2021年9月30日木曜日

政治エンターテイメント


昨日は、自由民主党の総裁選挙が行われ、岸田文雄氏が選出されました。週明けに臨時国会が開かれ、第100代内閣総理大臣に就任することになります。

昨年の菅総理誕生は、自民党内の密室でゴニョゴニョと相談されて決まってしまいました。やはり国民の信を得たとは言い難い状況ですから、何かなぁという感じが最後の最後まで付きまといました。

今回は、例の派閥というのが機能せず自主投票が多かったらしく、各議員さんの思惑がいろいろと錯綜して、投票権のない自分のような一般人も必然的に注目することになりました。

そういう意味では、コロナの新規感染者が減ったからいいようなものの、与党も野党も総裁選一色で、さらにこの後に控えている総選挙にいかに勝てるリーダーを選び、勝ち馬に乗るかが勝負ということ。

そんな言い方は失礼かもしれませんが、もう、立派なエンターテイメントとして成立しているのが面白かった。同じ自民党の政治家と言っても一枚岩ではなく、仲の良い人悪い人が大勢いるのが見えてしまいました。

表に出たものだけでも、すさまじい火花を散らす心理戦。一般人には見えないところでは、おそらく生々しいドロドロの権力闘争の駆け引きが行われていたんでしょう。

今まで昼行燈みたいな存在だった岸田さんも、今回ばかりは立ち上がるのは今とばかりに頑張った。出だしで前総理を怒らせて、高市さんという強力なライバルを登場させてしまいましたが、何とかうまくまとまったみたい。

リベラルを看板に若手議員と都市部の人気を集めた河野さんは、選挙運動をすればするほど視野の狭さが目立ち、気に入らないことには耳をふさぐ姿勢がどうにもなりません。前総理が大嫌いな石破さんと手を組んだのが最大のミスかもしれません。

結局、政権を二度にわたって放り出しておきながら、前総理が裏でそれなりの力を維持していることがよくわかりましたし、それが自民党だということですよね。そう簡単に自民党は変われませんね。

2021年9月29日水曜日

白鵬引退


必ずしも大相撲ファンではない自分が、あえて取り上げる話題ではないかもしれませんが、ひっそりと引退報道がなされた第69代横綱、白鵬に対してはねぎらいの言葉をかけるべきかと感じます。

1985年生まれの36歳。この数年は、明らかに全盛期を過ぎたことは否めず、ケガも多くなりました。それでも今年の7月場所では全勝優勝を飾り、まだまだやれそうな雰囲気でした。

突然の引退報道には驚いた人が多いわけですが、横綱が横綱として相撲が取れないと判断すれば、まだ余力があても身を引く美学を実践したのだろうと思います。

モンゴル出身とか関係なく、相撲という文化をしっかりと継承した大横綱として、間違いなく記録にも記憶にも残る存在です。

しだいに角界の旧態然とした習慣が問題視されることが多くなった今ですが、過去の文化として博物館行きにならないようにするには、白鵬世代以後の関係者が何をどのように変えていくのかが重要なのかなと思います。

2021年9月28日火曜日

ギャラクシー・クエスト (1999)

もともとがコメディ畑出身のテリー・ギリアム監督の「未来世紀ブラジル」なども、SFコメディと呼ぶことができるかもしれません。しかし、現実社会に対するアンチテーゼとして笑いを皮肉を込めて導入しているもので、積極的に笑わせようというものではありません。


しかし、この映画は間違いなく「宇宙大作戦 / スター・トレック」のパロディであり、それもオリジナルに対するリスぺクトがあふれた笑いを取りに来た作品です。

宇宙戦艦プロテウス号は、タガード艦長の元、宇宙を駆け回り平和を守ってきました・・・っていうテレビ・ドラマ「ギャラクシー・クエスト」が大人気。ところが、人気にあぐらをかく艦長役のジェイソン・ネズミス(ティム・アレン)はクルー役の仲間から嫌われています。ファンの集いには、ドラマのコスプレをしたファンが集合し、マニアックな突っ込みを入れてくる連中もいます。

そこへサーミアン星人と名乗る連中が現れ、ファクトリ星のサリスの襲撃により危機的な状況にあり、タガード艦長の助けが必要だと言うのです。テレビの仕事の一つと思ったネズミスは、気楽に誘いに乗り、サーミアン星人のプロテクター2号の艦長席に座ります。役のノリで、適当な指示をして「あとはよろしく」と帰ろうとすると、何と本物らしい宇宙空間に驚愕します。

地球に転送されたネズミスは、仲間に報告。サーミアン星人が再び現れ、サリスはまだ生きているので戻ってほしいと頼むため、美味しい仕事だと思ったタウニー・マディソン少佐役のグエン・デマルコ(シガニー・ウィーバー)、異星人ドクター・ラザラス役のアレクサンダー・デーン(アラン・リックマン)、死んじゃう端役乗員役のガイ・フリーグマン(サム・ロックウェル)、技術主任チェン役のフレッド・クワン(トニー・シャルーブ)、ラレド大尉役のトニー・ウエバー(ダリル・ミッチェル)の5人も一緒に行くことにしました。

サーミアン星人は、ずっと彼らのドラマを本当の記録映像と思って研究し、すべてその通りに用意したと説明しました。彼らはドラマのセットと同じ艦橋に座ったものの、サリスの本当の攻撃でぐだぐだになってしまいます。推進エネルギーであるベリリウム球体が破損したため、近く星に取りに行くことになりました。

