2020年12月31日木曜日

大晦日2020


今年は確実に歴史に刻まれる一年でした。

科学の進歩によりデジタル化が進み、人間がどれだけ便利になった生活をしていても、敵わない脅威があるということを嫌というほど認識した一年です。

実際のところ、今だに「鉄腕アトム」は身近にいませんし、「2001年宇宙の旅」もできていない。そもそも進歩したと思うのは、人間の傲慢でしかないのかもしれません。

宇宙という巨視的な視点からすれば、地球というごく限られた場所で増殖して蝕むウイルスが人間という見方が成立します。そのウイルスが、さらにミクロの病原体に侵されるという・・・

まぁ、宇宙的ウイルスかもしれない人間の立場としては、何しろ日々の生活がかかっていますから、一度手に入れた地球上での生存権を手放すわけにはいきません。

今年は防戦一方でやられ放題でしたが、来年は攻撃に転じ、来年のこの日には明るく締めくくれるといいですよね。

交差点に立つ都筑まもる君(ローカルには有名!)も、ライトアップされ「頑張りましょう」とエールを送ってくれている感じです。

来年もどうかよろしくお願いいたします。

2020年12月30日水曜日

ミュンヘン (2005)

スティーブン・スピルバーグの久しぶりの社会派ドラマは、1972年のミュンヘン・オリンピックにおけるパレスチナ武装集団「黒い九月」によってイスラエルの選手11名が殺害された事件に端を発し、犯行に関わった人々をイスラエルが国を挙げて暗殺していった実話をもとにしています。

連合赤軍などが覚めやらぬ日本で、リアルタイムにまだ中学生だった自分の場合、遠い異国での凄い事件という認識以上のものはありませんでした。従って、この作品を見るためには、それなりの知識を勉強しなおす必要があり、さすがにユダヤ系アメリカ人であるスピルバーグもそこまで親切ではありません。

しかし、それでも長い歴史の中で迫害連れ続けてきたユダヤ人のことも、ある意味かつてのユダヤ人のように国を持てない苦しみの中にいるパレスチナ人のことも、本当に理解することは日本人には不可能であると思います。

映画の中でも、スピルバーグは比較的両者を公平に扱ったために、ユダヤとバレスチナの双方から批判をされたようですが、そういう意味では、この事件についてどちらの方を持つこともできない日本人は、映画として冷静に鑑賞することができるのかもしれません。

1972年9月5日、開催中のミユンヘン・オリンピックの選手村に、パレスチナの「黒い九月」の8名が侵入し、イスラエル選手団2名を殺害し、9名を人質に取り捕まっているパレスチナ人234名の解放を要求しました。

イスラエルの女傑首相ゴルダ・メイアは要求を拒否し、西ドイツ当局は武力鎮圧を計画します。テロリストは飛行機での脱出を要求し、人質と共にヘリコプターで空軍基地に到着。待機していた狙撃手の発砲により銃撃戦になりました。人質9名全員と警察官1名、そしてテロリストもリーダーを含む5名が死亡しました。

比較的事実に基づいたものとしては、1976年に「テロリスト・黒い九月 ミュンヘン」というTV用映画があり、日本語字幕付きでYouTubeで視聴が可能です。

さて、これからがこの映画のストーリーになるのですが、ここでもスピルバーグは「銀残し」のテクニックを全編にわたって適用し、白黒に近い彩度で、コントラストの強い緊張感のある映像を作りました。

メイア首相の肝入りで「神の怒り作戦」と呼ばれた報復が始動します。事件に関わった、パレスチナ側の主要人物を暗殺するために、イスラエル諜報部(モサド)のメンバーが選抜され、彼らはアイデンティティーを消去してヨーロッパに送り込まれます。

映画上は、チームはリーダーのアヴナー (エリック・バナ)、運転のプロであるスティーヴ( ダニエル・クレイグ)、爆弾製造のロバート(マチュー・カソヴィッツ)、現場の後始末をするカール(キアラン・ハインズ)、そして偽造文書作成のハンス(ハンス・ツィッシュラー)の5人。いずれも諜報活動に長けていたわけではなく、あくまでも面子が割れていないという理由からの人選。

映画は、こどもが誕生する直前のアヴナーを中心に展開していきます。事実に沿って、順調に暗殺を繰り返していくうちに、彼らの中にはしだいに人を殺すことに対する慣れが生まれてくる一方で、自分たちのやっていることの正当性に対する疑念も生じてくるのです。

アヴナーは唯一、妻にかける電話だけが精神を保つ拠り所でした。しかし、相手にも自分たちの存在が知れるところになり、カールとハンスが殺され、ロバートも爆弾製造に失敗して失います。

一定の成果を残したアヴナーは帰国し、これ以上の仕事はできないと上司に言い、妻子を避難させていたニューヨークに飛びますが、毎晩悪夢にさいなまれ、自分だけでなく家族にも危害が及ぶのではないかという恐怖がつきまとうのでした。

実際には、ノルウェイで事件の黒幕サラメを暗殺しようとして、人違いで一般人を射殺したことから、逮捕された工作員が自供しイスラエルの国家的計画が露見しています。もちろん、イスラエルは今でもこれらの作戦については公式には否定し続けています。

もともと殺人の訓練を受けていない集団が、次から次へと国ために人殺しをしていくプロセスは、やはり日本人には理解しにくい。しかし、その精神的な重圧は人を人でなくするには十分であることはわかります。

スピルバーグも、そこには正義が無いことを認めているのでしょう。実際、殺されていく敵は、いずれも彼らにとってごく普通の常識的な生活をしていることが十二分に描かれています。特に、偶然パレスチナ側の戦士らと一晩を過ごすことになった時、アヴナーは彼らもまた国を求めていつまででも戦い続ける話を聞くことになります。

当然、911事件と、それに対するアメリカの湾岸戦争などの報復行動に対してのメッセージを見て取れる。ラストシーンで、アヴナーが見つめる先には、倒壊する前の世界貿易センタービルが合成されていることからも明らかです。

結局、スピルバーグは、この事件そのものの犯人であるパレスチナも、そして報復に出たイスラエルに対しても否定はしないが、その連鎖が関わった人々を幸せにする物ではなく、この問題の解決には役に立っていないことを訴えたかったのだと思います。

相容れない立場の違いは、真っ向からお互いの正義がぶつかり合うだけということ。確かに今や世界はテロリズムが常態化し、どこにも勝者を見出せない泥沼の中にあります。

主演のバナは、オーストラリアのコメディアンからハリウッドに進出し、「ブラック・ホークダウン(2001)」、「ハルク(2003)」などで注目されました。スティーヴはこの後ジェームズ・ボンドに起用されています。

また、標的の居場所の情報を提供する組織の「家長」として、「007/ムーンレイカー」の悪役だったマイケル・ロンズテールが登場。アヴナーの妻は、イスラエルの代表的な女優であるアイェレット・ゾラーで、この撮影時は役と同じで実際に妊娠していました。

映像作家としてのスピルバーグとしては、現代に持続する問題に切り込んだことは高く評価されるところです。アカデミー賞では複数のノミネートがありましたが受賞は逃しましたが、彼のキャリアとしては最も強いメッセージを備えた作品として高い評価がされていいと感じました。

2020年12月29日火曜日

宇宙戦争 (2005)

スティーブン・スピルバーグとしても、主演のトム・クルーズとしても異色のSFアクション映画。

スピルバーグは、過去に「未知との遭遇」でも「E.T.」でも、友好的な宇宙人を映画の中に描いてきましたが、今回は地球を侵略し、情け容赦なく人類を抹殺していく宇宙人が登場します。そして、トム・クルーズは、勇敢な二枚目を捨てて、妻から愛差を尽かされ、こどもたちからも信頼されない父親。

原作は1898年に発表されたH.G.ウェルズの古典的SF小説であり、これまでに映画化もされていますし、そのモチーフを使った作品もたくさんあります。スピルバーグは、原作の宇宙人との戦いよりも、逃げ惑う一般人の視点からストーリーを再構築し、主人公はごく普通の市民という設定にしています。

原作が有名ですから、大まかなストーリーについてはいまさら書くまでも無い。この映画独自の設定は、宇宙人は人類が生まれるよりも前の太古の時代に、地中深く攻撃用マシン「トライポッド(三本足)」を埋めていたというところ。

ダメ親父のレイ・フェリエ(トム・クルーズ)が、離婚して離れ離れになったこどもたちと久しぶりに週末をすごすというタイミングで、宇宙人は雷と共に降下してトライポッドに乗り込みます。

世界各地で、同時に無数のトライポッドが地中から現れ、市民は大混乱の中逃げ惑うしかありません。レイは息子のロビー(ジャスティン・チャットウィン)と娘のレイチェル(ダコタ・ファニング)を伴って母親に家に向かいますが、やっとついてももぬけの殻。さらに旅客機が墜落してきて、命からがら逃げだしさらに祖父母の家に向かう。

途中で、更なるトライポッドの攻撃にさらされたり、理性を無くした市民の暴力に合ったりする。ロビーは自らも戦うと言って、このまま逃げるだけでは納得できないと、レイの制止を振り切って戦闘が行われている方に行ってしまいます。

宇宙人は一部の人間を捕獲して、エネルギー源にしていました。レイとレイチェルもついに長い触手で捕獲され、トライポッド内に吸い込まれそうになったときに拾っておいた手榴弾を爆発させ難を逃れます。

その後、各地で猛威を振るったトライポッドは次々と機能を停止し始めるのです。これは原作通りで、地球上の微生物に対して免疫が無い宇宙人たちは抵抗力が無く死んでいったのです。

やっと祖父母の家についたレイは、先に到着していたロビーの姿を見つけます。ロビーはこの映画で初めて、レイのことを「父さん」と呼び抱き合うのでした。

ということで、ここでは人々はいとも簡単に殺戮され、宇宙人との激しい戦いのシーンなどはほぼ皆無といってよい。生き延びるだけで精一杯で、いかに人間が無力かを徹底的に描きます。恐怖の盛り上げ方は、スピルバーグの得意とするところで、パニックの中で弱い人間の本性が垣間見えてきます。

墜落した飛行機の残骸や、行方不明者を探すたくさんの張り紙が、911事件の記憶を彷彿とさせるのはスピルバーグの意図したところで、テロリズムの中で一般市民がいかに犠牲になっているかを訴える意図があるようです。

そのような社会的視点を除くと、結局はダメな父親が、究極のサバイバルの中でこどもたちを精一杯守り親として復権する姿が、スピルバーグの一番描きたかったところなのかもしれないと思いました。

と言いたいところなんですが、やはりトム・クルーズを起用したら、この役柄はどう見てもピンとこない。全然ダメ親父に見えないし、クルーズがただ逃げまくるだけというのはありえないと思って見てしまう。ロビー役がクルーズで、彼の視点から何とかダメでも戦いに挑む地球人という話ならある程度納得できたかもしれません。

2020年12月28日月曜日

ターミナル (2004)

これは、前作に続いてスティーブン・スピルバーグの作品には3回目の登場となるトム・ハンクスが主演の現代劇です。フランスのシャルル・ド・ゴール空港に実在した人物をヒントにした話で、そのエピソードは「パリ空港の人々(1993)」としても映画化されています。

クラコウジア共和国(架空の国)から、ニューヨークに到着したビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、入国審査にひっかかる。彼が旅立った直後に軍事クーデターが発生し、パスポートもビザも無効となってしまったのです。

帰る国が無くなり、かといってアメリカに入国できないナボルスキーは、乗り継ぎロビーの中に足止めされることになってしまいます。ところが、ナボルスキーは英語がわからず、テレビのニュースで何とか自分の立場を理解するのです。

言葉が通じない状況のもどかしさは、ハンクスは自らのアドリブの「クラコウジア語」でこなすところはさすがです。何か月かたって、ナボルスキーは英語を勉強し、しだいに空港の底辺で働く人々と仲良くなり、なんとか食いつないでいく方法を見つけ出しました。

たまたま知り合ったCAのアメリア(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)に恋心を抱くようになります。アメリアは妻のいる男性と交際中でしたが、ナボルスキーの真っすぐな気持ちに惹かれるようになります。

しかし、空港から動けない状況がアメリアに知られてしまい、ナボルスキーは本当の訪米の目的を話します。それは、亡くなった父親の夢だった、ジャズ・ミュージシャンのサインの最後の一枚を貰うためだったのです。

