2022年10月25日火曜日

俳句の鑑賞 34 日野草城


日野草城(そうじょう)、本名、克修(よしのぶ)は明治34年(1901年)、東京の下谷に生まれました。俳句の絶対王国となった「ホトトギス」から抹消された最初の俳人です。

4歳の時、父親の仕事の関係で韓国に渡ります。短歌・俳句好きだった父親の影響で、中学の頃から短歌・短文などを投稿するようになりました。16歳のときに、たまたま出席した句会での高評価によって俳句も始め、「ホトトギス」へも投句するようになりました。

17歳で京都に出て旧制第三高等学校に入学、仲間と句会を始め、これが京大三高句会へ発展します。20歳で京都大学進学、「ホトトギス」巻頭にも選ばれるようになりました。大正13年、23歳で大学を卒業した草城は、保険会社に就職し、昭和2年、最初の句集を刊行し、高濱虚子の期待を込めた序文を貰っています。しかし、すでに客観写生・花鳥諷詠の理念とはすでに相容れない草城独自の世界が垣間見えます。

春の灯や女は持たぬのどぼとけ 草城

新涼や女に習ふマンドリン 草城

句集は、主として学生時代に詠まれた句の集大成ですが、主観的な想像を駆使して恋愛や風俗的な事柄を俳句に仕立てるものが多く、「ホトトギス」の中では異色の存在であっただろうことが容易に想像できます。

昭和4年、「ホトトギス」同人となり、俳人として順調に成長したかに見えましたが、昭和9年、「俳句研究」に発表された連作「ミヤコホテル」が大きな波紋を起こし、「ミヤコホテル論争」と呼ばれるようになる俳壇全体の議論を引き起こしました。

けふよりの妻と泊るや宵の春 草城

春の宵なほをとめなる妻と居り 草城

薔薇匂ふはじめての夜のしらみつゝ 草城

「ミヤコホテル」は、全10句からなる新婚初夜を詠んだフィクションで、現代の感覚では驚くほどのものではありません。しかし、当時としては花鳥諷詠の俳句の世界とは対極にあるようなエロティシズムが漂い、小説家・室生犀星は絶賛し、「ホトトギス」の仲間である中村草田男は激烈な非難を表明しました。

俳誌だけの発表ならばなんとか穏便に済むところを、新興俳句にも関わるようになり句集に「ミヤコホテル」をおさめてしまったため虚子の逆鱗に触れ、昭和11年「ホトトギス」からの除名となってしまいます。この時、同時に除名されたのが杉田久女で、久女は草城のような公に虚子に「敵対」する事案が無かったため、より本人のショックが大きかったと言われています。

日本の軍国主義が濃厚になるにつれ、草城の周囲にも暗雲が垂れ込むようになり、昭和17年までにほぼ俳壇から姿を消すことになります。しかし終戦とともに、再び俳句作りを再開したものの、昭和21年1月に肺炎を発病し、以後ほとんど妻の献身的な介護の元、病床で過ごす生活が続くことになります。

生きるとは死なぬことにてつゆけしや 草城

菊見事死ぬときはできるだけ楽に 草城

見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く 草城

そこには、かつてのモダニズムの先鋒を切り開くような鋭さはありません。昭和31年、虚子は草城を赦し再び「ホトトギス」同人に向かい入れ、草城宅へ見舞いに訪れました。

先生はふるさとの山風薫る 草城

昭和31年1月26日、病状が悪化。

風立ちぬ深き睡りの息づかひ 草城

思ふこと多ければ咳しげく出づ 草城

一点が懐炉で熱し季節風 草城

何とか遺作となった三句を作り、1月29日、55歳で亡くなりました。飯田蛇笏らの時代からいわゆるホトトギス四Sが活躍するまでの間、「ホトトギス」の沈滞期を支えた重要な俳人であり、俳句の世界に新しい感性を導き入れた功績にも関わらず、必ずしもそれに見合った処遇を受けることが無かったと言えます。

山本健吉は「大正期なかば以後は、虚子の舵取り方が、無個性で平凡な客観写生句の時代を作った。その古風な沈滞を破った第一声が草城の出現である」とし、初期作風を「在来のようなくすんだ境地に沈むことなく明るく軽快」、そして晩年は「十七文字に一種不思議な真実の感情だけが詠まれる」と評しています。