2022年10月31日月曜日

俳句の勉強 56 形容動詞のいろいろ

物の性質や状態を表す品詞には形容詞と形容動詞があります。どちらも活用がある自立語です。

両者は何が違うの? と疑問がわくわけですが、その違いは終わり方にあります。形容詞の言い切りは「い」、形容動詞の言い切りは「だ」、「です」で終わる。文語の場合には、「なり」または「たり」で終わることができます。

口語の活用は、
未然形 「だろ(う)」
連用形 「だっ(た)」、「で(ある)」、「に(なる)」
終止形 「だ」、あるいは「です」
連体形 「な(こと)」
仮定形 「なら(ば)」
命令形 ありません

例えば「穏やか」の場合は、「穏やかだろう」、「穏やかだった」、「穏やかだ」、「穏やかなこと」、「穏やかならば」と変化します。

文語のナリ活用となると、
未然形 「なら(ず)」
連用形 「なり(けり)」、あるいは「に(なる)」
終止形 「なり」
連体形 「なる(こと)」
已然形 「なれ(ども)」
命令形 「なれ」

「穏やか」の場合は、「穏やかならず」、「穏やかなりけり」、「穏やかなり」、「穏やかなること」、「穏やかなれども」、「穏やかなれ」と活用します。もともとは「穏やかに」+「あり」=「穏やかなり」なので、ラ変動詞の「あり」に準じた活用をします。

一方、漢語表現の形容動詞の場合は、タリ活用になります。漢語表現の形容動詞は、口語では「~としている」というような使い方をしています。

未然形 「たら(ず)」
連用形 「たり(けり)」、あるいは「と(なる)」
終止形 「たり」
連体形 「たる(こと)」
已然形 「たれ(ども)」
命令形 「たれ」

例えば「堂々たり」の場合は、「堂々たらず」、「堂々たりけれ」、「堂々たり」、「堂々たること」、「堂々たれども」、「堂々たれ」です。

さらに混乱するのは、指定・断定の助動詞「なり」、完了・接続の助動詞として「たり」があるので・・・ちなみに直前に「たいへん」をつけて意味が通るなら形容動詞と判断して間違いないということになっています。


例によって、ふぅ~ん、となったところで例句を探してみます。

白百合や蛇逃げて山静かなり 正岡子規

蛇逃げて山静かなり百合の花 正岡子規

どちらも子規の句で、自ら推敲した例です。いずれも夏の季語「百合」が使われています。形容動詞としては「静か」を含んでいて、静かになるのはどちらも「山」です。前者は、上句を「や」で詠嘆して切っています。最後に終止形の「静かなり」で、「静かになった」と言い切って終わる感じ。

後者は順序を入れ替えて、季語を最後に持ってきたため、「静かなり」が中句に入っています。「静かになった、あっ、百合の花がある」という感じになって「静かなり」は終止形で、ここに切れがあることになります。でも、連用形の「静かなり」の可能性は・・・無いです。連用形は用言につながるもので、この場合は次に来るのは名詞(体言)です。

藁塚の茫々たりや伊賀に入る 西東三鬼

江の島に茫々として芒かな 河東碧梧桐

「茫々」は果てしなく広がっているという意味で、タリ活用する形容動詞です。三鬼の句は、終止形「茫々たり」に間投助詞「や」を接続して字数を合わせた使い方でしょうか。タリ活用の例はなかなか探すのが難しく、たいていは碧梧桐の句のように「~と(して)」という口語的な使用法です。「漢語+たり」は全体が堅苦しくなりすぎるため、避ける傾向があるのかもしれません。

2022年10月30日日曜日

マー油


見ての通り、ごく普通の豚骨ラーメンです。

3玉、190円の安い生ラーメンの袋と、一食分100円の別売り豚骨スープを使いました。

トッピングは、もやし、メンマ、長ネギ、紅ショウガです。

さて、問題は・・・マー油です。今回の主役は、マー油なのです。

焦がしニンニク油とも言われているマー油は、豚骨ラーメン、特に熊本ラーメンなどでは旨さの必須のアイテム。これが有るか無いかで、ほとんど別物と言っていいくらい風味に違いが出てきます。

ところが、市販のラーメンに付属してくる場合は、量が少なくて物足りない。かと言って、マー油自体は売っていません。

じゃあ、作ればいいじゃん、ということで今回は自作しました。

本当はラード(豚の油)だけで作れば一番いいんでしょうが、今回は手元に無いのでごま油で作りました。

ごま油 100mlくらい。サラダ油でも可。
にんにく 大きめ3片。
豚バラ肉 ほとんど油のところを適当量。
長ネギ 10cmくらい。

ニンニクはうすくスライスして、長ネギは細かくみじんぎりにします。豚バラ肉はラードのかわりですが、これもみじん切りにします。多少の肉の部分き気にしません。

ごま油は色の濃いものだと香りが強いので、できれば白ごまの薄い色の物がよろしいかと。油をフライパンで熱っしたら、材料を全部入れます。火力にもよりますが、20~30分できつね色になって来るので、1/3程度を取り出しておきます。

さらに数分加熱を続けると、さらに茶色くなりますので、また1/3を取り出す。残りは真っ黒に炭化するまでしっかり焦がします。全部焦がすと苦味だけで風味が落ちるので、こんな風に分割して火を通すのがポイント。

粗熱が取れたら、全部を混ぜ合わせてブレンダーでしっかりとペースト状になるまで攪拌したら出来上がりです。これでラーメン10~15杯分という感じです。

いやぁ~、これだよ、これ。焦がしニンニクの香りが旨さを倍増させてくれます。1食200円程度のオウチラーメンが、少なくとも800円くらいには格上げされます。

2022年10月29日土曜日

俳句の勉強 55 立冬で八苦


初冬の時候を表す季語、「立冬」について基礎知識を仕込んだところで、早速、俳句の実作に挑んでみます。

立冬で連想する事は・・・ここから暦の上では冬になるわけですが、まだ秋が深まった頃で、真冬のイメージではありません。とりあえず、日常では衣替えをするというのが一般的。

立冬に楠匂う箪笥かな

衣替えをするために箪笥をあけたら、防虫剤の匂いがしたということ。今でも楠の天然成分の防虫剤がありますが、昭和の頃に一番よく使われたのがパラゾールという商品。楠に含まれる樟脳が含まれていました。匂いが苦手という人は多かったと思います。

立冬の箪笥楠香り立つ

「立冬に」とするのか「立冬の」とするのかで印象が変わります。「立冬に」とするとその後が主役になってしまう感じがするので、「立冬の」で始めた方が良さそうに思いました。また、「匂う」というのも風情がないので「香り」の方がいいかもしれません。「立つ」を繰り返すのも強調されていいかもしれません。

自販機の赤いボタンに冬立ちぬ

飲料水の自販機の中身がホットに入れ替えられる頃で、商品のボタンが赤くなる。色が変わると冬になったなぁと思いませんか。どうも、いずれも小さくまとまっていて、いよいよ冬だという大きな季節の変わり目には相応しくないかもしれません。

立冬は吐く息白くなりにけり

立冬に上着一枚新調す

立冬や旬の食べ物皆季語

もう、やけくそみたいな句ばかり。そもそも冬来るで思いつく物が限られているせいで、どれも類想・類句であることは間違いない。立冬が来ると・・・そうそう、幼いこどもがいる家庭では、七五三がいよいよ来週に迫って来ます。親としては晴れ着で着飾ってあげて、すくすくと成長してもらいたいと願うものです。

冬立ちぬ衣桁にかけた紅三つ身

衣桁(いこう)は着物をかける道具。三つ身は小さなこども用に作った着物のこと。立冬になったので、用意した真っ赤な着物を衣桁にかけて心待ちにするという感じです。でも、何か「冬立ちぬ」が弱い感じで、「三つ身」が主役っぽい。

紅三つ身飾る衣桁に冬立ちぬ

これでどうでしょうか。「冬立ちぬ」が主役になって、着物を飾ったことで冬の到来、来週の七五三が間近になったことを感じているという具合です。

今回は主役が何かを意識してみたのですが、何が主役なのかは、省略された部分を補填してみると主語と述語がわかりやすい。前者は「冬が立ったので、衣桁にかけた紅三つ身が待ち遠しい」となり主語は「紅三つ身」です。後者は「紅三つ身を飾る衣桁に、冬が立った」ですから主語は「冬」ということ・・・になると思いません?

2022年10月28日金曜日

俳句の勉強 54 立冬で四苦


もうじき「立冬」です。立冬とは、暦の上では、ここから冬ですよということ。とは言っても、実際は秋の極みみたいなところで、冬という印象にはまだ遠いところです。

俳句でも、初冬の季語になっていて、傍題としては「冬立つ」、「冬に入る」、「冬来る」、「今朝の冬」などが使われます。

今回は兼題「立冬」で俳句を考えるのですが、「りっとう」という言葉の語感がややきつい感じがするので、なかなか難しそうです。また「立冬」だけで4文字使ってしまうので、上句・下句に使う場合は、あとは助詞くらいしか付けようがない。

となると、上句なら「立冬や」とか「立冬の」、あるいは「立冬に」で始まるパターンが考えられます。下句だと「立冬よ」、あるいは余韻を残して言い切らずに終わるというのもあります。五七五の定型にこだわらなければ、もう少し自由になりますが、それはそれで難しい。

また、立冬というのは、ある種の空気感は持っている言葉ですが、明確な映像は持たないので、季語以外にしっかりとイメージをもたせないとふんわりした中身の薄いものになってしまいます。

傍題の「冬立つ」あるいは文語調の「冬立ちぬ」は、語感の柔らかさもあり使いやすいように思います。しばしば悩むのは、「立ちぬ」という言葉が「立った」のか「立たない」のかということ。

「立ち」は動詞「立つ」の連用形で、「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形なので、「立つ」動きが完了したことになります。ただし、打消しの助動詞「ぬ」というのもあるので、わかりにくいところです。ルールとしては已然形(未然形)に接続した場合は打消し、連用形に接続した場合は完了となっています。つまり打消しは「立たぬ」になるということ。

とにかく、まずは名句と呼ばれるものを鑑賞します。

菊の香りや月夜ながらに冬に入る 正岡子規

立冬の時は、仲秋の名月の次の次の満月なんです。「菊」、「月夜」と秋の季語の季重なりでたたみかけておいて、「ながら(・・・なんだけども)」としてやっぱり立冬なんだよね。という季違いでオチを付けるというのは子規だからこそです。

風ひびき立冬の不二痩せて立つ 水原秋櫻子

この池の浮葉の数や冬に入る 高野素十

ライバル的な存在だった秋櫻子と素十ですが、やや理屈っぽい秋櫻子に対して、素十は素直な情景描写で対照的と言えるかもしれません。

句を作るこころ戻りぬ冬立ちぬ 日野草城

あらためて俳句を作ってみようと思ったった立冬の日ということ。いろいろあった人なので、思うところがあるんでしょうか。

やはり映像をもたない季語の場合は、句作りも難しい印象です。花鳥諷詠を志す場合は、季語以外で自然の美しさを写生して作りこむ必要があるので、なおさら大変なのかもしれません。

2022年10月27日木曜日

でかっ、かるっ 2

まさか、このタイトルに短期間で続編が来るとは・・・

いやいや、一体簡易包装が進んできたはずの業界に、いったい何が起こっているのか。何か心配になってきた。

資源は有限。これ、間違いない。

今回のはこれ。


えっ? こんな大きな物を買った覚えはないけど・・・と思いながら開けてみたら、箱の中は、ほぼ緩衝材。大きさをわかりやすくするため、定規を置いてみた・・・わけじゃありません。

箱から出てきたのはこの定規。しかも、一番下に埋もれていたので、緩衝材の効果はほぼ無いんじゃないかと・・・

つまるところ、定規を買ったら、何とこんなでかい箱に入って送られてきましたということ。

この定規なら100本、いや数百本は入るでしょう。

どうなんでしょうかねぇ~

2022年10月26日水曜日

俳句の鑑賞 35 西東三鬼


西東三鬼(さいとうさんき)、本名、斎藤敬直(さいとうけいちょく)は、明治33年(1900年)に岡山県津山市に生まれました。直接的な「ホトトギス」との関りが無く、戦前の新興俳句の中心俳人として活躍しました。