アメリアは不倫相手とよりを戻し、その代償として彼のコネでナボルスキーの1日だけ有効なビザを取得してあげました。ちょうど、クラコウジアの紛争も終結し国に帰ることも可能になりました。

しかし、特別ビザに必要な入国警備責任者のサインが無く、責任者はこれまでもナボルスキーを邪魔者扱いしてきた人物。彼はサインを拒み、即刻出国するように脅迫します。入国を断念したナボルスキーに対して、仲良くなった大勢の空港で働く人々が応援し、ついにビザなしの不法入国を承知で空港の外に出ていくのでした。

そもそも、このような事態が現実に起こるのかという疑問があります。実際には、似たようなケースは多々あるようですが、さすがにアメリカでこのようなことはなさそうですし、実際あったらアメリカの人道主義も嘘くさくなる。

それを嘘と思わせないように作り上げていくのが映画であり、監督の手腕ということになります。さすがにスピルバーグはそんな疑問が湧かないように、正直者ハンクスの演技に支えられて軽快にストーリーを作り上げました。

また、911で空港でのロケができなくなったため、巨大な倉庫に5か月間かかって作り上げたセットは見事で、これもまた嘘を本物に見せる事に大いに役立っているようです。

全体的には評判は上々でしたが、現実味については許すとしても、やはり見ていて気になったのはナボルスキーとアメリアの関係。アメリアは元サヤにおさまって二人の恋は成就しないわけですが、スピルバーグは恋愛について描くことはうまくないという見本みたいな感じ。せっかく人気女優を揃えたのに、存在感としては薄いのがもったいない。

掘り下げれば重たいテーマも考えられる内容ですが、ちょっとだけロマンスを匂わせたライト・コメディとして見れば、十分に楽しめる作品です。

2020年12月27日日曜日

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン (2002)

今度のスティーブン・スピルバーグ監督作品は、60年代末にアメリカに実在した偽造小切手の天才的詐欺師たフランク・W・アバグネイル・Jrの自伝をもとにしたストーリー。

アバグネイルは、17才でパンナムのパイロットになりすまし、医師として病院に潜り込み、さらに弁護士として裁判に登場しました。21才で逮捕されるまで、FBIを翻弄し続けた天才的手腕は、ある意味素晴らしいの一言に尽きます。

タイトルは直訳すれば、「やれるもんなら捕まえて見ろ」ということですが、これはアメリカの鬼ごっこでの決まり文句。スピルバーグは、アバグネイルが犯罪に手を染めるようになった経緯から、FBIに協力して偽造小切手を調査する専門家になるまでを、軽めのタッチでやすやすと描いていきます。

冒頭のタイトル・シークエンスは、スピルバーグには珍しい影絵のアニメーションで、追いかけっこをコミカルにトレースしています。そして、フランスの刑務所で服役中の悪人面したアバグネイル(レオナルド・ディカプリオ)が登場。アメリカへの移送のため訪れたのはFBIの捜査官ハンラティ(トム・ハンクス)で、アバグネイルは仮病で騙して逃亡しようとして失敗。

アバグネイルのまだ純真な17才から始まっても困らないところですが、最初にこのシーンを見せることで、アバグネイルがどういう人物なのか、そしてハンラティとの関係が表現されることで、話に入り込みやすくなっているというところでしょうか。

また、このシーンが無いとアバグネイルはいい子で始まり、いい人で終わってしまいます。この後も、移送中の「今」と過去のイベントが交互に登場して、しだいにその時間差が埋まっていく「追いかけっこ」構成を取っています。

基本的にここでスピルバーグが、映画化に興味を持ったのはおそらく「父子関係」であり、アバグネイルは大人になり切れないこどもです。そして、ハンラティとの間に疑似的な父親像を見出すことで、本当の大人になっていくことを描きたかったのだろうと思います。

裕福な家庭で幸せな暮らしをしていたアバグネイルは、父親(クリストファー・ウォーケン)の事業の失敗で暮らしが激変し、ついに両親は離婚。家でしたアバグネイルは、父親が金策で自分を利用したときのやり方をヒントに、小切手偽造詐欺に手を染めるのです。

当然、FBIの捜査対象になり、金融詐欺を専門とするハンラティの捜査対象になります。少しずつアバグネイルとハンラティの距離は縮まっていくのですが、いろいろな職業に成りすましている間に、本当の父親とハンラティには連絡を取り合うようになっていました。

小切手の偽造テクニックもどんどん上達。騙して司法家の娘に近づいてたアバグネイルは、本気で結婚を考え、彼女の父親(マーティン・シーン)にも家族への憧れを見出すのです。しかし、ついにハンラティに距離を詰められ海外へ逃亡。フランスで偽造小切手を作り続け、執念で追いかけてきたハンラティの説得で自首することになりました。

アメリカに移送される飛行機の中で、本当の父親が亡くなったことを知ったアバグネイルは慟哭し、一瞬のスキをついて着陸した飛行機から逃亡。そして母親のもとに向かいますが、母親は父親の親友と再婚しこどもまでもうけていました。駆け付けたハンラティに抵抗することなく逮捕され服役することになります。

ハンラティは、アバグネイル偽造小切手の鑑定能力に気がつき、保証人となって出獄させます。そしてFBIの中で働くことになるのでした。例によって、最後にその後のアバグネイルがどうなったかの語りと、「ハンラティとはいい友達でいる」ことが説明されます。

一度気になると、このスピルバーグの親切なエピローグはどうも気になる。実話が元ですから、わからないでもないのですが、必要が無いと判断して映像として描かない部分を説明し過ぎるのは、安心する人もいるかもしれませんが、白ける人もいるというところ。

「タイタニック」で人気に火が付いたディカプリオの好演、そして翻弄されつつも捜査を詰めていくハンクスの実直さがいい味をだしています。また、父親ウォーケン、義父まであっと一歩だったシーンら名優を揃えたことも、映画としての深みを出すことに成功した一因です。

ショー・レースに絡むような大作ではありませんが、普通の人間ドラマとして、もう一度見たくなる出来栄えです。

2020年12月26日土曜日

2020年総決算


おそらく世界中、老若男女、どんな仕事をしている人にとっても、こんなひどい年はいまだかつてなかったというのが2020年でしょう。

年初からの新型コロナウイルスのパンデミックの発生は、確実に人類史の1ページとして記録されることになる。感染したらほぼ間違いなく命を落とすほどの毒性が無いだけましかもしれませんが、いまだに終息の気配が無く先が見えないまま、年の瀬を迎えました。

ですから、ほとんど何も生産的なことがなかったこの一年なので、総決算と言っても何も思い浮かばない。できることなら、無かったことにしてリセットして完全にやり直したいくらいです。

クリニックの収益で言えば、2月と3月はわずかな減少、そして4月は前年比60%。そこから月に数%ずつ戻り11月になってやっと90%。ところが、再び感染者の増大により、12月は夏ごろに逆戻りです。

この間、5月からスタッフの勤務調整を行い、人件費の調節で何とか乗り切ってきましたが、再び緊縮策が必要になって来るかもしれません。

法人化しているので、自分も最も高額な給料をもらうスタッフですので、5月~6月は実質無給。7月以降はおおよそ50%に抑えたことで、何とか持ちこたえているというのが実情です。

国・自治体からの支援策として、持続化給付金がありますが、この対象となるほど落ち込んだわけではありません。また家賃補助という制度もありますが、これにもひっかからない。

感染症対策にかかる費用については一定の補助金が出ますが、これは当然収入になる物ではありません。とは言っても、よけいにかかった支出を補填できることは無いよりは有り難い。

結局は、ちょうど公的援助の対象にならないところでの持続的な経営難ということで、支出を減らして自分の努力で持ちこたえるしかないということ。

医療関係者ということで、国からの慰労金(コロナ診療をしていないクリニックなので5万円/人)をスタッフの人数分いただきました。個人的には特別給付金10万円というのもありましたが、当然今年のマイナス分を埋めるにはほど遠い。

新たな生活様式が求められているのと同じく、診療というものも変化が必要であることは理解しています。その最たるものはオンライン診療の導入ということになりますが、昭和世代の医者としては、患者さんと直接接することが無いのは「医療相談」以上のものになることがイメージできません。

特に整形外科では処置を伴う診療行為が多いし、専門としている関節リウマチでも定期的な検査は必須。オンラインだけで、責任を持った判断をする自信はありません。

何にしても、2020年はとっとと終わってもらうしかない。2021年は、太陽が見えて陽が射してほしいところですが、今のところ明確な期待ができる状況はありませんね。

2020年12月25日金曜日

マイノリティ・リポート (2002)

21世紀のスティーブン・スピルバーグ監督作品は、有名人気俳優が続々登場しますが、今作ではトム・クルーズが主演。

今から30年くらい先の近未来を描く、ハードSFアクション作品。この作品の世界観は、入り組んでいて、最初に実例が示されるものの、終わりまで見てやっとわかりかけるという感じ。ですから、一度だけでなく、もう一回見るくらいの元気が必要かもしれません。

犯罪、特に殺人事件の発生数が膨大な数になり、これを抑止するために警察の一部としてワシントンで犯罪予防局が設置されているところから話が始まります。このシステムは、3人のブリコグ(precognituve、予言者)が頭に浮かんだ犯罪イメージから、現場に急行し実際の殺人が起きる前に容疑者を逮捕し収容するというもの。

このシステムが稼働してから、殺人事件はゼロになり、バージェス局長(マックス・フォン・シドー)は全国に広げることを政治的な目標にしています。これに対して、司法省はシステムの安全性に疑念を持ちウィットワー調査官(コリン・ファレル)を送り込んできます。

予防局の優秀な警察官であるジョン・アンダートン(トム・クルーズ)は、6年前に幼い息子を誘拐され失ったことから、精神的ストレスを薬物で紛らわしながら、犯罪抑止に異常なほどの執着をしているのです。

ある日、プリコグの一人であるアガサ(サマンサ・モートン)は、アンダートンにだけ初めての殺人イメージを見せます。この事件を調査し始めると、今度は見知らぬクロウという人物をアンタートンが殺すイメージを送ってきました。これは何かの罠だと感じたアンダートンは逃走します。

アンダートンは、システムの開発したハイネンマン博士から、三人のプリコグが共通に見た予言だけが、捜査対象になり、個別にみるものは少数意見(マイノリティ・リポート)として無視するシステムだと教えられ、真実を知るためにアガサ連れ出します。彼女のマイノリティ・リポートは、彼女の母親が殺される場面であることを確認し、彼の殺人予言現場にたどり着きます。

クロウは息子の誘拐犯であると自白しますが、アンダートンは寸前のところで警察官であることを思い出し殺人を踏みとどまる。ところが、家族への大金と引き換えに誘拐犯を演じて殺されるよう依頼されたと言って、クロウはアンダートンの銃の引き金を自らひかせるのでした。大きな罠の中で、アンダートンはついに逮捕され収容所に送られてしまうのですが・・・

これは個人情報を高度に管理する未来の話で、実際に前年の同時多発テロ事件後、個人情報に対して強力に立ち入る動きが出始めていることに対しての問題提起が含まれているようです。個人情報を管理するだけでなく、それを好きなように操作して変更することができてしまうと、簡単に犯罪者を作り上げることが可能になる怖さが描かれています。

近未来を想像した各種の小道具も楽しい。いかにも、実現しそうなものばかりですが、組み立てられた車が「レクサス」だったりするのはご愛敬。いたるところに設置された網膜スキャンにより、個人を特定し行動が当局に筒抜けなのは、今の中国・韓国あたりが近づいているのかもしれません。

さすがクルーズといえるアクションも盛りだくさんで、スピード感のあるスリルとじわじわとやって来るサスペンスのバランスはなかなかのもの。バージェスはどこかで見たと思ったら、「エクソシスト(1973)」のメリル神父そのままじゃないでいか。シドーはメーキャップで老け役をしていたのですが、ここではそのまま年を取りました。

撮影されたフィルムは、「銀残し」と呼ばれる特殊な現像テクニックにより、ざらついたコントラストの強い画面は、現実感を強調します。これは「プライベート・ライアン」でも用いられた手法で、元々は日本初の技術。発色を抑え、コントラストを象徴できるアーティスティックな画像を作れます。

内容としては、SFですからいろいろ都合よく設定できるところがありますが、登場人物の逃走、侵入などが簡単すぎて驚かされます。近未来のセキュリティはいったいどうなっているのか、むしろ心配になります。

