2010年1月31日日曜日

足首の捻挫

足首の捻挫というと、皆さん軽いケガだと思っていませんか。もちろん、大多数はちょっと捻っただけで、その直後だけ痛くてあとは特に問題ないようなものでしょう。

ところが、病院に行きたくなるような強い痛みを伴う場合はなかなか簡単にはいかないことが多いのです。そのままほったらかしにしていると、結構痛みが続いて生活上の不便も馬鹿になりません。

捻挫というのは、本来動かない方向に関節を捻って関節周囲の組織を痛めた状態。足首の場合は、ほとんどが足が内側に向いてしまい、外くるぶしに強い力がかかります。そして強い痛みと腫れ、内出血を起こしてきます。

こういう場合には、実際には外くるぶしから足の方へ斜めに付いている靱帯を痛めています。つまり靭帯損傷というケガなのです。膝だったら手術が必要になることもしばしばですが、足首の場合は骨の組み合わせがしっかりしているので、よほどのことがないと手術まではしません。

でも、靱帯がちょっと伸びたくらいのものから、完全に断裂したものまでありますし、またしばしば靱帯の骨の付着部がはがれる剥離骨折になっていることもあります。

歩けなくなることはめったにありませんが、中途半端にしていると靱帯がゆるんで治ってしまい、何度も捻挫を起こしやすくなります。またいつまでも痛みが続くことも多い。スポーツをする人は、かなり運動能力に影響を与えることになってしまいます。

同じような力がかかったときに外くるぶしのちょっと上に痛みが強い場合は、すねの2本の骨をつないでいる靭帯損傷のことがあり、これはかなりの確率で手術が必要になります。

また、外くるぶしよりも下の方に痛みが強い場合には、小指側の骨の骨折になっていることも多いのです。

病院に生きたくなるくらいの足首の捻挫は、本当は1週間でもギプスを巻かせてもらえると治りもいいんですが、そんなことをすると患者さんはびっくりして二度とこなくなりそうです。ですから、できるだけ不便をかけない範囲の固定をすることになります。

最初の固定と局所の安静が最も大事なのは言うまでもありません。さすがに歩くのがつらいようなら、早めに受診することをおすすめします。

2010年1月30日土曜日

応援!! 受験生

今年は横浜では、雪を見ないうちに1月ももうすぐ終わろうとしています。時間の過ぎるのが早いこと。

大学受験も連日ヒートアップしていることと思いますが、受験生の皆さんは健康管理だけは気をつけてもらいたいと思います。ここまできたら、徹夜のように猛勉強するより、しっかり睡眠をとって欲しいものです。あとは、知っている英単語を一つでも二つでも増やすことが大事ではないでしょうか。

今年のセンター試験は、天候には恵まれたものの例年よりも難しかったと聞きます。できなかったと思う受験生は、できるだけセンター試験の比率の少ない大学を志願したくなるわけですが、結局みんなが同じ思考・行動パターンを取れば、そういう大学に受験生が集中して倍率を上げてしまうかもしれません。

もうこのあたりは当たるも八卦当たらぬも八卦の世界で、運を味方にした者の勝ち。やはり受験にはある種のテクニックが必要であるというのは、昔も今も同じなんですね。

センター試験の英語の問題を新聞で見ましたが、いきなり同じような読み方をする言葉の発音記号の仲間はずれを探す問題で、当然自分はひとつもわかりませんでした。

でも、いまだにこういう「生きた」英語とは対局に位置するような知識を問う問題が出ることには驚きを禁じ得ません。だから、日本人は英語が苦手になってしまう。

学問として英語を追求することと、英語を使いこなすことは違うというのは、もうさんざん言われ尽くしていると思っていましたが、やはり大学受験の中心に英語がある限り日本人は一部の人を除いてまともに英語を喋ることなんてできそうもありません。

自分も英語は苦手で、人に自慢できるようなものではありません。でも、たとえばハワイに1週間行くと、帰る頃にはけっこう会話ができるようになるものです。日本に戻って、また英語を使う環境が無くなると急速にできなくなるのが残念ですが。

大学浪人をしている頃だったか、サヨナラサヨナラサヨナラで有名だった映画評論家の淀川長治さんの話をきいたことがあります。淀川さんは若い頃に映画会社に就職して、洋画に邦題をつける仕事をしたりしていたそうです。

そこで、わからないことは無視して、わかるところから自分の感性で訳を作っていったというような話だったと思います。知らない単語は抜いてしまって、わかる単語だけを並べて、そこかに文章の大意を想像するというのは、わからないことをわかろうと努力するよりも簡単です。

わかろうとすることも大事ですが、英語ではわからないところで立ち止まっているよりも、わかるところを拾い上げて先に進むことの方が意味があるように思います。基本的には言語は会話を通じてのコミュニケーションの手段ですから、必ず相手がいるわけで、その相手もこっちをわかろうとしてくれるものです。

あとは、度胸一発。とにかく単語を並べるだけでもいいから、とにかく何か喋らないことには始まらないと言うことです。とはいえ、始まっている今の大学受験ではそうもいかないでしょうけど、とにかく自分の力を精一杯出して悔いの無いように頑張ってもらいたいと思います。

2010年1月29日金曜日

マイルス・デイビス Part 2

そんなわけで、マイルス・デイビスの音楽を聴くことは、ほぼジャズの歴史を振り返ることになり、場合によってはそれがすべてと言っても過言ではありません。

現在の活躍するほとんどのジャズマンは、マイルスの音楽的なこどもか、あるいは孫であり、他人であってもその影響を受けていない物は皆無と言ってもいいかもしれないのです。

別の言い方をするなら、自分にとってはジャズという音楽はマイルスから始まりマイルスで終わったのかも知れません。

そもそもの出会いは高校生の時。たまたまdisk unionという洋盤レコード専門店で手にした"Round About Midnight(1956)"のかっこよさに思わず、聴いたこともないのに購入したのが最初でした。自分が生まれる以前の、これはバリバリのハードバップ。

当時実際のマイルスは電化路線の真っ只中。1973年に来日し、当時は放送開始間もないFM東京がコンサートの模様を丸々流してくれたのです。伝統的なジャズと思っていたマイルスが、ロックもぶっ飛ぶハードな音楽をやっていて、そりゃもうびっくりしました。しかし、これはこれでかっこいい。

そして1975年の来日では"AGHARTA"というアルバムを置き土産にしてくれました。これがまたいい。レコードの解説には「住宅事情が許す限り大音量で聴いてください」と記されていました。親に怒鳴られながらも、素直に大音量で聴きまくったものです。

当時、高校のバンドでジャズをやることになって、マイルスの曲をとりあげたりしました。それも恐れ多くも、ジャズの金字塔"Kind of Blue(1959)"の冒頭の"So What"でした。マイルスの代表作の一つで、まぁ高校生が背伸びをしてよくやった物だと思います。

マイルスを聴き出すと、チャーリー・パーカー、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、ミルト・ジャクソン、ビル・エバンス、キャノンボール・アダレイ・・・といった、もう知らぬ人がいない面子がすべて含まれてくる。

さらにハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレット、ウェイン・ショーター、ジョー・ザヴィヌル・・・もう数えだしたらきりがありません。おかげて、どんどん深みにはまっていくわけです。

最近はいわゆるブートレグ(海賊版)が花盛りで、マイルスの知られざる演奏がどんどん表に出てきます。しかも、驚愕のサウンドボードからの録音と思われる高音質で、聴衆が隠れてマイクで録音するようなせこいものはほとんどありません。

その数は無数にあって、マニアとしてもその中からこれはというCDを選んで聴いていると、マイルスが死んでからすでに20年もたとうというのに、いまだに新しい驚きを楽しめるのです。

うーん、だんだん頭の中をマイルスが駆け巡りだした。こりゃ、今年はしばらくはマイルス再発見でしばらく楽しめそうです。

2010年1月28日木曜日

マイルス・デイビス

ジャズという音楽は、もともと奴隷としてアメリカ大陸に渡った黒人の間で歌われていた歌が起源。日本人には想像もつかないような差別を受け、教会で発展したのがゴスペル。一方、広大な綿畑やトウモロコシ畑で働かされ、フィールドで発展したのがブルース。