代々教育者の家柄で、地元の中学に入学しますが、18歳の時に東京に出て青山学院中等部に編入、21歳で日本歯科医科専門学校(現日本歯科大学)に入学しました。中学校以来、女性にはかなりもてたようで早熟でしたが、大学でも乗馬、ダンスなどに長じたモダンな学生であったようです。

大正14年に卒業し、シンガポールに渡航して歯科医院を25歳で開業しています。大いに南国を満喫していましたが、日本の覇権問題や自身のチフス罹患などにより3年で帰国、大森に医院を開業。昭和7年、医院は閉じて埼玉県朝霞綜合診療所歯科部長に就任、翌年、神田の共立病院以下部長となり、患者からの誘いで俳句を始めました。

風邪の子の熱く小さき手足はも 三鬼

ひそかなるあしたの雨に囀れる 三鬼

最初は「走馬燈」へのごく初期の投句で、選者は日野草城でした。次は「馬酔木」への投句したもの。創刊されたばかりの新興俳句系の「走馬燈」、「天の川」に以外にも、「ホトトギス」や「馬酔木」にも投句しており、師系にこだわらず句作にかなり熱中していようで、昭和10年には自ら同人誌「扉」を創刊するとともに京大俳句にも参加しました。

ガブリエル天使か北風に喇叭吹く 三鬼

氷下魚釣るあなた馬橇の影ゆくに 三鬼

水枕ガバリと寒い海がある 三鬼

昭和13年、脊椎カリエスで危篤となるも回復し、これを機に歯科医を廃業し、無季俳句に没頭しまが、昭和15年、いわゆる新興俳句運動弾圧のための「京大俳句事件」で特高に検挙され4か月間の留置生活を送ることになります。

右の眼に大河左の眼に騎兵 三鬼

砲音に鳥獣魚介冷え曇る 三鬼

積極的な反戦思想を表しているわけではありませんが、一般的な有季定型に対抗するかのような無季俳句で、戦争をイメージさせる俳句は権力の格好の餌食となったのでした。

終戦後は、石田波郷らと現代俳句協会を設立し、山口誓子の「天狼」の編集なども行いました。昭和27年、主宰誌「断崖」を創刊、昭和31年、角川書店の雑誌「俳句」の編集長などを経験。昭和36年、胃癌を発症し、翌年4月1日、62歳で亡くなりました。

中年や遠くみのれる夜の桃 三鬼

中年や独語おどろく冬の坂 三鬼

倒れたる案山子の顔の上に天 三鬼

妻子を東京おいて、神戸で愛人との間に子をもうけていますし、細かい履歴を見ると、いろいろなことに手を出して目まぐるしい人生を送ったような印象があります。これは、もともとの生業とした歯科医についても同じで、あまり腰を据えて仕事をしたようには思えません。

しかし、あちこちに手を出していろいろなことを吸収する力はすさまじく、少なくも比較的短期間に俳人としての成長を遂げているところは目を見張るものがあります。独特のユーモアを型にとらわれずに詠み、ふざけているようで実は悲しみをたたえるような、ピエロの持つ「ペーソス」という感情に近いような感じの句が多いように思います。

山本健吉は「他の新興俳句作家のように、伝統俳句に対する嫌悪感は三鬼には無い。俳諧への好奇心から新興俳句に入った唯一の俳人だった」と評しています。

2022年10月25日火曜日

俳句の鑑賞 34 日野草城


日野草城(そうじょう)、本名、克修(よしのぶ)は明治34年(1901年)、東京の下谷に生まれました。俳句の絶対王国となった「ホトトギス」から抹消された最初の俳人です。

4歳の時、父親の仕事の関係で韓国に渡ります。短歌・俳句好きだった父親の影響で、中学の頃から短歌・短文などを投稿するようになりました。16歳のときに、たまたま出席した句会での高評価によって俳句も始め、「ホトトギス」へも投句するようになりました。

17歳で京都に出て旧制第三高等学校に入学、仲間と句会を始め、これが京大三高句会へ発展します。20歳で京都大学進学、「ホトトギス」巻頭にも選ばれるようになりました。大正13年、23歳で大学を卒業した草城は、保険会社に就職し、昭和2年、最初の句集を刊行し、高濱虚子の期待を込めた序文を貰っています。しかし、すでに客観写生・花鳥諷詠の理念とはすでに相容れない草城独自の世界が垣間見えます。

春の灯や女は持たぬのどぼとけ 草城

新涼や女に習ふマンドリン 草城

句集は、主として学生時代に詠まれた句の集大成ですが、主観的な想像を駆使して恋愛や風俗的な事柄を俳句に仕立てるものが多く、「ホトトギス」の中では異色の存在であっただろうことが容易に想像できます。

昭和4年、「ホトトギス」同人となり、俳人として順調に成長したかに見えましたが、昭和9年、「俳句研究」に発表された連作「ミヤコホテル」が大きな波紋を起こし、「ミヤコホテル論争」と呼ばれるようになる俳壇全体の議論を引き起こしました。

けふよりの妻と泊るや宵の春 草城

春の宵なほをとめなる妻と居り 草城

薔薇匂ふはじめての夜のしらみつゝ 草城

「ミヤコホテル」は、全10句からなる新婚初夜を詠んだフィクションで、現代の感覚では驚くほどのものではありません。しかし、当時としては花鳥諷詠の俳句の世界とは対極にあるようなエロティシズムが漂い、小説家・室生犀星は絶賛し、「ホトトギス」の仲間である中村草田男は激烈な非難を表明しました。

俳誌だけの発表ならばなんとか穏便に済むところを、新興俳句にも関わるようになり句集に「ミヤコホテル」をおさめてしまったため虚子の逆鱗に触れ、昭和11年「ホトトギス」からの除名となってしまいます。この時、同時に除名されたのが杉田久女で、久女は草城のような公に虚子に「敵対」する事案が無かったため、より本人のショックが大きかったと言われています。

日本の軍国主義が濃厚になるにつれ、草城の周囲にも暗雲が垂れ込むようになり、昭和17年までにほぼ俳壇から姿を消すことになります。しかし終戦とともに、再び俳句作りを再開したものの、昭和21年1月に肺炎を発病し、以後ほとんど妻の献身的な介護の元、病床で過ごす生活が続くことになります。

生きるとは死なぬことにてつゆけしや 草城

菊見事死ぬときはできるだけ楽に 草城

見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く 草城

そこには、かつてのモダニズムの先鋒を切り開くような鋭さはありません。昭和31年、虚子は草城を赦し再び「ホトトギス」同人に向かい入れ、草城宅へ見舞いに訪れました。

先生はふるさとの山風薫る 草城

昭和31年1月26日、病状が悪化。

風立ちぬ深き睡りの息づかひ 草城

思ふこと多ければ咳しげく出づ 草城

一点が懐炉で熱し季節風 草城

何とか遺作となった三句を作り、1月29日、55歳で亡くなりました。飯田蛇笏らの時代からいわゆるホトトギス四Sが活躍するまでの間、「ホトトギス」の沈滞期を支えた重要な俳人であり、俳句の世界に新しい感性を導き入れた功績にも関わらず、必ずしもそれに見合った処遇を受けることが無かったと言えます。

山本健吉は「大正期なかば以後は、虚子の舵取り方が、無個性で平凡な客観写生句の時代を作った。その古風な沈滞を破った第一声が草城の出現である」とし、初期作風を「在来のようなくすんだ境地に沈むことなく明るく軽快」、そして晩年は「十七文字に一種不思議な真実の感情だけが詠まれる」と評しています。

2022年10月24日月曜日

俳句の勉強 53 形容詞のいろいろ

形容詞とは・・・辞書的には「活用のある自立語で、文中において単独で述語になることができ、事物の性質や状態などを表す語」という説明。もうこれだけで心が折れそうになるんですが、またまたお約束のガマンをして、もう少し理解を深めたいと思います。

ただし俳句の場合は、形容詞は主観的表現になりやすいため、使い方には注意が必要です。「美しい」という形容詞を使う場合、それを他人は美しいと思わないかもしれません。自分が美しいと思った状況を、具体的に「満開の桜」のように表現することが推奨されます。

口語の場合は、活用の仕方は一種類。
未然形「かろ(う)」
連用形「く(なる)」または「かっ(た)」
終止形「い」
連体形「い(こと)」
仮定形「けれ(ば)」
命令形は無しです。

例えば「美しい」の場合は、「美しかろう」、「美しくなる」または「美しかった」、「美しい」、「美しいこと」、「美しければ」という具合。

言い切る場合は口語では「い」なのに対して、文語では「し」で終わります。さらに文語の場合は、活用法がク活用・シク活用の二種類です。

まず、ク活用。命令形もあります。
未然形「く(は)」または「から(ず)」
連用形「く(なる)」または「かり(けり)」
終止形「し」
連体形「き(こと)」または「かる(べし)」
已然形「けれ(ども)」
命令形「かれ」

例えば、「早し」の場合は、「早くは」または「早からず」、「早くなる」または「早かりけり」、「早し」、「早きこと」または「早かるべし」、「早けれども」、「早かれ」となります。

次に、シク活用。
未然形「しく(は)」または「しから(ず)」
連用形「しく(なる)」または「しかり(けり)」
終止形「し」
連体形「しき(こと)」または「しかる(べし)」
已然形「しけれ(ども)」
命令形「しかれ」

「美し」では、「美しくは」または「美しからず」、「美しくなる」または「美しかりけり」、「美し」、「美しきこと」または「美しかるべし」、「美しけれども」、「美しかれ」となります。終止形が「美しし」ではないことに注意。終止形以外はク活用とシク活用は同じ変化になります。

「または」とした未然形「かる」、連用形「かり」、連体形「かる」は、すぐ後に助動詞に接続する場合に用いられ、特にこの場合をカリ活用と呼ぶ場合があります。

さらに、連用形の「く」が「う」になるウ音便、連体形の「き」が「い」になるイ音便があります。


形容詞をたくさん使って、いい加減な例句を用意してみます。

美しき赤きはなびら寂しかり

上五は「美し」のシク活用連体形、中七の「赤い」は「赤し」のク活用連体形、そして下五の「寂しかり」は「寂し」のシク活用終止形(カリ活用)です。ただし、「~しかり」という使い方はよく見かけるものの、実は文法的に間違い。文末で終止形のはずなので、「寂し」で止めるのが正しい。近代以降の音数を稼ぐための誤用です。多少意味が変わってしまいますが、「寂しけれ」で余韻をもたすと、文法的には正解になります。

美しい花びら赤し寂しけれ

今度は、シク活用連体形イ音便の「美しい」とク活用終止形の「赤し」で、句切れを作って、最後にシク活用已然形の「寂しけれ」で寂しいのかもしれないなぁとまとめた感じになりました。

もっとも、「赤い」は許されるとしても、「美しい」とか「寂しい」とか主観的な表現ですので、まったくダメダメ句です。そもそも季語が入っていませんしね。例句からのイメージを膨らませて、もう少し俳句らしくしましょう。

花筏一片二片流れ去る

季語の「花筏」は、川べりの散り落ちた桜の花びらが、一所に流れ着いて集まった状態で、川面が赤くなって風情があります。その中の一片ずつ、また流れの中に戻って去っていくのが、成長したこどもが巣立っていくような一抹の寂しさを思い起こさせたというところです。

2022年10月23日日曜日

俳句の鑑賞 33 夏目雅子


夏目雅子・・・と言って、女優・夏目雅子を思い出せるのは、間違いなく昭和人。

1957年生まれで、もしも生きていれば夏井いつき先生と同い年の64歳。もしも生きていれば・・・

1977年、カネボウ化粧品のキャンペーン・ガールとして注目され、女優としてもテレビ・ドラマに出演。もっとも名が知れることになったのは、日本テレビの「西遊記(1978)」での三蔵法師役でした。堺正章の孫悟空、岸部シローの沙悟浄、左とん平の猪八戒といったベテランにまざって、スキンヘッドの鬘で奮闘しました。

映画でも「俺の空(1977)」でスクリーン・デヴューすると、「トラック野郎・男一匹桃次郎 (1977)」、「二百三高地(1980)」、「魔性の夏・四谷怪談より(1981)」と立て続けに出演。そして1982年の「鬼龍院花子の生涯(1982)」で仲代達也を向こうに回して主演し、「なめたらいかんぜよ」のドスの利いたセリフは大評判になりました。