そしてスピルバーグの、だんだん気になるようになったエピローグ。さすがに悪が滅びで終わりで良さそうな感じですが、皆が平和に暮らしましたとさ、めでたし、めでたし、という説明がくどい感じ。すっきり終わらせたいという、スピルバーグのサービス精神なのかもしれませんけどね。

2020年12月24日木曜日

A.I. (2001)

21世紀最初のスティーブン・スピルバーグの作品は、新時代に相応しく、人工知能(artificial intelligence、AI)をテーマにしたものでした。

実はこのストーリーの基本構想は、巨匠スタンリー・キューブリックが用意した物。この内容はスピルバーグが監督することを望んだキューブリックは、80年代からスピルバーグと連絡を取り合って映画の実現に向けての動きが始まっていました。

1999年にキューブリックが亡くなり一度立ち消えそうになりましたが、遺族の強い希望によりついに映画化が実現したもので、スピルバーグが自ら脚本に参加し、キューブリックの原案をできるだけ尊重してまとめ上げたと言われています。

スピルバーグの映画では、父子の関係が表にも裏にも表現されていることが多く、前作「プライベート・ライアン」でも戦争に参加した父親に捧げるとしていました。しかし、今回のテーマは母と子の愛で、スピルバーグにしては珍しい。

確かにキューブリックが自らこの映画を作っていると、ハードエッジで母子の愛を硬質な物にしてしまい、キューブリック的なものとは合致しなかったかもしれません。確かに、スピルバーグ向きですし、娯楽性も兼ね備えたSF作品でのヒューマン・ドラマは得意なジャンルと言えます。

物語は19世紀末の児童文学「ピノキオ」をベースにしていることは明らかです。ジェッペットじいさんが、話をする丸太から木の人形を彫り、ピノキオと名付けました。ピノキオは楽しそうなことばかりに目が行って、危ない目にばかり遭う。巨大なサメに飲み込まれマグロに助けてもらって心を入れ替え、夢に現れた妖精によって本当の人間になるという話。

この映画の舞台は、地球温暖化により海面が上昇して、地球上の多くの都市が水没した150年くらい未来で、生活の中には高度な人工知能を備えた人間型ロボットが不可欠になっていました。人口を増やさないため妊娠は許可制となり、厳しくコントロールされているという設定です。

こどもがいない夫婦のために、少年型ロボットが開発され、しかも親に対して愛情を抱くように設計されました。そのディビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)と呼ばれる試作機が、事故で意識が無く回復の見込みのないこどもを持つヘンリー(サム・ロバーズ)とモニカ(フランセス・オコナー)の夫婦に与えられます。

最初は所詮機械だと戸惑う母親は、しだいに興味を持ち、ついに自分を母親と認識するプログラムをインプットしてしまうのです。母親と認めてくれる「こども」を手に入れたことで幸せな日々が戻ってきたのも束の間、回復しないと言われていた本当のこどもが意識を取り戻し帰宅してきました。

不要になった場合は、破壊処分と決まっていたのですが、モニカは自分を母親と慕うディビッドを「殺す」ことはできず遠い森の中で置き去りにするのです。ディビッドは、以前モニカが読んでくれた「ピノキオ」の話に出てくる「青い妖精」に本当の人間にしてもらいモニカと再会するため、いろいろな危険な目に遭いながら、ついに水没したマンハッタンで本当の生みの親ホビー教授のもとにたどり着きます。

ディビッドは教授が青い妖精ではないことに落胆し、海の底に落下していきます。そこにはコニーアイランドの遊園地の残骸があり、その中のピノキオのアトラクションの中に青い妖精を見つけたディビッドはエネルギーが無くなるまで、本当の人間になりたいと願い続けるのでした。

ここで終わりでも映画は成立しそうですが、恒例となったしばしば批判されるスピルバーグ映画のエピローグがあります。実際は、原案にもあるもので、キューブリックの意向を反映したもの。

地球は氷河期に入り2000年が経過しました。人類は滅亡しており、高度に発達した人工知能、スペシャリストだけが「生命体」として存在しているのです。彼らは氷の中からディビッドを発見し、人類を直接見た最後のロボットとして再起動します。

彼らは、ディビッドがたまたま持っていたモニカの髪の毛から、モニカのクローンを作りますが、一度意識を失うとクローンは二度と生き返らないとディビッドに説明します。それでも、やっと母親に会えたディビッドは、最高に幸せな1日を過ごし、夜になり二人は二度と覚めない眠りにつくのでした。

最大の見どころは、ディビッドを演じた、当時12歳だったハーレイ・ジョエル・オスメントの無機質なロボットから、愛情を持つよう変化していく演技。「フォレスト・ガンプ(1994)」でデヴューし、「シックス・センス(1999)」でも、その演技は絶賛された子役です。ただし、残念ながら彼自身はいろいろとトラブルを抱える大人に成長してしまったようです。

ピノキオは人間になって立派な大人になっていくのでしょうけど、ディビッドは人間になれたわけではなく、母親に会いたいという望みを叶え、その思い出と伴に消滅する。スペシャリストも機械を有機体にすることは不可能でしょうし、仮にできたとしても人類が存在しない未来では成長する意味もありません。

しかし、ピノキオのような結末は夢物語ですが、ディビッドには「現実的」な結末を用意することで、母親に対する深い愛情の永続性を肯定的に表現することができるわけで、願いが叶わないところで終わっていたら、ただの感情表現ができるロボットの話。

ロボットのSF哲学映画という一面を強調したアメリカでは、あまり評判は芳しくなかったようですが、日本での母子の愛情を中心にキャンペーンが行われ、かなりの興行収入を生み出しています。

2020年12月23日水曜日

点検整備


通りかかった消防署。

温もりの有る日向で、機材の点検や整備らしきことをしていました。まぁ、いつもやっていることで、特別なことではないのだろうと思います。

ただ、大掃除という感じに見えて、年末を感じさせる光景でした。

通報があれば、即座に出動もしなければいけないのでしょうから、大風呂敷を広げたやり方はできないのでしょうから大変です。

日頃、われわれが呑気にしていられるのも、こういう社会インフラを支える仕事をしている方がいるからですよね。

ご苦労様です。

2020年12月22日火曜日

オニオンドレッシング


これ見て、何っ? ていうところなんですが・・・

ペットボトルに入れたドレッシングなんです。手作りってやつ。

例えば、結婚式の披露宴とかで、料理がフレンチだとします。デカい皿に、ちょっとだけ野菜がオシャレにのったサラダが出てくるじゃないですか。

そこに、かかっているお上品なドレッシング・・・っていうと想像できまかね。

それです。

それがオニオンドレッシングなんですが、巷のスーパーで、あの味を求めて買ってもほぼハズレです。

長持ちしないので、作り置きがきかない。せいぜい1週間以内というところ。

作り方は簡単。

玉ねぎ 1個
リンゴ 1/2個
ワインビネガー 50mlくらい
塩 味見しながら好きなだけ
オリーブオイル これも好きなだけ

玉ねぎとリンゴをミキサーで完全にドロドロにしたら、後はそれ以外を混ぜるだけ。

美味しいリンゴが手に入る、今の時期だけ限定の味というところでしょうか。

2020年12月21日月曜日

プライベート・ライアン (1998)

スティーブン・スピルバーグとしては、この映画で2度目のアカデミー監督賞を受賞しました。興業的にも成功し、映画史に残る傑作となりました。


第2次世界大戦のもとで、ノルマンディ上陸作戦の後、一人の二等兵を探し出し帰国させるという任務を帯びた小隊が多くの命の犠牲を払う話は、普通に日本人が見ると理解に苦しむ。

この映画の理解には、ソウル・サバイバー・ポリシーという言葉を知る必要があります。アメリカで実際に法制化されたのは戦後の1948年のことですが、実際に戦争が始まると急速にこの考え方が普及していきました。

南北戦争の時にリンカーンもこの事を強く憂慮していたことで、戦争によって兄弟が全員戦死してしまうと、その家は断絶してしまう、それを防ぐために、生き残っているこどもがいれば軍務を免除して帰国させるというものです。


今も軍隊があり徴兵制度がひかれているアメリカでは、この映画の当時では常識的な考えになっていたと思いますので、この映画についてテーマに違和感を覚えるアメリカ人はいないのだろうと思います。

スピルバーグは、ノルマンディ上陸作戦に参加していたナイランド兄弟の実例をヒントにして今回の映画を組み立てました。準備のために長い時間が費やされたにもかかわらず、実際の撮影が始まると、何とわすが2カ月で撮り終えています。

2時間48分の映画の冒約30分近くを使って描かれる上陸作戦の戦闘シーンは、見るもの全てを戦争の恐怖・残酷の中に導きます。今まであったどの戦争映画の戦闘シーンも、これに比べればこどもの学芸会です。

上陸艇のハッチが開いた途端に、たくさんの兵士が銃撃で倒れ込む。中にはヘルメットを銃弾が貫通し、海中にも弾が飛び込んできて命を落とす。やっと上陸できても、迫撃砲によって、体の一部が吹っ飛ぶ。海面は血によって赤く染まり、そこらじゅうに屍が横たわる様は凄過ぎる。

この中に中隊を率いるミラー大尉(トム・ハンクス)がいました。ミラーでさえ、恐怖を感じ手が震えてしまうのです。やっと後続部隊の進入路を確保して一息ついたときに、ミラーに新たな命令が下ります。

「ライアン二等兵を探し出し、無事に帰国させろ」

ライアンの3人の兄が、前後して戦死したことが判明し、マーシャル陸軍参謀総長からの指令でした。ミラーは、7名の部下を引き連れて、パラシュートで降下した後に行方不明になっているライアンの捜索に向かいます。

しかし、途中でドイツ軍と遭遇して二人の部下を失う。休息している時、ミラーは「一人部下を失うと、それはその10倍の兵士を助けるためだったと考えるようにしている」と語り、「ライアンに20人分の命の価値があることを願う」として先に進むのです。

重要な橋を死守していた生き残り部隊の中に、ついに目的のライアン(マット・ディモン)を見つけ出しました。しかし、ライアンはここで戦うことを続けることが家族のためだと言ってその場を去ることを拒否します。

ミラーは、しかたがなく一緒に橋を死守する目的を達成した上で、ライアンを連れ帰ることにします。しかし、ドイツ軍は多くの戦車や重火器を装備して攻撃してきたため、仲間は次々と倒れ、ついにミラーも敵に銃撃されてしまいました。

ぎりぎりのところで応援部隊と航空支援により、ドイツ軍は壊滅しましたが、ミラーはライアンに「無駄にするな・・・しっかり生きろ」と語り息を引き取ります。

それから何十年もたって、ライアンが家族を連れノルマンディー米軍英霊墓地を訪れます。ミラーの墓標の前で、ライアンは同じく年老いた妻にも「私はいい人生を送っただろうか? 私はいい人間だったかな?」と問いかけます。

スピルバーグは、第2次世界大戦にまつわる映画としては、「1941」でその愚かさを茶化し、「太陽の帝国」で民間人も多くの犠牲を払った事を思い出しました。「シンドラーのリスト」では、その狂気が人を人として見れなくなる怖さを描き、そして今作ではついに正面切って戦闘の意味を深く問いかけてきました。

老ライアンのシーンは、感傷的すぎるという評価はしばしば見受けられます。実際、これがスピルバーグらしさであるんですが、一定の結論を観客に押し付けるというのはあながち間違った批判ではない。

しかし、ライアンは何十人もの命の価値を見出せるだけの、それは特別な人類に貢献するような大発明でなくても、充実した人生を送ることが期待されていたわけですから、ミラーが死んで終わりではなく、それを感じ取れる最後のシーンがあることはスピルバーグの重要なメッセージと感じました。

トム・ハンクスはこの映画の後、たびたび重要な俳優としてスピルバーグ作品に登場することになります。ハンクスの軍人としての務めを尊重しつつも、人間味も忘れない演技によっても、さらに映画の格が上がりました。

スピルバーグが、このような社会派の人間ドラマを作ることに、誰も異論をはさむことは無くなり、むしろ期待するようになったと言えるのかもしれません。

2020年12月20日日曜日

摩天楼はバラ色に (1987)

マイケル・J・フォックスの最高傑作は?