南部のニューオリンズで、それらが楽器で演奏する形態として完成したのがディキシーランド。その娯楽性がダンスに向いていたのてを、うまく取り入れたのがスイング。これは白人が主にクラシックなどの理論も取り込みながら、グレン・ミラーやべにー・グッドマンのようなスターを生み出しました。

精錬されスマートになった音楽から、黒人はあらためて感情の発露を見いだしたのが終戦後のビバップの誕生で、その偉大な牽引役となったのがチャーリー・パーカーでした。ブルースを基盤にして、アドリブによる気持ちの高ぶりを表現する手法で、ジャスを黒人の元に取り戻しました。

マイルス・デイビスはそんな時代に登場してきたわけで、チャーリー・パーカーと共にビバップを推進しましたが、あるときただひたすら自由奔放に演奏することに疑問を抱くことになります。

40年代の末に、いわゆるビバップに対抗してクールと呼ばれる、しっかりと編曲し形のしっかりとした形式のジャズを始めました。これが、白人には受け入れやすかったのか、カリフォルニアを中心にウェストコーストジャズとして、主として白人演奏家を中心に発展しました。

50年代に入ると、マイルスは自由が無くなった音楽にはすぐに見切りを付け、あらためてエネルギッシュにアドリブを展開し、より自由に激しく演奏するハードバップに移ってしまいます。

マイルスのもとには後にスターになるほとんどのミュージシャンが集まってくるようになります。おそらくジャズという古典的なスタイルの音楽としては、もっとも活気のあった時代だったのかもしれません。

50年代末になってくると、マイルスはまたもやハードバップの限界を感じて、よりいっそう自由なスタイルを模索し始めます。その解答がモード奏法であり、ジャズ史上の頂点に立つアルバム"Kind of Blue"の誕生となります。

しかし、ここから自由の極限に向かう音楽が生まれてきました。フリージャズと呼ばれる音楽は、もはやメロディもハーモニーもリズムもめちゃくちゃ。ひたすらエネルギーの放出をしているのです。

マイルスはこのフリージャズがもてはやされた60年代前半、古い音楽という烙印を押されてしまいます。しかし、60年代半ばから、フリーのエネルギーを取り込みつつ、マイルスのスタイルを無敵のクインテットで確立していくのです。

そして、60年代後半になるといち早く電気楽器の導入、しだいに人気が高まりつつあったロックへもアプローチし始めるのです。そして、またしても新しいフォーマットの金字塔である"Bitches Brew"を世に送り出しました。

もはや、いわゆるジャズという概念から飛翔して、「マイルス」というジャンルの音楽としか言いようがない世界を築き上げていくのです。この頃にマイルスのもとに集まったミュージシャンが、今で言うクロスオーバーとかフュージョンという音楽の最初のスターとなっていくわけです。

それまで怒濤の快進撃でしたが、70年代半ばに突然健康上の理由もあって、いきなり音楽会から姿を消してしまいます。一時は死亡説が流れるほどでした。マイルスはどうしたのか、まったく情報がなく、本当に長い5年間でした。

しかし、81年に奇跡のカムバックを果たしたのです。ここからは70年代の形式を一部踏襲しつつも、よりポップでメローな面が混入してくるのです。

マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーのポップ・チューンを取り上げたり、当時R&B系で人気のあったプリンスやロックバンドのTOTOとの競演など、より柔軟な姿勢が音楽に出るようになり、ついにはまだ出始めたばかりのラップでさえ取り込んだ音楽を展開するようになりました。

91年夏に突然、今までの自分の音楽の変遷を回顧するコンサートを行います。今では超一流と言えるそうそうたる門下生のミュージシャンが終結しました。ところが、その2ヶ月後まったく突然に体調をくずし他界してしまったのです。

結局、50年弱のマイルス・デイビスの活動によって、ジャズは隆盛を極め、そして衰退していったということが言えるかも知れません。そんなことをあらためて振り返りながら、これからしばらくはマイルスの残した音楽を時代を追って聞き直していきたいと急に思い立ちました。

2010年1月27日水曜日

あざみ野 うかい亭

かぜをひいたみたいです。今夜は卒業した大学の同門の先生かだとの食事会。
せっかくの「あざみ野うかい亭」でしたが、体調が悪くお酒はなし。早く帰ってきました。すぐ寝たいと思います。

2010年1月26日火曜日

フットケア

開業するまでは、自分の専門とする関節リウマチや手の外科の問題を除くと、腰痛と膝痛が最も外来で多い訴えでした。

ところが、今よく見る問題としては腰や膝はもちろんですが、いわゆる四十肩と扁平足がかなり多いのです。四十肩のことは、ついこの前書いてしまいました。扁平足については靴の問題にからめて書いてみました。

でもちょっと書き足りなかったので、もう少し考えてみましょう。

足の問題は根はけっこうひとつだったりするのです。足は細かい骨がいくつも組み合わさって形ができているわけで、それらをつなぐ靱帯は年と共に緩んできます。

また、足の形をたもつための細かい筋肉も弱くなってくる。その結果、どうがんばっても、足の形はくずれてくるわけで、体重の重みがかかってぺったんこになっていくことは、ある意味人間の宿命かもしれません。

骨の並び方は弓なりになっているのですが、弓に対して弦の役割をしているのが足の裏にある足底腱膜というすじ。ぺったんこになってくると、足底腱膜にかかるテンションが強くなってくるので、付着部のかかとの付近か、あるいは指の付け根あたりに痛みが出やすくなってくる。

かかとの腱膜付着部は、少しずつ骨が盛り上がってとげのように出てくることがあります。このようなものを牽引力による骨棘(こつきょく)といいますが、特に朝起きたときの最初の一歩が痛いんです。

一方、指の骨の並び方も横方向に弓なりになっていて、端の親指と小指に比べると真ん中の3本は比較的上に上がっています。これが落ちてきて横一列に並ぶようになると、横幅が広がってしまい幅広足、つまり開張足(かいちょうそく)と呼ばれる状態になってきます。

すると、指の付け根で骨が皮膚を刺激しやすくなるため、いわゆるたこと呼ばれる皮膚がやたらと硬くなってしまう状態が起こりやすくなります。また指と指の間を通る神経が締め付けられやすくなって、びりびりとした痛みが出やすくなります。

さらに横に広がった親指と小指は靴の中で押されやすくなるので、外反母趾、あるいは内反小趾とよばれるような問題を引き起こしてくるのです。また、爪も圧迫をうけて血流障害も加わって巻き爪ができやすくなる。

そんなわけで、年を取るのに従って順番にこれらの問題を起こしてくるのは、ある程度しょうがないことなんですが、困ったことに最近は若い人に多くなっている。これは靴の問題も大きいのは確かなのですが、一番は日本人が歩かなくなったことが大きい要因と考えられています。

我が家でも、近くのコンビニに行くにも車を使ってしまうわけで、とにかく10分歩くのも嫌がるようになってしまいました。足の中の細かい筋肉が発達しないため、こどもの頃から扁平足で、つま先立ちをする力が無くなってしまうのです。

二足歩行動物である人間の足が退化してしまっては、下手をしたら生物のとしての存在へも影響を与えかねません(って大袈裟ですけど)。足の問題は命には直接関わらないかもしれませんが、生活への影響が多いので無視できない。是非、みなさん足のケアを忘れないでください。

2010年1月25日月曜日

かつてのコードブルー

コードブルーを見ました。

いろいろ「ありえな~い」とか文句を言いつつも、やはりこういう救急の現場というのは、医者から見てもかっこいい。救急の生活から離れて10年たちましたが、いまだにある種の憧れが無いと言えば嘘になりそうです。

自分が育つた大学病院はかなり広い範囲の救急を担当していたので、次から次へといろいろなけが人が運ばれてきました。骨折が1カ所なんてことはまずなく、3カ所4カ所は当たり前。自分の経験では最大で23カ所の骨折があったというのがあります。

しかも、整形外科単独で診れる患者さんというのもめったにいないわけで、たいてい腹部外傷でお腹の中は血だらけ、頭蓋内にも出血して、腹部外科と脳外科と三つどもえで手術室に運んでいくというようなことが普通のことでした。

