はセリーンの血を得ることで、自らが元老院を支配しようと画策していたのです。

罠にはまったセリーンは、仲間殺しの汚名を着せられ、セミラによって監禁され血を抜かれます。トーマスとデヴィッドはセミラの企みを察知しますが、デヴィッドがセリーンを連れ出す際、トーマスは盾になってセミラに殺されてしまうのでした。

セリーンとデヴィッドは、北の一族、ヴァルガのもとに避難しますが、そこでデヴィッドが死んだ三長老の一人アメリアの息子であり、一族をおさめる正当な後継者であることが明かされました。

しかし、そこも安全な場所ではなく、たちまちマリウスが率いるライカンの大群に襲われます。マリウスはセリーンが本当にイブの居所を知らないことがわかると、ついにセリーンを殺してしまいました。引き上げられたセリーンの遺体は、ヴァルガらに伝わる秘法により「聖なる世界」へ転じられます。

デヴィッドは、マリウスが元老院を襲撃すると考え、自分の運命を受け入れ戦いに戻っていきます。セリーンの血を飲んで力を得たセミラが、本性を出して元老院を服従させようとしているところに、デヴィッドが戻り、セミラの悪行を暴きますが、ちょうどそこへマリウスのライカン軍が屋敷の襲撃を開始しました。

ライカンは屋敷内に侵入し壁を打ち抜くことで日光を導き入れたため、ヴァンパイアたちは圧倒的な劣勢に立たされます。そこに「聖なる世界」から半分白くなった髪の毛で戻ったセリーンが、さらなる力を得て登場し、ついにマリウスとの一騎打ちとなるのでした。

戦いの中でマリウスの血を口にしたセリーンは、マリウスの強大な力がマイケルを殺して得た血液を飲むことで得ていることを知り大きな衝撃を受けます。マイケルの血液が底をつくため、今度はイブの血液を求めていたことを知るのです。

前作と本作はいずれも90分程度にまとめられていて、比較的スピーディに話が展開します。ヴァンパイア族とライカン族の戦いに集中したストーリーで、過去の因縁の代わりに、セリーンとイブの血を巡る戦いに絞ったことが映画を明快にしました。

また、そこへヴァンパイア族の中にビクターに代わる新たな裏切り者をつぎ込んだことで、話に立体感が加わっています。ちなみにセミラを演じるのがララ・パルヴァーというイギリスの女優さんで、最初ジョディ・フォスターかと思うくらいよく似ています。

最後にセリーンの独白で、両族の抗争が終結したこと、セリーンを含めて新たな長老が選出され、一族の再建を図っていくことが語られます。ということは、ほぼシリーズとしては完結という雰囲気。

ただし、もともと第6作まで予定があるようなアナウンスがあり、実際に最後のシーンはイブ?がセリーンに会いに来たところで終わっていて、いかにも続きがありそうな気配を漂わせています。とは言っても、主役のケイト・ベッキンセイル自身は「やり尽くした」と発言しており、次回作への出演は消極的。

女性が活躍するアクション映画としては、それなりに楽しめましたが、さすがにこれ以上続けてもストーリーが迷走するか、二番煎じに終わりそうなのでやめておいた方がよいかもしれませんね。

2021年3月18日木曜日

アンダーワールド 覚醒 (2012)

シリーズ第4弾。戦いの舞台は再び現代。第1作から10年近くたちましたが、主役のケイト・ベッキンセイルの若々しさは変わらずで頼もしい。

第2作で、ヴァンパイア族とライカン族の戦いの後始末をして、長年にわたって人間族に気が付かれないようにしてきたアレクサンデル・コルヴィナスが死んでしまったため、ついに彼らの存在が明るみになってしまいました。

人間族は、ヴァンパイア族とライカン族の掃討作戦を展開。セリーンとマイケルもこの粛清から逃げ延びようとしますが、捕獲され研究材料としてアンディジェン社に冷凍保管されてしまいます。

ある時、突如解凍されて覚醒したセリーンは、視覚共有できるマイケルが逃がしてくれたものと思い、その視覚情報を頼りにマイケルを追跡しますが、ライカンに襲われている少女を発見するのです。

マイケルの視覚だと思っていたのは、実はこの少女イブのもので、彼女はセリーンとマイケルの間にできた混血種だったのです。そして、セリーンは、何と捕獲されてから12年間が経過していたことを知るのでした。

粛清からの生き残ったヴァンパイア族の一人デヴィッドの助けで、彼らの隠れ家に逃げましたが、そこにもライカンが襲撃してきます。しかも、通常の2倍くらい大きな個体となり強力な破壊力の前にイブを奪われてしまいました。

アンディジェン社は、何と生き残ったライカンの巣窟で、彼らは検査でライカンを陰性として粛清から除外して勢力を拡大していたのです。しかも、混血種として強力なイブの血液を使って、強化ワクチンを作り、かつ銀への免疫力さえも獲得しようとしていたのでした。セリーンはイブを助けるため、一人アンディジェン社に乗り込むのでした。

前作までの1000年にわたる因縁の物語は終結し、今作では世界観を形作る基本知識になってしまいました。現代社会で、医科学的な生き残りを展開するライカン族に対して、ヴァンパイア族は古き時代の因習にとらわれて弱体化している感じ。

さすがに長老3人が死んでしまうと、骨格となるストーリーが無くなってネタ切れ感は否めない。そこを救ってくれるのが、ケイト・ベッキンセイルのアクション・シーンと、巨大化した怪獣映画のようなライカンの登場というところでしょうか。

ヴァンパイア族とライカン族と人間族の三つ巴の争いと謳い文句にありますが、実際には人間族は粛清以降は安心してしまったのか、あまり活躍はしていません。もっとも、そこに深入りすると展開がぐちゃぐちゃになりそうですから、それはそれでよしとします。

アンディジェン社で、セリーンは何といまだに冷凍されたままのマイケルを発見します。しかし、セリーンは冷凍カプセルに一発の銃弾を撃ち込んで、イブを救うことを優先します。戻ってみるとカプセルは空になっていました・・・ということで、次作へつなぐつもりのネタを残して終わります。

2021年3月17日水曜日

アンダーワールド ビギンズ (2009)

シリーズ第3作は、完全に中世の世界。ヴァンパイア族とライカン族の戦いの原点といも言うべきエピソードが登場です。邦題は「ビギンズ」ですが、原題は「ライカン族誕生」という感じ。これは「バットマン・ビギンズ」のパクリで日本の配給会社の安易な発想。

今回はライカン族の視点から描かれ、ヴァンパイア族の長であるビクターは完全に悪者です。第1作で登場したライカン族リーダーのルシアンを中心に、いかにしてヴァンパイア族の奴隷から解放されるかということ。従って、セリーンは登場しません。