ベリリウム球体を手に入れたのはいいのですが、かっこつけのネズミスは星に取り残されてしまいます。何とか転送で引き上げますが、直後にサリスに船を乗っ取られます。サリスはプロテクター2号の炉心を爆破セットしましたが、何と地球の熱心なギャラクシー・クエスト・マニアとコンタクトして手動での回避に成功します。

しだいに各員がテレビの登場人物のように勇気を持って戦い、ついにサリスを倒し地球に戻るのでした。強行着陸した場所は、彼らの登場を待ちわびていたファンの集いの会場。彼らは熱烈に歓迎され、そしてついに映画化が決定するのでした。

もう完全にスター・トレック・ワールドですが、彼らの行動もオリジナルの動きやせりふ回しをパロディにしていて、しっかりと愛が感じられます。最初は気持ちがバラバラだったのに、本当の戦いの中で仲間として結束していく感じは本当にうまく出せていると思います。「偽物」なのに、彼らを信じて心から敬愛しているサーミアン星人たちの雰囲気が、よく伝わってきます。

後半は、役者たちの芝居の延長と言うより、本当のスペース・ウォーズの映画のようで、特撮も手を抜いていません。まさに「スター・トレック」の新しいシリーズを見ているような気分にさせられます。さすが、スピルバーグのドリーム・ワークスが関わっているだけのことがあります。シガニー・ウィーバー実に楽しそう。そういえば紹介してませんでしたが、監督はディーン・パリソット・・・って誰?

2021年9月27日月曜日

バーバレラ (1968)

コメディ系のSF映画と言えば、単にSF映画というくくりだけでも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は間違いなく最高峰に位置する作品だろうと思います。これはタイム・スリップ物ですから、違う時代との文化・常識のずれを笑いに変え、また時間旅行によるスリルもうまく盛り込まれていました。

宇宙物だと、笑わせる材料がどうしてもマンガ的になってしまうので、やりすぎはかえって笑うに笑えない事態に陥る危険がある。「バーバレラ」は先駆的なちょっとHなSFコメディで、原作はフランスのコミックなのでマンガ的なのは当然と言えば当然。

フランス人のロジェ・ヴァディムが監督し、当時実際に奥さんだったジェーン・フォンダが主人公バーバレラを演じました。ステレオタイプな宇宙セットで繰り広げるドタバタ劇で、特殊撮影はわずかで、それも当時としてもたいしたことはしていません。制作は映画界のドン、ディノ・デ・ラウレンティスです。

まぁ、エロいのはほとんど冒頭のタイトルバックでの宇宙服を脱いでいくジェーン・フォンダのストリップ・シーンくらいです。当時31歳のジェーン・フォンダは、1965年にヴァディムと結婚していますが、父親が名優ヘンリー・フォンダということを除けば、まだ女優としてはそれほど実績は無い頃。それにしてもこのシーンのバックに、スーラの名画「グランド・ジャット島の日曜日の午後」があるのが嬉しいところ。

強力な武器となる陽子線放射装置と共に、北極星付近で行方が分からなくなったデュラン・デュラン博士の捜査を地球連邦政府大統領から命令されたバーバレラ。早速、磁気嵐で不時着し、天使のような大きな羽を背中に持つ盲目のパイガーと出会います。

一緒に出発した二人は黒の女王に捕まりますが、女王はデュラン・デュランに操られていました。しかし、デュラン・デュランは陽子線放射装置の暴走により滅びます。バーバレラと黒の女王は、パイガーに抱かれて脱出することができました。めでたし、めでたし。

少しエロっぽい衣装と、サイケデリック調の色彩と音楽で、いかにも60年代の世相を反映しているようなチープな映画。80年代に人気だったイギリスのロック・バンド、デュラン・デュランの名前の由来はこの映画です。必見とは言いませんが、SF好きは一度くらい見ておいて損はないかもしれません。


2021年9月26日日曜日

マーズ・アタック (1996)

何事でも分類すると整理しやすくなりますが、一定の先入観を付けてしまうという欠点もあります。SF映画というと、宇宙船が出てきて光線が飛び交いエイリアンと戦うみたいなものを真っ先に想像しやすい。この映画も「火星からの攻撃」というタイトルですから、まさにそんな感じですが・・・そこは、奇才ティム・バートン監督の作品なので、ブラック・ユーモアに溢れたコメディなのです。

話は簡単で、地球制服を目論む火星人が大挙してやってきて、友好的な雰囲気で安心する地球人を光線中で虐殺。政府は成す術もなく侵略が続きますが、宇宙人には意外な簡単な弱点があったため、何とか撃退に成功する・・・って感じ。

何しろ一番の見所は、豪華なキャストが揃っていること。しかも、そのほとんどが火星人の攻撃で死んでしまうというからあきれてしまいます。

やって来た火星人を、最初は友好的な宇宙人と信じるとぼけた合衆国大統領は、バートン版「バットマン」でジョーカーを演じたジャック・ニコルソン。ニコルソンは、火星人の攻撃で倒壊する自分のホテルと運命を共にするラスベガスのカジノ経営者も演じ、その愛人にはアネット・ベニング。

やや高慢ちきな大統領夫人はグレン・クローズで、ホワイ・ハウスの中で落下したシャンデリアの下敷きに。斜に構えた大統領の娘は、当時15歳のナタリー・ポートマン。宇宙人に強硬姿勢を崩さず、最後に踏みつぶされる将軍はロッド・スタイガーが演じます。

テレビのニュース・ショーのキャスターのマイケル・J・フッォクスは、サラ・ジェシカ・パーカー演じるレポーターの恋人を助けようとして消されちゃう。その恋人は、ピアース・ブロスナンの宇宙人科学者と共に宇宙船に捕まり、二人とも実験で首だけにされてしまいます。