当時は、今の救急救命センターというようなもののはしりで、独立したグループが出来はじめた頃でした。ただし、実質的な治療はそれぞれの専門科が中心になって行い、そういう混成チームで協力していく体制が出来はじめた時代です。

ですから、結局そういう関係の深い科の先生とどのくらい仲良しかが大きなポイントでした。やはり、知らない先生とでは話がややっこしい。そういうわけで、前期研修医の時の各科のローテーションが大きな意味があったわけです。

自分は整形外科の他に外科、麻酔科、放射線科などを回った後に最期のローテーションで救命センターにいきました。そして、そのまま整形外科に入局して救命センターに入り浸りになっのですが、それまでに知り合ったいろいろな先生のお陰で随分と助かった物です。

整形外科の分野では直接死に至るようなことは少ないので、治療の順番としてはどうしても優先順位が低くなる。例えば、肝臓破裂で外科が緊急開腹手術をするということで手術室に入るとします。骨折の処置ができるのはお腹の処置が終わってからですから、ひたすら数時間待っていないと行けない。

やっと呼ばれた頃には、麻酔科も疲れていていまから整形外科なんて迷惑そうです。何カ所も折れていると、小さい物はもうかまっていられない。あとでもできそうなことは後回しにして、とりあえず今やっておかないと困りそうなことだけを片付けて、手術室から出ると朝日がまぶしいなんてことは日常茶飯事。

当然、そのまま朝から外来や病棟の仕事に入って、定時の手術もこなさないといけません。それから、救急の患者さんの様子を見に行って、追加の処置を考える。そしてまた夜間帯に・・・

まぁ、さすがにもうそんな生活には戻れませんね。若さと気力が充実してないと無理。たぶん今でもなんとか対応できるかもしれませんが、少なくとも体力はもたないでしょうね。もしもドラマのような若い医者になれるなら、それも医者としては楽しいのかも知れないのです。

それにしても、このドラマ。みんな人生重すぎません?

2010年1月24日日曜日

Pietro Spada / John Field Complete Piano Works

ジョン・フィールドという人、あまり知られていない。う~ん、誰だ、それ。

名前が安っぽいせいか(いや、失礼)、19世紀の初頭に活躍した方なんですが、クラシックの作曲家としては佐藤太郎みたいな名前で、なんともインパクトが少ないのです。

しかし、知る人ぞ知るみたいなもので、実は「ノクターン」の創始者としてピアノ界では大変有名なのです。ノクターンというのは日本語では「夜想曲」。ほとんどショパンの代名詞のような感じですが、他にはフランスのフォーレやドビッシーのものが有名。

最初は名前からしてアメリカ人かと思っていました(確かアから始まる国の出身だと思ってたんです)。でも、なんか違うなぁと思って、調べたらアイルランドの間違い。アイルランド好きの人からは怒られそうです(ゴメンナサイ)。最後はロシアに渡って無くなったようですが、やっばりヨーロッパのテイストでした。

以前から、自分の頭の中では聞くべき音楽リストに含まれていた物の、何となく後回しになっていて、最近やっと手に入れました。

マニアが喜びそうなピアノ独奏録音が多いピエトロ・スパーダの演奏による独奏曲全集で、1996年に発売されたCD6枚組になります。最近廉価版レーベルのBrilliantからピアノ協奏曲全集が出たので、併せていつものHMVでそろえてみたわけです。

さて、その有名なノクターンは全部で19曲あって、その大多数が長調で書かれているというのも面白い。下手な演奏だと、ただのサロン・ミュージックになってしまいそうです。スパーダの演奏は、甘すぎず適度に抑制がきいていて、安っぽくなっていないところがいい。

ベートーヴェンの深遠な世界もいいのですが、ショパンのロマンチックな響きも悪くない。リストの超絶を満喫してもいいし、シューベルトの深刻な顔を思い浮かべたり、シューマンの妻クララとの愛の語らいを想像してもいい。でも、あまり寂しくない一人の夜はフィールドが合いそうです。

2010年1月23日土曜日

冷湿布と温湿布

「冷湿布をすればいいのか、それとも温湿布がいいのか」

これも外来をしているとよく聞かれる質問。最近は、テレビのCMでも、有名俳優を使って大手の製薬会社がしきりと湿布の宣伝をよくしています。そういうところでも、中に含まれている薬の有効成分を強調しているのを皆さんもお聞きになると思います。

実際、今時医者が処方する外用薬で冷湿布というものはほとんどない。消炎鎮痛剤が含まれていて、それが皮膚を通して患部に浸透して効果を期待するわけです。

冷湿布と言っている物はメントール成分で、温湿布と言っている物はトウガラシ成分で、それぞれひやっとしたりほかほかしたりするわけで、実際に温度変化をそれほど起こすわけではありません。

まぁ、どっちでもいいと言ってしまうと身も蓋もないのですが、一般には急性の痛みに対しては冷却、慢性の痛みに対しては温熱がいいわけで、その辺で選択してもらえば間違いはありません。

湿布剤というのは、日本では比較的歴史があって、実際によく使用されていますが、国によってはまったく信用されていないところもあるようです。確かに皮膚から吸収できるものというのはたかがしれています。

しかし、確かに効果は認められていて、多くの方がその恩恵にあずかっていることは間違いありません。でも、痛いところをすべて隠すように大量に貼ったりするのは無駄使いです。以前は5日分までしか一度に処方できませんでしたが、今はいくらでも出すこととができるため、よけいに使用量が増えてしまったように思います。

含まれている消炎鎮痛剤の成分に対してアレルギーを起こしたり、喘息発作を誘発したりすることがまれにありますが、薬としての副作用は少ないと言えます。ほとんどの副作用は皮膚のかぶれ。とくに日に当たるとよけいに起こりやすくなったりすることがあります。

かぶれの原因は湿布の基剤に関係しているので、皮膚によくくっついてはがれにくい物ほど起こしやすい。結局、どれを使ってもそうは大差がないので、臭いのする物しない物、厚めの物薄めの物、白い物肌色の物、付きのいい物悪い物などなどなど。貼る場所によって、うまく使い分けたい物です。

2010年1月22日金曜日

おしゃれ靴

女性はおしゃれな靴を履きたい。うん、当然の欲求です。藤原紀香がドレスに下駄ではさまになりません。

ところが、おしゃれな靴ほど、靴の真ん中がきゅっと細くしぼってあります。体重がぐっと乗ったときに、土ふまずがかなり落ち込んでしまい扁平足が強調されます。

おしゃれな靴はかかとが高くて細い。足が前にすべって指が圧迫を受けやすい。ぐらぐらしやすいので、足首の捻挫も起こしやすいわけです。

おしゃれな靴ほど、先が細くしてあります。これね指の圧迫、特に母趾を押さえてしまうので、外反母趾や巻き爪の原因になりやすい。

う~ん、やはり藤原紀香には下駄を履いてもらって、足を悪くしないように啓蒙活動をしてもらうほうがいいかもしれません。

理想的には、いわゆるローファーがいい。ローファーというのは靴紐のない、脱いだり履いたりしやすい靴のこと。そんなことからか、「のらくらした怠け者」という意味もあるらしいのですが、アイビーファッション(古い!!)にはマストアイテム。

だいたい女子高校生くらいだと定番の通学靴ですから、皆さん履いた経験はたいていあるはずです。おしゃれは、ここぞと言うときにすることにして、普段はできるだけ足のことも考えてもらいたいものです。

おしゃれ優先では、現代の運動不足の足では必ずいろいろな足の問題を起こしてきます。いつまでも履きたい靴が履けるように、ちょっと考えてみてください。

2010年1月21日木曜日

突き指

突き指しちゃったぁ、と軽く考えてそのまま痛くても我慢してほったらかし。こんなことは誰でも経験があることです。もちろん、たいていの場合は打ち身的な痛みとか、軽い捻挫程度で治ってしまうことでしょう。

でも、突き指を放置して、結局指が曲がってしまったという方もけっこういるんです。動きが悪くなったり、力を入れると痛みが残っていたりで、日常生活でも不便を感じることがしばしば。