誰もが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だと答える。いや、それを否定するつもりはありませんが、あえて言いたい。

彼のキャラクターが本当に生かされた「摩天楼はバラ色に」を見てから、もう一度考えてみてくれと。

名匠ハバート・ロスが監督したこの映画は、80年代のアメリカを見事に切り取ったラブ・コメディの傑作なのです。もう完全な夢物語であり得ない展開なのですが、誰もが自分を投影できる等身大のマイケル・J・フォックスが、愛と仕事を手に入れるサクセス・ストーリーは、拍手喝采しかありません。

カンサスの田舎からアメリカン・ドリームを夢見てニューヨークに出てきた、ブラントリー・フォスター(マイケル・J・フォックス)は、到着早々就職するはずの会社が乗っ取りにあい仕事を失います。

しかたがなく遠い親戚で大会社の社長、ハワード・プレスコット(リチャード・ジョーダン)に頼み込んで、会社内の郵便の配送係の仕事に就きます。そこで会社内の郵便物から経営上の問題点に気がつき、新米重役ウィットフィールドに成りすまし経営の効率化策を作り出すのです。

重役の中の紅一点クリスティ・ウィルズ(ヘレン・スレイター)に一目ぼれし、偶然送迎をした社長夫人ベラ(マーガレット・ホイットン)からも気に入られたウィットフィールド、いやブラントリーは重役会議で会社乗っ取りを防ぐために経営効率化のため縮小案に反対して、拡大案をぶちあげる。

実はクリスティは社長ハワードの不倫相手で、ハワードからウィットフィールドをスパイするように頼まれます。しかし、ブラントリーの本気の事業計画を聞いているうちに二人の仲はどんどん縮まっていくのです。

社長宅でのパーティの夜、ブラントリーはクリスティ、ベラはブラントリー、ハワードもクリスティ、クリスティはブラントリーのそれぞれの部屋に忍んでいこうと行ったり来たり。最後はクリスティの部屋で、全員が鉢合わせしてすべてがバレてしまう。

ブラントリーとクリスティは首になりましたが、会社創業家の娘であるベラの助けで、乗っ取りを画策する敵対企業の株を買い上げで撃退し、ハワードを首にして新社長に就任するのでした。

・・・と、まぁ、世の中こんなにうまくいくわけがないところを、突っ込む代わりに応援したくなるというのがマイケル・J・フォックスの人徳というところ。

相手役のヘレン・スレイターは1984年に映画「スーパーガール」でデヴューした、ブロンド美人。リチャード・ジョーダン、マーガレット・ホイットンの二人もいい味を出すバイプレイヤーですが、二人とも残念ながら病気で亡くなりました。

この映画では音楽を担当したのは、当時引っ張りだこだったデヴィッド・フォスターで、実にムードのある音楽を作りました。そこへ、ナイトレンジャーらのテーマソングが効果的に使われ、映像と音楽の組み合わせは実に素晴らしい。

とにかく見終わって、とてもすっきりした気分になれるというのは重要です。評論家諸氏には必ずしも名作扱いされていない感じはありますが、マイケル・J・フォックスの出演作としては出色の出来栄えで、彼の魅力をしつかりと引き出した傑作として評価されるべき作品と言えます。


2020年12月19日土曜日

バック・トゥ・ザ・フューチャー (1985)

映画のスタッフで一番偉い人は?

監督は、現場で撮影を指示してOKを出す人。映画の個性を最も決定づけているのは、監督の意向と言えそうです。誰々が監督した映画、という語られ方で作品を論じることが普通です。

映画を作るための資金を調達し、俳優を集めてくるのはプロデューサー(制作)という立場の人。映画を作るのには莫大なお金がかかるので、この役割を担う人がいなければ始まらない。

監督がこうしたいと思っていても、プロデューサーがウンと言わなきゃダメ。時には、雇われ監督による、プロデューサーの意向に沿うだけの作品もあります。アカデミー作品賞は、プロデューサーに与えられるものという言われています。

ちなみに日本では、このプロデューサーにあたる「制作委員会」という方式が多い。資金調達が分散するのでお金を集めやすくなりますが、当然利益は少なくなります。

さて、監督よりも、プロデューサーよりも、偉いということになっているのがエグゼクティブ・プロデューサー(制作総指揮)で、例えばスティーブン・スピルバーグは、この役割で参加している映画が、自分の監督作よりも多い。

ところが、この肩書は、偉いんですが役割は何だかよくわからない。映画が売れるために、名前だけ貸しましたみたいなものもある。実際のところ、「スピルバーグの××」と宣伝され、監督だと思って騙されたなんてことは山ほどあります。

スピルバーグの映画だと思ったら違っていたけど、めちゃめちゃ面白くて大ヒットした代表的な作品が「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のシリーズ。

そもそもは、制作であり脚本を書いたボブ・ゲイルのアイデアから始まったもの。ゲイルは、スピルバーグが監督した「1941」の脚本を書いた人。若くして有名になったスピルバーグには、70~80年代にはずいぶん一緒に仕事をしています。

監督はロバート・ゼメキスで、この人もスピルバーグの弟子みたいなもの。ゲイルとのコンビで、初期のスピルバーグ作品を支えた感じです。1994年の「フォレスト・ガンプ」でアカデミー監督賞を受賞しました。

このシリーズは、ゲイルが思いついた話を、ゲイルとゼメキスで脚本化して、スピルバーグの興したアンブリンの元で作り上げたということ。何かにつけて「スピルバーグさんがついていますから」と言えば、いろいろな交渉もやりやすくなったのかもしれません。

タイム・マシン物の映画はたくさんありますが、この映画のポイントは「みんなが体験してきた(あるいは容易に想像できる)過去」に戻るというところ。古い時代に戻るのは、歴史の教科書にのっている過去の見物みたいなところがあります。

ですから、タイム・スリップしたところには、いろいろな懐かしさを見出すことができて、登場人物の今昔の変化が直接映画に関連してくるところが、ストーリーの幅を広げています。

「1941」では、悪乗りしすぎたギャグの連続でスピルバーグの評価を下げまくったゲイル&ゼメキスですが、ここではマイケル・J・フォックスという、実に誰からも愛されキャラの俳優を得たことで、嫌みの無いスマートなコメディ要素を組み入れることに成功しました。

未来的なSF感覚で、オールディーズを語るロマンティック・コメディ要素のアクション映画とでもいえる、面白さてんこ盛りの内容なのに、ぞれぞれのバランスがうまくとれていて絶妙と言わざるを得ない。

内容は今更何をか言わんや。ハードなスピルバーグ作品で。ちょっと疲れてきた時でも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見れば元気回復。何度目でも、散りばめられたいろいろな仕掛けを発見できる楽しい映画です。

ちなみに、パート2、パート3までのトリロジーとして×十周年記念ボックスとして数種類のパッケージが売られていますが、自分が持っているブルーレイ・ボックスは海外版。しかも、本編には日本語字幕・日本語吹き替えが入っているだけでなく、特典映像にも日本語字幕が付属しています。中古の購入価格は2000円を下回るのでお買い得です。

2020年12月18日金曜日

アミスタッド (1997)

スティーブン・スピルバーグは、1994年にディズニーの制作トップだったジェフリー・カッツェンバーグと音楽業界のデヴィッド・ゲフィンと共に、新たな映画制作会社ドリームワークスを設立します。

1997年2本目の公開となるスピルバーグの映画としては、本作がドリームワークスでの最初の作品となりましたが、アメリカ史の中で奴隷制度に深く関わり、しかも南北戦争の引き金の一つになった「アミスタッド号事件」を取り上げ、興業的には成功とは言えませんでした。

しかし、すでに単なる娯楽映画監督と言われない存在になったスピルバーグは、「白人」はあまり触れたくないであろうこの重厚なテーマを、2時間34分の映画の中に見事に描いたと感じました。

ヨーロッパの植民地であったアメリカが独立宣言をしたのが1775年。ジョージ・ワシントンが初代大統領となったのは1789年。1860年にリンカーンが大統領に就任すると奴隷解放制作を実行し、5年間続いた内乱である南北戦争が勃発。

その過程で1839年に起こったのが「アミスタッド号事件」でした。西アフリカで奴隷売買のために捕まったシンケら50人ほどのアフリカ人が、キューバに向かう途中で拘束を脱して船を乗っ取りました。

しかし、船はアメリカに到着し彼らは逮捕されます。裁判になり、スペイン女王、奴隷商人、逮捕に協力した海軍士官などがアフリカ人たちの所有権を主張する事態になります。地方裁判所では、それぞれの主張を退けアフリカ人たちに自由を認めましたが、奴隷制度を維持したい南部の顔色をうかがう時の大統領ビューレンは、最高裁に上告。

前大統領であったアダムズが弁護を引き受け、最高裁でも彼らの自由が認められ、1842年にやっとアフリカの故郷に帰ることができました。しかし、奴隷制度に頼る農業主体の南部の地域は、工業主体の北部に対する敵対関係を悪化させる要因の一つとして歴史に記録されることになりました。

アミスタッド号の船倉でシンケが束縛する鎖を何とかはずシーンから始まるこの映画は、史実をほぼ忠実に再現していきます。いきなり暗いシーンで、時折見えるシンケのアップは何か得体のしれない怖さを感じます。

当然のことながら、アフリカ人だちは英語でもスペイン語でもない、彼らの言語で話をする。この内容はだいたい想像できるにしても、何を話しているのかわからない状況は一層見るものを不安させるのです。

実際のところ、アフリカ人からすれば白人たちの会話は理解できないわけですから、何とか通訳が見つかるまでは、同じ不安を抱えていたわけです。冒頭から、彼らの不安を疑似的に体験することで、見ている我々も少しでも彼らのことを理解するようになっているんだと思います。

基本的には法廷劇と言える体裁をとっていて、意外なほどに現代でも理解しやすい裁判の進行をしていることに少なからず驚かされます。裁判官(判事)がいて、検事と弁護士がいる。状況証拠よりも物的証拠を重視するなど、すでに司法の仕組みは出来上がっていると感じました。

迫真の演技を見せるシンケ役のジャンモン・フンスー、奴隷解放を支援する黒人の新聞記者にモーガン・フリーマン、金目的だったのが次第に奴隷解放のために弁護するボールドウィン弁護士にはマシュー・マコノヒー、そして最後にアフリカ人の自由を勝ち取る大演説を行うアダムス前大統領はアンソニー・ホプキンスが演じます。台詞のある女優さんはまったく登場しません。

ちょっと気になったのはエピローグ。主要な物語が終わった後に、登場人物のその後をナレーションや字幕で追加しています。これは「シンドラー」でもありましたが、語るべきことがあるならそこまで映画にすべきだし、そうでないなら蛇足でしかありません。

とは言え、このような人間ドラマを飽きさせずに最後まで見させる構成力は、さすがに素晴らしい。映画を作り始めて30年、50才になったスピルバーグは、どんな映画でも安定した力量を期待できる作家になっていました。

2020年12月17日木曜日

折り紙サンタ


毎年この時期に、クリニックでは、スタッフ全員で作ったサンタクロースの折り紙を差し上げています。

例年だと、いろいろな色で折って、中に数種類のお菓子をランダムに入れています。どれにしようかと考えて戴く楽しみになっているんですが・・・

どうしても、手を触れることが増えてしまうのは、今年のコロナ禍のもとではちょっとまずい。

実は、同じ理由で、毎年のハロウィーンのお菓子配りは中止していました。サンタも止めてしまうのは簡単ですが、何もかも中止というのも残念すぎる。

そこで、今年は折り紙はすべて同じ色。中のお菓子もすべて同じ。

悩まず、順番に手に取って、持って帰ってもらうことにしました。

25日のクリスマスまで配れるつもりでたくさん用意しましたが、数には限りがありますので、無くなったら終了です。

2020年12月16日水曜日

ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク (1997)

スティーブン・スピルバーグは、「シンドラーのリスト」の後、丸々3年の間はメガホンを取らず、おそらく新たに持った家庭で良き夫・良き父親に専念していました。ちなみに1985年から1989年まで連れ添った前妻は女優エイミー・アーヴィング。そして1991年に再婚した相手は「魔宮の伝説」で知り合ったケイト・キャプショーです。