シリーズ物の映画ともなると、どうしてもしだいにスケール・アップしていかないと飽きられてしまう。そこを、舞台を大きく動かし、本筋のスピンオフ的な位置づけにもかかわらず、一度リセットする感じでシリーズの価値をうまく継続させることに成功しているように思います。

おそらく前作で明らかになったヴァンパイア族とライカン族の出自から何世紀かたってからの話なんでしょぅが、ビクターが治める城の外の世界には、ウィリアム直系の人間に戻れないライカンがうようよしている時代。

城の中では、捕えた人間をライカンに噛ませ、ライカンを増やして奴隷として任用していました。彼らは、自らの意思で狼にも人間にも変身できるため、内向きにたくさんの銀のとげがついた首輪をつけられています。その中で生まれたのがルシアンで、ビクターはその能力を認め奴隷の中でも特別扱いをして重用していました。

ビクターにはソーニャという一人娘がいて、勇敢な戦士としても人望がありましたが、実は隠れてルシアンと恋仲になっていたのです。ルシアンは、今の境遇から脱出することを考え、ついに奴隷たちと共に城からの脱走に成功します。

しかし、ソーニャがその助けをしたこと、ルシアンとただならぬ関係にあることがビクターに知られてしまいます。監禁されたソーニャを助けるために一人で城に潜入したルシアンでしたが結局捕まり、ビクターの命により死刑が宣告され、彼の目の前でソーニャは開いた天井から日が射し死んでしまいます。

ルシアンは怒りと悲しみの極限で変身し、それに呼応したウィリアム直系ライカンや、城から奪取した仲間たちが一気に城になだれ込み城を制圧するのでした。ルシアンを信頼するレイズは、「戦いは終わった」と告げますが、ルシアンは「始まったばかりだ」と返すのでした。

セリーンはソーニャと生き写しだったので、ビクターが後に家族を全滅させる際にセリーンだけは殺さなかったということで、ソーニャを演じるのはローナ・ミトラですが、メイクのせいもあるかもしれませんが大変似ていて違和感がありません。

当初、セリーン役のケイト・ベッキンセイルのキャスティングが考えられていたようですが、実現しませんでした。たぶん、ルシアン役を演じたマイケル・シーンとは一作目の時は事実婚関係(こどももいる)だったのですが、その後別れてしまったというが関係している・・・んだろうなと勘繰ります。

その他、1作目と2作目に登場した人物が、同じ俳優で演じられるので、シリーズとしての統一感は崩れていません。セリーンが出てこない分、ちょっと寂しい感じはしますけど、ストーリーの焦点がはっきりしているためドラマとしての完成度は高いように思いました。

2021年3月16日火曜日

虹をわたって


というのは、1972年の天地真理のヒット曲。

♪ 虹の向こうは 晴れなのかしら
  あなたの町の あのあたり・・・・

自分にとっては最初のアイドルが、「マリちゃん」でしたので懐かしい思いがあります。

この前の土曜日に、日中は雷と雨と風という嵐でしたが、夕方日が射してくると、大きな虹が見えました。

あまりに大きくて、形もしっかりと見えたので、けっこう感動物でした。

全体ははっきりと半円状に広がっていましたが、そこら中に張り巡らされた電線を避けて写真を撮ろうと思うと、ごく一部しか写せませんでした。

虹は太陽の反対側に出る、雨滴の中の光の反射です。なので、虹の向こうはまだ雨の可能性が高いのかもしれません。




2021年3月15日月曜日

アンターワールド エボリューション (2006)

1000年にわたるヴァンパイア族とライカン族との確執を描く「アンダーワールド」シリーズ第2弾。

ヴァンパイア族のライカン討伐の処刑人セリーン(ケイト・ベッキンセイル)は、家族を惨殺した真の犯人が、ヴァンパイア族の長老の一人で信頼していたビクターであることを知り、ついに彼を討ち取る。そして初めての両族混血として覚醒したマイケルと共に、長老殺しの裏切り者として追われる立場になる・・・というのが、前作のあらすじ。

前作の最後は、ヴァンパイア族の最後の長老マーカスが、ライカンの血を得て混合種として絶大な力を得て復活するところで終わっていました。今作では、大筋の設定はそのまま受け継ぎ、より根源的なストーリーが展開されます。

1000年前、アレクサンデル・コルヴィナスはウィルス感染により不老不死の力を獲得。アレクサンデルの双子の息子のうちの一人、兄のマーカスは蝙蝠に噛まれヴァンパイアになる。もう一人の息子、弟のウィリアムは狼に噛まれライカンとなったのです。

1202年、横暴な暴君であった領主ビクターは、不老不死を得るためにマーカスに噛まれます。ライカンの始祖となるウィリアムは、二度と人間の姿に戻ることはなく、その凶暴性でビクターの領地を荒らしまわり、人々は次々に彼に噛まれてライカンになっていくのでした。

ついにビクターは、自分の軍勢を全員ヴァンパイアに変化させ、ウィリアム捕獲に乗り出します。しかし、マーカスからコルヴィナスの一族の誰かを殺すと、ヴァンパイア族もライカン族も全員が滅びるといわれ、ウィリアムを永遠に幽閉するのでした。

そして、ビクター、マーカス、ビクターの臣下だったアメリアの三人が長老としてヴァンパイア族を支配してきたのですが、ビクターはウィリアムの牢獄を作ったセリーンの父親を秘密を守るために家族もろとも殺害したのです。牢獄のことを知るものは、ビクターと子供の時に父のそばで遊んだことがあるセリーンだけでした。

復活したマーカスは、裏切り者のクレイヴンから自分が眠っている間の出来事を引き出したうえで殺害。屋敷にいた主だったヴァンパイア族も皆殺しにして、弟ウィリアムを開放しようとします。逃亡中のセリーンとマイケルは、一族の年代記を書いたタニスからこれらの忌まわしい歴史を聞き、マーカスを止めるためにロレンゾ・マカロの名前を教えられます。

マカロこそがアレクサンデル・コルヴィナスであり、彼は息子たちの行いを1000年にわたり後始末をして人間に彼らの存在が知られないようにしてきたのです。しかし、マーカスに襲撃され、ウィリアムの牢獄の鍵を奪われ、セリーンに自らの血を吸わせてついに命が尽きるのでした。

アレクサンデルの力を得て、さらに強化され、ヴァンパイア族の弱点である紫外線を克服したセリーンは、ついにマイケルと共にマーカスとウィリアム兄弟との最終対決に挑むのでした。