その後、渡瀬恒彦と「時代屋の女房(1983)」、緒形拳、倍賞美津子と「魚影の群れ(1983)」、そして「瀬戸内少年野球団(1984)」と順調に主演・助演を重ねていた1985年2月、急性骨髄性白血病を発症します。7か月間の闘病の末、9月11日息を引き取りました。

自分が使用している「カラー版 新日本大歳時記(講談社)」には、例句として有名俳人の句がたくさん収載されていますが、特徴的なことは職業俳人でない人の句もけっこう載せてあることです。驚いたことに、夏目雅子の俳句が3句あります。

夏目雅子は、写真家・浅井慎平が主催していた東京俳句倶楽部に所属し、海童という俳号で残された俳句はわずかに34句だけです。にもかかわらず、それほど長い句歴があるわけではない芸能人の俳句で3句も歳時記に載せる価値があるということは、すごいことだと思います。種田山頭火が好きだったということで、有季定型だけでなく自由律にも挑んでいます。

結婚は夢の続きやひな祭り 海童

季語「雛祭」に掲載。夏井先生のYouTubeチャンネルでも紹介された代表句です。

野蒜摘む老婆の爪のひび割れて 海童

大歳時記「野蒜(のびる)」の項にあります。野蒜はユリ科多年草、若い葉は葱のような味がするらしい。

間断の音無き空に星花火 海童

夏目雅子が自ら創作したと思われる季語「星花火」は、慶応大学病院入院中に神宮の花火大会を詠んだもの。大歳時記では「花火」の例句として収載。

傾けば冬の夜に温 海童

時雨てよ足元が歪むほどに 海童

湯文字乱れし冷奴の白 海童

風鈴よ自分で揺れて踊ってみたまえ 海童

金子兜太は夏目雅子の俳句を「自分が思っていることを映像化する力、イメージする力を持っている。言語感覚が鋭く表現力がある」と賛辞を贈っています。

時雨(しぐれ)は寒くなってきた時期の、負っては止み、止んでは降るにわか雨。「時雨る」という表現はしばしば見かけますが、時雨に人格を与えてお願いするような「時雨てよ」という表現は斬新。

同じように、風鈴は揺れるものと思っていましたが、それを踊ると表現する感性も独自のものですが、なるほどと思わせる説得力があります。

冷奴は白いに決まっているので白を重ねる必要はないと考えるのが俳句の定石ですが、ここでは湯文字(腰巻)乱れるというエロティックなシーンに露出する肌の白さを思わせる女性にしか、いや女優・夏目雅子にしか表現できないであろう絶対的な存在感を感じます。

これらの俳句を知ると、女優として下積みを経験していなかったにも関わらず、急成長してわずか8年に満たない期間を駆け抜け、多くの人の記憶に残った夏目雅子の表現者としての力量の一端を知る思いになりました。

2022年10月22日土曜日

蠅なの? 虻なの?


汚い網戸・・・の話じゃなくて、これって蠅(ハエ)なのか、虻(アブ)なのかっていう話。

ネットを検索してみると・・・

「アブ」とは、ハエ亜目の直縫短角群に属する昆虫の総称。種類によっては人を噛んで血液を吸うものもいる。

「ハエ」とは、ハエ亜目の環縫短角群に属する昆虫の総称。種類によっては人を噛んで血液を吸うものもいる。

う~ん、けっこう違いがわかりにくい。

直縫短角群か環縫短角群かと言われても、どういうこと? っていう感じです。

これは、サナギの段階での話で、アブの場合は殻を破る時に直線的にカパッと割れる、ハエの場合は前方の円形の縫い目が丸く開くんだそうな。

成虫については、何となく細長いからアブかなと思っていましたが、こうなると確信が持てなくなりました。どっちも嬉しくはない虫、という点では一致してますけど・・・


2022年10月21日金曜日

俳句の勉強 52 切れ

俳句でいうところの「切れ」というのは、一句の中を二つ以上に分割することで広がりと情緒をもたらすこと。また、終わりに用いることで独立性を生み出す効果もあり、短詩型の俳句で必須と言われています。

特に詠嘆の意味を持つ「や」、「かな」、「けり」は「切れ」を作る代表的な表現で、これらの明示的な「切れ」を作るものを「切れ字」と呼びます。

切れ字が入ると、読んだときに見えない休符記号が入っているような感じで、一呼吸間を取る感じになります。一般的には、3か所以上に切れを作るのは、ぶつぶつと途切れ途切れになってしまう印象になるので避けることが望ましいとされます。

ところが、これらの切れ字は困ったときの穴埋め的な使われ方が多々あって、自分も「月百区チャレンジ」では、どうにも思いつかないとこれらを乱用しています。結局、必然性が無く切れ字をおいたものは、客観的に見てつまらない句でしかない。

ちょっと本気で作句すると、たったの17文字ですから、無駄な文字をどれだけ排除するかが大事なポイントになります。となると、直接的に表現したい内容を含まない切れ字はあまり使いたくならない。また一般的な切れ字を使うと、文語感が強くなり古めかしくなるのも、ちょっと気が引けてしまうポイントです。

そう思って、最近の自作句をあらためて見直すと、いわゆる名詞で終わる体言止めという切れ方をしているものが多いことに気が付きました。松山市の俳句ポストに当句したものを並べてみます。

夏の海驚き払う飛ぶ海月

夏の海泣く子澄ませば傘の波

原爆忌手を止め未了の「黒い雨」

銀翼にフラッシュバック原爆忌

最初のは、名詞と動詞が並んだだけですが、それぞれで切れていて、三段切れ、数え方によっては四段切れという、やはり素人の作品ですね。次のは、季語の「夏の海」で切れて、最後が体言止めで切れるのですが、「こどもが泣いている」、「耳を澄まして聞いている」、「ビーチパラソルがたくさん並んでいる」と内容が多すぎで整理が必要です。

三番目は中と下を「の」で繋ぎ切れはありませんが、最後は小説名で体言止めです。最後は上と中を「に」で繋いで体言止めして最後に季語が来て切れるパターンです。

こうして声に出して読んでみると、やはり体言止めばかりだと硬い感じですかね。原爆忌のような硬派の季語の場合は悪くはないと思うのですが、夏の海の場合ではちょっと余情が出にくいようです。もっとも素人句であれやこれやと考えてもしょうがないんですけどね。

体言止め以外にも、動詞・形容動詞・形容詞・助動詞の終止形も「切れ」を作ります。となると、逆に切れがない俳句を作ることはほぼ不可能と言ってもいいくらいのもの。なかなか思いつくものではありませんが、切れのない句を無理やり作ってみます。


北風が池の水面をなでたかも


季語は「北風」で名詞です。「冬の空」みたいな5文字の季語だと、どうしてもそれだけで体言止めになってしまいます。切れが無いということは、「、」や「。」といった句読点が入れられないということ。散文調で、なんともダラーっとした感じになってしまいます。

北風が池の水面をなでにけり

「けり」で終わると、「なでているんだなぁ」という詠嘆が表現され、随分と俳句らしくなります。ただし、なでていることが一番強調されてしまう感じです。

北風や池の水面をなでにけり

「北風」に「や」をつけて、「北風が吹くような季節になったなぁ」とすると、切れ字が二つでやや主役が分散してしまう感じがします。

北風や池の水面をなでゆきぬ

「北風」だけに切れ字を使い、終わりは完了の助動詞「ぬ」の終止形の切れを残すと、季語が主役として目立ち、句全体もしまる感じですね。あらためて、切れを効果的に使うことが大事ということが理解できました。

2022年10月20日木曜日

俳句の鑑賞 32 山口青邨


昭和3年9月、「ホトトギス」の子規忌講演会において、高濱虚子らを前にして山口青邨は「どこか実のある話」という講演を行いました。その中で、「東に秋素の二Sあり、西に青誓の二Sあり。少なくとも今日はこの人たちの天下である」と述べました。

このことで、大正末から昭和初期に「ホトトギス」で活躍した水原秋櫻子、高野素十、阿波野青邨、山口誓子の四人を、有名な「四S」とという呼び名で称するようになりました。実に謙虚な物言いだったなと思うのは、同時代を共に共有した山口青邨も「東の青」であり「S」に他ならないからです。

山口青邨(せいそん)、本名、吉郎、秋櫻子と同じ明治25年(1892年)の生まれです。岩手県盛岡市で生まれ、5歳の時に母と死別。明治43年、旧制第二高等学校(現東北大学)へ、そして大正2年、東京帝国大学工学部に入学しました。大正5年に古河鉱業に入社し、足尾鉱山に勤務。この頃より「ホトトギス」購読を始めました。

大正10年、東京帝国大学工学部助教授。大正11年、高濱虚子から工学部に面白い文章を書いて送って来る人物がいるから会ってみたらどうかと言われた水原秋櫻子は、青邨の研究室を訪ねました。これが東大俳句会の始まりでした。しかし、青邨は俳句については素人同然であったので、それが冒頭の「五S」とならない要因だったのかもしれません。

しかし、正岡子規以来脈々と続いていた「山会(山が必ず登場する文章を書く会)」では、俄然早くから文章力の才能を発揮し、虚子も絶賛していました。俳句の方では、昭和4年に「ホトトギス」同人、昭和5年に初の巻頭句を飾ります。

人それぞれ書を読んでゐる良夜かな 青邨

みちのくの町はいぶせき氷柱かな 青邨

これらは、虚子がほめた初期のもの。仲秋の名月の各人過ごし方はいろいろ。文章や俳句の好みも人それぞれというところでしょうか。「みちのくの・・・」が初巻頭句となったもの。「いぶせき」とは心が晴れず、うっとうしい気持ちのこと。生まれ育った岩手の冬の閉塞感を詠っています。

山ざくらまことに白き屏風かな 青邨

人も旅人われも旅人春惜しむ 青邨

昭和5年は盛岡で創刊された「夏草」の雑詠選者にもなり、昭和9年、初の句集を刊行しました。客観写生を中心としながら、独自の表現手法がしだいに確立してきた時期と言えそうです。

昭和12年、ベルリン工科大学に留学し、帰国して昭和14年には教授へと昇進しています。戦時中休刊となっていた「夏草」は昭和23年、青邨によって復刊します。

たんぽゝや長江濁るとこしなへ 青邨

ベルリンへの往路、上海で詠まれたもの。足元に咲いていたタンポポと悠久の流れにある長江とをひとつにまとめあげた代表作です。

舞姫はリラの花よりも濃くにほふ 青邨

ベルリンの様子。森鴎外のドイツ留学を基にした「舞姫」を念頭に置いた句。一斉に咲き出した花の匂いよりも踊り子たちの方が匂いが強かったということ。

昭和28年、大学を定年退職し、名誉教授となります。昭和36年、俳人協会創立にて顧問に就任。昭和63年12月15日、96歳で肺炎のため亡くなりました。その病床で詠まれた、おそらく生涯最後の一句を紹介しておきます。

顔寄せてみな親しき人や汗ばみて 青邨

高い教養を反映させ、科学者として物事を客観視する反面、できるだけ単純に表現する句風と言われ、戦後から平成までの俳壇を牽引した大御所として活躍しました。

2022年10月19日水曜日

俳句の鑑賞 31 阿波野青畝


阿波野青畝(あわのせいほ)は、本名、橋本敏雄、明治32年(1899年)に奈良県に生まれました。11歳の時に母親が病死、県立畝傍中学校で教師をしていた俳人の原田浜人から俳句の手ほどきを受け、大正6年、奈良に来た高濱虚子と初対面し、写生の錬磨をするようアドバイスされ「ホトトギス」への投句を始めました。そして、聴覚障害があった青畝は中学卒業後の進学をあきらめ、18歳で銀行に就職します。


「ホトトギス」にて頭角を現し、大正12年、商家の阿波野家の婿養子となります。大正13年には選者となり活躍するようになりました。昭和4年に、「ホトトギス」同人となると同時に、郷里で創刊された俳句誌「かつらぎ」の選者も引き受けます。昭和6年、第1句集「萬両」を出版します。

なつかしの濁世の雨や涅槃像 青畝

句集の最初の句。「濁世(ぢょくせ)」は仏教用語で、浄土に対する汚れた現世のこと。「涅槃(ねはん)」は煩悩を排して悟りを開くこと。涅槃像と言えば、釈迦が入滅する様子を表す仏像です。大正15年、27歳としてはかなり高い境地にある句です。