久しぶりに公開されたのは「ジュラシック・パーク」の続編。スピルバーグが、「インディ・ジョーンズ」シリーズ以外にパート2を撮るのは初めての事。

前作が大ヒットしただけに、当然大きすぎる期待がかけられますので、興行収入はそこそこでしたが、映画としての評価はパッとしませんでした。

最初に結論付けると、「恐竜が現代に蘇ったら」というテーマは、動く恐竜を見てみたいというロマンだけが頼り。結局、恐竜が暴れるきっかけとしてのストーリー展開はどうでもいいところがある。

特に、今回の話の目玉である都会に恐竜を連れてくるというのは名作「キング・コング」と同じ発想ですし、サンディエゴの市街地でティラノサウルスが暴れるというのは、「ゴジラ」のような怪獣映画を見ているようです。

「ジュラシック・パーク」はシリーズ化されましたが、この後の作品ではスピルバーグは製作総指揮に回って、自らは監督していないことがすべて。それなりに金を生み出すことは間違いないのですが、自分の映画監督としてのキャリアにはプラスにならないことを理解しているということだと思います。

今回の主人公は、前作の生き残りの数学者マルコム(ジェフ・ゴールドブラム)。そもそも、前作でもなんで数学者がいるのかよくわかりませんでしたが、今回も恐竜テーマ・パークの生みの親てあるハモンド氏(リチャード・アッテンボロー)が指名したのがマルコム博士。

前作でパークを作った島以外に、サイトBと呼ばれる生育用の島があり、そこでは野放しになった恐竜たちが繁殖していました。前回の失敗を理由にハモンドから会社を乗っ取った甥のルドローは、サンディエゴの街にパークを再建するためにサイトBから恐竜を捕獲してこようとします。

ハモンドは生態の調査とルドローの計画を阻止するためにマルコム以外に、自然運動家のニック、精密機器の専門家エディ、そしてマルコムの彼女で古生物学者のサラ(ジュリア・ロバーツ)らを島に送り込みます。またマルコムの娘ケリーも無理やり同行。

恐竜が登場することは今回はケチりません。島に着いた一行は、早速ステゴサウルスと遭遇します。トリケラトプスなどを捕まえた捕獲隊を攪乱した後、ケガをした子ティラノサウルスを治療のため連れ去ったことで親の攻撃でエディを失います。

装備を失った両隊は何故か協力して、放棄されていた施設に向かいますが、その途中で一人、また一人と恐竜の攻撃でいなくなっていく。何とか本土と連絡を取り、ヘリで救出されましたが、ルドローはしっかりティラノサウルス親子を捕獲していました。

サンディエゴに連れてこられたティラノサウルスは、街で大暴れ。ルドローも噛み殺されます。マルコムとサラは子ティラノサウルスを使って親ティラノサウルスを船に閉じ込めることに成功しました。そして、ジュラシック・パークの存在が、大衆の知るところになりました。

生命科学進歩への不安とか、自然破壊への警笛とか、大企業の利益優先への批判とか、いろいろ訴えていることはあるのかもしれませんが、あまり深読みする映画ではありません。久しぶりに監督するスピルバーグが、カンを取り戻すのにはちょうど良かったのかもしれません。

2020年12月15日火曜日

シンドラーのリスト (1993)

1993年のスティーブン・スピルバーグは、「ジュラシック・パーク」の大ヒットに続いて、クリスマス・シーズンに「シンドラーのリスト」を公開しました。そして、ついにこの作品で、初めてアカデミー作品賞、監督賞他の全7部門で受賞を果たしました。

主として娯楽映画で名声を築き、「カラー・パープル」や「太陽の帝国」の社会派ドラマでは、もう少しの評価で留まっていたスピルバーグでしたが、ここに来て現代映画界の重要な映画作家として認められたと言えるのかもしれません。

しかし、ナチス・ドイツによる、第2次世界大戦下のユダヤ人虐殺、いわゆるホロコーストにまつわる実話を正面から取り上げたこの作品は、スピルバーグという監督の作品であることを一旦忘れて、色眼鏡無しで見ることが大事だと思います。

3時間15分という長尺ですが、大きく3つのパートに分かれています。最初の1時間は、ドイツ占領下のポーランドの都市クラフクにやってきたナチス党員であったオスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)が、ユダヤ人を利用して工場を経営し成り上がっていく様子を描きます。

シンドラーは、最初は安い労働力としてユダヤ人を利用し、軍人にうまく媚を売る商売人です。経理を任されたユダヤ人のシュターン(ベン・キングスレー)は、シンドラーの真意がわからず、注いでもらった酒に手を付けません。

中盤は、町にゲート少尉が収容所所長に赴任してきて、しだいに無差別な殺戮が始まるのです。少しでも働かない、役に立たない者はいとも簡単に射殺される描写は、あまりに過酷で正視に耐えません。シンドラーはゲートに「罪人であっても許すことが力になる」と説きますが、軍の中にいてそれを実践することは難しく、戦時下の日本も同じだったのかもしれません。

そして、シンドラーはユダヤ人に対するあまりにも非人間的な扱いに対して、私欲よりも彼らを助け出すことの重要性に気がつくのです。彼は、それまで工場で得た莫大な利益を使って、アウシュヴィッツ収容所送りになるユダヤ人の中から、自分の労働力として必要という名目の人々のリストを作り「買い取る」ことを申し出ました。

その数は何と1000人にも及ぶものでしたが、間違ってアウシュヴィッツに送られた女性たちも、再度掛け合って助け出すのです。終戦になるなる頃には、シンドラーは金を使い果たし破産状態でした。いつか、二人で飲みかわしたいとシンドラーに言われたシュターンは、今度は「それは今です」と言って酒のグラスを口にしました。

終戦を迎え、工場内にユダヤ人、そして監視のドイツ兵士らを全員集め、シンドラーは語ります。「みんなは自由になる。家族を探すことになるが、おそらく見つけられない。自分は、おそらく戦争犯罪人として逮捕されるかもしれないので、ここを去ることを許してもらいたい。兵士諸君は、全員を処刑するように命令されていると思うが、今なら簡単だ。それとも人としてこの場を去るか決断してもらいたい」

兵士たちは、皆、銃を構えることはなく工場を出ていくのです。そして、シンドラーはシュターンと抱き合って、「車を売ればあと10人、ナチス党の金バッジであと一人救えたはずだった。努力が足りなかった」と言って泣き崩れるのでした。

当然、戦闘シーンがあるような映画ではありません。戦争での大義名分のある殺人と違って、ここに描かれている多くの死んでいく人々には殺される理由がありません。それが、戦争の本当の惨たらしさを切実に訴えてきます。

この映画にはユーモアはありません。最初から最後まで、重たくのしかかった運命に翻弄される人々、それはユダヤ人だけでなく、場合によっては戦争によって変わってしまったドイツの人々も含めて、淡々と語られていきます。

映画は白黒で撮られていますが、最初と最後はカラー。ユダヤの安息日の蝋燭の炎が揺らめくところが、冒頭では意味が分かりませんでしたが、最後では否応なしに心に響きます。途中でも、兵士が町を粛清する場面で、逃げ惑う人々の中に赤いコートを着た女の子が忽然と現れ、兵士に捕まることなく悠々と走っていくのですが、ここもパートカラーの処理をしています。

これはスピルバーグ自ら語っているように、「ホロコーストという恐怖は、この赤いコートのように目立つことで、誰の目にも明らかだったにもかかわらず、アメリカを含む世界中が手を出さなかった」ことを象徴していて、シンドラーの気持ちが変化する起爆剤となっていくのです。

物語が終わった後、生存する救われた人々と、それぞれを演じた俳優たちが一緒になってシンドラーの墓に参るところは感動的です。彼らはこの映画が、完全に真実を伝えていないにしても、実際にどんなことが起こっていたのかを知るための役に立つと認めたからこそ、出演を承諾したと思います。それが、最後にハッピーエンドとならないこの映画で、見終わった後の唯一の救いとして心に残ります。

シンドラーが一人で1000人ものユダヤ人を救ったことは凄いことですが、その裏でドイツ側資料で250万人、ユダヤ側資料では600万人にもおよぶホロコーストの犠牲者がいることを忘れてはいけません。シンドラーは必ずしも善人ではなかったのかしれませんが、ホロコーストに対して無関心ではありませんでした。

そして、ユダヤ系アメリカ人であるスピルバーグも無関心ではいられなく、このテーマを扱うことの責任は大きかったと想像されますが、映画人としては避けることができないものだったと感じます。スピルバーグは、この映画で金を貰うわけにはいかないと言って、監督料は受け取りませんでした。

2020年12月14日月曜日

ジュラシック・パーク (1993)

スティーブン・スピルバーグは、この映画で再び全世界での興行収入記録を更新するヒットを放ちました。この人気作はシリーズ化され、すでに30年近くたっても新作の準備中です。

原作は科学的根拠をベースにした作品が多いSF作家、マイケル・クライントンで、自ら脚本にも参加しています。恐竜の血を吸った蚊の化石から、DNAを抽出してクローン恐竜を作ったらという話(ただし、実現不可能であることはほぼ証明されているらしい)。

恐竜は、こどもは誰でも興味を持つ時期があり、古代地球のロマンの一つ。それは絶滅したからこそのものであり、当然、現代社会で恐竜と人間が共存するというのはスリル以外の何物でもありません。

しかし、リチャード・アッテンボロー演じる大金持ちのハモンドは、離島にクローン恐竜のテーマ・パークを作ったのです。オープンを前に、権威づけのために恐竜化石の発掘を専門にしているグラント博士(サム・ニール)、グラントの恋人で古代植物の専門家であるサトラー博士(ローラ・ダーン)、そしてカオス理論を専門とする数学者のマルコム博士(ジェフ・ゴールドブラム)の3人の科学者が招待されます。

数学者がいる理由がよくわかりませんが、そこにハモンドの孫二人と、ハモンドの弁護士を加えたの6人で、早速自動運転の車に乗り込み、パークの見学ツアーに出発。ところが、嵐が急接近してきたこと、そして金に目がくらんだエンジニアの一人がDNAを盗み出すためにパーク内のセキュリティ・システムをダウンさせてしまい恐怖のスタートになります。

ティラノサウルスに襲われた一行は、恐竜生息地域に逃げ延びたこどもが嫌いのグラントと孫二人、センターに戻ったサトラーと負傷したマルコム、そしてハモンドの二手に分かれて様々な恐竜に襲われる危険な目に遭遇します。


弁護士やパークのスタッフらは、恐竜の餌食になってしまいますが、主要人物6人は何とか無事に島を脱出することに成功しました。

これらの見事な恐竜は、アニマトロニクスと呼ばれる可動式機械がシーンごとに使われています。この見事な動きが映像にリアリティを与えていて、特に大きさも映画を見る人に絶大なインパクトを与えることに成功しました。ジョージ・ルーカスも協力し、CG技術も取り入れられていますが、実写だけで不十分なパートをうまく補完しています。

映画としては、生物に襲われるある種のパニック物として見るだけでも、スリルの連続で楽しめます。しかし、生物の根本的な生存に人間が介入することのリスクを提示していることも重要です。また、スピルバーグ映画の多くに現れる親子の関係も、こども嫌いだったグラントが必死に二人のこどもたちを守っていくことで、テーマの一つに掲げていることも忘れてはいけません。

いずれにしても、やはりこの手の映画は、スピルバーグの最も得意とする分野であることは間違いなく、ハラハラ、ドキドキの連続の作り方はうまいなぁと思いました。

2020年12月13日日曜日

自宅居酒屋 #29 蓮根つくね


蓮根を使ったつみれを作ってみました。

蓮根は、よく売っているこどもの拳大くらいの1個。これを擦り下ろします。一緒に混ぜるものはお好みですが、今回は味を出すために干し椎茸2枚、粗挽きにした鶏もも肉を唐揚げ一個分くらい。そして卵一個と、片栗粉少々。

味付けは、生姜少々と塩。そこに砂糖をほんのり加えてみました。これらをがちゃがちゃとボールで混ぜると、蓮根に水分が多いので、けっこう柔らかい感じになります。

あとは、フライパンにちょっと多めの油で、揚げるように焼くだけです。柔らかいので、平たく広がりますので、適宜間隔は開けておかないとくっついてしまいますので注意。

キッチンペーパーなどで、しっかり油は吸い出してから、並べて完成。

ふわっとして、でもちょっともっちりなつくね・・・というかハンバーグみたいになりました。蓮根がベースなので、なんか体に良いような感じがして満足です。

2020年12月12日土曜日

自宅居酒屋 #28 にこごりもどき (失敗事例)