・・・と、まぁ、長い時間の経過の中の話ですから、よくぞいろいろと詰め込んだというところ。やはりB級映画とのぎりぎりのところなんですが、基本ストーリーをおさえておけば、テンポ良くスタイリッシュなアクションの連続で大いに楽しめる。今回は、少しだけですがセリーンとマイケルのラブ・シーン(たいしたことはないけど)もあります。

ゴシック調の映像は前作と同じ。ヴァンパイアですから昼間は動けないので、ほぼ夜の場面か室内のシーンしかありません。しかし、ラストでアレクサンデルの力を得たセリーンが初めて日に当たるのは面白い。

次作では、両族の抗争の始まりとなった古い時代の話が描かれます。

2021年3月14日日曜日

アンダーワールド (2003)

時は流れ、現代の吸血鬼・・・ヴァンパイアは、超モダンなアクション映画になっていました。

この映画は、1000年にも及ぶ吸血鬼、ヴァンパイア族と狼男、ライカン族の戦いというかなりぶっ飛んだ舞台に繰り広げられる話。主役はケイト・ベッキンセイルが演じる、ヴァンパイア族の処刑人セリーンで、彼女の独白で、ごく簡単に状況が説明されるのですが、初めて見ると簡単には頭に入ってきません。

あらためて、最低限おさえるべき基本的な世界観の設定は、1000年以上昔にアレクサンデル・コルヴィナスがウイルスの感染により不老不死となり、3人の息子のうち一人は蝙蝠に噛まれヴァンパイアに、一人は狼に噛まれライカンとなったということです。

彼らの子孫は、ライカンがヴァンパイアに隷属する形で繁栄しましたたが、ヴァンパイアの長であるビクターの娘ソーニャは、掟を破りライカンのリーダーであるルシアンと愛し合い身籠りました。純粋な血族性を重んじるビクターはソーニャを処刑し、ルシアンは復讐のため両族間の戦争に発展しました。

その後、ビクターの部下であるクレイヴンによりルシアンは倒され、ライカンは世界中に四散したということ。それから600年、ほぼヴァンパイア族は勝利を目前としていますが、世界中に四散したライカンを発見して処刑するのがセリーンの役目。

セリーンは家族をライカンに惨殺され、ビクターによって救われました。ビクターはソーニャに似ているセリーンを噛みヴァンパイア族に導き入れ、セリーンもビクターに絶大な信頼を寄せ処刑人を続けていたのです。

ヴァンパイア族は、ビクター、アメリア、マーカスの三人の長老がいて、一世紀ごとに順番に族を支配していますが、支配から外れると200年間眠りにつくというシステム。アメリアが眠りにつき、マーカスが復活する儀式が目前に控えていました。

今では、かれらもデジタル機器を利用し、両手に小型自動小銃を持って戦います。ヴァンパイアの使う銃弾は銀でできていて(狼男の弱点)、ライカンの銃弾は紫外線を放出する曳光弾(吸血鬼は日光に当たると死ぬ)です。

設定が理解できなくても映画は始まり、高い塔の上でセリーンは、仲間とライカンを補足するシーンからスタートします。ロングコートと黒で固めたヴィジュアルからしてスタイリッシュでカッコいい。塔からバットマンさながらに飛び降りて、すくっと立ち上がって歩き出すところはゾクゾクします。

すぐに地下鉄駅構内での銃撃戦となり、もはやアクション映画は男性が演じるだけのものではないということが、ビシバシと伝わってきます。初めのうちは、どっちがヴァンパイアでどっちがライカンがよくわかりにくいのですが、とにかく何かすごい雰囲気が十分に伝わってくる。

セリーンは、ライカンが人間のマイケルを捕えようとしていることに気がつきます。実は、マイケルはコルヴィナスの末裔で、ライカンはその遺伝子と融合することで大きな力を得られると考えたのです。その作戦のリーダーは・・・何と、死んだとされていたルシアンでした。

クレイヴンは、族の支配と和平と引き換えにルシアンを逃がしていたのです。不穏を察知したセリーンは、権限を越えてまだ復活の順番ではないビクターを目覚めさせますが、すでにルシアンの作戦は始まっており、アメリアは襲撃され死亡し、マイケルも奪われてしまいました。

映画は全編にわたり青味を基調として暗い画面で統一され、一見するとゴシック・ホラーという感じなんですが、恐怖映画としての要素はほとんどありません。古くからの因縁をベースにした近代アクション物、しかも主人公が女性というところがポイント。ただし色っぽいところはほぼありませんのであしからず。

また、さすがに狼男にはCGが多用されていますが、アクションはワイヤー・アクションを中心にスタントが中心というところは良いと思います。CGばかりだと何でもありになってしまい、だったらアニメでいいという感じになってしまう。

普通ならその他大勢のB級映画的な内容なんですが、この独特な世界観からカルト映画的な要素があるので、入り込めればそれなりに楽しめます。ただ、どうしても主役のセリーンに気持ちを持っていかれるので、ライカンは悪役。ところが、ライカンを悲劇に追い込んだのはヴァンパイアであり、やってることはえげつない。

結局、最後もヴァンパイア対ライカンというより、ヴァンパイア内紛状態になっていくので、基本的な設定が生かされていない感じもします。少なくとも、ケイト・ベッキンセイルのカッコよさだけでも見所は十分ですけど。

映画は、尋問し殺したライカンの血液が眠っているマーカスのもとに流れ込み、ライカンとの融合により強大化するはずのマーカスが復活しそうになるところで終わります。続きはシリーズ第2作で。

2021年3月13日土曜日

吸血鬼ドラキュラ (1958)

こどもの時に見たものは、時に鮮烈に記憶に残るものです。70年代までは、テレビでは洋画番組が真っ盛りでしたから、名作からB級まで、話題に上った映画はけっこう見ることができました。

そんな中で、いわゆるホラーと呼ばれる映画は、「怖いもの見たさ」でよく見たものですし、その系統の代表作がクリストファー・リー主演のこれ。

007の「黄金銃を持つ男」を初めて見た時、何よりもドラキュラが人間の役をやっていると思うくらい、吸血鬼といえばドラキュラ、ドラキュラ伯爵といえばクリストファー・リーというくらいに確固たるイメージができていました。

一方、「スター・ウォーズ」も最初は、ドラキュラ退治の専門家、ピーター・カッシング演じるヘルシング博士が何で悪役なのかと不思議に思ったものです。

もちろん、吸血鬼といえばドラキュラだけではなく、映画では古くは「ノスフェラトゥ」もいますし、もっと昔の名作と呼ばれるベラ・ルゴシ主演版とかもありますが、やはり50~70年代に作られた、このシリーズのインパクトか強すぎる。