突き指というのは、いくつかのパターンがあります。軽傷は打撲・捻挫で、これは数日間腫れて痛みますが、無理しなければ1週間程度でおちつくでしょう。

指を横方向へひねったときは、関節を横にぐらつかせないようにしている靱帯を痛めてしまいます。最悪は靱帯断裂。これは手術が必要になることも珍しくはありませんが、たいていは初期にしっかりと数週間の添え木による固定をすれば、たいていは大丈夫。

さて、問題は指を動かす筋肉の紐の部分、つまり腱を痛めた場合と骨折を伴っている場合です。このような場合を槌指(つちゆび、英語だとMallet Finger)と呼びます。指の長軸に強い力がかかって、関節が急激に曲がりすぎたり伸びすぎたりして起こります。

その際に腱が骨についている部分から断裂した物を腱性槌指、腱がついている部分の骨がはがれた物を骨性槌指と言います。いずれの場合も後で動かしたくても、力が伝わらないため動かせず指が曲がったままになってしまいやすい。

骨性槌指はレントゲン検査で診断が突きやすく、骨のずれが少なければ指の固定の位置を調節してなんとかなることが多い。しかし、あまりに距離が開いてしまうと手術で治すことが多くなります。でも、骨と骨はくっつきやすいので、比較的治りは悪くありません。

問題は腱性槌指の場合です。まず、一見レントゲンでは異常が無いため、診断が遅れることがあります。また、腱と骨は容易にはくっつかないので、固定期間が長く、結局手術が必要になることも少なくありません。

手や指の問題は、ちょっとことでもけっこう不便が生じる物ですから、けがを軽く考えずにいてほしい物です。治療は早く始めるにこしたことはなく、数週間たって「まだ痛いんだけど」という場合はもう治せないことだってあるんですよ。

2010年1月20日水曜日

四十肩

自分がクリニックを開いている横浜市都筑区は、住民の平均年齢が低いことでは全国的にトップクラス。

だいたい平均40歳というのは、高齢化社会と言われている今の日本では「異常」事態かもしれません。だからというわけではないでしょうが、どうもやたらと四十肩の患者さんが多いように思います。

四十肩、あるいは五十肩というのは、正確には病名ではありません。これは症状に対する名前なんです。

肩関節の付近の骨、関節、筋肉などに何らかの原因があって炎症を起こして痛みを伴う状態が肩関節周囲炎と呼ばれ、それが四十代から五十代に起こりやすいことから使われるようになりました。

ですから、正確には原因によって病名はいろいろですが、出てくる症状はだいたい同じになります。おそらく原因はそれほど長く続くわけではなく、だいたいは数週間から数ヶ月でおさまっているのではないかと思います。

肩関節を動かすための筋肉は、腕を自由に動かすために多くの負担を受けるのです。少しずつ筋肉は痛んですり減っているのです。そこへ中年になってきて筋力低下が出始めると、いよいよ四十肩の始まりです。

痛みが出ると、痛みのために腕を動かしません。動かさないために、筋肉は萎縮してさらに弱くなり、肩関節は固くなってしまいます。そうなると動かしたくても動かせないわけで、無理に動かすとますます痛みを感じることになります。そして、さらに動かすことをしなくなる・・・

というわけで、どんどん肩周囲の筋肉は弱く固まってしまう悪循環に陥っていくわけです。ですから、治療で最も大切なのはこの悪循環を断ち切って痛みを減らしつつ、しっかりと動かせるようにするためのリハビリテーションをすることなのです。

でも、ここで間違えてはいけないことは、やたらと動かしてはいけないということです。動かせと言ったり、動かすなと言ったり、いったいどっちなんだよ、という患者さんの声が聞こえてきそうです。

これはどういうことかというと、動かし方の問題なのです。固まって縮こまっている筋肉を自ら動かすと、さらに筋肉が収縮するので逆効果なのです。どんどん痛い肩を動かそうとしてはいけないのです。

では、どうするかというと、一番簡単なのは自分は力をできるだけ抜いて、誰かに動かしてもらうことです。筋肉に力を入れずに伸ばすことができれば、効率的に筋肉を柔らかくすることができるのです。

協力してくれる誰かがいればいいのですが、なかなかそうもいかない。自分でする方法は、皆さん病院で説明を聞いてくださいね。ここでは、一言で簡単に説明しておきますが、要するにストレッチをしましょうということなんです。

どうしても力が入ってしまうので、けっこう自主トレは難しい。時間がかかればかかるほど、その間に筋肉は固まってしまうので、できるだけ効率的なリハビリテーションをして治せるうちに一気に治しまょう。

2010年1月19日火曜日

床ずれ

褥瘡・・・なんとも難しい漢字です。

「じょくそう」と読みます。いっぱんによく知られている呼び方は「床ずれ」です。

これは普通の健康な方には起こらない病気なのです。どんな方に起こるかというと、主に「寝たきり」の人。

人間の体は血液が流れて栄養を供給しているわけですが、圧迫すると血流が無くなる。ほら、自分の皮膚をどこか強く押してみてください。白くなるでしょう。それは。圧迫で血流が途絶えるから。でも圧迫を離すと、すぐにまた赤味が戻って大丈夫。

ところが数時間圧迫が続いてしまうと、体の組織は壊死を起こし始めるのです。そうなると、もう元には戻りません。寝たきりの人は、ずっと体を寝床に押しつけているわけです。

骨と皮膚の間に皮下組織や筋肉のようなクッションになるものが少ない場所では、血流が無くなることで組織の壊死か起こりやすく、それを「床ずれ」と呼ぶのです。特に起こりやすいのは、お尻の真ん中、かかとなどです。

自分は医者になって5年目に、脊髄損傷専門病院に赴任していました。脊髄損傷の患者さんは麻痺を起こしている場所に知覚がありません。ですから、長時間の圧迫で痛みを感じないために、容易に床ずれを作りやすいのです。

ですから、1年間の間、手術と言えば床ずれ。ひたすら、壊死組織の切除、床ずれをふさぐための手術(皮弁、筋皮弁作成、皮膚移植など)をやっていました。そのころは、整形外科としてはなんともつまらない手術と思っていましたが、後にそれがいろいろなところで役に立ちました。

それはともかく、褥瘡治療に残念ながらBESTはありません。褥瘡をカバーするいろいろな材料がありますし、壊死部の組織を盛り上げるための薬剤も様々のものが使われています。

そのいずれもが決定打にはなりません。もっとも決定打があれば、いろいろなものが使われていませんよね。ですから、結局自分の結論は、褥瘡を治すのは「愛」ということになります。

毎日、褥瘡をきれいに洗浄して細菌の感染を防ぎ、壊死組織を再生させめために刺激することが大切です。愛無くしてはできることではありません。

とにかく病棟業務の中では「褥瘡作るのは恥」とまで言われるくらいのものですから、作らないように最大の注意を払いたい物です。

2010年1月18日月曜日

コードブルー 2nd Season スタート

あ~、やっぱり医療ドラマは、どうもあらが見えていまう。

こいつら救急救命専門のくせに、脳腫瘍の手術するんかい。壊死生筋膜炎は、進行はもっと早くて、切断よりももっと早くに壊死組織の切除をするだろう。いくらなんで、現場で手術なんてあるんですか。そんなに切羽詰まった医者ばかりで、ちゃんと仕事できるんかいな。

まぁ、いろいろありますが、とりあえず整形外科医、それも救急車と15年間格闘した医者としては、このドラマの医者がうらやましい。

開胸心臓マッサージもしたことがありますし、血だらけの中で患者さんを救ったこともあれば、力及ばず患者さんが亡くなったこともあります。

こういう状況で、精神的には一杯一杯に高揚した雰囲気は、ある意味くせになる。人を救うための仕事を選んだからには、もっともわかりやすくその成果が問われる環境なのかもしれません。

もちろん、それだけが医者ではなく、今の自分のやっている仕事も医者の大きな側面であることは間違いありません。救命ばかりをやっていると、命を救うことだけに気持ちが行ってしまうものです。

