スピルバーグは、過去に「未知との遭遇」でも「E.T.」でも、友好的な宇宙人を映画の中に描いてきましたが、今回は地球を侵略し、情け容赦なく人類を抹殺していく宇宙人が登場します。そして、トム・クルーズは、勇敢な二枚目を捨てて、妻から愛差を尽かされ、こどもたちからも信頼されない父親。
原作は1898年に発表されたH.G.ウェルズの古典的SF小説であり、これまでに映画化もされていますし、そのモチーフを使った作品もたくさんあります。スピルバーグは、原作の宇宙人との戦いよりも、逃げ惑う一般人の視点からストーリーを再構築し、主人公はごく普通の市民という設定にしています。
原作が有名ですから、大まかなストーリーについてはいまさら書くまでも無い。この映画独自の設定は、宇宙人は人類が生まれるよりも前の太古の時代に、地中深く攻撃用マシン「トライポッド(三本足)」を埋めていたというところ。
ダメ親父のレイ・フェリエ(トム・クルーズ)が、離婚して離れ離れになったこどもたちと久しぶりに週末をすごすというタイミングで、宇宙人は雷と共に降下してトライポッドに乗り込みます。
世界各地で、同時に無数のトライポッドが地中から現れ、市民は大混乱の中逃げ惑うしかありません。レイは息子のロビー(ジャスティン・チャットウィン)と娘のレイチェル(ダコタ・ファニング)を伴って母親に家に向かいますが、やっとついてももぬけの殻。さらに旅客機が墜落してきて、命からがら逃げだしさらに祖父母の家に向かう。
途中で、更なるトライポッドの攻撃にさらされたり、理性を無くした市民の暴力に合ったりする。ロビーは自らも戦うと言って、このまま逃げるだけでは納得できないと、レイの制止を振り切って戦闘が行われている方に行ってしまいます。
宇宙人は一部の人間を捕獲して、エネルギー源にしていました。レイとレイチェルもついに長い触手で捕獲され、トライポッド内に吸い込まれそうになったときに拾っておいた手榴弾を爆発させ難を逃れます。
その後、各地で猛威を振るったトライポッドは次々と機能を停止し始めるのです。これは原作通りで、地球上の微生物に対して免疫が無い宇宙人たちは抵抗力が無く死んでいったのです。
やっと祖父母の家についたレイは、先に到着していたロビーの姿を見つけます。ロビーはこの映画で初めて、レイのことを「父さん」と呼び抱き合うのでした。
ということで、ここでは人々はいとも簡単に殺戮され、宇宙人との激しい戦いのシーンなどはほぼ皆無といってよい。生き延びるだけで精一杯で、いかに人間が無力かを徹底的に描きます。恐怖の盛り上げ方は、スピルバーグの得意とするところで、パニックの中で弱い人間の本性が垣間見えてきます。
墜落した飛行機の残骸や、行方不明者を探すたくさんの張り紙が、911事件の記憶を彷彿とさせるのはスピルバーグの意図したところで、テロリズムの中で一般市民がいかに犠牲になっているかを訴える意図があるようです。
そのような社会的視点を除くと、結局はダメな父親が、究極のサバイバルの中でこどもたちを精一杯守り親として復権する姿が、スピルバーグの一番描きたかったところなのかもしれないと思いました。
と言いたいところなんですが、やはりトム・クルーズを起用したら、この役柄はどう見てもピンとこない。全然ダメ親父に見えないし、クルーズがただ逃げまくるだけというのはありえないと思って見てしまう。ロビー役がクルーズで、彼の視点から何とかダメでも戦いに挑む地球人という話ならある程度納得できたかもしれません。
墜落した飛行機の残骸や、行方不明者を探すたくさんの張り紙が、911事件の記憶を彷彿とさせるのはスピルバーグの意図したところで、テロリズムの中で一般市民がいかに犠牲になっているかを訴える意図があるようです。
そのような社会的視点を除くと、結局はダメな父親が、究極のサバイバルの中でこどもたちを精一杯守り親として復権する姿が、スピルバーグの一番描きたかったところなのかもしれないと思いました。
と言いたいところなんですが、やはりトム・クルーズを起用したら、この役柄はどう見てもピンとこない。全然ダメ親父に見えないし、クルーズがただ逃げまくるだけというのはありえないと思って見てしまう。ロビー役がクルーズで、彼の視点から何とかダメでも戦いに挑む地球人という話ならある程度納得できたかもしれません。