当然、CGとかはない時代ですから、じわじわと重ねていくシーンで怖さを盛り上げ、びっくり箱を開けたような驚きで見ているものを釘づけにしていきます。

作ったのは、この手の映画専門で名を上げたイギリスのハマー・プロダクション。世界的に大ヒットして、監督したテレンス・フィッシャーとともに、主演二人も怪奇映画界のトップに音上げました。

シリーズ化されましたが、やはりこの一作目のインパクトが絶大。これらの映画で、吸血鬼は日に当たれないとか、にんにくが苦手とか、あるいは十字架もだめといった本気で信じるこどもになっていたのが懐かしく思い出されます。

2021年3月12日金曜日

自宅居酒屋 #30 炙りサーモン


一家に一台、絶対にあった方がよい道具の一つがバーナー。

普通によくある家庭用カセットコンロのガスボンベにに装着して、バーナーとして使えるトーチは、だいたい1000円程度で売っています。

これがあるだけで、料理の幅が格段と広がります。

例えば焼き魚。コンロに付属の魚焼き機とか使うと、あとの掃除が大変。煙とか匂いも気になりますよね。魚は電子レンジでチンして、最後にバーナーで表面に焼き目をつけるだけでOK。

味付き肉なんかも、フライパンで加熱しながら上からバナーで焦がしていくと、焼き肉に近くなります。

これも超簡単。300円程度のサーモンの切り身。もちろんそのまま食べてもいいんですが、バナーで表面を炙るだけで、何倍もの美味しさになります。

そのまま、ポン酢でというのがお勧めですが、醤油と酒で「づけ」にしてもグッドです。

2021年3月11日木曜日

あれから10年


2011年3月11日、金曜日、14時46分頃に、後に東日本大震災と呼ばれるようになった、大地震が発生しました。それに伴った大津波という自然災害と、福島原子発電所における原子炉融解という半「人為的」な事故により、大きな被害をもたらしました。

今日で10年たったと思うと、感慨深いものがあります。10年ひと昔といいますが、あっという間のことと思うのか、それともやっと10年なのかは個々で感じ方はいろいろでしょう。

この時の大津波が押し寄せる様子や、阪神淡路大震災の時の崩壊した神戸の街もテレビで見て、「これは本当に現実の映像なのか? 何かの映画かなんかの一シーンをながしているんじゃないのか」みたいな気持ちになったのは同じ。

ですが、東日本大震災では被害地域の端っこではありますが、実際に大きな揺れを経験したことで、自分としては阪神淡路よりも大きな衝撃と共に記憶されています。当時のこのブログ記事を改めて読んでみると、その混乱ぶりも思い出されます。

あの時・・・午後の診療を始める直前で、待合室に数人の患者さんがいました。海水魚を飼育していた水槽が水がこぼれるほど揺れたため、とりあえずそれをおさえたのを覚えています。揺れが収まると今度は停電。診療ができる状況ではありませんでした。

エレベータが使えないため、みんなで協力して車椅子の方を車椅子ごと、真っ暗な階段室を4階から1階まで下ろしました。無事に患者さんを帰宅させられたので、クリニックに戻って点検し、落下物などのチェック。

その日は家族全員が外出中。偶然に全員が相模原方面にばらばらに出かけていました。何とか携帯で連絡をつけて、淵野辺駅付近で全員を拾い上げて帰宅。街灯も消え信号もつかない渋滞の鶴川街道の両側を、たくさんの人が歩いていたことを思い出します。

翌日、土曜日は、診療をしていますが、電気供給が不足することから計画停電の話が出てきました。週明け月曜日は停電するというので診療は午前だけ・・にしたのに、結局停電せずというバタバタ振り。

実は、この日曜日。震災から2日後は、長男が大学入学のため名古屋に引っ越すことになっていました。ガソリンはどこも売り切れで大変でした。途中、自衛隊の車列が何台も東に向かっていくのを見かけました。名古屋では、電池とか懐中電灯とか、カップ麺などの食品もたくさん買い込んで帰ってきたのを覚えています。

まぁ、そんなことを思い出しているときりはない。実際に、家族や親しい人を亡くされたり、大変な避難生活を強いられた方々に比べれば、たいしたことではありません。ただ、少なくともあの時は、日本が一つになっていたと実感します。

つい先頃の地震も、この時の余震ということでしたし、特に太平洋側の東北地方を中心に、いまだに生活環境は回復しきれていません。時間の経過とともに、話題にすることが減ってきましたが、10年たっても終わっていないことをあらためて感じます。

それに比べれば、今の問題の方がまだ余裕があるのかもしれない。もっとも比べられるようなものではありませんけど・・・


2021年3月10日水曜日

ライフ・アクアティック (2004)

ウェス・アンダーソン監督の4作目は、ついに連続登場のビル・マーレイがいよいよ主役です。一作ごとに出演者が増え、また今回は海が舞台で、どんどん映画製作の規模がわかりやすく大きくなっている。

アンダーソンと共同で脚本を書いたのは、ノア・バームバック。昨年は、自身が監督・脚本を務めた「マリッジ・ストーリー」でアカデミー賞にノミネートされました。

タイトルの意味は「水の生活」ということなんですが、主人公は海洋学者・・・というよりは海洋探検を記録映画として発表するエンターテイナーです。実は、この主人公はフランスの海洋学者ジャック=イヴ・クストーがモデルで、彼は多くの海洋探検映画を発表しました。ここでも主人公は、クストーと同じ真っ赤なニット帽を愛用します。

昔、日本のテレビで企画・放送されていた「川口浩探検隊」はクストーがヒントになっていると思いますし、この映画もクストーのエンタメ的な部分を否定せず、むしろ愛情を持って描いていると言えそうです。

スティーヴ・ズィスー (ビル・マーレイ)は、海洋探検家で、その模様を記録映画にして評判をとってきましたが、長年の仲間が巨大なサメに襲撃され失います。世間からは、映画が演出的な面が強いため飽きられてきており、スポンサーもなかなかつかず落ち目になってきていることは自覚しています。

助手でもあり妻でもあるエレノアを演じるのは、前作に続いて登場するアンジェリカ・ヒューストン。エレノアは愛想をつかせて、ズィスーのもとを去っていきます。あらたにアンダーソン劇団に加わるのが、ズィスーのライバルであるヘネシーを演じるジェフ・ゴールドブラムと、ズィスーの片腕クラウス役のウィレム・デフォーです。

そこに登場するのはおなじみのルーク・ウィルソン。今回の役どころは、かつてのズィスーの活躍に憧れ、そして亡くなった母親からその死の直前に父親はズィスーだと教えられた青年のネッドです。ネッドはズィスーの次の冒険、仲間を殺した巨大サメ、「ジャガー・シャーク」を探す旅に加わることになります。