今日のヤマピーの台詞、「助かった患者は忘れろ。助けられなかった患者だけ覚えておけ」というのは、含蓄のある言葉です。この台詞を考えた脚本家はすごいかもしれません。

確かに自分も医者になって最初の頃、亡くなった患者さんのことはよく覚えていました。そういう患者さんが、医者としての自分を育ててくれるのです。

まぁ、ぶつぶつ文句を言いながらも、時間があるときには続けて見たいドラマですかね。

2010年1月17日日曜日

ギックリ腰

寒くなってきたせいなのか、最近腰痛の人がずいぶんと多い気がするんですよね。腰痛は人間が二足歩行動物になった関係上、切っても切れないお友達みたいな物ですが、それは椎間板(ついかんばん)の関係です。

背骨は1本の長い骨ではなく、だいたい4cmくらいの椎骨(ついこつ)がつながってできている。その椎骨と椎骨の間にあるのが椎間板。

周りを皮でつつんで中にあんこが入っているおまんじゅうみたいなもので、いろいろな衝撃を吸収したり、背骨を曲げたりひねったりする働きをしているわけです。

腰より上は肋骨がついて補強されているし、腰より下は骨盤の中でひとかたまりになっているので構造的には強い。腰の部分は必然的に動きが大きくなり、柔らかい椎間板は痛みやすいということです。

特に立ち上がった姿勢は上半身の重みを絶えず受けているために、椎間板は年と共に痛んでいきやすい。さらに中腰や前屈みの姿勢になると、腰にかかってくる負担は上半身の重さの数倍になるので、背筋力が低下しているとひとたまりもなくギックリ腰を起こすのです。

何か思い物を持つとその分を加わって、腰にかかる重さは数百キロにもなることがあります。当然、体重が増えても同じこと。

筋肉に負担がかかりすぎて痛みを出しているような場合の方が多いので、たいていは1週間くらいで落ち着いてきます。

痛い間は1に安静、2に安静、3・4も安静、5に安静。姿勢をまっすぐにして、寝ているか立っているかで我慢しましょう。痛みがひいたら、後は腹筋・背筋を鍛えて何とか自分の背骨を支える力を復活できれば大丈夫。

椎間板に負担がかかって痛みを出した場合は、痛んだ椎間板が骨の枠内から飛び出してしまうことがあります。こういう状態を椎間板ヘルニアと呼ぶわけで、たいていは後ろに飛び出て足に向かっていく神経をいじめてしまうのでたちが悪い。

お尻から太ももの後ろ側、そして膝の外側からすねの外側をおりて足の甲に痛みやしびれを出すようになると、いわゆる坐骨神経痛という症状です。

さらにひどくなると触っている感じがわからなくなったり、力が入らないために足が下に下がって地面にひっかかりやすくなったりします。こうなると手術も視野に入れておかないといけないし、程度が急で強い場合には緊急手術が必要な場合も出てきます。

20代、30代の方はよほどの運動不足でなければあまり心配はありませんが、40代くらいからは筋力低下は必ず出てきています。なんとなく腰が重いと思ったら注意信号です。あまり自信を持ちすぎて重たい物をいっきに持ったりしないようにした方がよさそうです。

寒いと筋肉が縮こまってよけいに力が出にくいので気をつけましょう。普段の姿勢に注意して、猫背気味になってきたと気が付いたら早めに筋トレをしましょう。

2010年1月16日土曜日

腱鞘炎

腱鞘炎というのもoveruse(使いすぎ)病の代表的な物ですよね。

これだけパソコンや携帯電話が普及すると誰でも多少なっているものです。だいたい指の付け根、手のひら側が痛い、時には腫れている。これは指の曲げ伸ばしが原因。

手首の親指側に痛みが強い場合も多くて、これは親指の力の入れすぎ。赤ちゃんの世話で新米ママなどに多い。

スポーツでなるのはむしろ手首の小指側に多くて、この場合は手を回すのがつらくなったりします。

いずれにしても、数週間安静をしっかりととれれば治るんでしょうけど、実際安静にできない事情があるから腱鞘炎になるわけで、簡単に安静にできる人は腱鞘炎にはならないでしょう。

ですから、たいてい痛いまま原因となる作業を続けて慢性化してしまうことが圧倒的に多い。

指の付け根の腱鞘炎では長期になってくると、指がかくかく動くようになって「ばね指」という状態になってしまいます。また、さらに指の関節が固くなってしまうと、もっと治りが悪くなるわけで、命には関わらないかも知れませんが生活の中での不便はけっこう増えてしまいます。

こうなってくると手術が必要になることが多いわけで、正味10分間程度の局所麻酔の手術ですが、そりゃやらないにこしたことはありません。

携帯いじりまくっている人、子育て初心者の人、スポーツで力みまくっている人、みんな気をつけてくださいね。

手だって、ちょっと休ませてあげてください。体の中で、最も細かい動きを一日中している場所ですから、本当はいつでも悲鳴をあげているのかもしれませんよ。

2010年1月15日金曜日

テニス肘

テニス肘というのは、上腕骨外上顆炎という病名が正式の物です。でも、テニス肘の方が通りがよいので、説明するときも患者さんの理解が早い。

もちろん、テニスだけで起こるわけではなく、いろいろな理由があるわけで、基本的には「使いすぎ(overuse)」が原因。

手首を上に向けたり(背屈)、指を伸ばす(伸展)動作をするための筋肉が肘の外側の骨の出っ張りにくっついている。そういう動作をし過ぎると、筋肉の収縮によって肘の外側を引っ張る力が集中してくるために、そういう物理的なストレスによって痛みが出てくるわけです。

そんな難しい話はともかく、典型的にはテニスの中では、手首をこねるような打ち方をする人に出やすい。だいたいスポーツで体を悪くするときは、どこにどんな痛みが出るかを考えると、何がいけないのかは想像できることが多い。

ドライブ打ちをしたくて思いっきり手首をくいっと回す時に、一度後ろに手首を持って行く動作が背屈になるわけです。

昔のウッドラケットの時には、ラケット面の中央のスイートスポットにボールをしっかりととらえることができないと、ボールをちゃんと飛ばせない。ですから、非力な人は手首の力を思わず使ってしまうことで、肘の外側の痛みを出すことが多かったんですね。

ところが、最近のラケットはどこに当たっても飛ぶようになって、パワーヒットがしやすくなった。逆に横着して、しっかりとテイクバックやフォロースルーをしなくなったのでしょうか、最初から手首の力だけでコントロールするような打ち方が多くなったように思います。

いずれにしても、一度痛くなると日常的な動作でも負担になってしまいますから、慢性化しやすくなかなかよくならない。2週間くらい、一切動かさないようにできれば・・・って無理ですよね。

とりあえず、いつでも手のひらの自分の顔に向けて使うようにしてみましょう。パソコン使う人は、キーボードの手前に高めのリストレストを置いてみましょう。とにかく、無理な打ち方をせずに、きっちりとラケットフェースを作って、スピンは膝の上下動で行うように心がけることが大切です。

痛みを出して、テニスができなくなったらつまらないですから、ちょっと気にしてみてほしいと思うわけです。

2010年1月14日木曜日

家庭教師とか塾とか・・・

告白します・・・っていうほどの大袈裟なことでもないのですが、小学校の時、たぶん6年生のときでしたか、家庭教師に勉強を教わっていたことがあります。父の友人の息子で、おそらく大学生だったのだと思います。

その家庭教師の先生から、クリスマスプレゼントにサイモン&ガーファンクルのレコードを貰ったことがありました。今でもよく聴く音楽の一つとして残っているのです。家庭教師が来ているというのは、なんとなく恥ずかしい感じがして大っぴらに話すことはありませんでした。

高校生の時、近くの塾に行くようになったのですが、学校が違うのでやりにくいと言われて「くび」になりました。今時ではあり得ない理由だと思います。

そこで、同じ学校の友人が行っていた中目黒の塾に行くようになりました。渋谷から東横線に乗って行くのですが、帰りは友人と一緒に渋谷まで歩くのがたのしみでした。というのも、途中に100円ラーメンがあって、きまってこれを食べるのです。

自分が大学生になってみると、なんかしらバイトをしたくなるわけです。ところが、医学部というのは必修科目が多くて、なかなか余分な時間がありません。真っ昼間にアルタに集まる大学生なんて信じられない思いでした。

そこで、やはり家庭教師のバイトが一番手っ取り早い。なんと化学の先生をしていたことがあります。普通は数学とか英語が求められるわけですが、化学というのはあまりないですよね。自分でも自信があった科目と言うことです。

