旧ソビエト連邦、ロシアが生んだ巨匠、アンドレイ・タルコフスキーが、ソビエトで制作した最後の作品が「ストーカー」です。
ソビエトの映画事業は、国営のモス・フィルムがほぼ独占し、作られる映画のほとんどがプロパガンダ的な内容でした。商業的な成功が不可欠ではなかったので、芸術的・哲学的な映画を育む土壌があったわけですが、その一方で個人の思想的表現は強力な検閲によって封印されました。タルコフスキーの映画は検閲との闘いに明け暮れ、祖国を愛するタルコフスキーをもってしても大きな忍耐を強いられるのが日常であったようです。
この映画は「惑星ソラリス」につぐタルコフスキーのSF作品であり、全時代、全世界のSF映画ランキングの上位の常連と位置付けられています。 しかし、「ソラリス」が宇宙を扱ったため少なからずSF的な美術を含んでいたのに対して、本作はほぼヒューマン・ドラマであり、いかにもSFと思わせるようなところは皆無と言えます。
じゃあ、何故SF映画として扱われるのかというと、すべてはその基本的なストーリーのベースにのみSF的発想があるからということになる。原作はロシアでは有名なSF作家である、アルカジーとボリスのストルガツキー兄弟。しかも脚本を彼らが担当していますが、タルコフスキーの独自の解釈が膨らんだ内容となったといわれています。
映画はタルコフスキー作品としては珍しく、説明的な字幕から始まります。内容は、ストーリーの前提となる唯一のSF的事象のかなり控えめな解説です。つまり、ゾーンと呼ばれる不可思議な地域があること。隕石の落下か宇宙人の来訪か、何が起ったのかはわからない。ただちに軍隊が派遣されたが誰も帰還せず、立入禁止区域として鉄条網が張られ厳重な警戒がされていたということ。これらは、特派員によるノーベル賞受賞者のウォレス教授へのインタヴューの引用という形をとっています。
続いて扉の隙間から、ゆっくりとカメラが室内に近づいて、ベッドで川の字で寝ている家族を上から映し出します。電車?の振動でサイドテーブルのコップが揺れて動き、男が妻とこどもを起こさないようにゆっくりと起き上がります。顔を洗っていると、妻が起きてきてどこへ行くのか、今度捕まったら10年は出てこれない、私たちはどうすればいいのと妻は詰問します。男は妻を突き放し出ていくのでした。
男(アレクサンドル・カイダノフスキー)は「ストーカー」と呼ばれ、密かにゾーンの案内し生計を立てているのです。ストーカーは、作家(アナトリー・ソロニーツィン)と教授(ニコライ・グリニコ)から依頼され、二人をソーンに案内します。ちなみにこの三人、皆、容姿が似ていてわかりにくい(特に禿具合)。
教授は学者としての好奇心と真理の探究が目的、そして作家は物書きとしてのスランプから脱出するヒントをつかむためにゾーンに行きたいと言います。三人は監視所を突破して、ゾーンの奥へ軌道車に乗って進んでいきました。三人のアップが続く、無言の4分近い長いシーンで、映画的な時間と距離の長さが伝わってきます。
ここまではセピア調のモノクロームの画面でしたが、ゾーンに入ったところからくすんだカラーに変わります。教授はストーカーの個人的なこともある程度知っていて ストーカーの娘は生まれつき足が悪いことや、ゾーンの奥に行けばその人の切実な願い事が叶う「部屋」があるという噂を作家に語ります。
目の前にある建物の中に部屋があるのに、安全のため遠回りをして行こうとするストーカーに作家は苛立ち、一人でまっすぐ行くと言って歩き出しますが、建物の直前で何者かの声が止まれと命じます。ストーカーは、ゾーンは私たちの精神を反映する罠のシステムで、幸運な人を時に死に追いやり、不幸な人を通すと話します。