さらにこの旅には、雑誌記者のケイト・ブランシェットが演じる、妊娠中のジェーンも同行することになります。なんで妊娠している女性が、わざわざ危険かもしれない航海についてくるのか不思議でしたが、おそらく実際にブランシェットはこの年に出産しているので、急遽設定が変更になったのもしれません。

結局、いわゆる「疑似」家族的なズィスーの仲間たちは、ヘネシーの海上研究所から機材を拝借したり、ついていけないと言い出す乗組員が離脱したり。海賊に襲われアクション映画さながらの戦いをしたりしながら、ついにジャガー・シャークにたどり着く。

しかし、ヘリコプターで偵察に出たネッドは、墜落しあえなく死亡。彼らは悲しみを背負って潜水艇に乗り込み、海溝深くに悠然と泳ぐジャガー・シャークについに出会うことができました。これらの記録映画は、久しぶりに拍手を持って迎えられたのでした。

ここで、ジャガー・シャークをはじめとして、名前のついている不思議な海洋生物はすべてヘンリー・スリックによるストップ・モーション・アニメで作られています。これは後に全編ストップ・モーション・アニメを作るきっかけになったことは間違いない。

天才的だが普通じゃない主人公、象徴的なこだわりのアイテム、スローモーション撮影、カメラの平行移動、真上や真横からのショットなどの特徴が少しずつ加わってきたアンダーソン作品ですが、ここであざやかな色彩要素とストップ・モーション・アニメが加わり、ついにアンダーソン・ワールドの全貌が見えてきた感じがします。

ですから、ここまでの4作品はアンダーソンの映画監督としてのキャリアの中で、初期の成長期4部作という位置づけができるかもしれません。ただし、この独特の世界観は、必然的に好き嫌いがはっきりしてくる。必ずしも万人に受けるとは言いがたいところがあります。

自分は嫌いじゃないですが、無意味なカメラ・ワークとか、面白くないギャグといった意見も当然あることでしょう。ただ、一目でこの映画の監督が誰かわかることってすごいことだと思います。

2021年3月9日火曜日

TOYOTA MR2


ミッドシップ・・・という言葉を初めて知った車。

Midship Runabout 2 Seater を略してMR2なんですが、とにかくエンジンが車体のほぼ中央にあるというのが最大の特徴。

当然、居住スペースは限られるので、シートは運転席と助手席の二つしかありません。

1986年発売、1993年モデルチェンジで、1999年に販売終了しました。街で見かけた現役で走っているこの車は、角ばったデザインから初代モデルだと思います。

何と、すごいことに、最低でも30年くらい前の製造ということになる。よくぞ、走っているもんだと感動します。

実は、トヨタはMR2を復活させようという計画があるらしい。ネットで予想CG画像などが出回っています。

ガソリンを消費することに批判的な風潮、自動運転がもてはやされる時代になって、モータースポーツの楽しさを前面に出す車を計画するというのは、自動車業界のトップとしてのトヨタの意地みたいなところなのか。

トヨタの社長さんは「走りの楽しみ」みたいなことを事あるごとに発信していますが、現実にはそこに執着しすぎると、いつか足元をすくわれることになりかねない。

いつか自動車産業も斜陽化する日が来るかもしれません。

2021年3月8日月曜日

ザ・ロイヤル・テネンバウムズ (2001)

ウェス・アンダーソン監督作品の第3作目。これで、3作連続で、大学以来の親友オーウェン・ウィルソンとの共同脚本です。アカデミー脚本賞にノミネートされ、名前が広く知られるようになった作品で、日本でもこの映画が初めてアンダーソン作品として公開されました。

一言で言ってしまえば、ばらばらだったテネンバウム家の家族再生の話。いかにもアンダーソン調の、「そこはかとなく」面白いシーンが満載です。

父親のロイヤル・テネンバウムを演じるのは名優ジーン・ハックマン。こどもの教育には熱心だった母親のエセルはアンジェリカ・ヒューストン。彼らには養女のマーゴ(グウィネス・パルトロー)、長男チャス(ベン・スティラー)、そして次男のリッチー(ルーク・ウィルソン)の三人の子供がいます。また向かいに住んでいたイーライ(オーウェン・ウィルソン)も、テネンバウム家にいつも入り浸っていました。

三兄弟は子供の時から「天才」と呼ばれ、マーゴは劇作家、チャスは金融業界、そしてリッチーはテニス・プレイヤーとして成功をおさめます。しかし、優秀な弁護士だったロイヤルは、チャスの証券などを勝手に持ち出して法曹界を追放され、もう一人で20年近くホテル住まい。

マーゴは自分の殻に閉じこもって落ち着いた生活ができず、精神学者の再婚したラレイ(ビル・マーレイ)との関係も冷え切ったまま。チャスは飛行機事故にあい、二人のこどもと飼い犬は助かったのに、最愛の妻だけを亡くしてから何かにつけて怯える生活をしています。リッチーもマーゴに対する愛から自己崩壊してテニスを引退してしまいました。

この話は、ロイヤルがいよいよ破産して、ホテルを追い出されることになることから始まります。ロイヤルは何とか家に戻るために、そしてエセルが会計士のヘンリー(ダニー・グローヴァー)に求婚されているのを邪魔するため、みんなに病気で余命いくばくもないと告げ、全員が元の家に戻って暮らそうと提案するのです。

久しぶりに家族全員が家に揃ってみたものの、さんざんいい加減な父親だったロイヤルは、そうは簡単には受け入れられることはありません。今や人気作家になったものの薬漬けのイーライも加わって、バタバタとした日々が過ぎていきます。とは言え、それはロイヤルにとっては、ある意味、人生で最も幸福な数日間だったのです。

当然、病気の嘘はばれてしまいロイヤルは出ていくことになる。しかし、彼が家族を呼び戻し引っ掻き回したことで、現在の彼らが抱えていた問題点があらわになり、結局は解決の道筋が見えてくることにつながっていくのです。

ここでは、アンダーソン・ワールドの主役である「天才」的な常人からかけ離れた人物が、ほぼ登場人物全員という状況。ジーン・ハックマンをはじめ、全員がギャグを言うわけではなく、基本的にシリアスな演技をしているのに、お互いに嚙み合わないことからくる可笑しさが浮き立ってきます。

ビル・マーレイやウィルソン兄弟に加え、ホテルの従業員でロイヤルの嘘にに協力するのが、毎作おなじみのクマール・パナーラと前作でマックスの父親役だったシーモア・カッセル。また前作の学校の教師が、ここでも病院の医師として登場し、アンダーソン劇団も完成してきました。