でも、それも1年だけでした。次の年は中学生の塾の先生をしていました。これは科目は何でもやりました。これは、さすがに楽勝でしたが、数学の幾何だけは予習しておかないとすぐには答えられませんでしたね。

医学部も3年生以降になって専門科目が増えると、もうそんなことをやっている余裕はなくなりました。

大学の正職員になると、「教員」という扱いになって、多少授業とかやるようになるのです。ところが、さすがに教育学の授業なんて受けたこともないし、当然教員免許も無いわけですから、人に教えるというのはあらためて大変だと思うわけです。

さて、こどもが塾に行くようになると、やはり学校だけでは勉強が完結できないのは、本人のせいか、学校のせいかとか親としては考えないわけにはいかなくなりました。

集団の塾、個別の塾など、なかなか思ったほどの効果がないようで、ただ行けばいいというものではないようです。でもって、結局家庭教師に来て貰うことになりました。

あとは用意した勉強の機会をこどもがどれだけ効率的に利用してくれるかということです。あとで苦しまないために、今のうちにしっかり勉強してくれれば親としては何も言うことはありません。

何にしても、教わるのも教えるのも教育は難しいものです。どうか、こどもたちは勉強がいくらでもできるうちに、しっかりと勉強してくださいね。勉強がしたいときには、なかなか時間がないものですし、だいいち質問とかできる相手がいないものなんです。

2010年1月13日水曜日

いそぎんちゃく

今日はイソギンチャクの話。写真が無い・・・まぁいいか。

イソギンは水槽で飼育するのは大変らしい。実際、最初のハタゴイソギンチャクは2週間、次の(高価な)ハタゴイソギンチャクも2週間でだめになってしまいました。管理が悪いといわれればそれまでですが、別の理由もありそうです。

イソギンチャクは採取されるときに薬物採取をしているものが多く、すでに弱っている個体が多いらしいのです。また、イソギンチャクは褐虫藻という生物が体内にいて、これが栄養を与えているのです。

ですから、光で光合成をしないと元気になれない。「もっと光を」というのは、まさにイソギンチャクのための言葉かも知れません。ですから、白くてきれいなものほど褐虫藻が少なくて弱々しい。

ところが、今水槽にいるのはシライトイソギンチャク。これは、もうじき2ヶ月経過するのです。ちょっとすごいことかもしれません。白糸というわりには色が濃くて、いかにも褐虫藻がいっぱいいそうです。そのせいか今までの中で一番元気。

イソギンチャクは縮んだり膨らんだりするのですが、縮むと直径わずかに3cmちょっと。ところが、膨らむと直径15cmくらいになるのです。

夕方以降、電気を消すと一気にしぼんでしまいます。朝になるとまたふくらむこみたいです。その大きさのギャツプがなかなかすごい。朝見ると死んでしまったかと思うほど縮んでいることがあります。

でも、この大きさの変化がちゃんとできことで、体内の老廃物を出したりするわけですから大事なことらしいです。薬物採取された個体はなかなかちぢんたりできないらしい。

ですから、とにかく、うちの始まって間もない水槽の中では、今でも元気なのは奇跡に近いのかもしれません。あとは仲良しのカクレクマノミが落ち着いてくれればいいのです。

そんなわてげ、毎日カクレクマノミのペアが売られていないか、通販サイトをチェックするのでした。

2010年1月12日火曜日

大学受験の季節

寒いですねぇ。雪でも降りそうな感じです。この時期は天気が悪い。

今週末は大学入試を目指す人にとっては、センター試験があるわけで、この頃は毎年雪で受験生が大変な思いすることが多い。

自分が受験をしたのは・・・もう、かれこれ30年以上前の話。当時は、国立は一期校と二期校に分かれていた時代の最期の年でした。まぁ、現役で合格できなかった自分は、さらに翌年共通一次試験最初の年を迎えることになるわけです。

そのころ親から医学部を受験しろと言われて猛反発していたので、高校三年生の秋まで文系で行くんだといきがっていました。勉強していたのも地理とか歴史なんかの医学部受験とは関係ない科目ばかり。

当時は私立の雄である慶應義塾は倍率40倍を超える難関で、とても合格するわけはないので、現役でしか洒落で受験できないとか言っていました。実際自分が入学した東海大学でさえ20倍で、こりゃ大変だと思っていました。

まぁ、当然のように、楽しい浪人生活に突入したわけです。代○木ゼ○ナ○ルを学びの場所にして、朝でかけていきました。昼からは渋谷の繁華街まで歩いて行って、道玄坂の百軒店にあったジャズ喫茶に場所を変えていました。

そこで、数枚のレコードをリクエストして、一杯のコーヒーで数時間ねばってから家に帰るというのが日課。受験の勉強もしましたが、ジャズのいろいろなアルバムを聴いて、なんとなく大人に近づいたような錯覚をしていたのかもしれません。

今から考えると、随分と時間を無駄に費やしていたのかも知れません。親にも心配をかけたんでしょうね。それから考えれば、今の受験生の方がよほど真面目なものです。

成人式というのも、ですからまったく記憶にない。当然出席してませんし、案内があったのかどうかすら覚えていません。

ですから、大学に入学できてからはこれ以上時間を無駄にするわけにはいかないという気持ちで勉強しました。医学部6年間のなかで数回の再試験の経験はありますが、最期の国家試験までノンストップで駆け抜けたと思います。

とにかく大学受験の季節になると、真面目でなかった浪人時代を思い出して、今の受験生にエールを送りたい気持ちになります。

2010年1月11日月曜日

Alice Sara Ott / Liszt's Etudesd'execution transcendante

ピアノの詩人がショパンなら、フランツ・リストはピアノの演奏技法の限界に挑戦したとも言える作曲家。どうしてもテクニカルな部分に目がいきがちですが、リストの曲にはショパンに負けないくらいロマンチックなものがいろいろあるわけで、どちらかというと、自分はリストの方が好きなんです。

でも、リストの数ある曲の中でも、まさに「超絶技法練習曲集」と題された12曲については、バイオリンを目指す人がパガニーニの24のカプリースを制覇したいと思うのと同じで、ある意味ピアニストにとってのエベレストではないでしょうか。のだめが偉い先生に認めてもらいたくて、思わず弾いてしまい失敗した曲です。

これまでにも名演・迷演が数多くありますが、印象に残っているのはベルマンの演奏。剛力で弾き倒すような凄まじい演奏で、まさにピアノと格闘してねじ伏せたかのような熱演です。

ところが、2008年末になんともあどけない顔をした女の子のアルバムが発売されました。クラシック音楽の世界もアイドル的な存在がいるわけで、これもそういう一人かと思っていたら、いやいや恐れ入りました。なかなかあなどれない演奏で、こりゃ可愛いだけではないぞというところを世界に知らしめたのです。

アリス=紗良・オットは1988年生まれというので、今年22歳。父親はドイツ人で、母親が日本人。道理でちょっと和風の顔だと思いました。5歳から様々なコンクールで優勝しまくって、ドイツ・グラマフォンからいよいよメジャー・デヴューしたのがこのアルバムという強者です。

昨年は第二弾としてショパンのワルツのアルバムを早くも発売し、今年も新年早々にチャイコフスキーとリストの協奏曲を発表しました。そして、2月末の東芝グランドコンサートで来日しそのチャイコフスキーの協奏曲1番を実際に演奏することになっています。

もちろん実際に聴きに行くわけにはいかないのですが、やはり注目の若手ピアニストですから、今後の活躍をふくめて大注目なのでした。

2010年1月10日日曜日

ちょっといい話

知識と経験が多いほど、変化の阻害要因である
by 日本マクドナルド社長 原田 泳幸

なるほど、偉い人が言うことはなかなか含蓄があって、思わずなるほどと思ってしまいます。

原田泳幸氏は自分より10歳年上。自分と同じ東海大学の卒業で、もともとはアップルコンピュータの社長だった人。ヘッドハンティングで移籍した際には、「マックからマック」へと言われたそうです。

この言葉は今朝のテレビ番組で言っていたのですが、「勉強は体に悪い」という話を受けて発言したものです。ある程度の勉強によって知識を持つことは大事なことで、原田氏も勉強をしなくてもいいというような主旨での発言ではないでしょう。