いろいろと料理を掲載していますが、いつでもうまくいくわけじゃない。

作ってみたけど思うような味ではなく、二度と手を出さないというのもたまにはある。味はいいんだけど、根本的に失敗という例もあって、今回は恥ずかしながらそれを紹介します。

今回は「にこごり」に挑戦してみました。魚の煮汁とかは、そのままほっておくとゼラチン質が固まってゼリーみたいになっていることがあります。それを意図的に作る料理のこと。

ただし、今回は「もどき」で、似て非なる物という扱い。寒天を使って、余っていた物を寄せ集めてみたというところ。

出し汁のなかに椎茸、しめじ、三つ葉、それと冷凍していた醤油漬けイクラを入れて、寒天を溶かして冷蔵庫で冷やしてみた・・・んですが、見ての通り。

とっても不味そう。

原因の考察。寒天が足りなかった。寒天がちゃんと溶けきれていなかった。冷やし方が不十分だった。それらのどれか、あるいは複合的な要因によって、うまくいかなかったと考えられます。

結論。味が良ければいいってもんじゃない。料理は見た目が大事。


2020年12月11日金曜日

フック (1991)

スティーブン・スピルバーグの映画は、今回は思い切りファンタジー。それも、かなりこどもっぽい題材で、さすがに公開時は驚きました。

なんと、有名なこども向けの「ピター・パン」がテーマ。そして、ピーターの宿命の敵である海賊のフック船長がタイトルになっています。

ピーター・パンは、ディズニー・アニメで一躍世界中で有名になりましたが、そもそもは20世紀初頭のは、イギリスの作家ジェームス・マシュー・バリーの戯曲がオリジナル。

ロンドンの公園で迷子となり、年を取らないネバーランドで永遠の少年として、妖精ティンカーベル、ピーターと同じく迷子になって年を取らないたロストボーイらと共に、海賊フックやインディアンのタイガーリリーらとの冒険をするという話。

ロンドンに住む女の子ウェンディはピーターの存在を信じていて、ある夜、自分の影を探しに部屋に入ってきたピーターの影を縫い付けてあげたのをきっかけに、弟たちとネバーランドに飛び立つ。冒険の末、大人になることを選択したウェンディは、ネバーランドを後にしました。

まぁ、かなり端折ってしまうと、こんな感じですが、ここんとこを知っているか知らないかで、この映画の評価はだいぶ変わって来るかもしれません。できれば、ディズニー映画でもいいのでも先に見返しておくと一層楽しむことができます。

この映画は、まさにオリジナルの登場人物、そのキャラクター設定を受け継いだ「続編」と言えるものなんですが、一番の特徴は、ピーター・パンが大人になっちゃったということ。しかも、自分がピーター・パンだったことはまったく忘れ、家族を顧みない仕事一筋の腹の出たおじさんとして登場します。

ピーター・パンとの決着をつけたいフックが、ピーターのこどもを誘拐したことで、ティンカーベルの助けでネバーランドに再び戻ったおじさんピーター。最初は空を飛ぶことも忘れ、剣の使い方も思い出せません。

しかし、ティンカーベルに一番幸せなことを思い浮かべれば再び飛べると助言され、家族との生活が大事であることを思い出したおじさんピーターは、ピーターパンに戻り子供たちを助け出し、フック船長をやっつけるという話。

スピルバーグが映画に描く登場人物は、どこかで必ずピーター・パンのような、永遠のこどもであったり、こどもの心を忘れない大人です。おそらくは、それがスピルバーグ本人にも当てはまることだろうと思います。

そういう意味では、スピルバーグがピーター・パンの映画を作ることは必然と言えるかもしれません。しかし、興業的には失敗とは言えない結果を残しましたが、映画として必ずしも記憶に残るかというとそうでもない。

ピーターを演じるのは、コメディアンとして映画にもたくさん出演していたロビン・ウィリアムス。ただ、どんなに頑張っても、ピーターがおじさんというのは、元々世界中の誰もが持っているイメージから外れてしまう。これはウィリアムスの責任ではありません。

勇気があって無邪気なこどもの代名詞が「ピーター・パン」であって、残念ながら大人のピーターは、あくまでも「ピーター・パンのような」人にすぎないと思ってしまいます。「もしもピーター・パンが大人になったら」といういかにも映画的な発想は、気持ちとしてはわからないわけではないけど、想像しておくだけにしておかないと・・・

ただし、名優ダスティン・ホフマンは、メイクの巧妙さもあってさすがにフック船長を見事に演じていますし、ジュリア・ロバーツも、ちょっと嫉妬深いティンカーベルにピッタリです。オール・セットで、ネバーランドの世界観もうまく再現しているところはさすが。

ピーター・パンの後日譚として、こんなこともあるかもしれないという程度の軽い気持ちで見ればそれなりに楽しめる作品なのかもしれません。


2020年12月10日木曜日

オールウェイズ (1989)

1989年、スティーブン・スピルバーグ監督作品は5月に「インディ・ジョーンズ」が公開されただけでなく、クリスマス・シーズンにさらにこの作品が公開されました。

スピルバーグが随分と前から気に入っていた、1943年の映画「ジョーと呼ばれた男」のリメイク作品で、元々の戦闘機乗りを山火事の消火飛行士に変えています。

1993年、癌のため亡くなったオードリー・ペップバーンが8年ぶりに出演した映画であり、そして最後の映画となりました。ヘップバーンは「E.T.」を見て、スピルバーグの才能を認め二つ返事で出演を承諾しました。

主演のリチャード・ドレイファスは、スピルバーグ作品では3回目の出演。ヒロインのホリー・ハンターは、1987年の「プロードキャスト・ニュース」に注目度が上がり、この後1993年には「ピアノ・レッスン」でアカデミー主演女優賞を獲得しています。話題性はそれなりに合ったのですが、正直あまりばっとしなかったというのが実際のところ。

山火事の消火活動を専門に行うピートは、友人のアルの危機に無茶な救援をして自らは爆死します。天使ハップハは、そんなピートの魂を地上に戻し、新米のベイカーの霊感となって指導させるのです。

ピートの恋人だった飛行士でもあるドリンドルは、彼の事がずっと忘れられないでいましたが、ベイカーは彼女に恋をしてしまい、ピートは間に入って悩むことになる。

山火事で消火隊が退路を断たれる緊急事態が発生し、ベイカーは危険を承知で飛び立つ準備をしていると、ドリンドルが機に乗り込んで飛び立ってしまうのです。経験のない彼女の無茶な行動に、ピートは霊感となって救ての手を差し伸べます。そして機体は川に沈めてしまいましたが、何とか無事に戻ったドリンドルにピートは最後のお別れをするのでした。

・・・と、まぁ、死んだ人間が天国から戻ってくる系の物語としては、ある意味普通の展開で、新鮮味はあまり無い。何よりも、死んでからも、あるいは生きていてもお互いに忘れられない二人の「純愛」のはずなんですが、もう一つ、恋愛を描くことはスピルバーグが苦手なのがはっきりしたというところ。

超イケメンじゃないドレイファスが、ずっと一人を思い続けるのはアリだと思うので、キャスティングは許せる。ただ、その強い二人の絆が見えてこない。死んでからの話が中心ですから、しょうがないと言えばそれまで。

操縦は素人並みのドリンドルが勝手に飛行機を飛ばしてしまう・・・と、ずいぶんと無茶な決心をするだけの重みが見えてこないのも辛い所。自分にアプローチしてくるベイカーを危険な目に合わせたくないからというのは無理があるし、ピートへの思いを断ち切るためというにはベイカーへの思いがはっきりしない。

よくある映画としては佳作の域だとは思いますが、やはり、スピルバーグに対する周囲のハードルがどんどん高くなっているわけで、それを監督自身も十分に自覚することになっただろうと思います。

スピルバーグは、「1941」以後は純然たるコメディ映画を撮っていません。そして、この映画の後には恋愛ものも封印してしまいました。

2020年12月9日水曜日

新臨床内科学


久しぶりに医学書を購入。

医学書院が刊行する昔からある内科学書の教科書の一つで「新臨床内科学」という本です。

内科学の勉強では、自分が学生だった頃は、ハリソンの内科学とか、朝倉書店の内科学、中山書店の内科学などが有名でした。この新臨床は、これらの教科書の半分以下の内容で、当初から学生向けにエッセンスを凝縮しているのが特徴。

学生の時は中山書店の「内科学」を懸命に読みました。何故かというと、基本的に病的な状態では何が起こっているかという病態生理が詳しかったから。

ただ、実際、試験ともなると、知識の確認や、わからないところをさくっと調べる必要から、簡単にまとめられた新臨床が重宝したものです。当時使っていたのは第3版で、青い表紙が目立ちました。

開業医になって、整形外科といえども、リウマチを専門にしていると内科学の知識はそれなりに必要です。そこで、改めて膨大な教科書は手に余る。

そこで再び新臨床の登場ですけど、2002年に発売された第8版はスルーして、2009年の第9版を購入。学生の時の第3版は600ページくらいだったように思いますが、これは何と1900ページ。

ただし、それから10年以上改訂されず、さすがに内容が古くなってきた。もう、新版は出さないのかと思っていたら、今年の3月に第10版が発売されていました。コロナ騒ぎでまったくきがつきませんでした。

今回も、同じくらいの分量で、当然内容は盛りだくさん。一つ一つの項目の説明は簡潔で、内科専門医には役に立たないかもしれませんが、学生か、あるいは自分のような本来内科を専門にしていない医者には十分な量だと思います。

何気なく開いたところに出てくる病気の話を、ちょこちょこと読むだけでも意味があるというものです。

2020年12月8日火曜日

インディ・ジョーンズ/最後の聖戦 (1989)

1984年の「魔宮の伝説」以来5年ぶりのスティーブン・スピルバー娯楽作品は、再び「インディ・ジョーズ」シリーズの第3弾になりました。

元々「007」シリーズのような映画を作りたくて始まったわけですが、今回は、何と初代ジェームス・ボンド役のショーン・コネリーが登場。インディの父親ヘンリー・ジョーンズになって、ハリソン・フォードの「ジュニア」と共に冒険をする展開です。

父親のヘンリーも考古学者で、インディが子供の頃から「キリストの聖杯」をライフ・ワークにして家庭を顧みなかったため、息子のインディとも疎遠になっている関係。

聖櫃の冒険から2年後の設定。インディの関係する博物館のスポンサーであるドノバンは、先発隊の隊長が行方不明になったためインディに聖杯を探すように依頼してくる。行方不明になったのはヘンリーだと告げられ、インディは断れなくなります。

今回は、冒険に旅立つ立派な根拠があり、父親の救出と共に父子の関係修復という重要なテーマが示されました。これに伴って、インディのいろいろな逸話も披露されることになり、シリーズのファンとしては捨ててはおけない内容です。

ドノバンを演じているのはジュリアン・グローヴァーで、「007/ユア・アイズ・オンリー」で味方のふりをして実は黒幕だった人物。インディがヘンリー捜索に協力するヒロインは、エルザ・シュナイダー博士で、演じるのは「007/美しき獲物たち」でやはり敵側のボンドガールを演じたアリソン・ドゥーディです。

全体的には一つの場面が比較的簡単にまとめられていて、スピーディな展開と言えなくもないのですが、どちらかというと展開の仕方は雑という印象です。聖杯を欲しがっているのが聖櫃の時のようにナチスなんですが、必ずしも他の組織でいいくらいの扱いです。

でも、前作で不評だった誇張されたギャグや悪趣味なシーンは影を潜め、また極端な特殊効果もあまり使われていません。とは言え、全体的に肉体的アクションと、親子ならではのクスっと笑わせるポイントが散りばめられて、ほどよく楽しめる出来になりました。

冒頭は、インディの若き日の逸話からスタート。盗掘屋と闘って、ムチを使うことになった話。大量のヘビがいる箱に落ちて、以来ヘビが苦手になった話。盗掘屋からガッツを認められて、トレードマークになる帽子をもらう話などが紹介されます。

実はコネリーとフォードは年齢差は12才しかなく、この映画の時点でコネリーは59才、フォードは47才でした。どちらもアクション・スターとしては、ちょっと無理がある年齢。ヘンリーは比較的呑気な学者肌の人物として描かれ、コネリーは大好きな役柄だったと後に述懐しています。