葛城の山懐に寝釈迦かな 青畝

昭和2年に生まれた青畝の代表作の一つ。山懐は山と山の間の窪んだ場所のことで、奈良の大和葛城山のふところにおそらく寺があって涅槃像が飾られている、あるいは山々に抱かれるように釈迦の寝姿が見えるようだとする句です。

大空の羽子赤く又青くまた 青畝

昭和8年、妻の貞が病死し阿波野秀と再婚。詳細は不明ですが、阿波野性なので貞の妹かあるいは親類でしょうか。この年の正月に詠まれたこの句は、羽子板がパッと大空に上がって、降りてくる様子です。耳が不自由な青畝は、赤く見えたり青く見えたりするする視覚情報を切り取ることに長けていると言えます。

昭和20年、「かつらぎ」は休刊を余儀なくされ、今度は秀とも死に別れます。また空襲により家を焼失し、西宮市甲子園に転居。終戦を迎え、「かつらぎ」を復刊し、田代といと再々婚しました。昭和22年、(亡くなった秀の遺志から)カトリックに入信し洗礼を受けます。

ミサの鐘すでに朝寝の巷より 青畝

ミサが始まる5分前に鐘が鳴り「響く」のだそうで、カトリックに入信していなければ朝寝をむさぼっていたということ。仏教からキリスト教への大転換は、さぞかし大変なことだったのかもしれません。昭和26年に虚子が「ホトトギス」雑詠選から退いたため、青畝は「ホトトギス」への投句をやめ、平成4年12月22日、93歳で亡くなるまで「かつらぎ」を中心に活躍しました。

天が下方のきすげは我をつつむ 青畝

高原に数えきれないほど作誇る黄菅(きすげ)が自分を包み込むようで、まるで天よりも高い所にいるようだという句。

山本健吉は「(同時代に活躍した俳人の中では)句風がいちばん軽く、物足りなさを感ずる場合も多いが、自由さと、愛情と、ユーモアを湛えた生活感情の陰翳深さにおいては、第一等である」と評しています。

2022年10月18日火曜日

俳句の鑑賞 30 山口誓子


昭和初期の「ホトトギス」を支えた俳人の一人が山口誓子です。後に、水原秋櫻子と共に「ホトトギス」を離脱し新興俳句勢として活躍しました。

山口誓子、本名、新比古(ちかひこ)は、明治34年(1901年)に京都で生まれました。父親は元島津藩家老でしたが仕事の関係で、誓子は2歳のときから祖父の元で育ちます。10歳の時に母親が自殺するも、誓子は両親のことはほとんど語っていません。11歳で、祖父が樺太日々新聞社長になったため、多感な少年時代を樺太(サハリン)で過ごすことになります。

この時期、読書に耽った誓子は、中学の国語教師から俳句を教わり、句会にも出るようになりました。17歳のとき京都に戻りラグビーに専念。19歳で旧制三高(現京都大学)に入学し、京大三高俳句会に参加するようになり、「ホトトギス」への投句を始めました。

思ひ切り石を投げたる枯野かな 誓子

大正10年、「ホトトギス」初投句したもの。樺太の景色が浮かんできそうですが、「客観写生」の「ホトトギス」としては、ほぼ主観描写なので入選はしませんでした。俳号は本名をもじり高濱虚子にあやかった「誓子(ちかいこ)」でしたが、大正11年、初めて虚子と対面した際、「君がせいし君か」と尋ねられたので、以来「せいし」を貫きました。

21歳の誓子は、京大に進学せず東京に出て東京帝国大学に入学し、早々に水原秋櫻子が再興した東大俳句会にも参加しました。しかし軽い肺結核を発症し、静養を余儀なくされます。

凍港や舊露の街はありとのみ 誓子

流氷や宗谷の門波荒れやまず 誓子

飾り太刀倭めくなる熊祭 誓子

大正15年、休学開けた誓子の句で、「ホトトギス」に発表されたもの。樺太の大泊港を詠んだもので、「舊露(きゅうろ)の街」は「(日露戦争前の)旧ロシアの街」という意味で、今はただあるだけで錆びれているということ。

「門波」は「となみ」と読み、波立つ海峡を表す万葉言葉。樺太に渡るための宗谷海峡の厳しさを詠う、初期の誓子の代表句です。熊祭はアイヌの伝統行事で、いけにえとして熊を供えたと言われています。これらの樺太での体験が、誓子の俳句の原風景と言われています。

大正15年に卒業すると、大坂に本社がある住友商事に入社、大坂に転居し、句会を通じて資産家令嬢と結婚します。「ホトトギス」内でも注目される存在になり、昭和7年に初めての句集を出版します。ここで、虚子は序で明らかに、前年に「ホトトギス」を離脱した秋櫻子側に傾倒する誓子を牽制し、誓子もまた花鳥諷詠だけではない新しい俳句への興味を隠しませんでした。昭和8年、率先して新興俳句を詠じる「京大俳句」の顧問に迎え入れられます。

北風強く水夫の口より声攫ふ 誓子

枯野来て帝王の階をわが登る 誓子

昭和9年、仕事で満州に出張した時の句。「きたつよくかこのくちよりこえさらう」と読みますが、大陸に向かう船の中で、強烈な冷たい強風で水夫たちですら声を出せないでいる様子です。満州の広大な地、皇帝の陵墓の様子、そして満州の市井の人々の暮らしなどを詠んで、虚子の選を経ずに自己出版という異例の形で第2句集を出しました。

昭和10年、誓子は秋櫻子の「馬酔木」に合流します。また、基本的に「有季」は重要と考える誓子は、京大俳句からも退くのでした。また胸の具合も芳しくなく度々療養生活をはさむようになります。軍国主義が強まる世相の中、昭和15年、言論弾圧のための「京大俳句事件」により、多くの新興俳人が検挙されましたが、誓子には官憲の手は及びませんでした。

昭和16年、療養のため四日市富田に転居。戦後に石油コンビナートが建設され公害の代名詞になる前で、誓子は眼前の海水浴場を散歩し目に入るものを次々と俳句にしていきました。

鷹の羽を拾ひて持てば風集ふ 誓子

海に出て木枯帰るところなし 誓子

昭和18年、海岸で鷹の羽を拾い上げた政治は、吹いてくる風が全部羽に向かってくるようだと感じます。昭和19年の「海に出て・・・」は代表作の一つさされますが、木枯らしは海に吹き出て戻ってこないという意味ですが、(誓子はぼやかしていますが)木枯らしは特攻隊を擬人化したもので、戦時中の寂寥感が描かれたものと言われています。

昭和23年、京大俳句事件で投獄された西東三鬼、「馬酔木」から誓子についてきた橋本多佳子らと俳句結社「天狼」を創刊し主宰になりました。昭和28年、台風による被害を受け西宮市に転居しました。「天狼」は順調に会員を増やし、昭和32年に朝日新聞社俳壇選者となり、その後も数々の褒章を受章しました。そして、平成4年、山口誓子は90歳にして樺太再訪を実現させます。

帰燕見てサハリンに来てゐしを知る 誓子

平成5年、神戸港花火大会で詠まれた句が、発表された誓子の最後の句となりました。その後体調を崩し「天狼」を終刊とし、平成6年3月26日、92歳の生涯を閉じたのです。

一輪の花となりたる揚花火 誓子

「ホトトギス」から離れた誓子でしたが、虚子は同人から誓子の名を削除することはなく、誓子も最後まで虚子を尊敬し続けたのでした。

山本健吉は、「近代俳句革新は、秋櫻子と誓子によって印されたのである…(中略)・・・秋櫻子がもたらしたのは感性の解放であり、誓子ははじめて俳句に知性を持ちこんだ」とし、誓子の俳句はその時代における感情によってモノトーンで描き出される風景画と評しています。

2022年10月17日月曜日

でかっ、かるっ


久しぶりに靴を買いました。

ネット通販です。

サイズの問題があるので、一度ぴったりのブランドが見つかると、次も同じブランドで選ぶのが安心。

翌日には宅急便で届くというので、迅速な手配が嬉しい。

ピンポーン

来た来た。

ところが、配達の人が持っている荷物が、予想をはるかに超える大きい箱に驚きます。

でかっ!!

渡されて・・・

かるっ!!

あまりのギャップ。開けてみると、確かに靴の箱が入っています。

冷静に考えると、おそらく6箱は詰め込める大きさの段ボールです。実際は、緩衝材がたっぷり隙間を埋めていました。

商品が傷まないように細心の注意を払っているということで褒めるべきか、梱包の無駄や配達業者への負担を増やしているだけで非難するべきか・・・

まぁ、少なくともいまどき前者じゃないことは確かです。

2022年10月16日日曜日

俳句の鑑賞 29 渥美清

昭和人は渥美清を知らない人はいない。いたらもぐり。何と言っても、映画「男はつらいよ」シリーズで「フーテンの寅さん」を演じ続けた国民的大スターです。

渥美清は昭和3年(1928年)、上野に生まれたチャキチャキの江戸っ子。終戦後に、芝居小屋の下働きをしているうちに喜劇役者として頭角を現します。昭和43年テレビ・ドラマとして作られた「男はつらいよ」が好評で、翌昭和44年映画化。平成7年までに、実に48作品を世に送り出し、長編映画のシリーズとしてギネス記録になっています。

平成3年に肝臓がんを発症、肺転移も起こし、平成8年8月4日亡くなりました。「男はつらいよ」シリーズ、最後の2本は病気による体力消耗が激しく、気力だけで撮り終えた作品でした。

プライベートはほとんど公にしなかったため、その人となりはあまり知られていません。しかし、俳句を趣味としていろいろな句会などにも参加していたため、多くの俳句が残されています。 俳号は「風天(ふうてん)」でした。


赤とんぼじっとしたまま明日どうする
 渥美清

秋の季語「赤とんぼ」が、何かの枝先とかに止まっている様子。じっとしていて、明日はどうしようかなぁと考えているのかと想像して楽しくなっている感じがします。

朝寝して寝返りうてば昼寝かな 渥美清

「朝寝」は春の季語で、「昼寝」は夏の季語。朝、布団から出れずにもう一寝入り。ゴロっと寝返り打ったら、もう昼だったというところ。春から夏へ、あっという間に季節が過ぎていくというのは詠みたかったのかもしれません。

好きだからつよくぶつけた雪合戦 渥美清

「雪合戦」は冬。こどもの頃は、好きな子がいたりすると、照れ臭いのでかえっていじめたみたいなことはよくあります。素直な気持ちをストレートに詠んだ句で好感が持てます。

案山子ふるえて風吹きぬける 渥美清

「案山子(かかし)」は秋の季語。風が吹いて案山子が震えるのではなく、案山子が震えてことで風が吹き抜けると感じた所が面白い。渥美清は、生前、自由律俳句の尾崎放哉に興味があり演じてみたいと考えていたらしく、俳句でも自由に自分の感想・感情を詠んでいるのが特徴としてありそうです。

やわらかく浴衣着る女のび熱かな 渥美清

夏の季語「浴衣」を用いた、かなり色気のある句。それはそれで惚れっぽい「寅さん」らしいのかもしれません。

すだれ打つ夕立聞くや老いし猫 渥美清

夏の季語「夕立ち」のような風情は、最近では集中豪雨となってしまいました。夏の暑い太陽が西に傾き、一転空かかき曇って大粒の雨がすだれを打つ音が聞こえ始めます。あー、いかにも昭和だなとおもっていると、その音を聞いているのが老猫だというオチが気に入りました。

お遍路が一列に行く虹の中 渥美清

夕立がおさまると見られることが多いので、「虹」は夏の季語とされています。霊場を巡って歩く白装束のお遍路さんの列を、たぶん後ろから見ていて遠ざかっていく光景だと思うのですが、その上に虹が出ていたという、ある意味、俳句らしい俳句。

どの俳句も、素朴な余韻を残すものばかりで、終生「寅さん」であり続けた渥美清は、実像でも寅さんだったのか、あるいはなってしまったかのようです。身近なことがらを。俳句にする独特のセンスは、誰の真似でもなく本人の人柄から来ているのでしょう。

2022年10月15日土曜日

俳句の鑑賞 28 梅沢富美男


夏井いつき先生が辛口の選評をすることで俳句の裾野を広げた、人気テレビ番組「プレバト!!」で、俳句コーナーの初期から登場しているのが大衆演劇の梅沢富美男です。

夏井先生からは「おっちゃん」と呼ばれ、とぼけた敵役として登場していますが、みるみる俳句の腕が上達し、今や番組内で「永世名人」の称号を得て活躍しています。剣劇一座の座長として、日本中を渡り歩き、和の風物に親しむ機会が多かったことが句作りにも役立っていることと思います。

