2017年12月31日日曜日

大晦日


毎月、ひと月の最後の日は晦日。そして、毎年、1年の最後の日は大晦日です。

この日ばかりは、この1年を感謝して、来る新年に期待をする・・・というのを繰り返します。

同じことばかりを、毎年ここに書いているようですが、こればかりはしょうがない。

クリニックは、可もなく不可もなくの相変わらずで、まぁ、順調と云えば順調。

ほどほどに、故障したり壊れた機器類の入れ替えができる程度の黒字ペースで1年を終えました。

とりあえず、自分も生活していくのに困るということはなく、好きな音楽や本を漁るくらいは問題ありません。

ただ、年々、年をとってきたことは感じざるをえないわけで、60歳に近くなるにつれその感覚は加速しているように思います。

若い時なら何の苦にもならずにできたことが、けっこう大変だったりするのに気がついて、けっこう愕然としたりする。

まあ、加齢は必然ですから、あまり悩むとこではないので、その分はペースダウンで乗り切らないとしょうがない。

来院する方々には申し訳ありませんが、来年は休養時間を増やして、そのかわり働く時はしっかり頑張るようにしたいと思います。

本年は、本当にありがとうございました。

来年は2018年、平成30年、戌年。どうかよろしくお願いいたします。

2017年12月30日土曜日

日本書紀 (7) 白村江の戦い


皇極天皇、改め斉明天皇が日本初の天皇重祚したのは655年のこと。中大兄皇子は、ここでも陰の実権を握り着々と国家体制の確立を図ります。

まずは治水工事として、都の周囲に長く大きな溝を作ります。また、石垣の建築も行います。おそらく、風雲急を呼ぶ唐との戦乱の可能性を考えていた可能性があります。しかし、それらの使役に動員された民衆からは、当然不満が鬱積することになります。

そうこうしていると、中大兄皇子の長男である建王(たけるのみこ)が8歳で亡くなります。孫が可愛くてしょうがなかった天皇は、大いに嘆き悲し、「自分が死んだら孫と一緒の墓に入りたい」と言いました。

蘇我馬子の孫、乙巳の乱で中大兄皇子側に加担した倉山田石川麻呂の兄弟である蘇我赤兄(そがのあかえ)が、孝徳天皇の息子である有間皇子に謀反を持ちかけます。赤兄の「天皇は無駄な倉、溝、石垣を造り民衆の怒りを買った」という言葉にのせられ、有間皇子は「挙兵する好機」とその気になってしまいました。しかし、赤兄は天皇側に密告したため、有間皇子は捕らえられ処刑されました。

この頃、外交的にも大きな問題が勃発しています。唐は新羅と共闘して、友好国である百済に攻め込みます。百済は、天候不順により凶作が続くも、百済王は対策をとらず、私欲に溺れた生活を続けていたため人心が離れ、唐につけ入る隙を見せていました。天皇は、唐に使者を出しますが、唐は朝鮮半島を支配するつもりだったので、使者を抑留します。

ついに百済は唐・新羅連合軍によってほぼ壊滅し、唐は続けて一番の目的である高句麗に進軍し制圧しました。百済残党の福信らは、倭国と百済の同盟を担保する人質として以前より倭国に滞在していた王族の豊璋(ほうしょう)を担ぎ上げるため、豊璋の返還と救援要請をします。

それを受けて天皇はついに派兵を決断します。天皇自ら軍の指揮をするため宮を九州に移しましたが、661年出兵する前に急死してしまいます。このタイミングでの天皇急死は、何か裏がありそうな感じがしますが、詳細は不明です。中大兄皇子は、母の死を悲しみますが、天皇に即位はせず称制という形で、実質的な支配を継続しました。

年明けて、再び主力部隊の派兵が再開され、旧百済・倭国連合軍は新羅軍を押し戻しつつ、一進一退の戦いを続けていましたが、実権を握る福信が豊璋により殺害され百済復興軍は一気に弱体化してしまいます。そして、ついに663年8月、白村江(はくすきのえ)において両者の雌雄を決する時を迎えました。

推定で唐・新羅連合軍は、20万人近かったのではないかと言われており、水軍は170隻でした。対する倭国側は数万人の兵と、千隻の艦隊でした。あまり作戦らしい作戦も無く突っ込むだけの倭国に対して、唐・新羅連合軍は、陸上では圧倒的な兵力で圧倒します。海上でも、焼いた石を投げ飛ばすことで半分近い倭船が炎上し、倭国は完敗しました。

この戦いは、唐の東アジアにおける優位性を確立し、倭国も支配下におかれる危機を招きました。中大兄皇子は防衛強化と唐との関係の正常化に努め、またより強固な国家体制を作ります。対馬・壱岐・筑紫には防人(さきもり)と烽火(のろし)を備え、周辺に新たな築城を行いました。また、冠位制度を改定し官僚制度をより強化し、防衛拠点として有利な近江へ都を移したことで、やっと国内情勢の安定が得られてきます。

中大兄皇子は668年、ついに第38代の天智天皇として即位したのです。しかし、その翌年、長年にわたって参謀として絶大な信頼を寄せていた中臣鎌足が亡くなりました。天皇は、その後も国家を整備し、息子の大友皇子を太政大臣とし後継の道筋をつけました。

しかし、これらの制度改革の中で、民衆や豪族の不満は増大しており、日本書紀には暗に政策を批判するための噂話や不思議な現象が頻繁に記述されています。何故なら、記紀編纂に強くかかわったのが、孝徳天皇死去後に兄弟の亀裂を深めていた弟の大海人皇子、後の天武天皇だからです。

671年10月、病床にいた天皇は大海人皇子を呼び「後事を託したい」と言います。それが天皇の本心ではないことを十分に承知していた皇子は、「天皇の回復を願うため出家します」と言い吉野に向かいました。これは、実は「虎に翼を着けて放つ」ことだったのです。

12月に統一国家としての基盤を作り続けた天智天皇は崩御し、再び大きな内乱の幕開けとなるのでした。

2017年12月29日金曜日

ちょっとだけ中国・朝鮮半島の古代を勉強する


朝鮮半島および中国の歴史は、日本古代史のみならず、現代日本との関連でも重要なファクターです。それは特に神武以前の人の渡来、以後の戦乱に大きくかかわってくるわけで、話が複雑になってしまうので、できれば国内史だけに限定したいところ。しかし、時代が進むほど避けては理解できなくなります。

最低限、どの時代にどんな国名があって、日本との友好、あるいは敵対関係がどうだったのかくらいは整理しておく必要がありそうです。重い腰を上げて、少しだけ首を突っ込んでみます。

紀元前のずっとずっと古い時代の朝鮮半島は、古朝鮮と呼ばれます。檀君(だんくん)朝鮮、箕子(きし)朝鮮、衛氏(えいし)朝鮮が伝説的にありますが、考古学的に確認できるのは紀元前2世紀が最も古いらしい。

この頃、朝鮮半島の南端部には、それまでと違う、いわゆる弥生土器が作られ始めでいるので、日本からの渡来が盛んになったと考えられています。

中国では、日本の弥生時代半ば、始皇帝が紀元前246年に即位し国がまとまり始めます。(前)漢が成立するのが紀元前202年です。紀元前141年に武帝が即位し、衛氏朝鮮を滅ぼします。8年に新が成立しますが、25年には光武帝により(後)漢が建国されました。

3世紀になると、朝鮮半島の北部では高句麗、西部に馬韓(百済)、東部に辰韓(新羅)、南部に弁韓(任那)が成立します。このあたりが、時期的に邪馬台国との絡みもあって重要なところ。ところが、日本書紀を素直に受け取れば、神功皇后の三韓征伐は200年のことで、すでにヤマト王権が成立していることになります。

中国ではまさに「三国志」の時代になり、208年の赤壁の戦いで曹操かせ破れ、220年に曹丕が魏、221年に劉備が蜀、222年に孫権が呉を建てることになります。神功皇后は238年に魏へ使者を送り、240年には魏から使者が来朝しています。

朝鮮半島の馬韓、辰韓、弁韓が、それぞれ百済、新羅、任那と呼ばれるようになるのは4世紀半ば以降。ヤマト王権と百済とは比較的友好関係が続いていますが、新羅とは狸のばかし合いみたいな感じ。新羅は中国寄りの高句麗との関係を重視していたようで、対抗上、百済はヤマト寄りの立場を取っていたようです。

500年前後には、半島南西部を中心にヤマト式の前方後円墳が作られるようになり、高句麗以外の地域では、日本の糸魚川でしか採取できない翡翠を用いた勾玉も見つかっています。任那の地域を中心に、ヤマト王権が、直接的あるいは間接的に実効支配していた可能性が考えられています。

三国時代以後、中国ではしばらくいろいろな国が群雄割拠しますが、再び統一され隋が建国されるのが581年のこと。日本では、この辺で登場するのが、初の女帝となる推古天皇。そして618年に古代中国最強国家である唐が登場し、10世紀初めまでは近隣周辺へ大きな影響を及ぼしました。

唐は建国後ただちに朝鮮半島への支配権拡大をもくろみ、7世紀半ばまでに高句麗、百済を滅ぼします。特に663年、百済の救援要請を受けたヤマト王権は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しました。

新羅は唐に協力していましたが、676年にいきなり裏切り半島全体を統一しました。しかし、北部にできた高麗の勢力がしだいに強くなり、10世紀には新羅は滅び高麗により半島は統一されます。

もう本当の最低限ですが、これが日本と密接な関係がある朝鮮半島・中国の歴史の一部です。このくらいを掴んでおくと、日本の古代史を勉強するのに、イメージが作りやすくなりそう。いろいろと、各国の政治的な思惑もあるようで、あまり深入りするのも問題があるようです。歴史学者ではないので、概略に留めておいた方が無難ですね。

2017年12月28日木曜日

日本書紀 (6) 大化の改新


乙巳の変(645年6月12日)の責任を取って皇極天皇は、軽皇子へ生前譲位しました。軽皇子は第36代の孝徳天皇に即位します。新政府は、保守勢力の天皇、左大臣・阿部内麻呂、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂と改革派の皇極上皇、皇太子・中大兄皇子、内臣・中臣鎌足の混成チームです。

この新政府が打ち出す一連の新政策が、「大化の改新」と呼ばれる律令国家への道の始まりとなります。律令制は、隋・唐によって確立された支配大系で、「王のもとにすべての土地や人民が服属する」との考え方のもとに、全体を統一する規律・規範を設け、またそれを実施するための厳格な官僚制度を整備したものです。

まず皇極4年を大化元年と改め、初めて元号を用いました。当時、強大な力を誇った中国のみが元号を使用していて、日本独自の元号を導入することは唐との対等の関係を内外にアピールする狙いがあります。