舞台はニューヨークなんですが、21世紀に入ったというのそれを感じさせない絵作りは監督のこだわりの一つなのかと思います。全編に60~70年代のポップ・チューンが散りばめられて、より新しいのに古いという雰囲気を醸し出しています。

前作は月ごとに章立てして構成でしたが、今回も同様の構成。はっきりと区切りを入れることは、見ていて緊張が切れることを利点とするのか欠点とするのか意見が分かれるところだし思います。アンダーソン自身としては、そこを明確にしなかったデヴュー作の三部構成を失敗と感じているのかしれません。

真上・真横からのショット、スローモーション、左右対称などの特徴的な絵作りは自然に噛み合ってきました。前作で主人公の帽子が象徴的なアイテムでしたが、今作では全員に広がり、マーゴは大人になっても髪留めを使い、リッチーはいかにも(ボルグを真似た)テニス選手です。特にチャスは、こどもの時はスーツなのに、今ではアディダスの真っ赤な上下のジャージで、こどもたちも同じ服装です。

これらのアイテムで、こどものまま大人になった者、大人からこどもに戻ってしまった者などを表現しているのかと思います。こういう。特定のアイテムにこだわるところもアンダーソンらしいところ。過去の作品を順に見ていると、一作ごとにアンダーソンらしさが完成していくのがよくわかる。

ただし、映画の中で、特にイーライの役割がよくわからない。おそらく自分の境遇からテネンバウム家に憧れ、その一員になりたかったのだと思いますが、最終局面での突然の暴走などは違和感がある。天才的人物が多すぎて、全員のキャラクターが埋もれてしまった感じは否めません。とは言っても、リアルタイムで見れば、「今後を期待する監督」と言われたのも納得です。

2021年3月7日日曜日

天才マックスの世界 (1999)

ウェス・アンダーソン監督の2作目の劇場用映画。

15才のマックス・フィッシャーは自分の興味があることに対しては、天才的な能力を発揮します。有名校であるラシュモア高校の中で、ものすごく多くの部活に時間を費やす結果、興味のない多くの科目の成績はふるわない。そのため退学させられる危機にあるのです。

乱暴者のブルーム兄弟の父親ハーマンとマックスは仲良くなり、不思議な友人関係。そんなマックスは、ある日、美人のコリン先生に一目惚れ。ハーマンは、最初はマックスとコリン先生の間を取り持っていましたが、次第に自分がコリン先生を好きになってしまう。

それを知ったマックスはハーマンの奥さんに告げ口。ハーマンは離婚され、コリン先生とも別れることになります。しかし、いろいろな誤解から始まったこの騒動でしたが、マックスは好きな演劇ですべてを出し切って、少し大人に成長したのです。

驚くべきは、2作目にして、早くもアンダーソンらしさがたくさん出ていて、すでにスタイルを確立しているところ。ストーリーだけ見るとロマンチック青春学園物という感じですが、主人公がかなりの変人で、ちょっと一癖ある周囲の人々と共に、「普通」と思われることとのギャップが生み出すコメディで、まさにアンダーソン節全開です。

アンダーソンの作品には同じ俳優が出演することが多いことも知られていますが、前作で主役を務めたルーク・ウィルソンがちょい役で登場しているのをはじめ、このあと多くの作品で活躍することになるマックス役のジェイソン・シュワルツマンとハーマン訳のビル・マーレイが初登場です。

シュワルツマンはこの映画が俳優デヴュー作で、この時19歳でした。マーレーはすでに「ゴーストバスターズ(1984)」などで有名な人気喜劇俳優でしたが、賞レースとは無縁。ところが、この映画でいろいろなところから初めての助演男優賞を受賞しています。また、前作に続きクマール・パラーナがちょっとしたアクセントになる端役でみられるのもうれしいところ。

映像としても、真上からのショットや急にスローモーションになったりするのは、いかにもアンダーソン的です。派手なカラフルな色彩使いはまだあまり見られませんが、一部では左右対称性を重視した画面構成もあり、ほとんどの作品でチームを組む撮影のロバート・D・イェーマンとのコンビネーションが出来上がっています。

監督の個性がしっかりで出すと、映画はやはり急に面白くなってくる。精一杯背伸びをして大人の女性に恋をして、大人のおっさんと友人になって、同世代からは絶交されても、天才はなんとかうまりけりをつけていくところが嫌味にならず描かれた秀作だと思います。

2021年3月6日土曜日

アンソニーのハッピー・モーテル (1996)

現代アメリカの映画監督の中でも、こだわりの映画作りで異彩を放つ存在であるウェス・アンダーソンのメジャー・デヴュー作。

1969年生まれテキサス出身のウェス・アンダーソンは、大学時代にオーウェン・ウィルソンと出会い映画を作り始めました。二人で脚本を書いた1994年の「Bottle Rocket」は、13分の短編白黒映画。

この短編はオーウェンの弟であるルーク・ウィルソンが主役のアンソニー、オーウェン自身が腐れ縁の仲良しディグナン、また仲間に引き込まれるボブをロバート・マスグレーヴが演じています。ディグナンは泥棒で一稼ぎしようとアンソニーに持ちかけ、まずはアンソニーの家で盗みの練習をした後、拳銃を購入して書店に強盗に入ろうと計画するという話。

実はこの映画は邦題だとわかりにくいのですが、原題は同じ「Bottle Rocket」で、短編版が「愛と追憶の日々(1983)」のジェームス・L・ブルックスに認められリメイクしたもの。劇場版にするにあたってカラー作品になり、色々と肉付けして90分に拡大しました。

まず最初に、アンソニーは心労(理由はわかりにくい)から施設にしばらく入所していたことになっている。施設から出てきて、年の離れた妹とのやり取りも加わって、アンソニーの人物像がやや堀下げられています。

一方の主役、ディグナンについてはあまり深追いしていない。しばらくは、短編とほぼ同じような構図での展開があり、書店強盗まで進行します。この後は劇場版だけの話になりますが、アンソニー、ディグナム、ボブの三人はしばらく身を隠そうということで、モーテルに到着。

アンソニーは、パラグアイから来た英語がまだうまく使えない、モーテルのベッド・メイクの仕事をしているイネスに一目ぼれ。ここで初めて邦題の意味がわかりました。ボブは、ふだんバカにしてくる兄が警察に捕まったという知らせに、一人車でモーテルを去ってしまう。

結局、ディグナムとアンソニーは喧嘩別れして、アンソニーはボブの家の用事をいろいろしながら堅気の生活に戻ることに。でもしばらくしてディグナムが再びアンソニーのところに登場し、今度は大きな工場の金庫を狙う仕事に誘うのです。結局、どじな失敗で、ディグナムは皆を先に逃がし、自分だけが警察に捕まり刑務所暮らしになってしまう、という話。