1939年生まれで、現在、71歳になりますが、1歳7か月で初舞台で、芸歴はほぼ70年というからすごい。女形で人気が出て「下町の玉三郎」という愛称で親しまれ、1982年には歌手として「夢芝居」が大ヒットしました。


頬紅き少女の髪に六つの花 梅沢富美男

「六つの花」は、雪の結晶をあらわす冬の季語。初登場で添削無しの「才能有り」と評価された句。兼題は「夜桜と東京タワー」でした。頬(紅)から視点を後ろにずらすと髪(黒)にたどりつき、そこに雪(白)が付いているのに目が止まるという、近景のみに関わらず静かなカメラワークと色彩の変化が描写されています。なかなか色恋に長けた人でないと詠めないと思います。

乙女摘む一芯二葉夏は来ぬ 梅沢富美男

兼題は「茶畑と富士山」、季語は「夏来る」です。「一芯二葉(いっしんによう)」は茶の木の先端部分の様子で、まだ柔らかさがある新芽の部分。新茶と呼ぶのは、この部分だけを摘んで作られます。姉さんかぶりの紺絣の・・・おばちゃんではなく乙女とするところがロマンチストの一端かと。

「来ぬ」はカ行変格活用の「来(く)」で、「き」と読めば連用形、「こ」と読めば未然形です。助動詞の「ぬ」は未然形と接続すると打ち消しになり「来ない」という意味になりますが、連用形と接続すると完了を意味して「来た」になる。当然、ここは「きぬ」と読みます。文語を知らないと間違いそうですし、「一芯二葉」のような特殊な言葉が出てくるところは教養の高さがわかります。

廃村のポストに小鳥来て夜明け 梅沢富美男

兼題は「郵便ポスト」、季語は晩秋に渡り鳥が飛来する「小鳥来る」。東日本大震災後に東北の人が住めなくなった村を訪れた時に、郵便ポストに巣をかまえた小鳥を見つけたというもの。中下が句またがりですが、最後の「夜明け」の3音ですぱっと切り落としことが、かえって静かな冷え冷えとした空気感の余韻を残すことに成功しているようです。

花束の出来る工程春深し 梅沢富美男

番組に登場して6年4か月で、ついに永世名人に昇格した句。兼題は「春の花屋さん」、季語は「春深し」で花が散り晩春に入った頃を意味します。全体に具体的な記述が無いままに、映像をもたない季語で完結させたことは、季語の持つ力を信じ切っていると夏井先生から評価されました。具体性が無くても、人それぞれが、自分の中でしっかりとイメージすることができるのがすごい。

百物語最後の鏡に映る物 梅沢富美男

兼題は「只今のお待ち人数」です。夏の季語「百物語」は、怪談を百語り終えると物の怪が現れると言われています。ここでは、何人かが集まり順に怖い話をして、話し終えるたびにろうそくを消していき鏡で自分の顔を見るというルール。最後のろうそくを消したら真っ暗になるはずですが、そこに何かが映るかもしれないと想像させるところが良さそうです。

「プレバト!!」で芸能人が詠んだ句を、夏井先生の評も含めて、詳細に聞き書きしたブログを続けているプロキオン氏のサイトを参照させていただきました。テレビでは掛け捨てになってしまうところを、このような形でまとめられていることは大変な労力だと思います。

2022年10月14日金曜日

俳句の勉強 51 音便のいろいろ


頭が痛くなる文語文法シリーズです。今回は、動詞の音便(おんびん)の話。

毎度のことながら、そもそも音便って何? 多分、古文の授業で聞いているとは思いますが、まったく記憶にない(木村先生ごめんなさい)。

発音上の便宜から、本来の活用にない音に変化する現象を音便と呼びます。例えば「花が咲いて・・・」の場合、本来なら「花が咲きて・・・」なんですが、「き」を「い」に置き換えて使うのが一般的になっています。

動詞の音便は、1. イ音便、2. ウ音便、3. 撥音便(ンに変化)、4. 促音便(ッに変化)の4種類で、これはもう覚えるしかない。原則は、

カ行・ガ行の四段動詞はイ音便
ハ行の四段動詞はウ音便
バ行・マ行の四段動詞、ナ変動詞は撥音便
タ行・ハ行・ラ行の四段動詞、ラ変動詞は促音便

音便を使うか使わないかは自由ですので、声に出して読んだ時の調子によって選択してかまいません。

というだけのことなんですが、具体的な例をみましょう。

霧吹いて螢籠より火の雫 鷹羽狩行

籠の中の蛍に向かって霧を吹いたら、蛍の光によってまるで火の粉が散ったようだということ。「吹いて」がイ音便です。本来は「吹きて」になるところですが、音便を使うと調子が柔らかくなってこの句では合っているように思います。

注意しないといけないのは、この場合は音便のイなので、旧字の「ゐ」を使ってはいけないということ。ついつい文語を意識しすぎると、やってしまいそうな間違いです。

もの言うて歯が美しや桃の花 森澄雄

話すと美しい歯が見えるのは、おそらく桃の花ように艶やかなお嬢さんなんでしょうか。ここでは、本来なら「言ひて」ですが、ウ音便が使われて「言うて」に変化。これも、音便を使った方が柔らかい印象を与えます。

飛魚とんで玄海の紺したたらす 片山由美子

玄界灘では、秋になると五島列島を中心にトビウオ漁が盛んです。海から飛び出したトビウオが、深い紺色の海水を滴らすというダイナミックな映像です。「飛んで」が、本来は「飛びて」となるところを撥音便に変化しています。

枝打って斜めに飛びし実梅かな 岸本尚毅

枝をはたいたら、梅の実が斜めに飛んで行ったようです。ここでは「打ちて」となるべきところを、促音便を使い「打って」になりました。「ッ」の方が、実がパッと飛んだ感じが出ますね。

ためらひつ日記を買ってしまひけり 鈴木良戈

年末が近づくと来年の日記をつけるために新しいものを買うわけですが、書き続けられるか自信があれませんということ。ここでは「買って」が「買ふ」の促音便になっています。この動詞はウ音便もあって「買うて」も正解。連用形の「買ひ」に助詞の「て」をつなげて「買ひて」という使い方もあります。

あー、また何だかややっこしくてわからなくなってきました。

2022年10月13日木曜日

マイナ保険証


なかなか普及しないマイナンバーカード。国民一人一人に番号を付与して、さまざまな公共サービスの便宜をはかるというもの・・・ですが、現実には「持っていて便利」と思える機会がなかなか増えません。

最近、政府はマイナンバー・カードと健康保険証を紐づけて、保険証を2024年秋ごろに廃止する方向で検討すると発表がありました。通称「マイナ保険証」と呼ばれていますが、医療機関の側から考えると病院にも患者さんにも大きなメリットがあることだと思います。

患者さんにとっては、保険証がちょいちょい変わることがあっても、マイナ保険証ならそれを意識する必要がありません。同意していただければ、薬の履歴や検診結果なども参照できるので、診療上役に立つことが増えます。

保険証は、受診のたびに提示するのが本来のルールです。一度出したら、二度と出さなくて良い思っている方が多いのですが、月に何度も確認するのは煩雑なため、便宜上月に一度提示してくださいとお願いしている医療機関が多くなっています。

マイナンバー・カードをいつも携帯する習慣をつければ(最初は面倒かもしれませんが)、出先で緊急で受診したい場合にもあわてずにすみます。

医療機関としても、読み取り機で簡単に有効な健康保険かを確認できることは、大変助かります。正直言って、実は数カ月前に保険証が変わっていたというのはしばしばあるトラブルで、このために行う修正作業は本当に大変なんです。

さて、問題点はあるのでしょうか。よく「個人情報」が漏洩するという不安を根拠にマイナンバー制度に反対する方がいますが、自分としてはその点は心配していません。マイナンバー・カードに含まれる情報は、「マイナンバー」、「氏名」、「誕生日」、「住所・本籍」などで、これだけでは漏れたからどうということはほぼ無いといえます。

例えばマイナンバーがわかっても、保険組合との間の通信には固有の登録、特殊なハード、専用回線での接続が必要なので、そう簡単に第三者が利用できるものではありません。もっとも、それができるくらいの技術がある者なら、そんなまどろっこしいことはしなくてもどんな情報でも盗み放題でしょうけどね。

現実に情報漏洩を心配する方は、すでにいろいろな電子マネーや通販サイトにそれ以上の漏れたら危険な情報を登録していることと思います。もちろん、保険組合から「個人情報」が漏洩する危険はありますが、マイナ保険証になったからそのリスクが増えるとは考えられません。

マンナンバー制度で、一番問題と考えられるのは、初回登録の面倒はしょうがいないとしても、更新時の手続きの煩雑さです。5年に一度、更新しないといけないのはわかりますが、そのために平日に役所に出向くのは難しい人が多いと思います。また2種類のパスワードも5年ぶりでは、「何だっけ」となりやすい。

24時間受付可能なATMのような機械があちこちに設置してあれば、かなり気楽に更新できるので助かりますが、政府も義務化するならそこらの部分をしっかり検討しないと反対ばかりされそうです。

また、高齢者、特に認知症がある方などの登録・更新をどうするのかも問題です。ある一定条件を満たせば更新は不要にするとか、法的なキーパーソンを決定して代行できるようにするなどの配慮が必要そうです。

うちのクリニックでは1月からマイナ保険証リーダーを設置していますが、ほとんど使われたことがありません。また使っても、まだ対応できていない保険組合が多すぎて、実用性にはほど遠い印象があります。

それなのに10月から医療機関は設置が義務化したのですが、ハードだけあってソフトが無いんじゃわけがわからない。ちなみに10月になって、マイナ保険証を利用した方は、今のところ一人だけ。ユーザーもいないとくると、そういう意味でさい先が心配ですね。

2022年10月12日水曜日

俳句の勉強 50 月百句 #87~#100


夏井いつき氏からの宿題、月に関連した季語を使って百句作れという初心者には荷が重いチャレンジですが、ついにラスト・スパートです。では、早速。

#87 月の都に居並ぶ緒尊多し

#88 此の夜に月宮殿の迦具夜かな

「月の都」と「月宮殿」は同じことで、インド神話で月を神格化した月天子(がってんし)が住んでいるところのこと。当然、その周りには緒尊が集まってきていることだと思います。日本最古の物語といわれている「竹取物語」では、かぐや姫は「月の都」からやってきたとされています。

次は「心の月」は曇りの無い清らかな心のことで、悟りの心を意味します。ダイエット中なんですが、心の月には無理しないで食べたいものを食べた方が良いという気持ちが丸見えです。

#89 痩せ我慢心の月に透けて見え

「真如(しんにょ)の月」も同じようなことですが、煩悩に煩わされない悟りの境地の事。やはりダイエットは難しい。食べたい欲求が勝ってしまうことが多いですよね。

#90 痩せ我慢真如の月はまだ見えぬ

で、結局ダイエットに失敗すると涙がとまらずに服の袖に溜まってしまう。そんな様子が「袖の月」という季語になります。

#91 痩せ我慢乾くことなし袖の月

「島星」は月そのものの、あるいは月の光の異名。月の光があると明るい所と暗い所が分かれるので、ああここは闇なんだと気が付けるということです。

#92 島星や闇に気がつく有難味

「朝月日」は、朝日が出ている真向かいに月が沈まずに残っていること。朝日は東ですから、月は西ということになります。蕪村の有名な「菜の花や月は東に日は西に」は「朝日月」の逆で夕方の光景。ただ「夕月日」という季語は、どうも説明がわかりにくく「夕日と月が二つ並んであること」となっていて、隣同士なのか対角線にあるのかよくわからない。

#93 朝月日日の出に残る西の月

#94 夕月日逢魔ヶ時に早見ゆる

逢魔ヶが時(おうまがどき)は、夕方の黄昏時のこと。太陽が沈んで、暗くなるまでの残照によりほんのりと明るい数十分の時間帯です。映画用語では「マジックアワー」という言い方もあります。