直後の大化元年7月以後、早くも改革政策が次々と実施されます。戸籍作成と田畑調査を開始し、それぞれの土地で勝手に裁きを行うことや賄賂の授受を禁止、武器を確認し管理すること、仏法を重視することなどを通達します。そして飛鳥から難波への遷都を行いました。この間、皇位継承権を軽皇子に譲り吉野へ出家した古人皇子の謀反がありましたが、新政府により即刻鎮圧されています。

翌大化2年1月に、新政策の基本方針をとりまとめたものを「改新之詔」として発表しました。教科書的に書けば、①公地公民制度(民の私有の禁止)、②地方区画の整備(畿内、郡を定義して中央集権国家体制の整備)、③班田収受の法(戸籍に則り一定の集落を決め、田の大きさによる定率税額制度)、④田の調の実施(旧支配体制の多様な税制の廃止)、といった内容です。ただし、明らかに日本書紀編纂時までに、一部が書き換えられたこともわかっています。

3月に薄葬礼を施行。これは権力者が大がかりな墓を作るのに、強制労働を強いて民が困窮していることにより、身分階級に応じて墓の大きさを規定するものです。これにより、古墳時代は終焉を迎えます。さらに冠位制度を刷新し、宮廷内の身分についても、より細かく規定するようになりました。

大化5年、改革にやや非協力的だった阿部内麻呂が死去し、蘇我倉山田石川麻呂も讒言により討伐され、保守派は一気に衰退します。中大兄皇太子による実効支配はさらに進み、元号を白雉に改元。朝鮮半島からの使者も頻繁になり、また遣唐使の派遣も行われました。

白雉4年、中大兄皇太子は、天皇の反対を押し切って、母・皇極上皇、妹・間人皇后、弟・大海人皇子、多くの臣下を連れて飛鳥に戻ってしまいます。天皇が、自分の息子である有間皇子を後継者に立てようとしたことが原因と言われています。

しかし根本には、しだいに重要性が増大していた外交政策での対立があり、唐に対して従順的な天皇に対して、対等な立場を主張し、場合によっては戦争も辞さない中大兄皇太子との間には決定的な亀裂が生じていたといわれています。

結局、難波に孤立してしまった孝徳天皇は失意の中で白雉5年10月に亡くなりました。そして、中大兄皇太子は・・・即位せず、何と皇極上皇を再度、斉明天皇として再び即位させたのでした。史上初の天皇の重祚(じゅうそ)であり、また再び女帝の時代となったのでした。

2017年12月27日水曜日

た、た、たぬき !?


ここは海の香りの無い横浜、横浜の田舎ですけど、ほとんど開発が終わって、近くには空き地はほとんど無くなりました。曲がりなりにも、首都圏の住宅街の一つで、まぁ、都会と言っても文句は言われない・・・

・・・のですが、つい、一昨日のことです。診療を終え、スーパーで50% OFFのお惣菜を買って、家の前まできたところ、数十メートル先にLED街灯の光に照らされる2匹の動物が見えました。

うん? 犬? 夜の散歩にしては、連れている飼い主らしき人影はありません。猫? にしては、何か丸っこくてフォルムがちょいと違う。まさか・・・?? ??

だんだん距離が近くなると、そのうち一匹は横の家の垣根をくぐって庭の方へ隠れてしまいましたが、残った一匹は平然としています。

数メートルの距離になって、こいつはどう見ても間違いなくタヌキ。えええ~~~!! 、こんなところにタヌキですか。

いやいや、こいつは驚いた。体調は50センチくらいで、重さは10キロは無いでしょう。さすがに襲ってきても、勝てそうです。

カメラを構えて近づてみると、向こうも少し下がるだけで逃げ出す気配はありません。結局、数分間にらめっこをして、横を通り過ぎて家に入りました。

最後に振り向くと、タヌキは、とぼとぼ歩いていました。冬で食べ物が見つからず、住宅地に迷い込んだんでしょうね。

猪とか熊でなくてよかったです。

2017年12月26日火曜日

日本書紀 (5) 乙巳の変

史上初の女帝となった推古天皇は、厩戸皇太子が621年に亡くなったため、新たな皇太子を定めずに628年に亡くなり、蘇我蝦夷(そがのえみし)が推す舒明(じょめい)天皇が即位しました。

舒明天皇は、敏達天皇の子である 押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとのおおえのみこ)が父親です。異母弟の茅渟王(ちぬのおおきみ)の娘、宝皇女(たからのひめこ)を皇后に迎えます。二人は、後に天智天皇となる葛城皇子(かつらぎのみこ、中大兄皇子)、孝徳天皇皇后となる間人皇女(はしひとのひめみこ)、天武天皇となる大海皇子(おおしあまのみこ)の3人の子をもうけます。

舒明天皇崩御により、642年に第35代の皇極天皇が即位し、蘇我蝦夷を大臣とします。実に、この人は舒明天皇の皇后、宝皇女でした。こどもはまた10代前半ですが、ほぼ間髪入れずの即位は、他に周囲にいる皇子の排除が狙いのようです。

蘇我蝦夷は、子の蘇我入鹿(そがのいるか)に実権を任せ、自分と入鹿のために、天皇と同格の墓を作らせます。さらに、自分の冠位を入鹿に譲渡し引退します。これらの行為は、本来天皇の特権であり、私益優先の行為はエスカレートしていきました。

そして643年、蘇我入鹿は、厩戸皇子の息子である山背大兄皇子を攻め殺します。さすがに、この行為には父親蝦夷は、やり過ぎで自らの身を亡ぼすと怒りました。

これらの目に余る入鹿の横暴に憤慨していた中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、皇極天皇の弟、軽皇子(かるのみこ)に近づき信用を得ます。さらに中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と親しくなり、倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわまろ)の娘との結婚を仲介し、少しずつ打倒蘇我氏の計画が進行しました。不穏な雰囲気を察知したのか、蘇我親子は要塞のような大邸宅を造り、外出に際にも多くの兵を帯同させるようになります。

645年6月12日、朝廷に三韓からの貢ぎ物を天皇列席のもと納めることになり、入鹿も嫌々剣を持ったまま出席しました。ただし、これは罠で、実際に朝貢があるわけではありません。中臣鎌足は、入鹿の剣を理由をつけて外させます。

石川麻呂が三韓朝貢の儀式の開始を告げると、中大兄皇子と中臣鎌足は宮殿の門を閉じさせ、佐伯連子麻呂(さっせきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かつらぎのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を渡し「一気に斬れ」と送り出します。

しかし子麻呂は緊張からは嘔吐してしまい、石川麻呂はなかなか刺客が来ないため、汗がしたたり声がかすれ、手が震えていました。入鹿はその様子を不審がりますが、石川麻呂は「天皇のおそばで緊張します」と説明しました。

二人の刺客がまごまごしているので、中大兄皇子は剣をとり、入鹿の前に進み出て真っ先に斬りつけました。入鹿は「どうして何の罪もない私が襲われるのですか。どうかを助けて下さい」と天皇に願いますが、天皇は中大兄皇子に「何事です」と問います。中大兄皇子の「入鹿は天皇に就こうとしているため成敗しました」という返答を背中に受けて、天皇は宮殿の奥に戻ってしまいました。子麻呂と網田が止めを刺し、入鹿の屍は折からの雨に打たれるままでした。

いやはや、何ともリアルな記述です。映画のシーンを見ているような話し。ここで重要なことは、入鹿が襲撃された直後に天皇に向かって話すというところ。つまり、入鹿はとっさにこれが皇極天皇の命によるものと悟ったのでしょうし、天皇がさっと退出するところも、いかにも知っていましたと云わんばかり。そもそも天皇が承知していないと、偽の朝貢の儀式が開催できるわけがない。

つまり、黒幕は天皇で、息子の中大兄皇子の邪魔になる入鹿を抹殺することが目的であったことは明らかです。ただ、天皇の誤算は、暗殺実行のため飛び込んできたのが息子だったこと。何事かという問いは、後方にいるはずだったのに、どうして危険な場面に飛び込んできたのかということだったのではないでしょうか。

入鹿討たれるの報はすぐさま蝦夷に伝えられ、一派は臨戦態勢に入りました。ほとんど者は中大兄皇子に従い、法興寺(飛鳥寺)に立てこもります。そこで、蝦夷に使者を送り、「天地開闢以来、君と臣は別のものであり、無益に命を粗末することはよくない」と伝えます。蝦夷一派は自ら武装解除して解散し、蝦夷は宮殿に火を放ち自害しました。

この時、厩戸皇子と蝦夷によって編纂された天皇記、国記は蝦夷邸の中に保管されていたため焼失、国記の一部だけが中大兄皇子の手元に残りました。蝦夷・入鹿親子の遺体はすぐさま埋葬されました。

これが世に言う「乙巳の変」であり、権勢を欲しいままにしてきた奢る蘇我氏滅亡の顛末です。昭和の時代の歴史教育では、ここから「大化の改新」が始まるのですが、現在は一種のクーデターである、この事件はきっかけとして独立しています。「大化の改新」は、この後に続く政治改革についてのみに使うことになっています。

天皇は事の責任を取り退位しますが、異母兄の古人大兄皇子は仏門から天皇を助けると言い出家してしまいます。そこで、軽皇子が第36代の孝徳天皇として即位し、中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は内臣(非公式の参謀)に就いたのです。最近は、今上天皇の生前譲位が何かと話題になりますが、ここにすでに事情は違いますが前例があるんですね。

2017年12月25日月曜日

日本書紀 (4) 聖徳太子の実像


日本史の教科書の中でも、有名人ランキングの上位に間違いなく含まれるのが聖徳太子。

聖徳太子という呼び名は、後世につけられたもの。××天皇と呼ぶのと同じで、生前の本来の名前は、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)で、厩戸皇子、厩戸王と呼ぶ場合もあります。

父親は、第31代の用明天皇です。母親は欽明天皇の皇女である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)て、用明天皇は異母兄で、蘇我氏との強い血縁にあります。

名前の由来は、厩の前で生まれたという説(この逸話から、キリスト教との関連を指摘する人もいます)、蘇我馬子の「うまこ」との関連を指摘する説などもあったりします。また豊聡耳は、10人の話を聞き分けたという逸話からきています。

日本書紀での厩戸皇子の記述は、生まれてすぐ話すことができたという超人的な話から始まります。最初の活躍は、587年に用明天皇が亡くなり、泊瀬部皇子(崇峻天皇)を推す親仏派の蘇我馬子が、排仏派の物部守屋が推す穴穂部皇子を抹殺し、さらに守屋を攻め立てた時の馬子軍への参加です。厩戸皇子は、苦戦する中四天王像を造り戦勝を祈願し、士気が上がった馬子軍の勝利に貢献したというもの。

そして、実権を握る馬子は、不満を持つ崇峻天皇を暗殺し、豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立した際、厩戸皇子は皇太子となり摂政に就任しました。