カジノで働く元ボクサーは、実際はアメフト選手だったジム・ブラウンで、ショーで歌うのがトム・ジョーンズ本人。トムのファンであっけなくやられてしまう弁護士がダニー・デヴィート。何となく最後にヒーローになるのがルーカス・ハースで、そのシルヴィア・シドニー演じる祖母が火星人撃退の意外な方法のヒントを提供します。シドニーはこの映画が遺作。

ゴジラ大好きのバートン監督なので、東京が攻撃されるシーンではゴジラが登場したりします。ニコルソンはノリノリで参加したらしいですが、アメリカでの評価は半々というところで、「バットマン」シリーズで上げたバートン監督の名声をさげたらしい。

どっちにしても、あまり深く考えてみるようなものでは無いので、A級スタッフとキャストが、大真面目にB級コメディを作ったというところで、単純にバカバカしさを楽しめればいいんでしょうね。



2021年9月25日土曜日

LOOPER/ルーパー (2012)

監督は「スター・ウォーズ」シリーズの「最後のジェダイ」に起用されたライアン・ジョンソン。2074年の未来から2044年の「現在」にタイム・ワープしてくる者が登場するのでSF映画のくくりに入りますが、どちらかというと現在とあまり雰囲気が代わり映えしない「現在」が舞台のアクション・スリラーに近い感じです。

タイム・トラベルが可能になった未来では、個人の情報管理が進み死体の処理に困る。そこで未来の犯罪組織は邪魔者を違法に過去に送り付けて、ルーパーと呼ばれる殺し屋に始末させるのです。

時間のループを利用していることからルーパーと呼ばれる彼らは、個々に仕事をしていますが、仕事を辞めたい場合は30年後の自分が送られてきて、自らの手で殺すしかありません。このことを彼らは「ループを閉じる」と呼んでいました。

未来の犯罪組織のボスであるレイン・メーカーは、すべてのループを閉じることにしたため、個々のルーパーの意思とは関係なく未来の自分が送られてくるようになりました。ルーパーのジョー(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)の元にも、30年後の自分、オールド・ジョー(ブルース・ウィリス)がやってきましたが、逃げられてしまいます。

ジョーは組織から隠れてそれまでの貯えで優雅な生活を送りましたが、資金は底をつき強盗などの悪事を働くようになります。しかし、20年ほどたち一人の女性と出会い結婚したことで改心し、まともな幸せを掴みました。ところが、レイン・メーカーに妻を殺されたため、過去に戻ってこどものレイン・メーカーを殺すことにしたのです。

2044年のジョーは、オールド・ジョーを発見し、自分の未来、そしてオールド・ジョーが何故今に戻って来たのかという話を聞きます。手がかりの数字から、郊外の農場に生活するサラ(エミリー・ブラント)とシドの母子を怪しいと考えたジョーは、二人に接近し単純ではない母子の関係を知らされ、間違いなくシドが将来のレイン・メーカーであることを確信します。

そこへオールド・ジョーが現れ母子を殺害しようと銃を向けるのですが、これでは復讐の連鎖を生むだけと考えたジョーは自らに銃を向けて発砲しました。現在のジョーが死んだため、オールド・ジョーは消滅しました。

タイム・トラベルにまつわる話はたくさんありますが、一般的によく言われているルールで過去を変えてはいけないというのがあります。オールド・ジョーの行為はそもそも過去を変えようということですから、本当にできたら何が起こるのか想像もできません。

むしろ、ここでは現在のジョーが未来を変えてしまうというのが映画としての新鮮なところかもしれません。ただ、2044年にジョーが死んだら、そもそもオールド・ジョーは過去に戻ってくることは無いので、話が成立しないとか考えだすと頭が痛くなります。

ウィリスとゴードン=レヴィットも本来似てないので、同一人物というのは無理があるところになんですが、見ていて意外に気にならない。これは、ゴードン=レヴィットの演技力に追うところが大きいように思いますし、年を取って禿おやじになってしまうゴードン=レヴィットが可哀そうかもしれません。

2021年9月24日金曜日

セコンド (1966)

この映画には「アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身」という副題がついていることからもわかるように、一人の男の人生が全く別の物に変わってしまうというある種のSF。「セコンド」という読みだと「秒」かと思ってしまいますが、これは「二番目(の人生)」のこと。


カラー撮影が普通になった時代に、あえて白黒で撮影し、特異なカメラワークやサスペンスを強調する効果音や音楽を多用しています。監督はまさにそういう職人肌を持つジョン・フランケンハイマーで、音楽はジェリー・ゴールドスミス。タイトルバックは、ヒッチコックとの仕事で有名なソール・バスが担当しています。

銀行員の中年男、アーサー・ハミルトン(ジョン・ランドルフ)は、通勤の途中で見知らぬ男から住所の書かれたメモを渡されます。そして、死んだはずの親友から電話がかかってきて、必ずその住所に来てくれと頼まれるのです。不審に思いつつも出かけてみると、謎のビルに導かれ薬で眠らされてしまいます。

目を覚ますと、男が説明します。死体を調達して死んだように手配し、あなたは整形でまったく別の人間に生まれ変わるというもの。契約書へのサインを渋るハミルトンに、男は寝ている間に女性に暴行を働くところを撮影したものを見せます。さらに老人が登場し、後戻りはできないのだ、今の人生に執着する理由があるのかと尋ねます。そして、ハミルトンはサインをします。

整形手術とトレーニングによって、ハミルトンはトニー・ウィルソン(ロック・ハドソン)に変身し、アメリカの中年男性の誰もが欲しがる「自由」を手に入れたのです。マリブの家が用意され、空港では見知らぬ男に親し気に挨拶され、家には世話をする執事のジョンがいました。