#95 砂に書く月の出塩に消ゆる文字

「月の出塩」は、月の重力の影響で潮の満ち引きの関係で、月の出に合わせて満ちてくることです。砂に書いたラブレターは、月の出塩によって消えてしまうんですよね。

#96 今しがたまだかと尋ね月待ちぬ

「月待ち」は集まった人々が念仏を唱えながら月の出を待つ行事の総称。待ちきれない者が必ずいるもので、たった今「まだか?」と聞いたばかりなのに、何度も聞いてくるのが面倒です。

#97 静か夜に木々より漏れし月の水

「月の水」の「水(みなは)」水泡のことで、月の光を水泡に見立てた季語です。木々の間から、キラキラと漏れて見える光が、ちょうどそんな感じなのかなと思いました。

#98 首のばし照る月なみを数えけり

「照る月なみ」とは、三日月から有明月頃までの、ある程度明るさがわかる毎晩の月のこと。満月は簡単に見れますが、最初と最後は首を延ばしてよく探さないとわかりにくいですよね。

#99 眉きりりイケメンスター素月かな

「素月(そげつ)」は白く冴えわたる月のことで、一般には満月です。

#100 月乙女爪の土だけ苗立つる

「月乙女」は「早乙女」の傍題です。田植を行う女性のことで、紺の単衣に赤い帯、白い手拭をかぶり、紺の手甲脚絆、菅笠のそろいの姿で一列にならんで苗を植える様子。苗を植えた分だけ、爪の中にも土が入り込んでしまいそうです。今回の季語は三秋の季語ですが、「月乙女」だけは仲夏の季語です。

どうにかこうにか百句にたどり着きましたが、かなり苦し紛れの句ばかりで、どこかに投句してみようか思えるものは・・・まぁ、一つもありません。とにかく作ることに意義があると自分を納得させるだけ。2か月かける予定が半分でできたところだけは、頑張ったと評価しておきます。

これで、これからは「いつき組」所属と名乗れそうなので、今後は夏井いつき「先生」と呼ばせてもらうことにします。

2022年10月11日火曜日

俳句の鑑賞 27 杉田久女


おそらく明治から始まる近代俳句史の中で、男女の別にかかわらず、俳人としても高い評価が与えられると同時に、最も悲劇的な人生を送らざるをえなかったのが杉田久女(すぎたひさじょ)ではないでしょうか。

杉田久女、本名久(ひさ)は、明治23年(1890年)に鹿児島市で生まれました。大蔵省書記官の父親の関係で、沖縄、台湾などの転勤生活が続き、明治41年、東京の高等女学校を卒業。翌明治42年、美術教師である杉田宇内と結婚し、夫の赴任地となる小倉に転居します。

宇内は真面目で、画家の道を夢見ていましたが、長女・次女をもうけ、現実の生活の中で芸術家の道をあきらめ教師として生きていくしかありませんでした。大正5年、たまたま兄から俳句を教わった久女は、「ホトトギス」に投句するようになり、高濱虚子を崇拝するようになったのが悲劇の始まりでした。

鯛を料るに俎せまき師走かな 久女

「ホトトギス」大正6年1月号に、初めて載った久女の句。当時、虚子が推奨した、いわゆる「台所俳句」ですが、正月の準備でたくさんの食材が所狭しと並び、鯛を料理する俎板が狭くなってしまったという情景を的確に詠んでいます。しだいに俳句にのめり込んでいく妻に対して、宇内は苦々しい思いがあったようで、夫婦の間には次第に口論が増えるようになりました。

花衣ぬぐや纏る紐いろいろ 久女

大正8年に入選した、久女代表作とされる一句。花見から帰ってきて着物を脱ぐときに、まとわりつくようにたくさんの紐をはずしていくという、男性では絶対に詠めない女性独特の視点が評価されました。花見で疲れてけだるい雰囲気と、着物を脱ぐ解放感とが混在し、下句の字余りが絶妙の余韻を残します。

しかし、大正9年、自身の腎臓病のこともあり、少なくとも必要な家事は疎かにしていないにも関わらず、俳句に理解の無い夫との間で離縁の話が出たため、仕方がなく俳句から身を引くことになります。久女はカトリックに入信し、教会活動に身を置くことになります。

われにつきゐしサタン離れぬ曼殊沙華 久女

この間に詠まれたもので、宇内をサタンと思ったのか、いろいろな忍耐を強いることになった俳句そのものをサタンと思ったのか・・・いずれにせよ、真っ赤な曼殊沙華によって、離れないサタンはさらに強固なものになっていくようです。

しかし、中村汀女、橋本多佳子ら同郷の後輩女流俳人らと交流するうちに、大正11年、再び「ホトトギス」への投句を再開するのです。

足袋つぐやノラともならず教師妻 久女

ノラはイプセンの「人形の家」の主人公で、夫の言いなりだった自分を捨て自立していく女性。ノラのように生きていけない自分は、教師の妻として足袋を縫ったりすることばかりしている、という自己否定的な句。しかし、一方で、芸術を捨て一介の教師になり下がった夫に対する不満を読み取れます。

谺して山ほととぎすほしいまゝ 久女

昭和6年、福岡と大分の県境、英彦山に詣で詠んだ句。久女の最高傑作として認知されています。「谺(こだま)」という広さをイメージさせる空間とホトトギスの繰り返す反響音、それらのすべてが自分の欲するままにあるという内容。新聞社主催の「日本新名勝俳句」コンテストで金賞の帝国風景院賞を受賞しました。

その前年、虚子は自分の次女である星野立子に、女性を対象とした「玉藻」を主宰させました。立子の俳人としての力量は評価されていたものの、久女には虚子の身内贔屓のように映ったかもしれません。

久女は昭和7年3月、九州の地で自ら「花衣」を創刊し、積極果敢に女流俳人の中心に身を置こうとしました。しかし、「花衣」の評判は上々だったのにもかかわらず、わずか半年、第5号で唐突に廃刊となります。「玉藻」陣営への遠慮、女性誌に対する嫌がらせ的な評論、また宇内との家庭内のストレスなどが重なったものと考えられています。その直後に、久女は「ホトトギス」同人に推挙されました。

この頃から、久女には自分の句集刊行という夢が膨らんでいきます。当時の慣例として、句集にはその刊行を許可するというお墨付きとなる主宰の序文が必要でした。当然、俳壇の中で強大な力を持った「ホトトギス」では、帝王虚子の許可は絶対です。

久女は、ことあるごとに虚子に句集序文を書いてほしいことを願い出るようになり、再三の手紙をしたためることで、かえって虚子から疎ましい存在になるのでした。久女の俳句は、昭和8年8月号を最後に「ホトトギス」に載らなくなります。しかし、それでも虚子を崇拝する久女は、他の結社に移ることもせず虚子に手紙を書き続けるのでした。


昭和11年春から夏にかけて、虚子は長期間の欧州旅行に出発します。その間も、久女は句集を出すべく様々な伝手を頼って奔走していました。欧州から戻った虚子は、「ホトトギス」10月号で、突然、理由の説明もなく久女同人除名を発表しました。おそらく、自分がいない間に出版の話を進めていたことに激怒したものと推察されています。

春やむかしむらさきあせぬ袷見よ 久女

同人除名直後、「俳句研究」誌に発表された句。前書きに「ユダともならず」と、裏切り者ではないという思いが添えられています。在原業平が「月やあらぬ春やむかし・・・」と自分は変わりないことを詠った短歌に寄せたもので、純情を示す紫色をモチーフにしています。

虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯 久女

その1年後、「俳句研究」誌に発表された句。「ホトトギス」を離れたにも関わらず、虚子による句集序文をもらった長谷川かな女を真っ向から敵視しています。またこの時期に星野立子句集が出版されたことも、虚子に対するいら立ちが垣間見えます。

昭和13年に数句が久しぶりに「ホトトギス」に掲載されましたが、昭和14年、「俳句研究」に「プラタナスと苺」と題する四十二句を発表したのを最後に、久女は俳句を作ることも完全に止めてしまったようです。しかし、これまでの自作句の中から千数百句を選び、注釈などもつけた清書原稿を長女の石昌子に託します。

同人除名以後、抜け殻になったのような久女は、昭和20年秋、大宰府の県立筑紫保養院に入院。翌年1月21日、55歳で亡くなりました。死後、虚子が久女から届いたたくさんの手紙を「国子の手紙」と題して、ほぼ誰の事かわかるような小説として発表し、その中でことさら国子が精神異常者であると強調したことで、久女死後も不当な評価が続くことになります。

しかし、昭和62年の田辺聖子の実録小説「花ごろもぬぐやまつわる・・・わが愛の杉田久女」以後、各方面から少しずつ修正され現在では、大正から昭和初期の「ホトトギス」女流俳句拡大の立役者として久女の正当な評価が復権したと言えます。

2022年10月10日月曜日

俳句の鑑賞 26 高野素十


高野素十(たかのすじゅう)は、本名、与巳(よしみ)、明治26年(1893年)3月3日、茨城県北相馬郡山王村(現取手市神住)に農家の長男として生まれました。水原秋櫻子と同級の医師であり、俳句では「ホトトギス」でのライバル。終生、高濱虚子の提唱する客観写生を貫いたと言われています。

秋櫻子と同じくして、旧制一高から東京大学医学部に進学。卒業後は同期の秋櫻子と同じ血清化学教室に在籍し、秋櫻子の勧めにより大正12年から俳句を始め、同年に「ホトトギス」への初投句で入選をはたし、みるみる頭角を現しました。

しばらく医学に専念していましたが、秋櫻子の「ホトトギス」離脱の翌年の昭和7年に、新潟医科大学(現新潟大学医学部)法医学助教授となり句作も再開しました。ドイツ留学を経て、昭和10年に教授に昇進しています。戦後は、第6代学長を務めた後、定年により奈良県立医科大学法医学教授として昭和35年まで務めました。

実は医学者としての業績はあまり無く、いろいろと揶揄されることが多かったようですが、研究業績よりも後進を育成することに力を入れていたようです。酒好きの豪放な性格で、自然と人が集まって来るような人物と言われています。

虚子からは「純客観写生」と高く評価されるものの、句集は自ら出したものは無く、生前のものは仲間が素十に代わって編纂していました。切れ字を使うことが少なく、名詞による体言止めと言われる手法の俳句が多いのが特徴となっています。

秋櫻子と対極にあるように評されることもありますが、山本健吉は「秋櫻子のように印象の新によらず、素十氏の句はひたすら凝視の厳によって立っている」とし、「昭和俳句の巨匠」と位置付けています。

同じ医師で傑出した俳人という共通点があるものの、秋櫻子と素十の違いがどこから来たのかは興味深いところです。秋櫻子は、都会出身で比較的突き詰めるタイプ。医師としては産婦人科という、新しい生命の誕生に関わってきました。一方、素十は、農家出身で細かいことは気にしないタイプであり、法医学という死人とのみ向き合っていく医学を専門にしました。

秋櫻子が新しい俳句の誕生を目指したに対して、素十はすでに存在している俳句の世界を突き詰めていくことに徹したのは、元来の性格と共にそれぞれが専門にした医学の分野との関係もありそうな気がします。

方丈の大庇より春の蝶 素十

ひつぱれる糸まつすぐや甲虫 素十

甘草の芽のとびとびのひとならび 素十

くもの糸ひとすぢよぎる百合の前 素十

翅わつててんたう虫の飛びいづる 素十

食べてゐる牛の口より蓼の花 素十

いずれも、素十の代表句としてしばしば登場するものです。「方丈」は四畳半より少し広いくらいの寺によくある居室のことで、その大きな庇(ひさし)から蝶が飛び立つ様子。カブトムシに糸を結わいて遊ぶというのはよくありますが、その糸がぴーんと張っている様子などが、まさに写生画のように精緻に描かれます。

注意を惹く物を見つけると、じっと観察します。そして、対象が動いていったり、自ら視点を動かすことで、句の中にダイナミックな映像が浮き出てくるところが特徴的で面白いところだと感じます。しかし、その奥に凝視している作者の心情も透けてくるところが、まさに「俳句」ということでしょうか。

2022年10月9日日曜日

俳句の鑑賞 25 水原秋櫻子


水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)は、大正年間にすでに「髙濵王国」と化した「ホトトギス」の中から、反旗を翻し、かつ成功した最初の俳人として記憶されます。

本名は水原豊、明治25年(1892年)10月9日、産婦人科病院の長男として東京神田で生まれました。後を継いで医師になるべく、旧制一高を経て大正3年(1914年)に東京大学医学部に進学、「ホトトギス」を購読するようになります。