翌年、天皇は三法興隆(仏・法・僧を大切にせよ)を詔し、厩戸皇太子は寺の建立を行い、高麗の帰化僧の教えを受けます。また、斑鳩(いかるが)の地に宮を造り住むようになりました。

推古天皇12年に、厩戸皇太子は冠位十二階を定めます。これは中国に対する「ちゃんとした組織です」というデモンストレーションの意味もあるようですが、朝廷内の地位は氏族だけでなく実力も評価するということを示したものとも言われています。

さらに、皇太子は十七条憲法を定めます。これも朝廷内での臣下の儀礼を説くもので、天皇の権威を高めることが目的と考えられます。いずれも増長する蘇我馬子に対する牽制であり、厩戸皇太子と天皇は蘇我馬子との関係を絶妙なバランスで調整していたということらしい。

ある時、道端に飢えた者が倒れていたので、厩戸皇太子は食事を与え、来ていた服をかけてあげます。しかし、結局相手は死んでしまい埋葬しました。数日後、遺体は消え、衣服は墓に綺麗に畳んで残されていました。そこで、倒れていたのは仙人で、民は「聖は聖を知るとはこのことだ」と話し合いました。

推古天皇29年、厩戸皇太子は49歳で亡くなります。人民は大いに嘆いたといいます。亡くなる原因や経過については、記載はありません。母親と妻との合同墓に埋葬とされています。

・・・というのが、日本書紀の主な聖徳太子の活躍の記述。現代でも厩戸皇子という人がいたことはほぼ認められています。しかし、厩戸皇子を聖徳太子と呼び、推古天皇の右腕として聖人化している話は作り話、あるいは別人の業績、そもそも推古天皇も創作などの研究が、特に平成になって盛んになりました。

記紀ではほとんどの登場人物の実在性については疑いをもつ学者が必ずいます。なにしろ物的証拠がほとんどありませんから、グレーとなると白黒のつけようがない。

十七条憲法や遣隋使は、日本史の必須キーワードです。聖徳太子の肖像は、昭和までの紙幣に何度も登場し誰もがあの顔を知っています。いなかったとなると歴史教育上でも、当然混乱は避けられません。

虚構説の主な主張は、次のようなものです。

① 聖徳太子が関与したとされる法隆寺に伝来する複数の史料は、日本書紀にはまったく記載はなく、いずれもその当時にはなかった単語が使われていて、実際には記紀成立よりかなり後のものである。

② 日本書紀の中で、聖徳太子は、事実と認定できそう場面には一切登場しない。

③ 有名な法隆寺で発見された肖像画には、誰と記載があるわけではなく、当時の服装として考えにくく別人であり、髭についても後に書き加えられた可能性が高い。

④ 隋の記録から遣隋使は事実と認められるが、その時の日本の王には「奥さん」がいたとあって、女帝である推古天皇の存在てのものに疑問がある。

平成の歴史教科書からは、聖徳太子が消える傾向があります。従来、「聖徳太子が・・・」とされていた部分は、「厩戸王が・・・」あるいは「厩戸王(聖徳太子)」のように書き換えられました。

ただ、当然結論は出るはずもなく、最近では厩戸皇子に関する記述のいくつかは事実の可能性がありとするのが一般的。聖徳太子と呼称することで、仏教的な理念に基ずく政治家の理想像として編集されたものである(モデルについては、諸説あり)と考えるのが主流のようです。

2017年12月24日日曜日

降誕祭前夜


云わずと知れたクリスマス・イブです。

毎年毎年、信仰心がないのに何故か浮かれた気分にさせられてしまうので、キリスト教徒の方々には申し訳ない感じ。

しかも、本当に祝うべき12月25日のキリストの誕生日は、もう終わったあとのオマケみたいな扱いをしてしまうので、いっそう後ろめたい。

ただ、こどもが皆成人してしまった我が家では、クリスマスというイベントの重要性は激減して、この数年はケーキは用意しなくなりました。

まぁ、ちよっとだけ高級なワインなどを飲むきっかけの一つくらいの扱い。もっとも、酒を飲むのにいちいち理由をつけなくてもいいんですけどね。

実際のキリスト教では、実質的な1年の始まりであり、イブの日没とともに降誕祭が始まります。

そして、この1週間は降誕節として、連日キリストの誕生を祝い祈りを捧げることになります。

2017年12月23日土曜日

日本書紀 (3) 史上初の女性天皇


欽明天皇のこどもたちは、順次即位をしていますが、第二女で美人聡明と言われていた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は、18歳で異母兄の敏達天皇の皇后となりました。

敏達・用明・崇峻とばたばたと亡くなったため、39歳の時に群臣に請われて第33代天皇に即位し、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇となり、後に推古(すいこ)天皇と呼ばれるようになります。

過去に女性としては、夫の仲哀天皇亡き後に辣腕を振るった神功皇后や、清寧天皇崩御後に皇位継承者が見つからず飯豊青皇女が短期政権をまかされたという記事がありますが、天皇のカウントには含まれていません。推古天皇は、正式に天皇と呼ばれる日本史上初の女帝です。

もちろん、人がいないから急に天皇になったというわけではなく、敏達皇后として10年ほど天皇の実務に接する機会があり、用明・崇峻天皇の記述の中にもちょこちょこ登場し、ある程度の権力を維持していたことがうかがえます。何しろ叔父が実権を掌握していた蘇我馬子ですし、また「群臣に請われて」ということは、朝廷内での信頼もあったということです。

即位元年に、用明天皇の厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を皇太子とし、摂政に任命しました。この人こそ昭和の一万円札で有名な聖徳太子です。

ですから、推古朝の記述は聖徳太子の実績のように考えがちですが、推古天皇自身の考えが基盤にあることは明らかです。実際、蘇我馬子のわがままに対して、「あなたは叔父ですが、言いなりにしていたら後世の人に笑われる」と牽制したりして、朝廷内の力関係の舵取りをしていました。

推古天皇・聖徳太子の二人三脚により、神道に配慮しつつ仏教拡大政策がとられ、朝廷内の厳格な順列である冠位を定め、朝廷内の規律を定めた十七条憲法を作っています。

また、小野妹子(おののいもこ)で有名な遣隋使の派遣、朝鮮情勢に応じた派兵を行い、聖徳太子と馬子による史書「天皇記」、「国記」の編纂を行いました。

聖徳太子に先立たれ、推古天皇は75歳で亡くなりますが、凶作により人民が飢えているため新たな墓を作るなという遺言により、敏達天皇との間にもうけた我が子の墓に埋葬されました。

亡くなる前に、敏達天皇の孫、田村皇子(たむらのみこ)には「天皇の位が相手はならないので、準備しておくように。ただし、その時まで口外しないこと」と伝え、聖徳太子の息子、山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)には「まだあなたは幼いので、周囲の話をよく聞くように」と諭しています。

実際、亡くなった後、皇位継承問題が表面化。朝廷は田村皇子を推す蘇我馬子のこどもである蝦夷(えみし)と、山背大兄皇子を推す境部摩理勢臣(さかいべのまりせのおみ)との間で真っ二つに分かれてしまいます。境部は力づくで山背大兄皇子を立てようとしましたが、山背大兄皇子は無理を通し天下を乱すべきではないと引き下がります。

田村皇子は第34代の舒明(じょめい)天皇に即位しましたが、ほとんどが即位までのごたごたの記述で、実績については遣唐使の派遣くらいで、あとは災害が多かったことくらい。亡くなった後は、皇后が2番目の女帝として即位することになります。

2017年12月22日金曜日

冬至


冬至は、1年で最後に来る二十四節気で、この間に年をまたいで新年を迎えます。

また、今日は一日としても冬至。北半球で、1年の中で最も日の出から日没までの時間が短くなります。

また、天文学的には、地球から見た太陽が最も低い所を通る瞬間を冬至と呼んでいます。これは昨日、21日の午後4時28分でした。

ちなみに、星座占いだと、この日がやぎ座の始まり。

何にしても、とにかく昼が短く夜が長いので、何か損したような気持ちになります。でも、ここから次第に昼が長くなっていくということ。

これから冬の寒さは本番を迎えますが、冬至から春を迎える準備が始まったと思えばいいんじゃないでしょうか。

2017年12月21日木曜日

日本書紀 (2) 影の薄い六世紀


第26代の継体天皇以後は、第27代に安閑(あんかん)天皇、第28代に宣化(せんか)天皇、第29代に欽明(きんめい)天皇、第30代敏達(びたつ)天皇、第31代に用明(ようめい)天皇、第32代に崇峻(すしゅん)天皇と続きます。これがだいたい6世紀の100年間。

100年間で7人ですから、各天皇の在位期間は長くなく、継体25年、欽明32年、敏達14年で、あとは数年ずつです。そのせいか、日本書紀の記述は少なく、存在感の少ない天皇が多い。

継体天皇の正妻のこどもが欽明天皇ですが、先に生まれていた安閑、宣化の二人の異母兄が先につなぎで即位したとされています。この三人の中では、皇位継承争いがあり一時はどちらも天皇を名乗る二朝並立の内乱もあったのではという説もあったりします。

安閑・宣化の項では、ほとんど外交問題のことばかり。継体以来の朝鮮半島情勢に介入して勢力拡張策が続きます。またそのために国力の強化・整備が必要だったので、屯倉(みくら)と呼ばれる、政府直轄の田畑および収穫を備蓄する倉庫などを含むシステムを増やしています。

ですから、本当に理解するためには、中国・朝鮮の歴史と合わせて多元的な勉強が必要なんですが、さすがにそこまで資料を漁るのはしんどいものがあります。ここでは、ばっさりと捨てて、横に置いておきます。

欽明朝になっても、朝鮮半島の百済、任那、新羅などとのやり取りがひたすら続きます。歴史的には、この頃に仏教が入ってくるというのが大事なポイント。また、実務方には継体天皇以来の大伴、物部にくわえて蘇我を加え、後に大伴失脚により物部・蘇我の二極体制ができます。

実は、豪族というものがどんどん力をつけているところがある。記紀では神の系図、天皇の系図の解説が重要なのですが、登場する氏族の祖先がどこから始まったかもしっかりと書かれています。

つまり天皇の「万世一系」を重視するのと同じように、天皇家以外の氏族にもその出自を重視するところが、少なくとも記紀編纂の7世紀後半にはあったわけです。ここまで、天皇以外の古代氏族に立ち入るのは複雑で避けてきたところがあるのですが、そろそろ有力氏族の動向を無視しては読み解けない感じになってきました。

この後に続く、敏達、用明、崇峻、そして第33代の推古(すいこ)天皇の4人はいずれも欽明天皇のこどもたちです。

敏達天皇は仏教には慎重な姿勢を示し、反対派の物部・中臣氏と推進派の蘇我氏との間での争いがしだいに激化していきます。蘇我が寺を作ったから疫病が流行ったとして仏教禁止令を出しています。