ずっとパートナーとしても付き合っていくことになるウィルソン兄弟にとっても、俳優デヴュー作であり、彼らの最初の仕事として意義深い。スビルバーグの「ターミナル(2004)」で印象的な空港清掃員を演じたクマール・パラーナも、一味の一人として登場し、亡くなるまでウェス映画の常連になりました。

基本的には、素人泥棒がいろいろとしくじるというコメディで、アンソニーとイネスのロマンスだけは大真面目。またアンソニーと妹、ボブと兄という家族の信頼回復の要素が含まれている感じです。

もっとも、コメディと言っても直接ギャグを飛ばすストレートな笑いではなく、登場人物の思考・行動が普通じゃない所から来るかみ合わない歯車みたいなもの。何ともおおらな連中という言い方も可能です。

内容的には、短編で描いた泥棒見習い、延長した分のモーテルでのハッピー・ライフと別れ、そして大きな仕事で失敗という3つのパートがバラバラな印象。同じ登場人物による3つの短編映画を見た感じで、元の短編にこだわりすぎたかもしれません。

ウェス・アンダーソンの映画は、一目で彼の作品だとわかるくらい構図、色彩、撮影法、出演者などに特徴がある。さすがに、このデヴュー作では、後年のウェス・アンダーソンらしさを感じれるところは無いことは無いのですが、まだまだ習作の域を出ない感じ。とりあえず、デヴュー作としての意義は認めましょう。

2021年3月5日金曜日

だからジェネリックは信用されない


・・・と思われてもしょうがないという、「大事件」です。

医療費抑制の一環として、数年前から国を挙げていわゆるジェネリック医薬品が強く、強く、強く推奨れています。

しかし、主成分が同じというだけで、実際に薬として体が吸収し効果を発現するためのさまざまな特許がすべてオープンになっているわけではない。

中には、まったく効果が怪しいジェネリックに多数存在します。もっとも、そういうジェネリックは早々に表舞台から消えていくわけです。ですから、処方する立場からは、何でもジェネリックにするというのは、どこか引っかかるところがある。

つい最近も、ジェネリック・メーカーで爪水虫治療薬への睡眠導入剤の混入という、なんでそんなことが起こるのかという事件がありました。

今回、ジェネリック医薬品の最大手メーカー(葉加瀬太郎氏がCMに一役かっている)が、何と品質検査で「不適合」となったものを適合するように再検査したり、破棄する医薬品を粉砕して再利用したりしていたらしい。

これまでに健康被害の報告はないとしていますが、医薬品の安全・安心を根底から覆す暴挙と言えます。このことによって、ジェネリックを選ぶ患者さんは減少することは容易に想像できます。

ジェネリック・メーカーは群雄割拠し、需要の多い医薬品については多くのメーカーが熾烈なシェア争いをしている現状で大変なのは理解できますが、生産・管理体制が追い付いていないことを露呈している。

安かろう、悪かろうは、医薬品ではやってはいけません。

2021年3月4日木曜日

首都圏の緊急事態宣言


年末に爆発的に増加した新型コロナウイルス感染者数でしたが、法的拘束力の薄い緊急事態宣言であっても、しないよりましということ。ピークには8000人近かった全国の1日の新規感染者は、このところ1000人程度にまで下がっています。

しかし、ワクチン接種のスケジュールもはっきりしないし、より感染力が高いといわれている変異株の登場もあり、まだまだ安心とか口にできるレベルの話ではありません。

医学的に考えれば、「With Corona」というのはありえないと思います。ウイルスの仲良くしたいですか? ずっとこの先も、会食で話をしてはいけないとか、夏でもマスクを着用し続けるとかの生活をしたいですか?

目標は「Zero Corona」か、限りなくそれに近い状況です。しかし、そのために多大なるダメージを受けるのが経済。特定の産業では、自粛生活が続くことで壊滅的な状況になっている。不況に強いと言われていた「サービス業」の一つである医療業界ですら、厳しい運営を強いられる状況が続いています。

緊急事態宣言は、してもしなくても変わらないという意見もありますが、心理的な面では有効なのだと思います。解除されることによって、「もう大丈夫」と考えるのは早計であり、少しはましになったと思うくらいがちょうど良い。

首都圏については3月7日を予定していた宣言解除は、2週間延長されることになりそうです。現状ではこれでも十分とは言えないかもしれませんが、少なくとも理解し、引き続き協力していく気持ちを維持しないといけないと考えます。

建物の灯りだけは煌びやかですが、人影のいない駅前。当分はこの光景が続きます。

2021年3月3日水曜日

お節句


中国の暦から伝わり、稲作の文化の一つとして定着したものが節句。江戸時代以降、人日の節句(1月7日)、上巳の節句(3月3日)、端午の節句(5月5日)、七夕の節句(7月7日)、重陽の節句(9月9日)の五節句が公的に決められていました。

3,5,7月は、それぞれ雛祭り、こどもの日、七夕祭りなどと称して、今でも何らかの行事が行われますが、その由来とか説明できる人は少なくなったし、自分もその一人です。

家庭で何かするとなると、1月は七草粥、3月は雛人形を飾る、5月は兜を飾るとかありますけど、本来の節句の意味までは考えたことがありません。

文化の継承は、歴史的に大切なのはわかりますが、時代と共に変遷していく中で何でも残していくというのは難しい。古い物から、忘れられていくことはやむをえない所があります。

あんまり堅苦しく考えてもしょうがないので、今日3月3日は女の子の御祭りで、雛人形を飾り、ちらし寿司を食べるくらいで勘弁してください。

2021年3月2日火曜日

ゴーン・ガール (2014)

現在のところホーム・メディアで視聴可能なデヴィド・フィンチャー監督の最新作は、2014年のこの作品です。

最初に云うと、実に評判が高く、それはひさしぶりにフィンチャーらしい、犯罪と呼びにくいサイコ・サスペンスという題材だからでしょぅか。

ですが、実を言うと「ベンジャミン・バトン」以降のフィンチャー作品には、どうも共感しにくい部分があって、この作品も自分が求めている映画の楽しみとは何かが違う。単純なお気楽作品ではないとは間違いないのですが、根本的に登場人物に感情移入できない映画は、見ていて苦痛を伴うものです。

ある日、結婚5周年を迎えたニック( ベン・アフレック)は、帰宅すると妻のエイミー(ロザムンド・パイク)の姿が無く、何かの犯罪に巻き込まれたような痕跡がありました。警察に連絡し捜査が始まり、メディアを通して情報提供を呼び掛けると、同情する多くの「野次馬」が集まってくるのです。