しかし、ある程度自分のやり方が決まってしまうと、なかなか人は変革することを望まなくなり、今の安定の中に安住してしまう物です。それはまったくの平和な社会ではいいかもしれません。

社会的に不安定な今のような時代は、物事がいつでも安定しているとは限らず、思い切った改革が必要となる場合が確かにあります。その身近な例の一つは「小泉改革」と呼ばれていたものでしょうし、多くの阻害要因があったことも間違いありません。

小泉改革の失敗は、離陸したままで、着陸せずにパイロットだけがパラシュートを持って脱出したことにあると思います。それは今日の話とは別のところですので、置いておきましょう。

実際のところ、知識と経験というものは、一定の先入観を生み出します。固定観念という言葉で言ってもいいかもしれません。一度この枠組みの中に入ってしまうと、抜け出すことは大変に難しい。

しかし、袋小路に入ってしまい、にっちもさっちも行かなくなったとき、斬新なアイデアを思いつき実行することができるかどうか。その辺が成功する方法の一つであろうことは容易に肯定できることです。

そういう柔軟な思考回路を持つことを、原田氏は勧めているわけでしょう。普通の人である自分には、なかなか簡単にはいきそうにありませんが、とりあえずちょっといい話を聞いたなと思ったのでした。

2010年1月9日土曜日

もうすぐ成人の日

うちの娘があさって成人の日を迎えます。もっとも誕生日は去年のうちにきてますから、すでに二十歳にはなっているわけです。生まれたのは平成元年で、昭和を知らない世代です。

最初のこどもだったので、かみさんは実家に帰っていたのですが、生まれたという連絡を受けてすぐに休みを1日をもらってでかけました。

ところが、その時は最初の東名高速道路の集中工事のまっただ中だったのです。いつもなら、3時間くらいで行けるところなのですが、8時間くらいかかってやっと着いたのです。

それからというものの、親ばが全開で、合う人ごとに「うちの娘は世界で一番可愛い」と言い回っていました。

次第に大きくなって、幼稚園、小学生、そして中学・高校となって、ついに大学生です。

こどもが大きくなることは、親としての自分の成長と同じことなんです。別の言い方をすれば、こどものおかけで自分も成人の日を迎えることができるのかもしれません。ありがとう。

これからは、自分に責任を持って行動する大人の仲間入りです。人に対して恥ずかしいようなことがないように育ったでしょうか。こどもは親の鏡。こどもがどんな風に成人したかは、親の責任です。

将来、親になって自分のこどもがいたら、その時に自信をもって親であったら、その時に答えがはっきりすることでしょう。

2010年1月8日金曜日

お詫びと反省

正月特需とでも言うんでしょうか、年が明けてから連日、診察で喋り続けです。正直、かなり疲れます。患者さんとちょっと雑談などをして息抜きしたいのですが、待っている患者さんがいるとなかなか無駄な時間を使うことができません。

昨日と今日と連日にわたって、来院した患者さんを電子カルテの来院リストにのせるののを抜かしてしまうと言う大きなミスがありました。患者さんは、それぞれ本来の順番より数人後回しになってしまい、1時間近くお待たせしてしまうという失態をしてしまいました。

ご迷惑をおかけした患者さんには、心からお詫びを申し上げます。忙しかったからというのは理由になりません。さぞかし嫌な思いをしたことと思います。今後、このようなことがないように十分に注意をしたいと思います。

また、腰の牽引治療で待っていた患者さんが、順番がなかなかこないということで帰られてしまいました。これも、待っている方への配慮が足りなかったということを深く反省しています。あと、何分くらいお待ちください、というような案内があればよかったと思います。

新年早々いくつかのミスがあり、けっこう気持ちがへこんでしまいました。よりいっそう疲れにも拍車がかかるような感じがします。ふだん当たり前という感じで、なにげなく行っていることにも、あらためてよく点検をして間違いがないようにしないといけません。

クリニックでは患者さんの命にかかわるような医療行為はほとんどありませんが、どこに事故が潜んでいるとも限りません。事故の防止が最も大切であることは言うまでもありませんが、事故はある程度の確率で必然であり、その時に適切な対応ができることも同じくらい重要なことです。

明日からの診療で同じようなミスが無いように、心を引き締めてかかりたいと思います。どうか、気が付いたとがありましたら、遠慮無くお申し出ください。

2010年1月7日木曜日

松の内

七日と言えば七草・・・っていう話題は、もう書いちゃったので、さすがにやめておきましょう。

正月というと、だいたい全国的に三が日と呼ぶ元旦、二日、三日まで。7日の今日までは松の内と呼んで各家の入り口には松飾りというのが一般的・・・

かと思っていましたが、もともとは15日までが松の内らしい。まぁ、年賀状もさすがに明日からは寒中見舞いとするほうが無難ですよね。

松の内は松飾りをしている期間と考えると、はずした松飾りを焼いて健康を祈願するのがどんと焼き。どんと焼きはだいたい15日に行われることが多いようなので、やはり15日までが松の内とするのが正しいのでしょう。

以前は15日が成人の日で休日だったので、どんと焼きの行事もやりやすかったのでしょうが、成人の日がずれてからはどんと焼きの日程も早まっているようですね。

ところで、松飾りはいつからいつまで飾るかってことも実はよく知りませんでした。クリスマスツリーがかたづけたら、もう飾っていいらしいです。まぁ、外国の風習のクリスマスと日本の風習の松飾りが混ざっていること自体、ほんまかいなという感じがしないでもありませんが。

29日は苦に通ずるのでダメ。31日は一夜飾りと言ってやはりダメ。ということは26日、27日、28日、30日ならOKということです。一方、取り外すのは七草がゆを食べたらはずすということらしいので、やはり7日の朝ということらしい。

まぁ、そんなことをいろいろ考えていたら、つまるところ正月気分は今日で終了ということですよね。

特に正月らしいことをしたわけでもないし、こだわってもいないのですが、もともと日本人としての常識といえることですから、まったく知らないでは恥ずかしいことかもしれませんね。

2010年1月6日水曜日

初夢と焼きそば

・・・って、関係ありません。

初夢は元旦の夜に見る夢ですが、実際のところ見たかどうか覚えていません。そこで記憶に残る年の最初の夢を初夢と拡大解釈するなら、昨夜の夢が初夢と言うことになります、

でもって、どんな夢かというと、自分のクリニックへの通勤についてでした。自宅からクリニックへは約13kmほど離れていて、普段は車でいくわけです。

ところが夢の中では・・・通勤に使うのはモーターボート。つまり、自宅からクリニックは海を渡っていくわけなのです。

途中で燃料がきれるとふ、大変なことになります。毎日の通勤がスリルとサスペンスです。寒いので、途中でUNICLOを見つけヒートテックを買いに行ったりしました。

だから何? というような夢でした。夢判断みたいなフロイト的な分析をしてもしょうがないでしょう。

そして、場面は一転して今夜の夕食。焼きそばです。鉄板プレートで一気に作ります。多少焦げてぱりっとなったところが美味しいわけで、すぐできて簡単な夕食としては、こどもにもOKなのです。

超現実的な話で夢も希望もありませんが、無難な選択肢なので、まぁ許していただくしかありません。でっかく作るとマヨネーズもなかなか芸術的でしょ?