続く用明天皇は、蘇我氏の血筋でもあったため親仏教派でした。用明天皇で、記憶に留めておかないといけない一番重要なことは聖徳太子(厩戸皇子)のお父さんということくらいでしょうか。

崇峻天皇も蘇我系で、物部が推す穴穂部皇子を蘇我馬子が抹殺したことで即位します。物部氏は没落し、仏教が一気に広がることになりました。しかし、実権を掌握していた蘇我馬子の警戒心から、なんと日本の歴史上、唯一の部下による天皇暗殺事件に発展します。

重大事件が発生した割には、国内のみならず、国外でも特段の動揺が見られず、また蘇我馬子の力もそのまま続くところから、最初から入念に計画された一種のクーデターと考えられ、また蘇我氏の力が天皇をも上回っていたことがわかります。

2017年12月20日水曜日

年賀状締め切り迫ってきた


最後に残った年末準備、年賀はがきの準備をしているんですけど、なかなかうまい具合の物が思い浮かばない。

昔は、こどもの写真。よくあるやつですが、貰ってみると、別にこどもと顔見知りじゃないので、正直面白くない。

面白くないと自分が思うものを送っていた・・・というのも、結局自分の顔を出すのも恥ずかしい感じということなんですよね。

どっちにしても、こどもたちはみんな成人してしまい、今更使うわけにもいかないでしょう。

だからと言って、完全印刷ものは気持ちが伝わらないし、全部手書きは大変すぎるし・・・

それと住所録の整理。これがなかなか面倒。年賀状を貰ったら、すぐにやればいいんですけど、毎年毎年出す時期になって慌てるんですよね。

いつの間にか住所がわからなくなって、出してもそのまま戻ってきてしまう年賀状が、毎年数枚はある。

今はFacebookとかに登録している人もいるので、そこから懐かしい顔を見つける場合もあるので、何とか手繰り寄せた糸をつなぎたい。

そんなわけで、自分が撮影した「ちょっと自信がある風景写真」を利用して、多少はセンスの良さを出せればとは思うのですが。

その人に見せられる正月らしい写真というのが・・・・なかなか、ないんですよね。

・・・と思っているうちに、元旦配達の締め切りが迫っています。

2017年12月19日火曜日

ペコちゃん


虫歯の治療して、かぶせていたのが取れちゃう・・・

これが、ミルキーを食べなくなった一番の原因です。

えっ? いや、大人になったからかもしれませんが。

物心ついた時にはありましたね。ミルキーは、不二家が1950年に発売したということ。

その売り出しの最初からキャラクターとして登場したのが、ペコちゃんです。すぐに不二家を代表する目印になりました。

昭和の時代では、店の前にあるものといえば、サトーの象さん、コルゴンコーワのケロちゃん、そして不二家のペコちゃんが御三家という感じでしょうか。

少しずつ変化はしているようですが、ペコちゃんだけが生き残っているので、この先もずっとずっと頑張ってもらいたいものだと思います。

2017年12月18日月曜日

日本書紀 (1) 相反する武烈と継体


日本書紀全30巻のうち半分の15巻までの内容は、基本的には古事記と同じです。伝承文学的な古事記に対して、日本書紀はできるだけ客観的な記述に終始します。すでに古事記を読み進める中で、その内容の主な違いも見てきましたので、ここでは省略します。

第16巻からは日本書紀の一人舞台で、正直にいえば面白さはかなり減退し、けっこう読み進めるのは辛い所がある。しかし、ヤマト王権の天皇制が出来上がり、大化の改新を経て、律令国家として成熟するという「真の日本国史」の出発点に至る話ですから頑張りましょう。

・・・って、いきなり、かなりの重要な問題からスタート。

つまり、欠史と言われる天皇より短い記述にもかかわらず、歴代天皇史上、もっとも極悪とされる武烈天皇の話から始まります。いや、もう、これは怖い話の羅列です。

髪の毛を抜いて、木のてっぺんに登らせておいて、切り倒して殺しちゃう。池に入らせて、流れてきたところを矛で刺し殺しちゃう。また、木に登らせておいて、弓矢で射殺しちゃう。

さらにやばいことに、裸にした女性に馬と××させて、感じちゃったら殺す。感じない場合は、皆の慰み者にしちゃう。

狩りでは自分だけ支度万端で、大雨・大風でみんなが困っても気にしない。豪華な贅沢な食事を好み、天下が飢えていても気にしない。宮殿では、毎夜宴会で大騒ぎ。

いやはや、これだけめちゃくちゃな事を書かれまくっては、人として完全に終わってますが・・・ところが、実はこの辺りは大陸のいろいろな暴君の話を元ネタにしているらしい。つまり、かなり作り話の要素が濃い。

実際、武烈天皇は億計天皇の息子となっているのですが、冒頭には朝から晩まで、法を重んじ犯罪を取り締まり裁いた・・・と褒めまくったかと思うと次の文章では、様々な悪事をはたらき、良いことはまったくせず、国中の民は恐怖におののいていたと書かれている。どっちやねん、と突っ込みの一つも入れたくなる。

そんなわけで、実在性についても疑いがもたれることになるわけですが、一番困ったことは、この天皇は世継ぎがいないこと。本人も気にしていたらしいのですが、万世一系を売りにしていた天皇家は、ついに跡取りがいない事態に陥るのです。

それというのも、安康、雄略、清寧の三代で政敵になりうる皇位継承者を粛清しまくったつけが回って来たということです。武烈天皇は即位して8年で亡くなりますが、気がついたら、まさに一系しか残っていなかったため、ついに血が途切れてしまったのです。

周りは、焦ったでしょうね。必死に探したんでしょうが、やっとのこと丹波国で仲哀天皇から五代目にあたる倭彦王(ヤマトヒコノオオキミ)を見つけて、迎えに行きますが、大勢で押し掛けたせいか、相手はびっくりして逃げ出して消息不明。

続いて見つけ出したのが、越前国高向で育った男大迹王(オオドノオウキミ)です。こちらは応神天皇からつながる五代目の彦主王(ヒコウシノオオキミ)が父親で六代目にあたり、母親は垂仁天皇から七代目にあたる振媛(ふりひめ)です。それぞれ天皇からつながってはいますが、具体的な系図は不詳です。

ちょっと待て。通常、親戚って呼んでいるのはどこまででしょうか。おそらく父母の関係、祖父母の関係、もしかしたら曽祖父母くらいまでじないでしょうか。つまり三代上くらいまでで、それより昔のこととなると・・・そりゃ、神代まで遡れば「人類皆兄弟」になりますけど。

倭彦王にしても、男大迹王にしても、途中の系図は明らかになっていませんし、五代目とか六代目とか、もうほぼ他人と言っても文句はでないくらい遠い、遠~い親戚筋です。実質的には万世一系の天皇家という表現はここで途切れているという考え方は根強くあり、最初のヤマト王朝は終わったことは否定できません。

男大迹王は「そんなうまい話があるわけがない」と思ったのか、使者が来てもすぐには承諾せず、数か月の熟考の後に第26代の継体(けいたい)天皇として即位しました。後付けの呼び名ではありますが、継体というのも怪しい。体を継ぐということで、まさに間を埋めた感満載です。

即位後、すぐに百済(くだら)との間で使者をやりとりを始めます。勢力圏だった任那国(みまなのくに)の一部を百済に譲渡。新羅(しらぎ)を荒らす伴跛国の討伐に敗戦などなど・・・天皇の業績として、ほとんどが朝鮮半島との外交に終始しています。

もちろん国内のことにもがんばったということも少しは書かれています。ある時、国勢が強まり「皆、贅沢に慣れたので、気持ちを引き締めなさい」という話をしています。この時期に、朝鮮半島人との間に混血が進んだことも記載されています。25年間の治世の後に、82歳で亡くなり、息子の勾大兄皇子(マガリノオオエノミコ)が継ぐことになります。

遊びまくり、人を殺しまくった、最低の武烈天皇との対比が色濃く描かれた感がある継体天皇紀でしたが、これは明らかに血脈の無理を正当化する目的。事実上途切れた血統を「万世一系」として、万人を納得させるために、武烈天皇をことさら悪く書き、継体天皇が政治をまじめに行ったことを強調しています。

結局、このあたりが作られた話として歴史書としての疑義が生じることにつながり、登場する天皇の実在性にすら疑問が挟まれるわけです。

2017年12月17日日曜日

Bim Bum Ban @ センター南


年末と云えば・・・忘年会。

昨夜は、今年のクリニックの忘年会を、地元のイタリアンの店、Bim Bum Banで開催しました。

例年、どこでするかいろいろと悩むところですが、今年はスタッフに一任。ついでに司会まで任せて、だいぶ呑気に楽しんできました。

部屋は奥の個室を使わせてもらいましたが、うちのグループの人数ではちょうどいい感じの空間で、テーブルも分かれず皆の顔をそれぞれ見える配置もよかったと思います。

縦に長すぎたり、テーブルが分かれると、どうしても宴会の一体感が薄れてしまいます。個室の仕切りもちゃんとあるので、多少うるさくしても安心でした。

毎年、ゲームをしますが、今年はスマホを忘れずもってきてもらい、専用のLINEのグループに参加してもらい、クイズの答えを書き込む方法をやってみました。

一番早く解答したのが誰か、確実にわかります。珍解答もあったりします。ただし、入力の速さの個人差があるので、答えは数字だけに限定しました。

ゲームの結果で、院長独断で用意したプレゼントを差し上げるのですが、今までは中身が何かはわからないようにして、開けてビックリにしていました。

今回は、事前にだいたいの内容を教えておいて、勝った人ができるだけ希望のものを持ち帰ることができるようにしてみました。

それほど多くないグループとして、まぁ、わいわい、楽しく過ごせればよいわけですが、それなりに成功だったと思うんですが・・・

また、来年も頑張ろうということで、よろしくお願いします。

・・・えっ? 食事? ・・・確か・・・パスタは美味しかった。ゲームで盛り上がっていて、食事については印象が・・・お店の方、御免なさい。忘年会ですから、それでいいかっちゅうことで。

2017年12月16日土曜日

年の瀬モード


年末年始の休みのお知らせから始まって、来年のカレンダーを用意したり、常備品の在庫の確認と発注・・・

1年の終わりになると、何となく気ぜわしいのですが、だからと言って、それほど年末の実感は湧かないところ。

ところが、診療をしていて、「じゃあ、次回は2週間後に」とか言うと、そこは年末年始にかかるということになって、昨日あたりから急に少しだけ実感が伴ってきました。

クリニックでは、毎年恒例、サンタクロースの折り紙に小さなお菓子を添えて来院した方に差し上げています。クリスマス前でも、無くなれば終了の早い者勝ちで、これが終わるといよいよカウントダウン体制。

