2017年12月23日土曜日

日本書紀 (3) 史上初の女性天皇


欽明天皇のこどもたちは、順次即位をしていますが、第二女で美人聡明と言われていた額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)は、18歳で異母兄の敏達天皇の皇后となりました。

敏達・用明・崇峻とばたばたと亡くなったため、39歳の時に群臣に請われて第33代天皇に即位し、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)天皇となり、後に推古(すいこ)天皇と呼ばれるようになります。

過去に女性としては、夫の仲哀天皇亡き後に辣腕を振るった神功皇后や、清寧天皇崩御後に皇位継承者が見つからず飯豊青皇女が短期政権をまかされたという記事がありますが、天皇のカウントには含まれていません。推古天皇は、正式に天皇と呼ばれる日本史上初の女帝です。

もちろん、人がいないから急に天皇になったというわけではなく、敏達皇后として10年ほど天皇の実務に接する機会があり、用明・崇峻天皇の記述の中にもちょこちょこ登場し、ある程度の権力を維持していたことがうかがえます。何しろ叔父が実権を掌握していた蘇我馬子ですし、また「群臣に請われて」ということは、朝廷内での信頼もあったということです。

即位元年に、用明天皇の厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を皇太子とし、摂政に任命しました。この人こそ昭和の一万円札で有名な聖徳太子です。

ですから、推古朝の記述は聖徳太子の実績のように考えがちですが、推古天皇自身の考えが基盤にあることは明らかです。実際、蘇我馬子のわがままに対して、「あなたは叔父ですが、言いなりにしていたら後世の人に笑われる」と牽制したりして、朝廷内の力関係の舵取りをしていました。

推古天皇・聖徳太子の二人三脚により、神道に配慮しつつ仏教拡大政策がとられ、朝廷内の厳格な順列である冠位を定め、朝廷内の規律を定めた十七条憲法を作っています。

また、小野妹子(おののいもこ)で有名な遣隋使の派遣、朝鮮情勢に応じた派兵を行い、聖徳太子と馬子による史書「天皇記」、「国記」の編纂を行いました。

聖徳太子に先立たれ、推古天皇は75歳で亡くなりますが、凶作により人民が飢えているため新たな墓を作るなという遺言により、敏達天皇との間にもうけた我が子の墓に埋葬されました。

亡くなる前に、敏達天皇の孫、田村皇子(たむらのみこ)には「天皇の位が相手はならないので、準備しておくように。ただし、その時まで口外しないこと」と伝え、聖徳太子の息子、山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)には「まだあなたは幼いので、周囲の話をよく聞くように」と諭しています。

実際、亡くなった後、皇位継承問題が表面化。朝廷は田村皇子を推す蘇我馬子のこどもである蝦夷(えみし)と、山背大兄皇子を推す境部摩理勢臣(さかいべのまりせのおみ)との間で真っ二つに分かれてしまいます。境部は力づくで山背大兄皇子を立てようとしましたが、山背大兄皇子は無理を通し天下を乱すべきではないと引き下がります。

田村皇子は第34代の舒明(じょめい)天皇に即位しましたが、ほとんどが即位までのごたごたの記述で、実績については遣唐使の派遣くらいで、あとは災害が多かったことくらい。亡くなった後は、皇后が2番目の女帝として即位することになります。