ロケ地は紆余曲折してエストニアの発電所付近が使われたようですが、何とも言えない人工的な建造物の廃墟と自然とのコントラストが、不思議な空間を作り出し、特別な特殊撮影をしているわけではないのに、これが「ゾーン」なのかと思わせてくれます。
今度は教授がリュックを忘れたと言って勝手な行動をしますが、周囲は刻一刻と変化するためストーカーは待てないと先を急ぎます。しかし、何と食事をして休憩している教授が先にいるのでした。
そして、ついに部屋の入口にたどり着きます。しかし、作家は部屋に入りたがらない。教授は、大事にしていたリュックから爆弾を取り出し、この部屋があると利用しようとするよからぬ者が後を絶たないから破壊すると言い出します。
ストーカーは、ここに人を連れてくることが誰かの救いになり、それが自分の幸せと語り、私から希望を奪わないでほしいと懇願します。そして誰も部屋に入ることなくゾーンを後にしました。
家に帰り、ストーカーは妻に、結局案内しても信じようとしない連中ばかりで、もう案内することはやめると言います。妻は映画を見ている者に向かって、母親がストーカーとの結婚を反対したこと、これも運命であり後悔していないことと語ります。ストーカーの娘は、テーブルの上にあったガラスのコップをじっと見つめるとコップが動き出します。その後から列車の走る振動が響いてきました。
「ストーカー」は、現在使われているような意味とはまったく違い、「獲物を追い詰める者」という意味。ストーカーを演じるカイダノフスキーは、ソビエトでは有名な役者のようです。作家はタルコフスキー作品ではでお馴染みになったソロニーツィン。そして教授を演じるグニコは「アンドレイ・ルブリョフ」のダニール、「惑星ソラリス」の主人公の父親でタルコフスキー組の一員と言って良いでしょう。
この映画では、脚本未完成のうちに制作が始まり、撮影予定地のトラブルなどもあって、タルコフスキーとしては検閲以外のところでかなり神経をすり減らしたようです。気心の知れた俳優やスタッフだからこそ、完成にこぎつけたのかもしれません。
カラーと白黒の使い分け、カメラの長回しなどはタルコフスキーらしいところ。しばしば登場する水のモチーフはここでも見られますが、どちらかと言うと濁ったり汚れた水が多い。回想や夢によって時間の流れを自在に扱うタルコフスキーですが、ここでは時間は直線です。そして、タルコフスキーにしては台詞が多い感じがします。とは言っても、物語の説明的な台詞ではなく、哲学的な問答でありなかなかその意味を理解するのは難しい。
最終的にも、ゾーンとは、そして部屋とは何なのかの一定の答えは提示されません。ただ、部屋については、途中に何度か登場するストーカーの先輩であるヤマアラシの話からある程度想像することは可能です。
ヤマアラシは先輩ストーカーであり、彼の弟は部屋にたどり着く前に亡くなっています。ヤマアラシは弟の復活を願うために部屋に入りますが、ゾーンから戻ると大金持ちになり首を吊って自殺しました。作家の解釈では、ヤマアラシが自殺したのは、自分の本性が現実化して耐えられなくなったからです。つまり部屋は、人間の表立った望みを叶えるのではなく、その人の本能・本性をあからさまにする力があるということらしい。
他にもストーカーの娘・・・についてもよくわからない。何故歩けないのか、そしてラストシーンの意味も不明です。父親の業を背負って生まれ、父親がストーカーの引退をしたことで、あらたなストーカーとして超能力を開眼したということかもしれません。
いずれにしてもロシア的キリスト教の思想が大きく関与しているらしいことは間違いなく、ストーカーの家族対する贖罪の意識が根底にあるようです。妻は冒頭ではゾーンに行くストーカーをなじるのですが、最後ではそういう夫を認めています。本当の幸せは、ゾーンの中ではなく、生活の場である貧しい部屋にこそ見つけられるということなのかもしれません。