街中の様子も、少しずつ人の動きが減っているような感じがして、ちょっとずつ静かに年末が近くなってきた感じがします。

年の瀬の準備万端・・・あっ、そうそう、年賀状をまだ何にもしていないわ!! この風習も、ずいぶんと形骸化してしまいましたが、若者と違って昭和のおじさんは今更やめるわけにもいきませんからね。

年賀はがきは、何と10円値下げだそうで、郵便局も年賀状減少に歯止めをかけたくて、いろいろ苦労しているんでしょうね。

2017年12月15日金曜日

続・外苑の銀杏並木


都内で銀杏並木の名所と言えば、明治神宮外苑。前回通った11月初旬の様子は、もう少しという感じでした。

さすがに、12月半ばともなると、すでに黄色の葉はほぼ落ち切った感じで、紅葉の見頃は完全に過ぎています。


葉が落ちると、とんがり感が強まり、寒々とした冬の光景。冬本番になったことを実感しますよね。

でも、葉を落とすのは来春の新しい芽吹きのためですから、「終わり」ではなく「始まり」と思えば、春の期待を込めて一つの楽しみにしたいと思います。

2017年12月14日木曜日

2017年 総決算


今年も、あと残すところ2週間ちょっと。あっという間に、時間が過ぎていくのは、年を取れば取るほど強く感じます。

このブログも、気が付くと4000タイトルを超えていて、よくもまぁ、続けているもんだと我ながらあきれてしまいます。始めた当初の無料の宣伝という要素は、いまや微塵もなく、医学的な話題はむしろ避けていると言ってもいい。

完全に日々の日記状態で、ほとんど内容的にもどうでもいいことばかり。もうやめようかと思うこともありますが、何となく新しく興味を持つものが見つかると、その勉強ノートとしての機能として続いています。

今年は、まずヘンデルから始まりましたが、実はちょっと挫折しています。途中から、何度目かのオペラ鑑賞に移行してしまいました。オペラは、有名どころはいくつかDVDで見ることは見たんですが、やはりのめり込んでいくほどになれませんでした。

9月に出雲大社・厳島神社に出かけたわけですが、宗教的、思想的にはほぼ関心が無いので、日本の古代の国の成り立ち、神社に祀られている神の由緒など、もう少し知ってから出かければよかったという後悔から、むしろ、こっちへの興味が俄然沸いてきました。

知的探求心というものなんでしょうか、古事記などの記述がどうして出来上がったのか、謎がたくさんありますので、少しでも自分なりに納得できる答えを探してみたくなります。

ところが、もうこの手の話は、謎が謎を呼び、しかも証明は不可能ですから、底なし沼状態で、知れば知るほどわけがわからない。この辺りについては、もうしばらく勉強のネタは尽きそうもありません。

やっと古事記を読み通しただけですから、日本書紀でいうとやっと半分。ある程度、歴史としての確定的な時代・・・というと平安時代の手前くらいまでは追いかけてみたいところです。

趣味的な話はそのくらいにしておいて、クリニックはどうかというと・・・まぁ、基本的には順調なんですが、経営的には何とか赤字にはならないというところ。会計士の方にも、健全経営と言われているんですが、何しろ10年を超える機器をかかえていますから、毎日そろそろ壊れるんじゃないかとびくびくしています。

電子カルテのシステムだけは、壊れてからどうかするというわけにはいきません。ですから、今年最大の出費は、7月の電子カルテの総入れ替えでした。通常大手のメーカーのものだと、新規で数百万円以上はかかるところですが、うちは元々安さで勝負の電子カルテです。

新しいPC5台に入れ替えて、ソフトウェアの入れ直し、旧機からのデータ引継ぎ操作で何とか100万円(かなり安い!!)でまとめてもらいました。おかげで、OSが、とっくにMicrosoftのサポートが終了していたWindows XPから最新のWindows 10に変更され随分と快適になりました。

サーバーも一新して、使い勝手は向上しましたし、バックアップもより安定。この機にカルテのいろいろなマスター更新も、夜間自動リモートになりましたので、メンテナンスも楽になりました。

春に思いがけずダウンしたのは、レントゲンのサーバーでした。これも開業時に、できるだけ安い物を探して使用していたのですが、さすがにハードがもうダメになり、実はそのメーカーも無くなっていました。しかたがないので、レントゲンの読み取りシステムのコニカ・ミノルタの物を急遽導入。

これも交渉の結果、何とか100万以下で済ませられました。けっこう、それなりの交渉は必要でしたけど、どうも医療機器の値段というのはあってないようなものみたいなところがあって、定価を聞くと目の玉が飛び出ます。

もうひとつ問題がありました。クリニックのレントゲン撮影装置は、通常の撮影とあれば便利な透視ができるものなんですが、例えば透視は見ながら骨折のずれを治したりするのに使います。この透視のための装置が壊れました。

透視は年に数回しか使わないので、壊れたことにはまったく気が付きません。いつ壊れたのかわかりませんが、11月の定期点検で発覚しました。これには驚いた。早速修理の見積もりを出してもらって、さらに驚きました。

撮影装置はだいたい実質600万円くらいでした(これも定価は数千万)が、おまけみたいな透視で修理代が400万円越えでした。いや、もう、これは、悩むことなく却下です。下手すれば通常の撮影装置を買い直せるくらいの値段ですから、めったに使わないもののために400万では投資を回収できません。

いざという時の手段が無くなるわけですが、年に数回なので、何とかがまんします。実際、同じような事例はけっこうあるみたいで、メーカーの人も、たいてい修理しないことが多いといってました。

さて、今年は今までになく診療後の疲労を感じることが増えたように思います。年を取ったということなんですが、体力的な衰えは隠しようもなく、今のペースで仕事を続けるのはしんどいところです。

来年は、休診を増やすか、非常勤医師を依頼するかして、自分の休みを増やしたくなるのかもしれません・・・なんちゃってね。

2017年12月13日水曜日

魁力屋 @ センター南


久しぶりの魁力屋です。

最近は、美味しい担々麺を食べれる店を探して行くことが多かったんですが、今回は、鶏ガラ醤油の原点に戻りたくなりました。

とはいっても、昭和の典型的な醤油ラーメンに比べると、ずいぶんと進化はしているわけです。

魁力屋のスタンダードの醤油ラーメンです。チャーシューとメンマはありますが、ほうれん草、なるとはのっていません。

そして、何より背綿脂が、平成のラーメンの趣を強く感じさせます。健康上は必ずしも歓迎できませんけど、美味しさはまちがいなくアップ。

脂の甘味が旨さを強くして、表面が脂の層でコーティングされることで、スープが冷めにくく、最後まで熱々に食べることができますね。

でも、ベースの鶏ガラ醤油は、懐かしい味を思い出すのに十分で、実際に食べた経験はありませんけど、夜泣きそばのチャルメラの音が聞こえてくるようです。


2017年12月12日火曜日

史実の中の天皇記


一般的な日本の歴史年表は、次のように時代を分けています。

政治的・文化的な年代分類
旧石器時代 10万年前~
縄文時代 1万年前~紀元前3世紀 縄文土器
弥生時代 紀元前3世紀~3世紀 稲作始まる 集団の形成
古墳時代 3世紀~6世紀末 ヤマト王権の確立
飛鳥時代 6世紀末~ 聖徳太子、大化の改新
奈良時代 710年~ 平城京 記紀、風土記、万葉集
平安時代 794年~ 平安京 源氏物語、枕草子
鎌倉時代 1185年~ 鎌倉幕府 武家政権
室町時代 1338年~ 前半は南北朝時代、後半は戦国時代
安土桃山時代 1575年~ 織田信長と豊臣秀吉
江戸時代 1603年~ 江戸幕府 1853年黒船来航以後を幕末
明治時代 1868年~
大正時代 1912年~
昭和時代 1926年~
平成時代 1989年~

発展段階による年代分類
原始
古代 3世紀? 5世紀? 7世紀? 国家形成
中世 11世紀後半~ 荘園制度
近世 16世紀後半 太閤検地
近代 幕末または明治維新~終戦
現代 終戦後~ または 高度経済成長終了以後(バブル崩壊後)

これで、日本の歴史全体を・・・なんて大それたことは考えていません。あくまでも日本古代史を知るための俯瞰図みたいなもの。古事記を一通り読んだところで、今度は人代を中心に史実との関連を検討してみましょう。

とにかく、日本列島で、少なくとも人の痕跡として認められる最も古いものは約4万年前の石器です。もう少し古いかもしれないけど、(例の捏造事件発覚により)数十万年前ということはありません。

縄文から弥生の変化は、かなり大きな文化的な変革があり、稲作文化をもたらした朝鮮半島経由の大陸人の大量の渡来が大きく関わっていると考えられています。

縄文人が次第に弥生人になっていくことも否定できませんが、より巨大な先進性のある集団である弥生人により、縄文人は征服され、あるいは当時の辺境であった南九州や近畿へ追いやられたのかもしれません。

ただし、「騎馬民族征服王朝説」という有名な話がありますが、これは現在はほぼ否定されています。それほどの急激な変化ではないと考えられています。

紀元0年頃以降、弥生後半には地方単位の「国」が出来上がってきて、特に朝鮮半島との往来がしやすい九州北部が、より強力な力を持つようになります。教科書にたいてい掲載されている倭奴國金印は、「後漢書」によれば紀元57年に光武帝より与えられたもので、福岡圏志賀島で発見されています。

2世紀ごろに中国の歴史書、後漢書、三国志などの海外の史料から、倭国大乱の時期があったことが知られています。つまり、力をつけてきた地方豪族が互いに権力争いを行い、大陸側から見ると倭国、つまり日本の代表が誰なのか判断できなかったということです。

この時期に、近畿を中心に古墳が形成され始めたことは、しだいに日本の政治・経済的な中心が九州から近畿へ移動していったことを示しています。九州から勢力を拡大してきた弥生人が、縄文人が残る近畿を制圧したという考え方もあるようです。

これを記紀の記述に当てはめると、最初の文化的な人々(それをあえて神と呼ぶなら)が登場するスタートは弥生時代以後と考えるのが自然のように思います。ヤマト王権は、九州に始まり出雲付近までも勢力下に従えた集団の一つが始まり(天孫降臨?)だったのかもしれません。

彼らは、より経済的流通性に長けた東の地域への進出を狙うことになります(神武の東征?)。既存勢力を撃破して、ヤマトに初めての統一国家を作ることに成功します。これが魏志倭人伝でいうところの、(倭武命のようなスーパースターの活躍により)大乱を制して邪馬台国が倭国を統一という話とかぶってくることは避けられそうもありません。

魏志倭人伝から推定される卑弥呼が亡くなった年は、247年または248年です。邪馬台国はどこにあったかの論争はいまだに決着していませんが、スタート地点と思えば九州説ですし、ゴール地点と思えば畿内説ということでしょうか。