ある日、海外で散歩をして近所のノーラ(サロメ・ジョーンズ)と知り合いになり、あなたは鍵を開けるかどうか悩んでいるみたいだと言われます。二人は、近くの開放的な雰囲気のワインの祭りに参加し、裸でブドウ樽に入って踊る人々に混ざって騒ぐのでした。

鍵を外したウィルソンは、近所の人々を招いたパーティを催しますが、酒を飲みすぎて大騒ぎをしてしまい、ついに「俺はハミルトンだ」と叫んでしまいます。実は集まった人々は、すべて二度目の人生を手に入れた人々であり、親しくなったノーラ・・・実は、ウィルソンを環境に適応させるたるのスタッフ・・・にも、「あなたは自分が何者かわかっていない」と叱責されてしまうのです。

ウィルソンはマリブを抜け出し、かつてのハミルトンの家を訪ねます。ハミルトンの妻は、彼は正直で勤勉で無口、ずっと死んだも同然だったのかもしれないと話します。最初のビルに戻ったウィルソンは、ウィルソンを消去して今度は自分の判断で別の人物になりたいと希望しますが、そのためには別の誰かを紹介する必要がありました。誰もあてが無いと言うと、ウィルソンは誰かの代わりの死体として運ばれていくのでした。

前半はハミルトンが混乱の中で自分を捨てる決意をするまでが描かれ、まったく予想できない事態に巻き込まれた普通にいそうな中年男のスリルが描かれます。後半はすべてを捨て新たな人生を踏み出しはずなのに、そこに適応できない苦悩と末路が、さらなるスリルと共に提示されます。

この重苦しい雰囲気にもかかわらず、映画としてエンターテイメント性をしっかりと出しているところは、監督の力だろうと思います。俳優としては、ロック・ハドソンが有名ですが、ハミルトンを演じたジョン・ランドルフも、赤狩りで干されていたのがこの映画での好演により、この後活躍しました。

実際に身近に起こることは想像できませんが、人生をリセットしたいとか、新たな人生を歩んでみたいという願望は口にしないまでも、誰しも心のどこかに持っているものです。しかし、記憶までもリセットしない限りは、まったくの別人になることは不可能なのでしょうし、この映画のような方法は仮面を被って密かに暮らすようなもので、最終的に待ち受けるのは悲劇でしかありません。

どうです? あなたは、人生をやり直してみたいですか?


2021年9月23日木曜日

第9地区 (2009)

ニール・ブロムカンプは南アフリカ出身で、もともとアニメーターとして活躍して、この作品で商業映画監督としてデヴューし、一気に注目を集めました。この映画では、アパルトヘイトを根底のテーマにしていることは明らかです。2006年に自分で作った6分半ほどの短編「Alive in Joburg」をもとにしています。


南アフリカは、イギリス植民地から独立し1948年に連邦政府が樹立すると「アパルトヘイト」と呼ばれる白人と批判人を分ける人種隔離政策を行いました。辺境地域に10地区(ホームランド)を用意し、黒人などの有色人種はそこへ押し込め、国際社会からの度々の避難も意に介しませんでした。

しかし、多く抵抗運動もあり、90年代になりついにこの政策を撤廃し、1994年についに全人種による総選挙の結果、黒人であるネルソン・マンデラが大統領に就任。名実ともにアパルトヘイトは消滅します。

1982年、突如、ヨハネスブルグに現れた巨大な宇宙船は、3か月たっても年の上空に留まったままでした。調査の結果、宇宙難民となったエイリアンが見つかり、疲弊切っていた彼らのため宇宙船直下の土地を第9地区として居住地域に割り当てます。しかし、エイリアンの高い繁殖力で第9地区だけでは狭くなり、また地区はスラム化してしまいます。2010年、管轄するMUNは、エイリアンを新たに第10地区へ移送することにします。

MNUの職員のヴィッカスは、エイリアンに立ち退きの説明と同意のサインを貰うために第9地区に入りますが、一軒の家で棒状の物を発見し、触れたとたんに中から液体が噴出し浴びてしまいます。

その影響で、ヴィッカスの体に異変が起こりはじめ、彼は自分が少しずつエイリアン化していることに気がつきます。MNUに幽閉されたヴィッカスは、脱出して知的なエイリアンのクリストファー・ジョンソンのもとを訪れます。クリストファーは浴びたのは彼らが長年かけて作ってきた宇宙船の燃料だと説明します。

クリストファーにMNUに保管された液体を返せば元の体に戻すと言われたヴィッカスは、エイリアンと共にMNUに乗り込み液体を奪取しますが・・・

映画は、手持ちカメラを多用し、インタヴューの場面や業務の記録映像を用いたドキュメンタリーの体裁をとっています。主役のヴィッカスの台詞も、ほとんとがその場のアドリブらしい。意図的にピントをぼかしたり、手振れをさせたり、シーンのつながりもやや唐突な感じにしているので、正直に言うと見ていて疲れます。

エイリアンが何故宇宙を放浪するのか、何故地球に来たのか、何故ヨハネスブルグなのか、何故地球人の言葉を理解できるのか、何故地球人はエイリアンの言葉を理解できるのか・・・等々、よくわからないことだらけなのですが、ノンフィクション風にすることで、フィクション部分の疑問をうまく隠せます。

いずれにしても、究極的な格差社会を描くことがこの映画の真意であるとするなら、地球人同士だと政治的な問題を避けては通れないので、いろいろな疑問はそのままにこのような設定になったのかもしれません。