2010年1月5日火曜日

初診・再診・再初診

はい、こんばんわ。亜沙郎です。今日から2010年の診療を開始しました。年末年始は丸々休んだ日がなかったので、大晦日のハイ・テンションのまま新年を迎えた感じです。

それはともかく、今年の初日のしょっぱなから、懐かしい患者さんがいらっしゃってこっちは嬉しいわけでした。もっとも患者さんにとっては、医者に行くというのは嬉しいわけがないのです。

つくづく医者なんて他人の不幸で飯を食っているみたいなところがあると思います。患者さんは辛いところがあるから来院するわけで、それをうれしがっているとは情けない。

でも、とりあえず辛いところを除けば、まあ「元気だった」ということがわかるのは、やっぱり嬉しいことです。

そんなわけで、再初診の患者さんというのは、自分を選んでわざわざ来てくれるわけですから大切です。初診の方は、もちろん選んで来る方もいますが、多くは「家や職場の近くだったから」とか「たまたま通りかかって」という理由が多い。

大学病院に通う患者さんは、もちろん有名な先生を選んでいく方もいるでしょうが、大多数は医者ではなく大学のブランド力を選択理由にしているわけです。

医者個人を選んでもらうことの意味は大変大きいと考えます。そこから医者と患者さんの信頼関係がスタートするわけですから。

横浜市都筑区は若い街ですから、インターネットでしっかり調べて来院する方も多い。自分がインターネットに公表している部分というのは、正直言ってほとんど飾りはないつもりですが、実際来てみてがっかりされる方もいるかもしれません。

その点、再初診の方には、自分や自分のクリニックはわかっているわけですから、そのような方の信頼を裏切るわけにはいきません。

できれば、ここでできる最大限の治療で辛いところが消えてもらえるようにしたいと思いますが、残念なことにクリニックでできることには限りがあります。そこを、しっかりと近辺の病院と連携をとって補うことが大切です。

あらためて、自分のできる医療サービスとできないサービスを自覚しないといけないと思います。それが、初診の方が再診してくれる、そして新たな問題が出たときに再初診してくれるためのボインなんだと思うわけです。

2010年1月4日月曜日

正月にやったこと

今日は月曜日。年末29日か30日まで診療していた大多数のクリニックは、ほとんど今日から診療を開始だと思います。

うちは大晦日までやったので、大変申し訳ありませんが今日はまだ休み。いよいよ明日から新年開始となりますので、お許しください。

とは言っても、毎日遊んでいたわけではありません。元旦と二日は病院の当直をしてました。お腹の具合を悪くする人が多く、インフルエンザはさすがに沈静化してきた感じです。

3日は朝から年賀状の整理と、不足分のを作るので午前中は終了。午後からクリニックに行って12月分の診療報酬請求の準備。ほんとは3日のうちに終わるはずだったのですが、ハプニングで完了しませんでした。

そこで結局今日の4日もクリニックに朝からでかけて残りの仕事をしていました。さらに、12月のスタッフの勤務時間を確認して税理士事務所にデータを送らないといけません。やっと午後からは、仕事を離れてゆっくりと・・・自宅の片付けです。

まぁ、正月なんてそんなもんですよね。なくても困らない休みというとちょっとオーバーですが、実際のところあまり体を休めた感じがしませんし、懐事情も寒くなってしまいました。

ところで、昨日のハプニングというのは、実は年末まで落ち着いた感じとなっていた海水魚水槽に異変があったのです。なんと、オレンジ色のカクレクマノミがいなかったのです。忽然と消えたという表現がぴったりなくらい、どこへ行ってしまったのか。

あり得る原因としては、何かの原因で☆になってイソギンチャクや他の魚の餌になったというのが最も可能性がありそうです。こういう場合、一番危険なやつというのがオトヒメエビ。以前、ヤドカリの足を加えた状態を目撃しているので、まっさきに犯人として疑いをもたれるのです。

とにかく、水をある程度替えておかないとしょうがない。そんなことをやっていたら、随分と時間を使ってしまったのです。いやいや、新年早々海水魚水槽の怖さを思い知らせられたわけです。

とりあえず、寒さに負けないように今夜はキムチ鍋を食べて、明日から熱く頑張りたいと思います。

2010年1月3日日曜日

福山 龍馬

これまた何年ぶりのことでしょうか、NHKの大河ドラマっつぅものを見てしまいました。

過去に連続で見たのは「国盗り物語」が最後かもしれないので、1973年以来の37年ぶりに続けて見る可能性がとりあえずあるということでしょうか。まぁ、たぶん無理だとは思いますが。

今年は話題の福山雅治主演の坂本龍馬。今夜は初回ですから、こども時代の話を踏まえて、龍馬のキャラクターを紹介するのが目的。

長丁場のドラマとしては無難な滑り出しで、あまり大きな盛り上がりはありませんでした。むしろ、今回はこども時代だけに絞ってもよかったかもしれませんね。


最後の1分間で、土佐の町を歩いている成長した福山龍馬の背中。呼び止められて振り返ると、タイムスリップしたガリレオ・・・じゃなかった、福山の顔のアップとなり「次回へ続く」みたいな感じ。

実際、ガリレオのとぼけた味から連続しているような福山の演技だったと思います。まぁ、悪くはないと思いますが、しょせん第一回ですから、しばらくは我慢してみるしかないでしょう。

映像は、かなり力が入っていて、かなり作り込んだ画面構成だったと思います。まぁ滝沢義経の最期なんかも、まるでSF映画のようでしたから、近頃のNHKはずいぶんと開放的になったのかもしれません。

うちには福山ファンがいるので、2010年の日曜日の夜のテレビは決まりでしょう。

2010年1月2日土曜日

正月の思い出

自分の場合は、比較的保守的な家庭で育ったと思うので、元旦はあまりびっくりするようなことはありませんでした。朝、家族で食卓に着くと、無理矢理旨くないお屠蘇を飲まされて、いわゆるおせちをいただくわけです。それからお年玉をもらって・・・

お年玉は親戚の数が物を言うわけで、うちのように珍しい名前で親戚も少ないとなかなか稼ぐことはできませんでした。

うちに、しばしば出入りしていた父親の知人があるときお年玉をくれました。その頃は、たいてい千円か二千円くらいが相場だったと思います。その知人はもちろん他人ですから、そう多くは望めないわけですが、こども心にちょっと期待してしまいます。

ポチ袋を開けてみると・・・中から出てきたのは板垣退助。むむむ、いくらなんでもこれにはがっかり。贅沢はいってはいけないのですが、けちなおじさんだなぁと思いました。

自分よりだいぶ年長の従兄弟が就職して、毎日ちょっとずつ貯めたという5円玉のたばをくれたことがありました。まぁ、この場合は額については二の次でしたが、とにかく重たいしどこでどうやって使うかで多いに悩んだものです。

なんか、このあたりは去年も書いてしまいました。きがついたら、同じ話で申し訳ありません。

すでに空は電線の網の目で、とてもたこを揚げて遊ぶと言うことはできませんでした。ですから、正月の遊びというと、家の中でカルタか双六、外に出て独楽回しか羽子板というのが一般的。今では、どれも見かけなくなりました。

実際、もうこの10年くらいは元旦に仕事をしていない年はないので、元旦に家にいるということがありません。開業前にいた大学は薄給で有名なところで、正月の割高の当直バイトは絶対不可欠だったのです。千葉の方にでかけて、東関道を走っていて初日の出を拝んだなんてこともありました。

開業してからも、結局毎年当直バイトは続いているわけで、実際父親がいない元旦というのもいかがなものかと思ってはいるのです。

まぁ、父親の威厳とか権威なんてものを見せようと思っているわけではありませんが、日本人として正月の季節感というものは大切にしたいし、こどもたちにも伝えていきたいとは思っています。

2010年1月1日金曜日

謹賀新年 2010

2010年になりました。あけましておめでとうございます。 昨日は、ほんと何年ぶりかで「紅白歌合戦」をフルに見てしまいました。それほど興味があるわけでもなかったのですが、ほかに見る物もないしという程度ののりです。 そのあとジャニーズのカウントダウンをちょっと見て、新年があけたところで家族と「あけおめ」して寝たわけです。 そして、今朝は6時起床で、かみさんと娘が初詣に行くので駅まで送っていきました。途中で初日の出が出る時間になってしまい、(テレビで)拝むことはできませんでした。 しかし、代わりにと言うのもなんですが、初月の入りを見ることができました。カメラも無かったので、写真にとることができなかったのは残念ですが、明るくなり始めた西の空に大きく膨張したほぼ満月に近い月が浮かんでいてちょっと神秘的な景色でした。 昨日の続きの今日ということで、あまり正月だからといって構えることは少なくなりましたが、毎日毎日の積み重ねの中で一つの区切りであることは間違いなく、初××というものに縁起をかつぎたくなるのは自然こと。 とりあえず、初物はなんでも自分には都合のよい物と考えておきたいと思います。明日みれれば、それが初日の出。なんにしても横浜は快晴の気持ちのよい元旦を迎えて、1年の滑り出しとしては上々です。