そして、最後にインディの本名は「ヘンリー・ジョーンズJr」であることが明かされ、インディは飼っていた犬の名前だったというのも痛快でした。

文芸大作を2つ続けたスピルバーグとしては、箸休めみたいなところがある作品ですが、さすがに手慣れたシリーズで、本人も楽しんで監督をしたんだろうと思います。



2020年12月7日月曜日

太陽の帝国 (1987)

スティーブン・スピルバーグにとって、「1941」以来の戦争物。ただし、もちろんコメディではなく、また実際に戦闘をする兵士たちの話でもない。戦争によって、一人で生き延びなければならない少年の目線で描いた作品です。

スピルバーグの作品には、少年の心のまま大人になってしまう人物が関係することが多いのですが、ここでは少年から大人に成長することが大きなテーマになっています。今回も、いくつかのノミネートはありましたが、アカデミー賞は一つも受賞していません。

第2次世界大戦末期、真珠湾攻撃と共に、帝国日本軍はてを出しかねていた上海の外国人居住地を一気に占領しました。この頃の上海はヨーロッパの街のような賑やかさで、富を築いた裕福なヨーロッパの人々が数万人暮らしていました。

その中の一人だったのが、原作者のジェームズ・グレアム・バラードが書いた小説「太陽の帝国」でした。自身の外国人収容所での生活を軸に書かれた小説は、当初「アラビアのロレンス」デビッド・リーン監督が興味を持ち、そこからスピルバーグへ映画化の話が持ち込まれました。

13才のクリスチャン・ベールの映画デヴューとなった少年ジム・グレアムは、上海租界に住む特権階級のこどもで、空を飛ぶこと、とくに飛行機に異常なほど興味を持ってます。それは日本軍のものであれ、アメリカ軍のものであれ関係はありません。

日本軍の侵攻により、街から逃げ出す群衆の中で両親と離ればれになってしまったジムは、アメリカ人のベイシー(ジョン・マルコヴィッチ)に助けられ、ともに収容所生活を送ることになります。

多くの民間人が死んでいく中で、ジムは生き延びるための術を身に付け、飛行機好きの少年のままたくましく立ち回ります。しかし、あまりに過酷な生活の中で、ついには両親の顔を思い出せなくなり、過去のこどもであった自分との決別・・・今までの自分の思い出がつまったカバンを川に投げ捨てるのでした。それは、まさにこどもであることを止めた瞬間なのです。

そして、突然のアメリカ軍の飛行機の襲来により、飛行機に対する憧れが再確認されたにもかかわらず、次の収容所に移動する途中の競技場で租界から集められた調度品の数々の中に、自分の知っている過去の残骸を見出し、戦争の引き起こす結果を目の当たりにするのです。

終戦となりアメリカ軍に救われ、ジムは施設に入りました。そこへ我が子を探す親たちがやって来る。その中にジムの両親がいて、父親はジムに気がつかない。母親もしかしたらと声をかける。ジムも最初はわかりませんが、触れてやっと母親であると思い出すのです。そして抱き合いのですが、もう彼の目はこどものような喜びをたたえてはいませんでした。

話が話なので、日本人も出演しています。最初の上海市内の収容所の兵隊にガッツ石松、運転手に山田隆夫。蘇州の収容所の軍曹は伊武雅刀。そして、日本軍少年兵の片岡孝太郎は、特攻のために飛行士の訓練を受けていて、ジムとも柵を隔てて飛行機という共通点で魂の交流をする重要な役どころを演じています。

飛行機は本当に飛ぶ実物と、1/3スケールのラジコン模型機をうまく利用していて、要所要所で空への憧れを夢と現実の両面で視覚化することに成功しています。アメリカ映画としては戦後初の中国ロケを敢行し、数千人規模のエキストラを動員した街の再現も見応えがあります。

公開当初は評価が高いとは言えませんでしたが(それはある意味アカデミー賞の弊害です)、年数が経つにつれスピルバーグ作品として無視できない重要な位置づけがされるようになってきました。「カラー・パープル」が無ければ「太陽の帝国」は無く、「太陽の帝国」が無ければ「シンドラーのリスト」も無いということだと思います。

2020年12月6日日曜日

カラー・パープル (1985)

これまで、どちらかというとアクション、SFといったエンターテイメント性の高い映画を作って、ハリウッドで稼げる監督として名をあげてきたスティーブン・スピルバーグですが、今までの時期を若さに任せて勢いに乗ってきた成長期とするならば、この作品で映画作家として円熟期を迎えることになるのです。

特に「E.T.」では、単なるSF映画というより、こどもたちが大人になっていく貴重な体験をメイン・テーマにして、アカデミー賞に多くの部門でノミネートされていましたが、実際のところメインの賞は、「ガンジー(R.アッテンボロー監督)」に持っていかれてしまいました。

これにスピルバーグは、表立ってコメントしていませんがかなりショックだったことは間違いない。やはり、いろいろな意見はあってもアカデミー賞は、ハリウッドの最高の名誉であることは無視できないところです。

だからというわけではないかもしれませんが、この映画でスピルバーグは本気でアカデミー賞を狙いに行ったことは確実です。ただし、残念ながら10部門にノミネートされたにもかかわらず無冠に終わっています。

これには、ほぽ黒人だけの登場する映画を作ったこと、そしてスピルバーグの魂胆が見え隠れしたことによる抵抗感などが災いしたのかもしれません。権威主義的なアカデミー賞の世界では、この年、王道と言えるシドニー・ポラック監督、ロバート・レットフォード、メリル・ストリープ主演の「愛と哀しみの果て」が主な賞を持っていきました。

実は、スピルバーグ初の文芸大作であるこの映画は、何となくそれまでのスピルバーグらしさが感じられなかったことから、ずっと未見のまま放置していました。今回、スピルバーグ作品を制覇しようと思いついて、初めて視聴したんですが・・・・不覚にも涙を隠せませんでした。

もちろん、20世紀初頭の40年間あまりを舞台にして映画で、アフリカ系アメリカ人の苦しみを本当に知っていないと、この作品の本質は理解できないと思います。それでも、人間のドラマとして、人と人とのつながりは世界共通に伝わるものがあり、間違いなく感動を与えてくれるものです。

「ガンジー」にしても、「愛と哀しみの果て」にしても、実際のところ、その後あまり語られることがなくなったことがすべて。40年たって、現在でも忘れられることなく受け入れられている映画は「E.T.」であり「カラー・パープル」だと思います。

黒人であるアリス・ウォーカーが書いた原作の小説は、ピューリッツァー賞のフィクション部門を受賞しました。物語は白人に対する戦いではなく、黒人社会の中での家族の在り方、そして黒人女性が自立していく過程を描いたものでした。

音楽家として成功したクインシー・ジョーンズが映画化を推進し制作として携わり、監督としてユダヤ系白人であるスピルバーグを指名しました。キャスリーン・ケネディらを筆頭にスピルバーグの白人スタッフが、原作者と緊密な連絡を取り合って、オリジナルの雰囲気をしっかりと映像の中に取り込みつつ映画としての「らしさ」も存分に出しきった作品に仕上げたと言えます。

1861年からの南北戦争を経て、リンカーンが奴隷解放宣言をしたのは1863年のこと。そして、奴隷解放が完了したのは1865年末のこととされます。この物語は1909年に始まります。美しい紫色の花畑で手遊びをして楽しむ黒人姉妹、セリーとネッティの映像から始まります。

奴隷解放から40年以上が立っていても、アフリカ系アメリカ人は白人による抑圧された生活をしていたことが描かれまていますが、それよりも多くの時間を費やすのは男性による女性差別で、一部のアフリカ系の女性はいまだに奴隷と同じような生活を強いられていました。

さらに、近親相姦、人身売買、同性愛などのタブー視される深刻な問題もあったこと含みながら、笑うことを封じられたセリーが、離れ離れになってた妹からの手紙によって、約30年かかって自分の存在に自信を持ち自己を開放するのです。そして、再開した姉妹は再び花畑で手遊びをするシーンで映画が終わります。

終盤まで暗いストーリーが続き、辛い思いをする女性ばかりが登場するので、理解が不十分な外国人にとってはある程度の忍耐が必要かもしれません。しかし、長い時間が映画の中で経過していますが、場面転換の演出はさすがに素晴らしい。登場人物が年を取っていくことへの違和感はありません。

最後のシーンでは、女性たちの凛々しさを見事に見せてくれて、離散した「家族」が長い年月を経て再生していくことを暗示することで、さわやかに見終えることができるのです。

主演で初映画のウーピー・ゴールドバーグは、最も注目されました。彼女に限らず、主要キャストであるマーガレット・エイヴリー、オプラ・ウィンフリーもアカデミー賞にノミネートされ、出演者が真剣に役になり切って台詞を自分の言葉としてものにした結果だと思います。

スピルバーグは、この作品以降、娯楽作品と文芸作品を交互に作るようになり、映画作家としてより高い次元を目指すことになりますが、その一つの到達点に達するまでにはまだ後何年も必要でした。

2020年12月5日土曜日

ジスカールデスタン


1974~1981年にかけて第20代フランス大統領を務めたヴァレリー・ジスカールデスタン氏が、12月2日、新型コロナウイルス合併症のため94才で亡くなりました。

たぶん、この名前に聞き覚えがあるのは中年以上で、若い人は知らないかもしれません。

自分が、中学~高校で世界史・世界地理の授業を受けていた頃に、世界情勢の話に伴って登場する人物で、名前が何となくインパクトがあって記憶に残りやすかったのを覚えています。

当時は、世界情勢は東西冷戦の時代。1962年のキューバ危機以後一気に高まった緊張が、少しずつ緩み始めた(デタント)時期と、1979年のソビエト連邦がアフガニスタン侵攻したことで再び緊張状態に戻った時期が含まれ、核戦争のリスクは現実的な怖さを伴なっていました。

同じ時期に東側の中心であったソビエト連邦を率いていたのはブレジネフ書記長、一方の西側の中心であるアメリカを率いていた大統領はニクソン、フォード、カーターらお歴々。

イギリスは、国王はずっとエリザベス2世ですが、首相はあまり記憶にない。ただし1979年に就任したサッチャー女史は強烈なインパクトを歴史に残しました。

1990年の統一まで東西に分断されていたドイツは、西側の首相をシュミット、東側のトップはホーネッカー議長でした。

日本はというと、いわゆる「三角大福」と呼ばれた自由民主党内の激烈な権力闘争の時代。田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳が総理大臣を歴任しました。

西側の軍事同盟はNATO(北大西洋条約機構)、経済同盟はCENTOなどで、東側の軍事同盟はWTO(ワルシャワ条約機構)、経済同盟はコメコンというのがあって、世界中が東か西かに分かれていました。なにしろ40~50年前の話ですが、今とは世界情勢が随分と違っていました。

フランスの大統領は、なんとなく名前が記憶に残りやすく、ドゴール、ポンピドーに続いて就任したのがジスカールデスタンで、その後はミッテランということで、名前だけは知っている。

いずれにしても、これらの世界のトップとして活躍した方で、存命中はあとはカーター大統領くらいでしょうか。世界戦争の現実的なリスクが高かった時代でしたが、ある意味、今と違い東西対立だけに絞って理解すればよかったということかもしれません。

2020年12月4日金曜日

インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説 (1984)

「E.T.」と同時進行だった、ホラー映画の「ポルターガイスト」は制作にまわり、監督はB級ホラーで名を馳せたトビー・フーバーに任せます。スプラッタ・ムービーが得意な監督でしたが、ここでは一人も死人を出さず、リチャード・エドランドらによるSFXを上手く利用してスマッシュ・ヒットになりました。

1983年は、人気TVシリーズに触発されたオムニバス映画「トワイライトゾーン/超次元の体験」に中の一編を監督しています。スピルバーグ以外は、ジョン・ランディス、ジョー・ダンテ、ジョージ・ミラーが担当し、正直言ってスピルバーグの監督部分が一番つまらない。

施設の老人がこどもに戻るというスピルバーグらしいテーマですが、他の三人が特殊撮影・特殊メークを目一杯盛り込んでいるので見劣りは否めません。

その頃、「E.T.」は続編は完璧な出来だとして続編は断り、「レイダース」の第2弾の制作に着手していました。前作より1年前の話として設定され、今回は上海からインドの奥地に向かい、邪教を復活させようとする集団との戦いを描きました。