ただし、この映画の弱点は、ノンフィクション風にしたことで地球人と似た容姿のエイリアンを封印することになり、弱者側の宇宙人の容姿や行動に対して感情移入できないところだと思います。

社会格差がテーマの場合、ほとんどの映画は被支配階級側が主役であることが多いのですが、ここではエイリアン側に立つのはなかなか難しい。それは、実際の主人公が支配階級側の人間であり、観客も同様だからです。主人公が被支配階級に転落し気の毒と思う、「上から目線」的な気持ちが先に立ってしまう。

もっとも、かつての南アフリカの社会構造を、(白人側から)痛烈に批判し反省するという目的は十二分に伝わります。エンターテイメントとしても商業的に成功し、新たな視点からの人類とエイリアンの関係性を描いたとして、高い評価がされていることは納得できる映画だと思いました。

2021年9月22日水曜日

中秋の名月 2021


昨夜の月は、一般に中秋の名月と呼ばれる、日本の暦のイベントの一つ。このブログでも、1年の中でも高頻度に取り上げる話題です。

ところが、面白いことに必ずしも満月とは限らない。中秋の名月が本当に満月と重なるというのは8年ぶりのことだそうで、さぞかし素晴らしい夜景が・・・

見れない・・・大方の天気予想通り、雲の多い空で、月は完全に雲の中。これも運命とあきらめるしかありません。

というのが午後7時台。

ところが、その後8時から9時は、雲が晴れた北東の空にくっきりと月が!!

それだけのことなんですが、やっぱり満月がきれいに見えるのは、中秋でなくてもいいもんです。

2021年9月21日火曜日

スターシップ・トゥルーパーズ (1997)

時間移動のSFは多く、もしかしたら自分にも起こるかもしれない、あるいは起こったら面白いかもと思わせるテーマです。一方、SF映画の中で宇宙物は、今やデフォルト・スタンダードになった「スター・ウォーズ」に代表されるように、自分たちとはまったく別の世界での壮大な話で、宇宙旅行が身近になるまでは現実感はあまり感じられません。星だけが無数に広がる宇宙空間が登場するだけで、ほとんど夢物語になる。

となると、現実世界の枠組みに縛られずに、映画の中に共感を呼べる独自の世界観をうまく構築できているかが勝負の分かれ目みたいなところがあって、それをうまく映像化できた作品は後に傑作と呼ばれるようになって残っていくように思います。

この映画の原作はロバート・A・ハインラインの小説で、タイトルを直訳すれば「宇宙の騎馬警官隊」ということでしょうか。監督は「ロボコップ」のポール・バーホーベンで、得意の暴力描写はここでも健在。特撮は「ロボコップ」のストップモーション・アニメを担当したフィル・ティペットが、ここではCGを導入しています。実は興行的には不調で終わった割には、続編として実写映画2作、CGアニメ映画2作が作られており、ある意味カルト化した展開になっています。

軍が主導する未来社会ユートピアでは、一見すべての人が平等に暮らしていますが、実は軍歴のある者だけが市民権を有し、それ以外は庶民として扱われる差別社会でした。宇宙に植民地を求める地球人は、グレンダス星で昆虫型原住民との間で戦闘が続いており、政府は軍隊への参加を呼び掛けているのです。

ジョニー・リコ(キャスパー・ヴァン・ディーン)はスポーツと恋には得意ですが、テストの点はいまいちの普通の高校生。成績優秀な恋人カルメン(デニス・リチャーズ)が卒業後に連邦軍のパイロットを目指すというので、ちょっとだけ超能力が使える友人カール(ニール・パトリック・ハリス)と共に両親の反対をよそに入隊を決めてしまいます。

ずっとリコに片思いのディジー(ディナ・メイヤー)と共に歩兵に配属されたリコは、教官のズィム軍曹の厳しい訓練を受ける一方で、カルメンは以前のリコのライバルであるザンダー(パトリック・マルドゥーン)との仲を深めていきます。このあたりまでは、ほとんど青春群像劇みたいなもの。

カルメンからわからを告げられたリコは、訓練中に仲間を死なせてしまい鞭打ちの刑を受け除隊を願い出ます。しかし、グレンダスの攻撃により両親の住む故郷が壊滅し、復讐に燃えるリコは再び立ち上がります。Dデイを思わせる総攻撃により、地球連邦軍は1時間で10万の兵力を失います。

高校の恩師ラズチャックの「愚連隊」に配属され活躍するリコたちは、惑星Pから将軍の救援信号をキャッチし向かいますが、これは敵の罠で大軍に包囲されます。救援艇で何とか脱出したリコでしたが、ラズチャックやディジーを失います。情報部大佐になったカールは、愚連隊の指揮をリコに任せ、敵の中心となるブレイン・バグを探すように言います。

敵の総攻撃でカルメンとザンダーの艦船は撃沈され、二人は脱出ポッドで惑星Pの敵の巣穴に不時着してしまいます。ブレイン・バグは捕えたザンダーの脳を吸い取りカルメンにも危機が迫りますが、駆け付けたリコに助けられます。ブレイン・バクを捕獲した軍は敵の研究が進み、優勢に戦い勝利は近ズくのでした。

青春物の先にあったのは・・・ナチス礼賛とも言える戦いの映像であり、それが興行成績にも響いたようです。製作サイドは、むしろナチスのような全体主義的な侵略行動を否定する意図を込めたと話していますが、やはりそれが伝わる作りとは言い難い。

また、敵の姿である「虫」の造形も生理的に受け付けない観客もいるでしょうし、CGとは言え人がバラバラにされる殺戮シーンが山ほど出てくるのは拍手喝采とはいきません。ニュース映像として、こどもたちがゴキブリを踏みつぶしているシーンとか何だかなぁというところ。