映画ては、ニックの側から一日一日、一般に知られるところの事件の進展が描かれます。途中からは、エイミーの側からの失踪に至る「過程」が説明される場面と交差していきます。フィンチャーの構成は、実に周到で、この夫婦の間にある独特の関係性、空気感を小出しにしながらストーリーが展開していくのです。

そして、結婚記念日のなぞなぞのような失踪事件の真相がわかると、映画を見ている者は驚愕し、恐怖を感じる。しかし、ニックにもエイミーにも、同情できないし、賛同もできない。また、褒め讃えるわけにもいかず、何とも釈然としない気持ちで映画が終わるのです。

さすがにフィンチャーの画面構図は素晴らしく、美しく映し出される場面は、映画的です。必要以上に音楽に頼らないところも、感覚的に映画を捉えるという意味ではうまい。どこの夫婦にも内在しているかもしれない、夫婦間の機微を突き付けられるような展開は身につまされる人も多いかもしれません。

また、親切という仮面を剥ぐとただの興味津々だけの人々、いくらでも視聴率のために扇情的なアナウンスをするワイドショーなど、現実的な現代アメリカ社会の歪みのような物(それは日本にだって当てはまる)をはっきりと提示してくるのもこの映画の魅力です。

ただ、話が戻りますが、やはり彼らには共感できない。見終わった後の「観てよかった」というカタルシスが感じられない。自分にとっては、高評価できない作品ということになります。

デヴィド・フィンチャー監督の作品は、最近ではエンターテイメント性の高い映画ばかりの中では、作家性がはっきり出ていることは認めます。一般にも評価が高い初期の「セブン」、「ゲーム」、「ファイト・クラブ」に関しては文句のつけようがない。これだけの見ごたえのある映画は同時代的には多くはありません。

しかし、その後のフィルモグラフィーについては、傑出した絵作りの旨さは認めるものの、あくまでも個人的な感想として観客を置いてけぼりにしている感じが否めない。古い考えかもしれませんが、確かヒッチコックが「最終的に映画は観客を裏切ってはいけない」というようなことを言っていたと思います。どんでん返しは面白いのですが、その結果は納得できるものでなくてはいけません。

もっとも、こういう「とんがった」映画監督がいるからこそ、明解なハッピーエンドも存在価値がでてくるというものなのかもしれません。フィンチャーとはほぼ同世代の人間としては、年齢とともに「とんがる」度合いが増えていることは、何となく理解はできる気がしますが、今後何度も見ることはないように思います。

2021年3月1日月曜日

蜘蛛の巣を払う女 (2018)

ハリウッドが手掛けるリスベット・サランデルの第2弾。監督はフェア・アルバデス。そして、今回のリスベットを演じるのはクレア・フォイ、ミカエル・ブルムクヴィストはスヴェリル・グドナソンです。前作監督のデヴィッド・フィンチャーは、製作総指揮ということで直接はタッチしていません。

原作はオリジナルを書いたスティーグ・ラーソンのプロットを引き継いだデヴィッド・ラーゲルクランツによる「ミレニアム」の新・三部作から取られました。ハリウッドはオリジナルの第2部・第3部をすっ飛ばして、いきなり第4部を映画化したということ。

この作品では、リスベットが自らの過酷な過去の因縁に端を発する巨悪と対峙するサスペンスですが、アクション・シーンがふんだんに盛り込まれ、今まで以上にエンターテイメント性を重視した作りになりました。もはや、リスベットが主役の探偵で、ブルムクヴィストはワトソン役かそれ以下かもしれません。

リスベットは、女性を食い物にする連中を潰す義賊のような行為を繰り返していました。そんな中、バルデス博士は、自分が開発した世界中の核兵器に容易にアクセスできるプログラムをアメリカの国家安全保障局(NSA)からハッキングして取り返すことをリスベットに依頼してきます。

ハッキングに成功した途端に、アパートに侵入してきた何者かによってプログラムは奪われ、アパートも爆破されます。スウェーデン公安警察の女性副局長のグラーネは、バルデスを保護しハッキング犯としてリスベットを指名手配します。さらにNSAのニーダムも、リスベットがハッキングしたことを突き止めストックホルムにやってきました。

謎の犯人たちは、バルデスを襲撃し駆け付けたリスベットを薬物で意識を失わせ犯人に仕立て上げようとします。実はこの犯罪集団は、リスベットの双子の妹、カミラの手の者たちでした。

カミラは父親ザラチェンコの後を継いで犯罪組織「スパイダー」の冷酷なリーダーになっていて、世界中の核兵器を自由にできるプログラムを狙っていたのです。リスベットはブルムクヴィストに連絡を取り、協力を要請します。

リスベットの格闘シーンはふんだんに登場し、得意のバイクだけでなくカーチェイスも披露します。スピーディな展開は、さすがアメリカ製アクション映画という感じ。

ただし、リスベットとカミラの愛憎ストーリーについてはちょっとわかりにくい。ハリウッド版「ドラゴン・タトゥーの女」では、リスベットの過去についてはあっさりとした説明だけで、12才の時に父親を焼き役殺そうとしたため、ずっと精神病院に入れられていたくらいしか語られていません。

ここでは、もともと父親と姉妹は一緒に住んでいて、父親からの性的虐待の対象になりそうになったため、リスベットだけが逃亡したような話になっています。それから16年間、カミラはずっと父親の玩具にされていたらしい。

もともとのストーリーでは、リスベットと母親が街中に住んでいて、父親は時々通って来ることになっている。そのたびに母親に暴力をふるうことに耐えきれずに、リスベットは父親を殺そうとしたわけです。

ハリエット失踪事件から1年後に、父親ザラチェンコと対決し、父親は病院で公安特務機関の手によって射殺されました。この時、リスベットは23か24才くらいで、ブルムクヴィストがこの映画で3年間リスベットを見かけなかったようですから、ここでは年齢は26か27才。なんとなく、年齢の経過が少しおかしいような感じ。

それはともかく、前ハリウッド作よりは屈折した心理は影を潜め、天才ハッカーとしてのリスベットはわかりやすくなっていて、アクションもこなすキャラクターとしてはルーニー・マーラ版からのキャラ変というところが、どうもこの映画の評判がイマイチな所に関係しているらしい。

しかし、スウェーデン版、前ハリウッド版、そして今作とみていくと、三者三様それぞれのリスベットはアリだと思います。どうせ原作者が変わったわけですから、まったく同じではかえってつまらない。ぞれぞれを尊重して楽しめればいいんじゃないでしょうか。