大正8年、血清化学教室に後に俳句のライバルとなる高野素十と共に入局。同じ教室には、古畑種基(日本の法医学の権威)がいました。先輩の緒方益雄に誘われ句会に出るようになると、「ホトトギス」に投句を始め、大正10年4月に初入選をきっかけに入会、6月に高濱虚子と対面しました。

この時期、以前より興味があった短歌も積極的に勉強していたことが、秋櫻子の句風に生きていることは間違いないようです。大正11年、仲間と東大俳句会を設立し、大正13年、「ホトトギス」系の「破魔弓」の選者となりどんどん活躍の幅を広げていきました。

昭和3年、秋櫻子の意見によって「破魔弓」は「馬酔木」と改称されます。また、この年、昭和医学専門学校(現昭和大学医学部)、産婦人科学教授に就任。この頃から、秋櫻子は虚子の提唱する客観写生による有季定型に飽き足らない物を感じるようになるのです。

「ホトトギス」に発表した「筑波山縁起」は全体で大きな主観的イメージを想起させる連作という方法が取られ、虚子との関係に亀裂が入り始めます。これに対して虚子は「叙情的な調べによって理想美を追求する秋桜子の主観写生と、高野素十の純客観写生の表現とを並べ後者をより高く評価する」と公表しています。

決定的だったのは、昭和5年の第1句集「葛飾」の発行でした。当時、句集を出すには本編と同じか、またはそれ以上に序文が重視されていました。当然、俳句界のトップ「ホトトギス」系では「帝王」虚子が序文を寄せることが、句集を出すための必須条件であったにもかかわらず、秋櫻子はあえて自ら書いた「自然を愛でると同時に自らの心情も重視する」という序文を載せたのです。

馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ 秋櫻子

蟇泣いて唐招提寺春いずこ 秋櫻子

葛飾や浮葉のしるきひとの門 秋櫻子

啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 秋櫻子

これらの「葛飾」の句は、いずれも直接的な作者の主観は書かれていませんが、擬人化を多用して詩情豊かに思いが溢れている仕上がりになっています。典型的な客観写生が、無味乾燥にように感じられるのも理解できなくはありません。

昭和6年、秋櫻子は「ホトトギス」誌上に「自然の真と文芸上の真」を発表し、「ホトトギス」と完全に決別します。秋櫻子の主戦場となった「馬酔木」は、多くの賛同者が集まり勢力を急速に拡大し、ついに「ホトトギス」帝国の牙城の一端を崩すことに成功したのです。

主宰や選者が選んだものだけが発表できる慣例と違い「馬酔木」は自選欄を設け、秋櫻子も自著により積極的に「新しい」俳句理論を展開しました。

白樺を幽かに霧のゆく音か 秋櫻子

風雲の秩父の柿は皆尖る 秋櫻子

天使魚もいさかひすなりさびしくて 秋櫻子

「ホトトギス」離脱後の時期の句。瞑想的風景描写、擬人化を含めた積極的な主観内包が見て取れ、より作者の芸術的な心情が伝わりやすくなっているようです。これらは、現代に至る近代俳句の一つの主流として定着したものと思います。

戦後も「馬酔木」を中心に活動し、昭和56年7月17日、自宅で心不全により亡くなるまで俳壇をけん引する精力的な大きな力となり続けました。最後の第21句集「うたげ」から、絶詠となった句を最後に紹介します。

紫陽花や水辺の夕餉早きかな 秋櫻子

「餉(しょう)」は旅人や田畑で働く人の弁当の意味。おそらく葛飾の川べりで、紫陽花の咲く様子を見ながら夕飯としては早めの弁当を食べている情景を詠っているもの。印象派絵画のような俳句です。

評論家、山本健吉は「子規から虚子に至る写実の道をさらに発展させて、俳句の上に洗練された都会の感覚をうち出したのが秋櫻子である・・・(中略)・・・秋櫻子がもたらしたものは感性の解放なのだ」と述べています。

2022年10月8日土曜日

自宅居酒屋 #49 大葉巻き鶏ささみ


久しぶりの自宅居酒屋シリーズです!!

今回のメニューは鶏ささみ。焼いて大葉で巻いちゃいました。

焼き鳥のお品書きにも同様の物がありますので、この組み合わせはずれようがない。

美味しく食べるため、ちょっとしたコツはあります。最初から大葉を巻いてしまうと焦げてボロボロになってしまうので、半分ささみを焼いてから巻くというところがポイント。

まずは味付け。ささみ8本に対して、ビニール袋に塩小さじ1/2くらい、そして砂糖も小さじ1/2くらい入れて少量の水で溶かします。ここにささみを入れて、ギュっと口を縛ったら30分くらい置いておきます。

フライパンは、焦げ付かないコーティングされているなら油はいりません。ささみを並べて焼くだけですが、片面にしっかりと火が通ったらひっくり返した時に焼けた面を中心に大葉を巻きます。

普通サイズの大葉なら、ぐるっと一周はできません。それでいいんです。焼けてない半面に火が通るころには、大葉もしなっとなってぴったり張り付いた感じになっています。

めっちゃ、旨い。ささみだと、脂分も無いので罪悪感がありません。お酒が進むこと請合います。

2022年10月7日金曜日

俳句の勉強 49 クリスマスで苦心

おいおい、もうクリスマスかとお思いでしょうが、あらかじめ発表されている俳句の兼題は、募集されてから1~2か月先に選が発表されますのでしょうがない。

さて、「クリスマス」という季語は、仲冬の行事として位置づけられています。当然、クリスマスはキリスト教のイベントで、12月25日のイエス・キリストの誕生日のこと。基本的に、この日は静かに祈りを捧げる日であって、喜びを表すのは前日の夜、つまり12月24日のクリスマス・イブです。

傍題としてはそのものを言い換えた「降誕祭」、「聖誕祭」、「聖夜」はもとより、「聖樹(クリスマス・ツリー)」、「聖菓(クリスマス・ケーキ)」、「クリスマス・カード」、「クリスマス・キャロル」なども使われます。

それにしても、クリスマスというのも、キリスト教徒でないと関わり方は皆同じで、そこから想像できることと言えば百人が百人同じものに偏りそうです。

なんと、正岡子規にもいくつか見つかります。子規の時代は、今ほどのイベント性は無かったことでしょうから、キリスト教の家のおごそかな祈りの情景が見えて来そうです。

八人の子供むつましクリスマス 正岡子規

子供がちにクリスマスの人集ひけり 正岡子規

ロンドン滞在中の夏目漱石が、子規に送ったクリスマス・カードに添えられた一句もあります。

柊を幸多かれと飾りけり 夏目漱石

現代人代表として一句。

犬の脚人間の脚クリスマス 神野紗希

犬と人間が歩調を合わせて散歩している図でしょうか。何となく軽やかなリズムが感じられます。おそらく作者は、鈴の音と伴に鹿とサンタクロースがやって来るイメージを重ねているのでしょう。


クリスマスと来れば雪。そし恋人たち。そんなロマンあふれる経験が無いので、どちらかというと、サンタクロース、プレゼント、ケーキ、御馳走といった現実的なことばかりを想像してしまいます。

薄目開けサンタを知るやクリスマス

イブの夜は、こどもが寝たのを確認して、そっと枕元に用意しておいたプレゼントを置くという経験は、親なら誰しもしていると思いますが、こどもたちはいつのまにかプレゼントをくれていたのがサンタさんではないことを知ります。もしかしたら、薄めを開けて寝たふりをしていたのかもしれません。

髭達磨白に塗り替えクリスマス

サンタクロースと言えば、でっぷりとした体格で真っ赤な服と帽子を着て長く伸びた白い髭というのがお決まりのいで立ち。でも、ある時はたと気が付いた。そこらに飾ってある赤い達磨の人形が何か雰囲気がサンタさんに似ています。黒く書かれた髭を白く塗り直せば、和風サンタになるかもしれません。

今年からケーキ二切れ聖夜かな

こどもたちがいると、にぎやかなイブの晩餐があって、大きなホールのケーキを用意したりしたものです。こどもたちが巣立ってしまうと、いつもの夕食と変わりありません。せめて、コンビニで小さなケーキを二つ用意するくらいで終わってしまいます。

2022年10月6日木曜日

うにのようなビヨンドとうふ


テレビの人気バラエティの「家事ヤロウ!!!」で紹介された一品。

高価なウニの風味を手軽に楽しめる豆腐です。

レギュラー出演者の一人が、「もどき系でトップクラス」と絶賛したせいなのか、急にスーパーで見かけるようになりました。

地上波テレビの凋落と言っても、やはり全国ネットの放送の力はバカにできないようです。

早速、買ってみました。食べてみました。

結論・・・まぁ、もう、いいかな・・・という感じ。

見た目はプリン。食感もプリンです。豆腐としては、全体のまとまりは弱めかなという印象。

肝腎の味は、確かにウニの味がするんですが、それほど強くはありません。人によっては、多少の生臭さを感じるかもしれない。

もちろん、不味くはない。ないけど、めちゃめちゃ旨いかというと・・・という感じ。

好みは人それぞれですから、はまる人はいるとは思いますが、豆腐は普通に冷ややっこに醤油と生姜で食べるのが一番だと思います。

2022年10月5日水曜日

俳句の勉強 48 月百句 #75~#86


旧暦と呼ぶのは 、明治42年(1909年)まで使われた陰暦のことで、月の満ち欠けをもとにしたもの。現在まで使われている新暦は太陽の運行をもとにした太陽暦なので、一か月につき数日のずれが生じるため、なかなかこんがらがりやすい。

ただ、和暦での月の表現は、単純に数字表記と共に旧暦の漢名表記の異称が今でも使われることがあります。数字で呼ぶより意味深く文学的な雰囲気が漂うので、俳句ではしばしば季語として登場します。天体としての月を直接テーマにしているわけではありませんが、そこから派生した言葉なのでこれらも詠んでおきたいと思います。

#75 今年こそ百万遍の睦月かな

新年(初春)、1月は睦月(むつき)。新年を祝うために、親族が集る「睦び月」ということから。正月になると、今年の目標とかを掲げることがよくありますが、まぁ、だいたい毎年念仏のように同じことを唱えることが多いですね。

#76 如月の路端を進むじゃりじゃりと

仲春、2月は如月(きさらぎ)です。読みに「つき」が入らないのが不思議ですが、寒いので「衣を更に着る月」から来ているという説があります。現在では一番寒い頃で、霜柱がたくさんあったりすると、思わず踏んでみたくなるというものです。

#77 上着着て脱いでまた着て弥生かな

晩春、3月は弥生(やよい)です。「月」も無ければ、読みに「つき」も無い。「草木がいよいよ生い茂る月」から「いや(いよいよ)おい(生い茂る)」となって、さらに省略されたと考えられています。三寒四温と言い、温かく成ったり寒くなったりを繰り返し、本格的な春が近づいてきます。

#78 空青し緑広がり卯月なり

初夏、4月は卯月(うげつ)です。卯の花が咲く頃だからと一般に言われています。もう、何のひねりもない平凡以下のやっつけ仕事みたいな句ですみません。

#79 皐月晴れ雨の合間の野良仕事

仲夏、5月は皐月(さつき)です。皐月が咲く頃だからと思ったら、この頃に咲くから皐月でした。皐月の由来は田植えをする頃なので「早苗月(さなえつき)」が短くなったから。そろそろ梅雨入りも間近となり、農作業のタイミングも空模様とにらめっこになります。

#80 水無月と言えど雲には大嵐

晩夏、6月は水無月(みなづき)です。梅雨明けとなり水が少ないということか、「無」は単に「の」という意味だとして田んぼに水をひくことを意味しているともいわれます。いずれにしても、現代では梅雨の真っ最中ですけどね。

#81 文月の屑屋の秤五円玉

初秋、7月は文月(ふみづき)で、七夕の短冊に文字を書くことに由来するようですが定かではありません。こどものころに夏休みに入って、屑屋さんが回ってくると新聞紙の束を持っていきました。屑屋のおじさんは鯨秤で重さを測って、「はい、五円ね」といってくれたのがお小遣いになったものです。

#82 平泳ぎできて三級葉月かな

仲秋、8月は葉月(はづき)です。木々から葉が落ちる頃という意味。夏休みは小学校で水泳教室がありました。25mプールで、泳ぎ切れれば3級というのができて嬉しかった記憶があります。

#83 長月の席替え静か黒い顔

晩秋、9月は長月(ながつき)です。秋の夜は長くなってきます。9月というと、2学期の始まりで、学校には真っ黒に日焼けしたともだちが戻ってきますが、恒例の席替えがあるので皆神妙な顔つきになっていました。

#84 神無月ラッシュアワーの出雲かな

初冬、10月は神無月(かんなづき)。全国の八百万の神々が出雲に集うため、神がいなくなってしまう月ですが、逆に出雲では神がたくさんいて「神有月」という言い方もします。大社に八百万も集まったら、神々もさぞかし身動きできないことでしょう。

#85 霜月や外苑にまじる黄蘗かな

仲冬、11月は霜月(しもづき)です。霜が降りる頃ということ。黄蘗(きはだ)というのは渋めの黄色で、有名な神宮外苑の銀杏並木は、少しだけ黄色のところが見え始める程度。期待して出かけても、まだまだという感じです。

#86 急がない先生もいる師走かな

晩冬、12月は師走(しわす)です。先生も走り回るくらい忙しいから師走・・・と言ったのは、もう過去の風物ですね。昔は掛け取りが年内にお金を回収して回り、払えない人は夜逃げしたなんて話がありました。

由来は様々で、地域によっても違ったりしますが、代表的な物だけ紹介しました。それにしても、もう、だいぶいい加減な句ばかりで、人に見せれるようなもんじゃありませんが、とにかく百句作ると宣言したからには、証拠として提示せざるをえない。本当に申し訳ないです!!