宇宙に待機する艦隊もほとんど無能に近く、訓練シーンでナイフ投げの練習があり、核攻撃があるのに無駄な練習という台詞がありますが、まさにその通りで、多くの歩兵が無駄死にする前時代的な展開には疑問が残ります。

観客が感情移入するのは、自分の希望のためリコを捨てる(それが悪いわけではないのですが)カルメンよりも、ひたすら思いを持ち続けるディジーの方。ディジーは死んで、カルメンが最後に英雄的に扱われるのも、何となく納得しにくいかもしれません。

文句ばかり言っているようですが、要する見る者を選ぶ映画だということでしょうか。オリジナリティのある世界観を描いたことでは成功していると思いますが、少なくとも万人受けはしないでしょう。ちなみにカルメンを演じたデニス・リチャーズは、この映画の後ボンド・ガールに抜擢され、チャーリー・シーンと結婚し2児を出産しましたがシーンとは泥沼離婚劇に至っています。


2021年9月20日月曜日

ニューヨーク1997 (1981)

奇才、ジョン・カーペンターの代表作の一つ。例によって、監督だけでなく脚本や音楽もこなす、マルチな才能を持つカーペンターこの映画が作られた10年ほど未来、20世紀末のアメリカは犯罪の増加により、マッンハッタン島に接する対岸全体を高さ12mの壁で囲んで巨大な刑務所としていました。島の中には警備員は常駐せず、脱走を試みる者は容赦なく排除され、凶悪犯たちの独自の世界が出来上がっているのです。

ある日、大統領専用機がテロ組織にハイジャックされ、マンハッタン島内に墜落しました。大統領(ドナルド・プレザンス)は、ポッドで脱出したものの囚人たちに拉致されてしまいます。ホーク所長(リー・ヴァン・クリーフ)は、収監されるために到着したばかりのスネーク・プリスキン(カート・ラッセル)を、赦免を条件に島に送り大統領を救助することにします。スネークは首に爆薬を埋め込まれ、グライダーでマッンハッタンに進入しました。

頼りにしていた大統領の心拍モニターの示す位置に行くと、モニターを持っていたのは別人。ホークは捜索を続けるように命じます。囚人たちが集団でスネークに襲い掛かってきたところ、スネークを知るタクシー運転手のキャビー(アーネスト・ボーグナイン)に助けられ、大統領を拉致したのは島内を牛耳るデューク(アイザック・ヘイズ)だと教えられます。

まずデュークとつながりがあるブレイン(ハリー・ディーン・スタントン)、実はスネークとの腐れ縁があるハロルドを使い、大統領の囚われている列車のところに行きますが、スネークは逆にデュークに捕まります。デュークは大統領を人質に、全囚人の釈放を要求してきました。

ハロルドはスネークを出し抜いて大統領を助け出しグライダーで脱出しようとしますが、デュークの仲間によってグライダーを破壊されてしまいます。彼らは、脱獄予防のために多数の地雷が埋まっている本土への橋に向かいますが、スネークに残された時間はわずかでした!!

まぁ、当然、主人公は最後には勝つんですが、大統領を救えと命じられたスネークは、確かに大統領は何とか救い出しますが、最後のシーンでは見事な権力に対するしっぺ返しをして見せます。スピード感のある展開で、完全にB級SFアクションですが、なかなか痛快な作品に仕上げたカーペンターはさすがというところ。

それにキャストがすごい。70~80年代に名脇役で名を馳せた名優たちがたくさん登場し、それだけでも十分に楽しめます。特に、カート・ラッセルはカーペンター作品では常連で、ここでも息の合った演技が冴えていました。

ちなみにこの映画の主人公、スネーク・プリスキンをモデルにしたビデオ・ゲームがコナミの「メタル・ギア」シリーズというのは有名な話。また、1996年には続編である「エスケープ・フロム・L.A.」が、監督ジョン・カーペンター、主演カート・ラッセルで作られましたが、こちらはロサンゼルスに舞台を移した、続編と言うよりはリメイクという位置づけです。

2021年9月19日日曜日

ミッション: 8ミニッツ (2011)

デボッド・ボウイの息子、「月に囚われた男」でデヴューしたダンカン・ジョーンズの監督第2作。8分間のタイム・ループの中で起こるサスペンスを描いた作品です。原題は「Source Code」で、これだけだとどんな映画かわからない。邦題もネタバレ感があって、ちょっと残念かもしれません。


タイトル・バックのヘリコプター撮影はなかなか見事。ドローンが普及した今では、似たような撮影は簡単になったかもしれませんが、高高度で長時間の撮影はヘリコプターには勝てません。

アメリカ陸軍パイロットのスティーブンス大尉(ジェイク・ジレンホール)は、シカゴ行き通勤列車の中で目を覚ましますがまったく状況が理解できません。向かいの席に座るクリスティーナ(ミッシエル・モナハン)は親し気に話しかけてくるが記憶にない。洗面所に行くと鏡に映る顔は別人で、持っていた身分証には教員ショーン・フェントレスとなっています。そして8分が経過した時、大爆発が起こりスティーブンスを含めて乗客は全員死亡します。

次にスティーブンスが目を覚ましたのは、カプセルの中のような場所でした。グッドウィン大尉(ヴェラ・ファーミガ)がモニター越しに「爆発の原因や犯人」について話しかけてきます。混乱が続く中で、スティーブンスは再び最初の同じ場面に戻されるのです。スティーブンスは洗面所の天井に隠された爆弾を発見しますが再び大爆発が起こります。