日本書紀の編者はおそらく畿内説の立場をとっていて、神功皇后を卑弥呼であると暗に示しています。ただし、日本書紀によれば、仲哀が亡くなるのが200年で、神功が摂政として采配を振るいます。そして、亡くなるのは269年ですから矛盾はしています。

さて、その次に記紀年代を特定するための重要な項目が「倭の五王」と呼ばれています。中国の複数の「史書」に登場する倭国の5人の天皇のことで、5世紀の宋の時代、武帝、文帝が活躍する時代です。宋の建国は420年、滅亡は479年です。412年~478年の間に讃、珍、済、興、武の5人の王との交流が記述されています。

この五王が誰なのかは、いろいろな説があり確定はしていません。それぞれが履中、反正、允恭、安康、雄略とする説、応神、仁徳、允恭、安康、雄略とする説が有力のようです。ただ、すべての天皇の実在が確定しているわけでもありません。

日本書紀の年代記載を信じるならば、各天皇の即位の年は、応神270年、仁徳313年、履中400年、反正406年、允恭412年、安康454年、雄略457年です。ちなみに続く清寧480年、顕宗485年、仁賢488年、武烈499年です。

とにかく、日本史の中では「謎の4世紀」とか「謎の5世紀」という言い方はよく出てくる、最も重要なのによくわからない時代。日本の国のそもそもの成り立ちの話ですから、できればタイム・マシーンとかできて確認できればいいんですけどね。

2017年12月11日月曜日

古事記 (20) 血統を守ったオケ・ヲケ兄弟


雄略天皇による血の粛清の結果、後継ぎがいなかった息子の清寧天皇の死去により、皇位継承者が不在の緊急事態が発生しました。

履中天皇には、皇子(雄略天皇からみると従兄弟)が二人、皇女が一人いました。皇子はいずれも雄略天皇により謀殺されましたが、兄の市辺忍歯別王(イチベノオシハワケノミコ、日本書紀では磐坂市辺押羽皇子)には、二人の皇子がいて兄を意祁命(オケノミコト、オケと表します)、弟を袁祁命(オケノミコト、ヲケと表します)といい、父が殺された時逃げ延び、一般人に紛れて隠れて生活をしていました。

清寧天皇が亡くなって、天皇不在となったため市辺忍歯別王の妹、忍海郎女(オシヌミノイラツメ)、別名、飯豊王(イイドヨノミコ)が臨時に政権を維持しました。

ある時、播磨国の国守が招かれた宴席で、少年兄弟が舞を披露しました。兄に続く弟は舞いながら「私たちは市辺忍歯別王の子である」と歌います。国守は驚いて、すぐに二人の発見を飯豊王に知らせました。

意祁命も袁祁命も、互いに天皇になることを譲り合いましたが、兄は「名を明かし復権できたのは弟の功績」とし、弟が第23代の顕宗(けんぞう)天皇に即位し、かろうじて天皇家の血統が断たれることが回避できました。

このエピソードは、日本書紀では多少の食い違いと、より詳細な裏事情が書かれています。まず、飯豊王は億計王・弘計王(意祁命・袁祁命)の叔母ではなく妹(か姉?)になっています。二人が発見される宴席があったのは清寧天皇存命中のこと。

弟の弘計王は、「乱から数年がたちそろそろ身分を明かそう、明かして抹殺されるかもしれないが、卑しい身分で死んでいくよりまし」と兄の億計王に言います。兄も承諾し、宴席での舞と歌になるわけで、知らせを聞いた清寧天皇は世継ぎがいなかったため、喜んで二人を迎い入れました。

清寧天皇が亡くなって、皇太子だった兄の億計王は弟が即位すべきといいはり、二人の間で譲り合いが始まります。しかたがなく、飯豊王は忍野飯豊青尊(オシヌノイイトヨノアオノミコト)として暫定政権を維持しましたが、1年経たないうちに亡くなり、ついに兄に説得された弟・弘計王が天皇に即位したということです。

ちなみに飯豊王に「尊」をつけ、亡くなったことを「崩じた」と記してあるので、事実上、初の女性天皇と認識されていたことになりますが、代を数える場合からは除かれています。

さて、神代から続いてきた古事記の最後を飾る大きなエピソードが、意祁命・袁祁命、二人による雄略天皇への復讐です。

顕宗天皇が即位してしばらくして、父親の市辺忍歯別王の歯は押歯(山形に削った歯?)だったことを頼りに、兄弟は父の骨を見つけ出し丁寧に埋葬しました。

次に、父の仇討ちとして雄略天皇の墓を壊そうということになり、兄の意祁命が「それは人にやらせてはいけないことだから、自分がやって来る」と言いでかけていきます。

意外に兄が早く帰って来たので、わけを聞くと、「父の仇ではあるが、我々の親族でもあり、天下を治めた方であるので、それを破壊したら後世に汚点を残す。ですから、少しだけ掘り返すだけにして侮辱するだけにしてきた」との説明に弟の顕宗天皇は納得しました。

日本書紀では、さらに「息子の清寧天皇には世話になったのだから」という理由も加えて、少しだけ掘り返すこともせず、大人の対応で事を収めています。

顕宗天皇は38歳で亡くなり世継ぎはいなかったので、兄の意祁命が第24代の仁賢(にんけん)天皇として即位しました。仁賢天皇は、清寧天皇の異母妹である春日大郎女(カスガノオオイラツメ)を妃とし、息子の小長谷若雀命(オハツセノワカササギノミコト)が、後に即位して武烈天皇になりました・・・という記述で古事記は終わります。

ドロドロした権力闘争の後、御家断絶の危機を乗り越え、兄弟を通して家族愛、天皇崇拝が何よりも重要であることを高らかに示しての終了です。

とりあえず、抜けている話もありますけど、重要処はだいたいおさえたと思います。日本書紀については、全30巻のちょうど半分にあたります。古事記を通して読み終えると、神代のファンタジーから、しだいに歴史上の事実に近そうな話になっていきますが、それでも編纂上、いろいろな意図的な創作・改変は多々あることは容易に想像できました。

日本古代史を知るために古事記は重要な書物ですが、考古学的知見も含めてそれ以外の史料も不可欠であることもよくわかりました。古事記には、編者が知らなかったのか、書き忘れたのか、意図的に隠したのかわからない事柄がたくさんあり、日本書紀をはじめいくつかを並行して勉強していかないといけません。

でも、知れば知るほど実際の歴史の事実は混沌として、謎が謎を呼ぶことになるんですね・・・・いやはや、終わりが見えてきませんね。

中つ巻以後は天皇家の歴史が中心になるため、天皇系図は理解する上での必須資料です。最も信頼すべき公式の系図は宮内省により公開されています。
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/img/keizu-j.pdf


2017年12月10日日曜日

古事記 (19) 雄略天皇の汚点


允恭(いんぎょう)天皇の皇子、穴穂御子(アナホミコ)は皇位を継承することなっていた兄の木梨之軽太子(キナシノカルノヒツギノミコ)を自殺に追い込み安康(あんこう)天皇として即位。古事記にはそれ以上の話は無く、安康天皇の弟、大長谷若健命(オオハッセワカタケノミコト)が第21代の雄略(ゆうりゃく)天皇に即位します。

最初のエピソードは、ちよっと天皇の傲慢なところが出ています。山道を通っていると、立派な家を見つけて「自分の御殿に似ていて生意気」と言うと焼き払おうとし、家主に土下座をさせます。

ある時、老女がやってきて「お仕えすることはもう無理」と言うので理由を聞くと、昔にたまたま見初めて「迎えを寄越すから待っていろ」と声を掛けたのを80年もの間忘れていたという話。また、討ちそこなった手負いの猪を恐れて木に登って逃げたなど、比較的呑気な話が続きます。

山で、自分と御付きの者たちとそっくりな集団と出逢い怒りますが、相手が善い事悪い事を一言で判断できる一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)であるとわかると、平伏し礼を尽くします。

124歳で雄略天皇が亡くなると、息子の白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)が第22代の清寧(せいねい)天皇となりますが、妻子がいなかったため、ついに天皇の血族が途絶える危機に直面します。

以上が古事記の記述。好色で呑気な雄略天皇像が浮かび上がってきますが、実は大悪天皇とも呼ばれる雄略天皇の本当の怖さは日本書紀でしかわからない。比較的、親から子へ自然に継承されてきた皇位が、力によって奪取されるドロドロの権力闘争(ある意味、王権の成熟)が展開される様子が書かれています。

允恭天皇は皇后との間に、木梨軽皇子(キナシカルノミコ)、名形大娘皇女(ナガタオオイラツメノヒメミコ)、境黒彦皇子(サカイノクロヒコノミコ)、穴穂皇子(アナホノミコ)、軽大娘皇女(カルノオオイラツメノヒメミコ)、八釣白彦皇子(ヤツリノシロヒコノミコ)、大泊瀬稚武皇子(オオハツセワカタケルノミコ)、但馬橘大娘皇女(タジマノタチバナノオオイラツメノヒメミコ)、酒見皇女(サカミノヒメミコ)という5人の男の子と4人の女の子をもうけました。

長男の木梨軽は長女の軽大娘となんと禁断の恋、まさに同父同母の近親相姦の罪を犯します。そのため、允恭天皇の葬儀が終わってから、安康天皇となった穴穂皇子は逃げ隠れた木梨軽を取り囲み自害させます。

そして弟の大泊瀬稚武の嫁に、父允恭天皇の異母兄弟である大草香皇子(オオクサカノミコ)の娘を迎えようと使者を遣わせます。大草香は承諾しましたが、使者が献上された宝を横取りし、拒否されたと嘘の報告をしました。安康天皇は怒って大草香を攻め滅ぼし、妻の中蒂姫(なかしひめ)を自分の妃、娘の幡梭皇女(はたひのひめこ)を大泊瀬の妻にしました。この時、中蒂姫は息子の眉輪王(マヨワノオオキミ)を連れてきます。

眉輪王は父の仇である安康天皇を刺し殺し、その報告を聞いた大泊瀬は裏で兄弟が関与していると疑い、まず八釣白彦を殺し、境黒彦も追及しました。境黒彦と眉輪王の二人は逃亡先で焼き殺されます。さらに安康天皇が後を託そうとしていた履中天皇の子供である磐坂市辺押羽皇子(イワサカノイチベノオシハノミコ)を、狩に連れ出し射殺し、その弟の御馬皇子も捕らえて処刑しました。

これは、もう完全に血の粛清というべき、父の仇討ちに名を借りた皇位継承権利者の大量虐殺です。皇室の万世一系が真実ならば、間違いなくその血筋の最大の汚点と言えます。

雄略天皇の後は、清寧(せいねい)天皇が第22代に即位しますが、磐城皇子(イワキノミコ)と星川稚宮皇子(ホシカワワカミヤノミコ)という二人の異母兄弟がいました。子は親を見て育つもので、この二人は(清寧天皇の指令により?)後に焼き殺されてしまいます。