スタートは、上海のナイト・クラブ。名曲「Anything Goes」を中国語の歌詞に載せて、歌手ウィリーのケイト・キャプショーが登場します。往年のMGM映画のミュージカルのような構成はなかなか見応えがあります。

その後、上海マフィアとインディ・ジョーンズのやり取りは、ユーモアを混ぜながらスピーディなアクションの連続で、映画を盛り上げ本編の期待を膨らませることに成功している。

前作に登場したヒロインは、インディ・ジョーンズのように冒険家で、積極的に危険に関わっていける女性でしたが、今回のウィリーは都会派の女性で、インディの世界では異端な存在。

逆にウィリーが、驚き怖がって悲鳴をあげるコメディ・リリーフの存在なのですが、それが強調されすぎている。緊張の中で、ときどき場を緩ませるのには効果的なんですが、笑いを取るためにあえて盛り込まれた場面が多すぎ様に思います。「1941」の時のスピルバーグの悪い癖が出てしまった感じ。

「レイダース」のような、自分の恩師とその娘との過去の因縁といった、ストーリーに深みを与える設定が無く、インディ・ジョーンズとしてはたまたま巡り合せただけの事件というのも弱いところ。

呪術のような摩訶不思議な現象を取り入れて、ピンチを作るところも安易な設定。と、文句ばかり並べているようですが、実際のところスピルバーグ自身も、後に出来として良くないことは認めています。

とは言え、終盤のトロッコのチェイス、襲って来る大量の水、吊り橋でのアクションなどの連続的なスリルはさすがというところでしょうか。

肩の凝らないアクション映画としては、そこそこの出来ですが、もはやスピルバーグに期待されるものはこの程度ではないということです。この映画によるスピルバーグの一番の拾い物は、後に結婚することになるケイト・キャブショーとの出会いということになります。

また、この時期に「トワイライト・ゾーン」のようなTVシリーズ「世にも不思議なアメージング・ストーリー」の制作に着手しています。2シーズンで、45本のドラマが作られましたが、最初のうち「ゴースト・トレイン」、「最後のミッション」の2本については自ら監督も行いました。

2020年12月3日木曜日

E.T. (1982)

この映画は、公開時、興業収入の記録をぬりかえた初期のスティーブン・スピルバーグ最大のヒット作です。

何が凄いって、前作「レイダース/失われたアーク」制作中に、並行して次回作の制作準備を着々としていたというところ。さらに言えば、ホラーの傑作「ポルターガイスト」の制作も同時進行させていました。

この頃は、怖いもの知らずで、あふれ出るアイデアと創作意欲を次から次へと実現させていました。そして「彼のアマチュア時代の短編「Amblin」から名を取った、自分の映画製作会社「アンブリン・プロダクション」をキャスリーン・ケネディ、フランク・マーシャルらと立ち上げていました。この映画は、スピルバーグ監督作品としては、初めて「スピルバーグ組」と言えるアンブリンが関わった作品です。

アイデアは遡ると「未知との遭遇」から始まるのは明らかで、地球にやった来た宇宙人が帰りそこなったらどうなるのかというところから始まります。つまり、第三種接近遭遇の先、UFOの搭乗員を捕獲したい第4種接近遭遇を目指す公的機関と、直接宇宙人と対話をする第5種接近遭遇をするこどもたちの話。

特にこどもたちが主役となって、彼らの母親以外はまともに登場する大人が出てこないというのが特徴です。途中で大人が画面に映っていても、はっきりと顔まで見える場面はほとんどありません。

つまり、数少ない大人も、スピルバーグのテーマである、こどもの頃からずっと心に何か引っかかる物を持ち続けている。ストーリーは、こどもたちの視点で進み、大人になって忘れていた物を思い出させてくれるものになっています。

こどもたちの家庭は、父親が出て行ってしまった母子家庭です。これは、スピルバーグのプライベートとして、少年時期に親が離婚した経験が関係しています。親が離婚した家庭で、こどもは何を思っているかを伝えようとしたことは、自らも表明しています。

植物採取の目的で地上に着陸したUFOにのっていた宇宙人、E.T.、つまり Extra-Terrestrial(地球圏外)、が公的機関?の調査隊が来たため出発に間に合わず地上に取り残されてしまいます。

このE.T.は、着ぐるみで動くものと何人ものスタッフが動かすロボット式の物を使い分けていますが、比較的序盤から直接的にその姿が登場します。比較的古い宇宙人のイメージを可愛らしく作り直した感じで、これを可愛いと思うのか気持ち悪いと思うのか、この映画の踏み絵のようなところがあります。

本来はおそらく地球人よりも高度の科学技術をもつ彼らのはずで、少なくともこどもではないと思いますが、主人公のこどもよりも小さめの体で、目がくりくりして、こどもたちとのユーモラスな動きが嫌な感じを与えないところはうまい。

E.T.はいろいろな道具を利用して宇宙に向かって救援信号を発しますが、体調を崩してしまいました。調査隊は町を捜索してついにE.T.を発見しますが、その時には回復困難な状況で死んでしまうのです。

しかし、何故かは示されていませんが、まだ生きていることを知ったこどもたちは、大人の追跡を振り切ってE.T.を救助に来たUFOのところに連れていきます。E.T.は主人公に「一緒に行こう」と誘いますが、彼はこれを断ります。ひとつ成長したことの現れなのですが、それは大人に近づくことで、それによって得るものと失うものがあるということを示しているのかなと思いました。

2020年12月2日水曜日

レイダース/失われたアーク (1981)

前作でかなりへこんだと思われたスティーブン・スピルバーグでしたが、劇場用映画監督デヴュー10年目にこの映画で再び大ヒットを飛ばし、もうアメリカ映画界で向かうところ敵なしという感じになりました。

70年代末にスピルバーグはアルバトー・ブロッコリ - そう、あの「007」シリーズを手掛けるプロデューサーです - と接触を試み、どうもジェームス・ボンド映画を作ってみたかったらしい。

しかし、持つべきものは友ということで、友人であり一番の理解者でもあるジョージ・ルーカスは言いました。

「ねぇ、スティーブン、アクションだけで物語に深みが無く、いつもの決め台詞だけの映画(確かにその通り)より、もっと面白い物を作れるよ」みたいなことだったらしく、古代の宝を探して世界中を飛び回る謎と冒険が一杯のアクション映画を提案しました。

そこで、二人は細部を話し合いながら、インディ・ジョーンズというキャラクターを作り上げていったのです。お金を出すのはルーカス。ルーカスは細かいことは口を出さないかわり、設定された完成の期日だけは守るように求め、スピルバーグも実際に予定より早く仕上げて見せました。

原題は「Raiders of the Lost Ark」というもので、「失われた聖櫃(アーク)を奪う者たち」ということ。聖櫃(せいひつ)は、ユダヤ教の特別な箱の事で、特にエルサレム神殿内に十戒の石板を収めた物を指すことがあり、キリスト教では「契約の箱」とも呼ばれています。聖書では紀元前600年ごろの時代を最後に聖櫃の記述がなくなっていることから、「失われた聖櫃」という呼ばれ方をするようです。

ユダヤ教・キリスト教に無関心なものにとっては、馴染みのない言葉でしたが、この映画をきっかけに広く知られるようになりました。

何しろ、スピルバーグに「スター・ウォーズ」のジョージ・ルーカス、さらに主演にハン・ソロで一躍有名になったハリソン・フォードが揃ったんですから面白くないはずがない。

特殊効果は「スター・ウォーズ」で大成功を収めたリチャード・エドランドが参加し、強烈な印象を作り上げました。しかし、ハリソン・フォード自身によるアクションや、スタントマンによるさらに危険なシーンもふんだんに盛り込まれていることが効果的です。

音楽は当然ジョン・ウィリアムスで、主題曲は「スター・ウォーズ」トム共に、ウィリアムスの代表曲とるくらい有名になりました。

物語は1930年代を舞台に007シリーズを彷彿とさせるアクションの連続です。映画では冒頭に、007シリーズでお馴染みになったプレタイトル・シークエンスがあります(もっともタイトルはここにオーバーラップしてますが)。

多くの罠を回避して秘宝を手にしたあと、巨石が転がって襲って来る有名なシーンになりますが、この緊迫感のある10分間でインディ・ジョーズの映画の雰囲気がすっかり伝わるのです。逆にあまりに出来が良いため、スピルバーグは本編が退屈と思われないか心配をしたらしい。

当然そんな心配は無用で、ヒットラーのナチスが探している聖櫃を求めて、アメリカからネパール、そしてエジプトに移動して行く様はまさにボンド並み。さらに潜水艦になり、ギリシャの島の秘密基地でクライマックスを迎えます。

この間、捕らえられて危機一髪脱出が何度もあり、ヒロインとのちょっとロマンスも盛り込まれ最後までスピードは落ちません。前作ではギャグの連続で失敗しましたが、ここでは緊張の合間に気の利いた軽めの笑いを挟むだけで、より大きな効果をあげることに成功しています。

スピルバーグのこの映画での収穫は、予定されていた予算と撮影期間を遵守し、映画を作ることのコストをしっかりと意識したことであり、それが監督業と制作業を切り離して考えることにもつながったことでした。そして、自らの制作会社を立ち上げる決断に至るのでした。

2020年12月1日火曜日

1941 (1979)

「ジョーズ」、「未知との遭遇」と立て続けに大ヒットを飛ばしたスティーブン・スピルバーグが、次に挑んだのは第2次世界大戦における真珠湾攻撃の後、日本軍による本土攻撃を恐れる西海岸を題材にした・・・コメディでした。

もう世評は大方揃っていて、「スピルバーグ最大の汚点」とか「スピルバーグの無かったことにしたい作品」とか、はっきり言ってボロカス扱いです。

昔、最初に見た時もあまりのドタバタぶりに辟易した記憶があります。改めて見直しても感想は同じで、これがアメリカン・ジョークだとすると、アメリカ人のギャグのセンスを疑うしかなく、単なる悪乗りとしか言いようがない。

ふざけるだけふざけて戦争を笑い飛ばして、逆に戦争を否定的に描いているといった肯定的な意見も散見されますが、それほど深い意味があるようには思えない。やはり、スピルバーグの驕りみたいな部分が出てしまったとしか言えないと思います。

とは言っても、キャスティングはすごい。

日本人的には、何しろ世界の三船敏郎が登場することは嬉しい。三船は西海岸に接近した日本軍の潜水艦艦長で、同乗しているドイツ軍将校がクリストファー・リーというのも、さらにすごい事です。

三船は、実は「スター・ウォーズ」のオビワンのオファーがあっそうですが、ルーカスなんて知らないと断ったらしい。ところが映画が大ヒットしたため、ルーカスの友だちのスピルバーグの依頼にのってしまったようです。

はちゃめちゃなドタバタを演じるのは、伝説のお笑い番組「サタデイ・ナイト・ライブ」でブレイクしたダン・エイクロイド、ジョン・ベルーシら。ネッド・ビーティ、マーレイ・ハミルトン、ウォーレン・オーツ、ロバート・スタックらのベテランがからみ、飛行機狂のナンシー・アレンが色を添えています。

冒頭は、夜の海岸に女性がやってきて、海に向かって走り出す途中で服を脱ぎ、そのまま泳ぎ始める。すると、周囲に波が立ち女性が恐怖で悲鳴をあげると黒い棒が海中から出てきてつかまる。この棒は、実は潜水艦の潜望鏡だったという・・・まさに「ジョーズ」の最初の場面をセルフ・パロディしたもの。演じるのも、同じ女優さんという念のいりようです。

おっと思わせるのはこの最初の数分間だけで、その後はいろいろな映画のパロディが出てきているようですが、ほとんど進行は支離滅裂。時には下品なギャグが飛び交い、暴力・爆発シーンがひたすら続くだけ。

この映画の拾うべきポイントは二つ。後に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の監督を任せたロバート・ゼメキスが脚本を担当し、ゼメキスを世に送り出したこと。そして、絶大なる信頼を寄せて、今日までずっと映画製作のパートナーとなるキャスリーン・ケネディと知り合ったこと。ケネディはこの映画の製作総指揮を執ったジョン・ミリアスのアシスタントでした。

出演を依頼したジョン・ウェインからは制作中止を勧告され、実際公開しても評論家による酷評のみならず、観客動員もままならない興業的な失敗になりました。結局、この作品以後、スピルバーグはコメディ映画を作っていないことがすべてを物語っていると言えそうです。