グッドウィンは、これはすでに発生した連続テロ事件の一つで、携帯電話を使用して爆発させたのだろうと話し、次は怪しい人物を探すように言って再び8分間に送り込みます。今度は、スティーブンスは怪しい男の後を追って手前の駅で嫌がるクリスティーナを連れ立って降りますが、爆発は防げませんでした。

さらに混乱を深めるスティーブンスは、今朝の列車テロで死んだフェントレスの脳に記録された最後の8分間の記録を取り出し、疑似体験させていると説明されます。実は、スティーブンスはアフガニスタンで戦死しており、脳だけが生きていたのです。

何度かの8分間の繰り返しで、ついにスティーブンスはついに犯人を突き止めます。その情報を元に、現実の世界で犯人は逮捕され、さらなる大規模テロは阻止されました。しかし、スティーブンスは、過去は変えられないことは理解しているがもう一度このプログラム(ソース・コード)に入り、そして生命維持装置を切ってくれとグッドウィンに頼みます。

スティーブンスは爆弾を解除し、犯人を車内に拘束し、グッドウィンにメールを送信しました。そして8分間が経ち、グッドウィンは装置を切ります。しかし、ソースの中でスティーブンスは存在し続け、クリスティーナと伴に新たな道に踏み出すのでした。

この複雑なプロットはなかなか理解するのが難しいと思いますが、ラトリッジが作った他人の脳から取り出したソースコードの中に、別人が入り込みパラレル・ワールドを人為的に作り出しているということらしい。ただし、取り出したソース・コードは8分間がリミットで、それを過ぎると精神は元の肉体に戻る。戻る肉体が消滅すれば、精神は戻らずにパラレル・ワールドで生き続けるということのようです。

最後のメールを受け取るのは、パラレル・ワールドのグッドウィンであり、その世界ではスティーブンスは脳だけが生かされ続けているわけで、フェントレスに乗り移ったスティーブンスと同時に存在する、ある種のパラドックスが生じています。当然、これらを明快に説明はできないでしょうし、映画としてはその必要も無いのかもしれません。

アイデアとしては実に面白く、この困難な状況を映像化することについては一定の成果を上げているように思います。繰り返される同じシーンを、しだいに状況を理解して演じ分けていく出演者の上手さと、監督のセンスの良さが光っているのかもしれません。

2021年9月18日土曜日

秋空


今回の台風は・・・あれれれれ??

ほぼ真北に向かって朝鮮半島の方向へ向かっていたと思っていたら、その手前の東シナ海で足踏み。

まだ、そこにいるのと思っていたら、何か急に右向け右。今度は真東に方向を変えて、列島を横断しそうな雰囲気になってきました。

関東地方は、今夜遅くに最接近、ちょっとずれれば直撃という状況です。

中心気圧は995ヘクトパスカル(18日朝)になって、勢力はかなり弱くなりましたが、それなりの風雨は伴いますので注意が必要です。

どうも秋の空は変わりやすいと昔から言いますけど、この台風もかなり気まぐれ。台風が過ぎれば、また気温が上がって厳しい残暑になるらしい。

もっとも、故人曰く、変わりやすいのは秋の空だけじゃないらしい・・・

2021年9月17日金曜日

日本沈没 (1973)

当時大センセーションを巻き起こした小松左京原作の小説を原作として、東宝が総力をあげて制作したSF大作映画。黒澤組の森谷司郎が監督、橋本忍が脚本。 特撮は中野昭慶が担当し、破壊シーンは綿密に計算された建築工学に基づくリアリティを追求しました。そして、東京大学の竹内均教授ら、本当の科学者たちが多く参加して、可能な限り事実に近い物語を作り上げました。

地球物理学の田所博士(小林桂樹)は、深海調査艇わだつみの操縦士、小野寺(藤岡弘)と共に、小笠原諸島の小島が水没し消失した調査に向かい、海底で異常な地殻変動を発見します。さらに小野寺は、上司の吉村(神山繁)の紹介で地産家の娘、阿部玲子(いしだあゆみ)と葉山でデートをしている時に天城の付近で大噴火が発生します。

山本総理(丹波哲郎)と政府は、田所らを集めて会議を行います。ここでは竹内均教授が自ら出演し、地球の構造を説明するシーンがあり、地殻の動きをわかりやすく説明してくれます。政府は秘密裏にD計画を発動し、フランスの深海調査艇ケルマテックを使い、田所や小野寺をメンバーに加えます。

彼らの調査の結果、大規模な地殻変動が進行していて、最悪、ほとんどの国土が水没すると考えられました。そして、関東に巨大地震が発生、東京は壊滅的な被害を受けるのです。田所らは調査から退避が目的のD2計画を進言し、山本総理は世界各国に日本人の引き取り先を探し始めました。

調査のシミュレーションにより、10ヵ月後に日本の国土が沈没することがわかり、政府は2週間後に内外に公表することにしますが、この異変に気が付いた諸外国に先を越されて発表されてしまいます。そしてついに富士山が噴火し、玲子も巻き込まれ小野寺と別れ別れになってしまいます。

予想より早くに列島各地で大地震と地表の水没が始まり、世界各国も人道的な支援を急ぐ中、ついに日本は世界の地図から姿を消してしまうのです。田所は日本とともに運命を共にし、小野寺と玲子は別々の国で生き延びることになったのでした。


小松の基本的な構想は、日本人が難民になったらというところから始まり、その理由として後から地球物理学の最新知見を導入したと言われ、出版された書下ろし単行本は大ベストセラーになりました。映画は、小説が刊行される前から製作が始まり、小説刊行が1973年3月、映画公開は同じ年の12月というスピードでした。