清寧天皇は元々の名は、白髪武広国押稚日本根皇子(シラカミノタケヒロクニオシワカヤマトネコノミコト)という名で、生まれながらにして白い髪をしていて霊的な力を持っていたと書かれています。即位したのが23才、5年後に若くして亡くなっています。医学的には、アルビノと呼ばれる先天性の色素欠乏で、皇室の近親婚が続いたことの遺伝的障害が関与している可能性は否定できません。

いずれにしても、雄略天皇・清寧天皇の親子で皇位継承者をすべて排除してしまった結果、天皇家を継げるものがいなくなってしまうという大きな危機が訪れたことは古事記でも日本書紀でも同じ。権力闘争により自ら招いたこととはいえ、何とも困ったことになりました。

2017年12月9日土曜日

古事記 (18) 仁徳天皇と三人の息子


大仙陵古墳は大阪府堺市にある、日本で最も有名な最大級の古墳です。小学校の社会科以来、まず写真を見たことが無いという日本人はいないのではないでしょうか。

航空写真では、上から見ると大きな鍵穴のような形の、典型的な前方後円墳で、大きさは840m×654mです。出土品から、おそらく5世紀後半に作られたものと推定されています。

仁徳天皇陵とも呼んでいて、むしろこの別名の方が有名ですが、実は仁徳天皇の墓と「推定」されているだけで、本当に埋葬されているのが誰かは確認はされていません。

さて、古事記はいよいよ下つ巻に入り、ここからはおそらく実在性の高い天皇記が続きます。最初に登場するのが仁徳天皇で、ここだけはほのぼのとした雰囲気なのですが、以後は、天皇家内の血生臭い権力闘争が続くことになり、いかにも「歴史」らしい話が続くことになります。

仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた応神天皇の二人の息子、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラッコ)と大雀命(オオサザキノミコト)は皇位継承を譲り合っていましたが、ウジノワキノイラッコの急死によりオオサザキが第16代の天皇に即位しました。これは西暦では日本書紀の記述を信じるならば、313年のことです。

仁徳天皇は、治水工事や開墾を奨励し、港を作り内陸に堀をつなげ水上交通の利便を図りました。そして、国に煙が立ち上っていない様子を見て、民は困窮していると考え、三年間の税と労役を免除しました。自らも、宮殿の雨漏りくらいは我慢したりしたおかげか、また煙が経つようになったということです。ですから仁徳天皇の時世を「聖帝(ひじりのみかど)の世」と呼びます。

ある日、天皇は吉備の黒日売(くろひめ)を一目惚れで召し上げましたが、本妻の超嫉妬深い石之比売(イワノヒメ)に追い返されてしまいました。天皇は淡路島に行くことにして、そこからクロヒメと密会デートをしたりしています。

さらにイワノヒメが宴席用の食器を調達しに木国にでかけると、その隙に別の女性を宮殿に上げてしまいます。それを知ったイワノヒメはせっかく用意した食器を海に投げ捨てて別邸にこもってしまいました。天皇は、使者を使わせていろいろと歌にのせて許しを請うという話。

それでも懲りない天皇は・・・いろいろあって、83歳で崩御し、百舌鳥(もず)の耳原、つまり現在の大仙陵古墳と考えられている場所に埋葬されました。

日本書紀には、ウジノワキノイラッコは皇位を譲るために自殺したと書かれていますが、真相は闇の中。さらにいくつもの恋バナが書かれていて、仁徳天皇は善政を施す好色能天気人間という感じ。

仁徳天皇とイワノヒメの間の長男が、第17代の履中(りちゅう)天皇で、次男が第18代の反正(はんぜい)天皇、そして三男が第19代の允恭(いんぎょう)天皇となります。

古事記では履中、反正天皇の二人のことは省略されています。日本書紀によれば、それぞれ即位して6年、5年で亡くなっています。允恭天皇については、氏族の呼称が乱れているため、それを正しく定めることをしたというのが数少ない業績として書かれています。いわゆる戸籍調査をして、氏族を明確にしたということでしょう。

允恭天皇崩御後、長男の木梨之軽太子(キナシノカルヒツギノミコ)は皇位を継承するはずでしたが、粗暴なうえ同母妹とできてしまったため四男の穴穂命(アナホノミコト)が人気急浮上してきます。両者は武器を揃え内乱直前で、アナホノミコト側が相手を捕獲することに成功し、兄と妹を流刑にし、二人は自ら命を絶ちました。

アナホノミコトは即位して、第20代の安康(あんこう)天皇となりますが、即位後の話は日本書紀のみ。安康天皇は、仁徳天皇が日向の髪長比売(かみながひめ)との間に生まれた大草香皇子(オオクサカノミコ)を誤解から殺してしまいます。そして大草香皇子の妻であった中蒂姫(なかしひめ)を皇后に、大草香皇子の妹である幡梭皇女(はたひのひめみこ)を自分の弟である大泊瀬皇子(オオハツセノミコ、後の雄略天皇)の妻に迎えます。しかし、即位してわずか3年で中蒂姫の連れ子、眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されてしまいました。

2017年12月8日金曜日

大雪


呼び名からして大雪(だいせつ)は、冬本番です。

各地から初雪の便りが届く・・・なんて生やさしてもんじゃない。

もう、積雪がどのくらいという話で、山では、そろそろ動物は冬眠生活に入るらしい。

そりゃそうでしょう。食べるものが見つからず、動いてエネルギーを消費しては命に関わります。

都会でも、今週になって急に朝の冷え込みは強くなりました。車にも霜が降りるようになって、朝の準備に余計に時間がかかります。

暖かくて美味しい物を食べるのに、屋内に閉じこもりがちになって、運動不足が心配。体重計で毎日チェックして、注意したいものです。

2017年12月7日木曜日

古事記 (17) 天之日矛伝説


古事記で、大雀命(オオサザキノミコト)が仁徳天皇として即位した、という記述の後に突然出てくるサイドストーリーが天之日矛(アマノヒボコ)の話。昔、新羅の王子であるアマノヒボコが海を渡ってきました・・・と、突然に始まる内容は次のような話。

新羅の阿具沼(おぐぬま)の岸辺で、昼寝をしていた女の陰部に太陽の光が射して赤玉を産み落としました。その様子を見ていた男が玉をもらい受け、通りかかったアマノヒボコに贈り物としました。

すると玉は美しい乙女に変身し、アマノヒボコは妻とします。しばらくは甘く楽しい結婚生活だったのですが、しだいにアマノヒボコは傲慢になっていき、ついに大きな夫婦喧嘩になりました。

「わたくし、実家に帰らせていただきます」と言い残して、船に乗って日本に渡り難波に住んで阿加流比売(アカルヒル)と呼ばれるようになります。アマノヒボコは、すぐに八つの宝(玉津宝)を持って追いかけてきましたが、難波では渡し場の神に邪魔されて上陸できず、近くの多遅摩国(たじまのくに)に住みつきました。

アマノヒボコは多遅摩で再婚して子孫を残しますが、六代目にあたるのが高額比売(タカヌカノヒメ)で、息長帯比売(イキナガタラシヒメ)、つまり神功皇后のお母さんだということです。

日本書紀では、もっと前の垂仁天皇の3年目に天日槍が帰化したとして登場します。垂仁天皇87年目に、天皇が「新羅の王子であるアマノヒボコが但馬にもってきた宝を見たい」とアマノヒボコの孫にあたる清彦に献上させますが、清彦は八つの宝のうち出石(いずし)の小刀だけは隠しました。その後小刀だけが消えてしまい、清彦の元に戻り、そしていつの間にか清彦の元からも消えて淡路島に祀られていました。

その他にも播磨国風土記にも、各地の地名の由来にアマノヒボコが度々登場してきますが、朝鮮半島から渡来した人々代々を総称するような名称としてアマノヒボコという呼び名が用いられたと言われています。

このアマノヒボコ伝説は、自分の勝手な想像かもしれませんが、神功皇后の正当性の説明なのかなと思います。天皇ではないのに記紀では別格扱いされる皇后ですから、相当皆を納得させる話が必要です。

皇后の祖先は、新羅の王子であり高貴な人であること。最初の妻は太陽信仰から生まれたもので、新羅から太陽が昇る方向、つまり日本出身であるという説明。神功皇后が新羅に攻め入ることも、本来新羅王の一族の末裔として問題ないことを示したいということではなかったかと考えられます。

但馬国一之宮である出石神社はアマノヒボコを祀り、古事記編纂時にはすでに渡来した人々が自分たちの繁栄を祈念して創建されていたと考えられているそうです。

2017年12月6日水曜日

横濱家 @ 川崎・犬蔵


こちらも何度も登場していて、自分としては「家系」を食べたい時のホームという扱いの店。

30年近く前に本厚木から横浜市青葉区に引っ越してきて、初めて醤油豚骨の味に接したのがこの店で、衝撃的に美味しかったのは記憶に新しい。

今回は、ニラもやしラーメンです。

大量の・・・って、たぶん普通にスーパーで売っているもやし一袋分はあると思いますが、ニラ入りもやし炒めがのっかっている。

これだけでもご飯二膳くらい行けちゃう感じなんですが、チャーシューなどの肉は無しですから、どうしてもと思う方は追加のトッピングで選択。

今じゃ麺の難さやスープの油の量をリクエストできる店は珍しくなくなりましたが、自分が知る限り横濱家がその最初の店。しかも、このニラもやしは、スープの味を醤油と塩の二種類から選べます。

でもって、塩にしてみました。

ずずず・・・っとまず、スープを味わってみると・・・あー、なるほど。そういうことね。

横濱家のスタンダードの醤油豚骨味から単純に醤油をマイナスした感じ。白く濁る、博多系の豚骨のだしとはだいぶ違います。

悪くはないんですけど、比較的あっさりとして、もしかしたら物足りないと感じる人もいるかもしれませんね。自分的には嫌いではありませんが。

2017年12月5日火曜日

紅葉から落葉


紅葉には1日の気温の高低さが大きくなることが重要ですから、夜間に気温が下がりやすい高地等が紅葉が早くに訪れ、なおかつ見事です。

何しろ「秋の夕日に照る山紅葉」と歌われるくらいですから、代表的な秋の景色ということになります。

都会のあたりでは、紅葉は秋というよりは初冬の風物で、例年は今頃が一番見頃であるのが普通。

・・・ですが、どうも今年は11月が寒い日が多かったせいか、中途半端に色づく樹々が先行してしまい、あまりまとまって美しさを感じられなかったように思います。

紅葉するのは葉の中にアントシアニンが蓄積されるからで、これは来年の春に新しい芽を出すための植物の大事な仕組みであり、落葉する前の儀式みたいなもの。

早くにまばらな紅葉が始まった今年は、落葉も早くから始まったようで、本格的に色づいたところも、ボリューム不足は否めません。

暦を意識するようになり、またカメラをいつも持ち歩くようになったこの数年は、季節の変化にはかなり注意が向くようになったためか、今年の「里の紅葉」はけっこう残念な感じです。