2022年10月4日火曜日

俳句の勉強 47 写真俳句

最近、テレビ「プレバト」で写真俳句の話題が出ました。「写真をみて一句(写真で俳句)」というのは、兼題としてよくあるパターンなんですが、「写真俳句」というのは、ちょっと意味合いが違ってきます。

夏井いつき氏が詳しく解説していましたが、「写真俳句」は「写真と共に鑑賞する」ための俳句です。つまり、写真を見て誰もが感じるところは省略可能で、ある意味写真を季語のような扱い方が出来るということ。写真に直接添えられるキャッチコピーと言えばわかりやすい。

例えば桜の写真を見て一句となると、「桜咲く・・・」とか「桜散る・・・」みたいなフレーズが俳句の中に必要で、それはたいてい季語であったりすることが多くなります。句を鑑賞する人は、写真は見ていないという前提です。

ところが、桜が満開の写真に寄せる「写真俳句」ということだと、桜が満開に咲いて美しいといった部分はすでに写真から伝わっているので、たった17音の俳句に含めるのはもったいない。さらにその先に思いを馳せる句を作る必要があるということになります。


軽井沢と言えば、旧軽。旧軽と言えば、銀座通りが有名です。その中でも、ミカド珈琲は本来は日本橋に本店がある昭和23年創業の老舗喫茶店。昭和27年に夏のみの営業で旧軽に店を出しました。ジョン・レノンを始め、多くの文化人が常連となった店です。

もう何年も前、夏の観光シーズンに、まだお客さんが少ない昼前に訪れた時の写真です。いずれも晩夏の季語を使いました。まずは、この写真を見て一句。

白南風や珈琲落ちる音揺らぐ

「白南風(しらはえ)」が季語で、梅雨が明けて流れてくるゆるやかな南風のこと。静かな一時に、コーヒーをドリップする音がポタ、ポタと聞こえますが、ちょっとずつリズムが揺らいでいるなあという感じ。喫茶店でなくても、自宅でもOKという雰囲気です。

涼風を探す銀座に茶の香り

もちろん「涼風」が季語です。暑くなってきたので、涼風を求めて歩いていると、茶の香りが漂ってきたので、ちょっと休憩したいかなということ。銀座は旧軽銀座のつもりですが、当然東京の銀座でもかまいません。

では、写真俳句として作ってみたのがこちら。見る人が見ると写真は、旧軽銀座のミカド珈琲だとわかります。そこまでわからずとも、半袖の人がちょっと写っているので季節は夏。

片蔭を辿りて香る老舗哉

季語の「片蔭(かたかげ)」は、街並みの片側だけに日陰ができている様子です。旧軽銀座は、ちょうどちんな片蔭ができる街並みです。旧軽銀座を日陰の方を選んで歩いていくと、コーヒーの香りがする老舗のミカド珈琲にたどり着くよという感じで、写真に添えるお店の宣伝のつもりで考えました。

基本的に大きな違いは無いかもしれませんが、より写真の状況に合うように考えるということだと思います。写真が無いと、片蔭の街並みは想像できませんし、何が香るのかもわからない。ましてや老舗が何の店かも不明ということになります。

2022年10月3日月曜日

俳句の勉強 46 鯛焼きで苦心


鯛焼きとは・・・言わずと知れた庶民的和菓子の代表選手。今回挑戦している季語が「鯛焼き」で、冬の季語になります。

元はと言えば、明治42年創業の麻布十番にある波花屋が元祖本元らしい。となると、俳句の季語として誰が最初に使ったのか気になるところですが、少なくとも大正時代になってからでしょうし、歳時記に収載されるようになったのは昭和からかもしれません。

ただ、あまり浪漫がある言葉ではありませんし、類想・類句を大量生産しやすい季語のように思います。まずは歳時記で名句を鑑賞します。

前へ進む眼して鯛焼三尾並ぶ 中村草田男

何で三尾なんだろうか。友人二人と分けて、三人で食べるということでしょうか。

鯛焼きの鰭よく焦げて目出度さよ 水原秋櫻子

鯛焼きには本当の鰭はありませんが、祝い事によく使われる鯛の姿焼きのイメージをかさねたんでしょうか。

鯛焼きの頭は君にわれは尾を 飯島晴子

普通は頭の方にあんこが詰まっています。尾まで餡があると凄い事のように喜ばれますが、実際は餡ある部分とない部分で味わいの違いを楽しむというのが本来らしい。

鯛焼きと弓張月と感じ合ふ 藤田湘子

弓張月は半月のことなので、まさに見た目が似ていて想像したんでしょうね。どれも名人と呼ばれる俳人の句なんですが、まぁ確かにそうですよねとしか言いようがないと言ったら怒られますかね。もっとも、それ以上につまらない句しか思いつかないので、頭が上がらないわけですが・・・

鯛焼を割って立つ湯気冬の暮

もうそのまま、見たまま、誰もが思いつく典型的な内容です。鯛焼きと冬で季重なりです。

鯛焼をこだわらないと怒られた

鯛焼きならどんなんでもいいんじゃないの、どうせ美味しいんだからと開き直り。

塩水に逃げた鯛焼き溶ける哉

毎日、毎日、僕らは鉄板で・・・こんな歌も思い出したりして、海に逃げたら溶けちゃいますよね。もう、ひどすぎてダメだ、こりゃ。

冬夕焼鯛尾の餡にほくほくし

唯一、ちっとはまともかなと思うのがこれ。「冬夕焼(ふゆゆやけ)」が季語になるので、鯛焼きと直接書かずに「鯛尾の餡」と弱めた表現を使いました。

結局、名人の句はそれなりに名句なのだと再確認することになったということです。

2022年10月2日日曜日

冷凍ラーメン自販機


最近、コロナの影響で家で食べる機会が増えたというところを狙って、いろいろな自販機が話題になります。ラーメンもその一つ。本格的なお店の味を家で楽しめるとあって、そこそこ人気らしい。

何と、センター南にもありました。それも駅のすぐ近くです。

横浜家系塩ラーメン
黄金つけ麺
極み鶏ラーメン
横浜家系醤油ラーメン

メニューは4種類で、どれも1食750円ですが、毎月1日と15日は600円と安くなっているようです。

ちょっと、買ってみたいような気はしますが、近くにラーメン屋さんが無いわけじゃないしね・・・

以前よりは外食も気兼ねが無くなりましたしね・・・・

安いとは思いもすけどね・・・

誰か試した方、感想を教えてほしいものです。

2022年10月1日土曜日

俳句の勉強 45 活用形のいろいろ

少しずつ文語の文法を勉強しますが、いや、もう、へこたれそうで、続くか自信がありません。とは言え、先に進まないと、いつまでもダメダメですから、今回は活用形を学びます。

すべての単語は、10種類の品詞のどれかに分類されるわけですが、その中で文脈の中で語尾変化する場合を活用と言い、活用形を持つ品詞は用言と呼ばれる動詞、形容詞、形容動詞、そして付属語の助動詞の4つです。これらをまとめて活用語とも呼びます。

さて、活用形は基本的に6つのパターンがあって、それが未然形、連用形、終止形、連体形、已然形(口語だと仮定形)、命令形です。あー、何か、何十年も前に居眠りしながら聞いたような気がします。

一番普通の活用は、口語では母音のア・イ・ウ・エ・オを使う五段活用で、文語ではオが抜けた四段活用です。動詞の「書く」なら、口語での場合には、「書かない(書こう)・書いて(書きます)・書く・書けば・書け」です。文語になると、「書かず・書きて・書く・書く・書けば・書け」となり、語尾変化は「かきくくけけ」と呪文のように覚えた記憶が蘇ります。

口語で五段活用するもの中には、文語では四段活用の他に、ラ行変格活用、ナ行変格活用、下一段活用というものも出てきます。

動詞「有り」はラ行変格活用で、「有らず・有りて・有り・有る・有れば・有れ」となり「らりるれれ」です。他に「居(を)り」、「侍(はべ)り」、「いますがり」の四語です。

動詞「死ぬ」はナ行変格活用で、「死なず・死にて・死ぬ・死ぬる・死ぬれば・死ね」となり「なにぬぬね」となる。他は「往ぬ(去ぬ)」だけ。

下一段活用は口語にもありますが、文語では動詞「蹴る」だけで、「蹴ず・蹴けり・蹴る・蹴ること・蹴れども・蹴よ」で、「けけけけけけ」です。

口語の下一段活用は、文語だと下二段活用です。動詞「消ゆ」は「消えず・消えけり・消ゆ・消ゆること・消ゆれども・消えよ」で「ええゆゆゆえ」です。

口語の上一段活用になるのは、文語では上一段活用と上に段活用に分かれます。上一段活用は、動詞「見る」の場合は、「見ず・見けり・見る・見ること・見れども・見ろ」で、「みみみみみみ」です。上二段活用は、動詞「消ゆ」なら、「消えず・消えけり・消ゆ・消ゆること・消ゆれども・消えよ」となって「ええゆゆゆえ」です。

あと少しですから、我慢してください。口語でも文語でも、動詞「来る」だけはカ行変格活用になります。「来ず・来けり・来・来ること・来れども・来(来よ)」となって、「こきくくくこ」です。口語なら「来ない・来ます・来る・来ること・来れば・来い」ですよね。

最後にサ行変格活用となるのが、動詞「す」と「おはす」の二つで、「す」は「せず・しせり・す・すること・すれど・せよ」となり「せしすすすせ」です。

俳句をすべて現代語だけで作っているなら、たぶんそんなに文法を意識しなくても困ることはあまりないと思いますが、そもそも「切れ字」として多用する「や、かな、けり」がいずれも歴史的な言葉ですから、文語調にならざるをえません。

また、文語体の方が、一文字に込められる意味に多様性があるため、数少ない文字数で多くの内容を含めたい俳句では利用したくなる機会が多くなるのも必然。ただし、雰囲気だけで文語を用いてしまうと、気が付かないうちに間違った活用をしていることは大いにある話なので、十分に注意しないと恥ずかしいことになりかねません。

紅梅のしだれし枝や鳥も来ず 正岡子規

遅桜見に来る人はなかりけり 正岡子規

根岸にて梅なき宿と尋ね来よ 正岡子規

「来ず」は「来ない」ということで未然形。「来る」は「人」にかかっているので連体形とわかりやすい。「来よ」は文末で、「尋ねて来なさい」という命令形です。そんなことは判別できなくても困らないと思うかもしれませんが、じゃあこれはどうでしょうか。


おそるべき君等の乳房夏来る
 西東三鬼

「来る」は「くる」と読むのか「こる」と読むのか。実はこれはカ行変格活用の「来る」ではなく、ラ行四段活用の「きたる」の終止形です。衣替えをして、肌の露出が増えた女性たちに圧倒されている作者が見えてきます。