2017年12月4日月曜日

古語拾遺 ~ 広成さんのぼやき


昔々、まだ文字が無かった頃は、身分の高低や年寄り・若者の区別なく、すべての人が古い時代の話を語り継いで、誰もそれを忘れることはありませんでした。

文字が使われるようになってからは、口頭伝承をしなくなり、表面的に飾り立てる文章がもてはやされるようになり、昔のことを語る老人(やその内容)を嘲笑うようになりました。今では、人々の興味は新しいものばかりに走り、昔から伝わることなど忘れ去られています。

・・・というのは、自分が言っているわけではなく、斎部広成(いんべのひろなり)さんの意見。広成さんは80歳を超えたご老人で、今のご時世をひどく憂いて嘆いています。

そこで、これだけは後世にも遺しておきたいことを、書きとどめた文章の始まりがこういうことだったというわけ。広成老人が、これを書いたのは大同2年・・・って、西暦807年のこと。

これは「古語拾遺(こごしゅうい)」と呼ぶもので、日本古代史に関連した重要な古文書の一つとして記紀を勉強して行く上で欠かすことができない資料の一つです。

第50代の桓武天皇が806年に亡くなり、第51代の平城天皇が即位した時に、朝廷祭祀に関しての意見を斎部広成に求めたことに対する返信として漢文で書かれました。

古事記・日本書紀が成立してから、すでに100年近くが経過していて、藤原一族の中臣氏の圧倒的な力の前に、もともと祭祀の重要な役割を分担してきた斎部氏(忌部氏)は徐々に隅に追いやられている状況でした。

そこで氏族の長老であった広成翁は、主として日本書紀の記述を踏まえ数々の不満をぶちまけて、祭祀の役職を担当する正当な権利を主張するという、ある意味痛快な一巻を記したというわけです。

この始まりの文は、そのまま現代にも通用される内容で、年寄りの繰り言、ただのぼやきと言ってしまえばそれまでですが、昔からの言い伝えの重要性は忘れてはいけないということを強調しています。

前半は、記紀により伝わる神代の概略を説明し、いろいろな氏族の祖神を明らかにしていきます。斎部氏は天太玉命(アメノフトダマノミコト、記紀では布刀玉命あるいは太玉命)を始まりとし、天岩戸事件の解決や天孫降臨に関わり、中臣氏の祖先である天児屋命(アメノコヤネノミコト)と伴に、ニニギの最初のお伴の五柱神に選ばれています。

後半では、主として伊勢神宮における朝廷祭祀の役どころの由来を列挙し、平安の世における問題点11項目を列挙しています。これらの文の中から、記紀だけでは見えてこない、つまり記紀編纂時は採用されなかった伝承の一部が見え隠れしてきます。例えば、記紀では天孫降臨以後、ヤマトタケルの東征で急に伊勢神宮から草薙剣が再登場しますが、何故伊勢に剣があったのかの理由は古語拾遺で明らかになります。

広成はあとがきで、「神代の伝説は荒唐無稽でそのまま信じることはできないが、現在行われている行事などの起源として無視はできない」、そして「昔からの伝承をないがしろにすると、未来の人々は現代(平安時代)を、自分たちが古代を見るような気持ちで見ることになる」と、非常に率直な気持ちを語っています。

もっとも、広成は、記紀を含め文字に記録されたことが、様々な思惑が入り込んで真実を伝えていないことを批判したように、古語拾遺も斎部氏の重要性を強調するあまりに、同様の思い込みがあることは否定できません。

とにかく、広成さんはとても素直ないい人で、正直、勤勉な人生を送ってきた方なんだろうと思います。だんだん肩身の狭い地位に追いやられていく状況に我慢を我慢を重ねてきましたが、天皇より許可が出て、ついに胸の内に長年貯めていたもやもやを一気に爆発させてしまったんだろうなと思います。

2017年12月3日日曜日

キリスト教徒じゃないけど待降節


キリスト教の1年は、今日から始まります。

キリストの誕生を願って、静かに4回の日曜日をじっと待ちます。この期間は待降節 (advent) と呼ばれます。

想像してみましょう。

しんしんと降る雪の夜に、暖炉にはわずかな薪から小さな炎が立ち上がっています。

テーブルの1本ロウソクの灯のもと、静かに家族が身を寄せ合って・・・

キリストが無事に誕生し、世界に光が射すことを静かに祈っている・・・

・・・なんてね。

少なくとも、ツリーを飾り立て、ライトアップで喜んでいる場合じゃない。

ヨハン・セバスティアン・バッハは、ライプツィヒの聖トーマス教会で、毎週日曜日に礼拝のための音楽を演奏していました。

でも、待降節は別。原則として音楽は禁止。毎週、超忙しいバッハもこの期間は、少しだけ息が抜ける・・・わけがない。

だって、クリスマスが来たら、そこから新年まで怒涛の礼拝が続くので、待降節の間にバッハは大量の音楽を用意しておかないといけない。

お気の毒です。せっかくですから、バッハのご苦労の賜物、教会カンタータを1年を通して聴いてみるのもいいと思いますよ。今なら間に合います。

2017年12月2日土曜日

日本書記の研究史 (超大掴み)


日本書紀の研究は、成立後から比較的断続的に行われていたようです。その流れを、ごくごく簡単に・・・というか、ほとんど5秒間スポットCM的にまとめておきます。 

日本書紀は、平安時代までは朝廷内で広く読まれ、関係者は国の成り立ちと漢詩を勉強する教科書として、講義を受けていました。紫式部も、時の皇后の先生役をしていたそうです。

鎌倉時代になると、神事の祭祀を行う役職に会った卜部(うらべ)氏が、主として日本書紀の研究を一手に行うようになり、現在も卜部系本と呼ばれるいくつかの写本が日本書紀の定本として利用されています。

また、いろいろな注釈本も出ていて、中には神仏習合の影響により寺の僧侶たちによる写本・研究も登場するようになり、神道の原典として重要性が増していきます。ですから、この時期から、主として重視されたのは神代の二巻と神武天皇の巻でした、

元禄時代になり国学が台頭してくると、次第にそれまでほとんど忘れられていた古事記を見直す動きがでてきます。そのリーダーたる本居宣長は、漢文の日本書紀は、日本語から外国語に翻訳されたもので内容が変化していると考えました。

ここから、ほとんど忘れられていた古事記が復権し、江戸時代は日本書紀の方が肩身の狭い思いをさせられたようです。

近世になり、本初期の皇室の基礎として再度重視されるようになり、いわゆる紀元節に代表される日本書紀の内容を、愛国教育の一環として神聖視して広めるようになりました。

大正になり早稲田大学の津田左右吉による、天皇支配の正当化のための創作・脚色であるという記紀批判は画期的なものでしたが、当然皇室を侮辱したものとして不敬罪に問われることになります。

終戦後は、それまでの反動もあり津田学説は大いに歓迎され、戦後古代史の歴史学的な規範として最重要視されるようになりました。その結果、天皇家の「万世一系」に疑問が投げかけられたり、神武~欠史八代のような天皇の存在が疑われような学説も登場し、現在でも通説として認められている所です。

現代では、逆にそれらを批判する勢力も数多くあり、考古学的な発見により、記紀の記載の正しさが証明される事例も少なからずあります。いずれにしても、何しろ古代のことは、ほとんどが事実であると確認不可能で、推論の域を脱するものは稀です。

さらに主観のみであまりに想像の世界だけの話、精神論的な話、さらには独特な宗教観に基ずく話などが、たくさんの怪しげな説が混在して語られているというのが現状です。

素人からすると、大変に混沌とした状況になっていると言えます。とにかく、少しでも客観性の高い論説を見極めないと、何が何だかわからないことになりますね。

2017年12月1日金曜日

日本書紀の成立


そもそも、日本書紀って何? という基本的な話。

一言で言うなら、神代から第41代の持統天皇までの歴史を、国家事業としてまとめたものです。一般的に言われているのは、古事記は比較的物語風の国内向けに大和言葉を漢字で表記したもので、日本書紀は日本の正史として外国に向け本格的な漢文体で書かれたもの。

「記「は書き記したものということで、伝承などをそのまま記録したもの。「紀」は物事の流れやきまりに則って書かれたもので、順序だてて正確に書かれたものということ。

推古天皇の時代の西暦620年、聖徳太子と蘇我馬子が「天皇記」と「国記」を編纂していますが、中臣鎌足らによるクーデター、乙巳(おっし)の変の時に焼失してしまいました。

その後、天武天皇は古事記と日本書紀の編纂を指令したとされていて、数十年のかかって712年に古事記全三巻が、720年に日本書紀全三十巻が完成し、もともとのタイトルは「日本紀(やまとふみ)」だったと考えられています。

完成した年は、古事記は序に書かれた日付から推察されるもので、いろいろと諸説がありますが、日本書紀にはどこにも完成年は書かれていません。しかし、続編にあたる「続日本紀」の720年の部分に、天武天皇の皇子である舎人親王(とねりのみこ)が編集長として元正天皇に呈上したと書かれていることで確定しています。

内容的には、古事記と共通の部分が多く、天地開闢以来の神代の時代から始まり、各天皇紀をそれぞれ章立てているわけですが、神話部分については天皇へと直接つながってくる部分が詳しく、古事記では魅力的な出雲関連の話などはかなりはしょっています。

何年何月にだけが何をした、というような淡々とした文章(編年体)が並び、また、国内・国外の他の文献からの参照・引用もかなりあって、より正確性を重視する姿勢がうかがえますが、当然その分、記録としての特徴が表に出ていて文学的な面白さは少ないと言わざるをえない。

また年代順に書かれたわけではなく、いろいろな部分が同時進行あるいは、逆時系列で書かれたと考えられていて、また実際の執筆も漢文ネイティブの帰化人だったり、漢文が得意な日本人だったりと複数の人がかかわったようです。

江戸時代までほとんど話題にならなかった古事記と違って、日本書紀は完成後は宮中行事として、日本書紀の講義が何度か行われました。また写本もたくさん作られ、現存する最も古い写本で14世紀の古事記よりも、さらに古く奈良時代までさかのぼります。だからなのか、神学、国学として重要視されるようになります。

現代においても、いろいろな謎を解こうとする解説本はいろいろとありますが、一般向けはだいたい古事記との相違点などが中心です。日本書紀単独の本は少なくて、詳しく知りたいと思うとけっこう苦労します。もっとも、古事記よりも全体の量がすごいですから、簡単に一冊でというのはなかなか難しいんでしょうね。