1974年にはテレビドラマ(小林桂樹、山村聰、村野武範、由美かおる)が放送され、2006年には再映画化(豊川悦司、石川浩二、草彅剛、柴咲コウ)もされています。そして、今年(2021年)10月から、再びオリジナルの登場人物で再構成したテレビドラマとして放送されます(主演は小栗旬、香川照之、仲村トオル)。

日本と言う島国ゆえに単一民族を構成する世界的にも珍しい国が、国土消滅という一見荒唐無稽なプロットながら、度々見舞われる地震を身近に感じ本当に起こるかもしれないと思わせる悲劇は繰り返し映像化する魅力に富んでいるということなんでしょうか。

この小説と映画は、高度経済成長の象徴ともいえるオリンピック、日本万国博覧会が終わり、日本という国がちょっと立ち止まって今後はどうなるのか考え始めるむタイミングでタイムリーに公開されたと言えます。

当然、今のようなCGによる派手な映像はなく、東宝のゴジラの流れを汲んだミニチュアによる特撮ですから、最近の映画に慣れてしまうと物足りないのはいたしかたがない。むしろ、派手な火山の爆発シーンよりもじわじわと国土が無くなっていくところがリアリティを生んでいるように思います。

衝撃的なバッド・エンドを迎える映画なので、せめて小野寺と玲子のロマンスについてはハッピー・エンドにしても良かったのかなと思いますが、あくまでもストーリー展開の中では刺身のつまのような扱いなのがちょつと残念。やはり、主軸は丹波哲郎の必死に国民を助けようとする首相にあるのは当然といえば当然。

しかし、国土(母親)をなくし、帰る場所が無くなっても民族として生き抜こうとする強いメッセージは、単なる悲劇スペクタクルという枠を超えて伝わってて来ます。そういうところが後のいろいろなリメイクは到底及ばないところで、新作ドラマはそういう興味を持って視てみたいともいます。

2021年9月16日木曜日

みすずが丘の自転車屋さん


正しくはサイクリスト・オッジ。オッジ(oggi)は、本来イタリア語で「今日」のことなので、「自転車乗りの今日」あるいは「今日の自転車乗り」とでもいうことなんでしょうか。

けっこうモダンな店構えで、一見すると自転車屋さんには見えません。

さあて、いつだったか・・・たぶんここにこの建物ができたのは10数年前。実はパン屋さんでした。はす向かいは有名なケーキ屋のUn Petit Paquet(アン・プチ・パケ)があって、この小さな交差点は、なかなかの賑わいを見せていました。

ただし、パン屋は数年で撤退。あらまぁ、という感じだったのですが、そのままの外観で始まったのが自転車屋さんということ。

とは言え、普通にママチャリを売っているわけではなく、自転車のマニア向けの、好きな人には「くぅ~、たまらん」というブランドやパーツを扱っているらしく、今では知る人ぞ知る名店になっているらしい。

40代のうちだったら、店に出入りしていたかもしれません。もう今となっては、もしも買うなら電動アシスト必須なので、ここじゃないというところでしょうか。

2021年9月15日水曜日

自民党総裁選挙


与党自民党は、国内外の山積する諸問題そっちのけで、総裁選挙で頭が一杯のようです。メディアは、そんな自民党を批判したりしますが、そういう自分も総裁選挙の話題ばかりを扱っていて、コロナ渦については型通りに新規感染者数の発表だけで終わっているというのが現実。

自民党という一政党のトップを決める選挙は、当然選挙権は党員のみ。一般国民のあずかり知らぬところなんですが、だからと言って党員証を持っていない一般市民に無関係かと言うとそうじゃない。

何故なら、自民党が政権与党であるからには、総裁がそのまま総理大臣になってしまうからです。私たち一般市民が選挙権を持つのは、衆議院・参議院の議員だけ。総選挙の結果を受けて政権を奪取した政党のトップが首相になるのは理解できる。

しかし、今回は総選挙はその後。今の現状を考えれば、与党は議席数を減らすことは間違いないだろうと思いますが、だからと言って政権交代するほどとは思えない。そもそそも政権を作れるだけのパワーが野党にあるとも思えません。

となると、総裁を決める選挙権こそありませんが、党員の皆さんは世論調査などの一般市民の声を無視しないようにしていただきたいものです。世論に反する党利党略だけで総裁を決めれば、総選挙ではさらに手厳しいしっぺ返しをくらうことになるかもしれません。

現在までに、総裁選挙に立候補するのはほぼ3人に絞られたようです。初めての女性首相という肩書は魅力的ですが、政権を2度も投げ出した元首相がバックについている人。安定感はあるけど主流派からは外れ、トップとしての力量はまったくわからない人。若手からは人気でメディアの使い方もうまいのですが、総理大臣の器についてはまったく未知数の人。ちなみに後出しじゃんけんを狙う人は、ぐずぐずしているうちに期を逸したようです。

選挙に勝つことは政治家としては重要であることは否定しませんが、明日の日本を背負って立てる人材は誰なのかを熟考して自分たちのトップを選んで欲しいものです。

2021年9月14日火曜日

トゥモロー・ワールド (2006)

近未来のディストピアを描くこの映画は、つまらない邦題のせいで、もしかしたらだいぶ損をしているかもしれません。原題は「Children of Men」で、「人類のこどもたち」ということですが、「トゥモロー・ワールド」では、映画の世界観とはかなりかけ離れてしまうように思います。それでも、今や押しも押されぬ名監督になったアルフォンソ・キュアロンの技が冴えわたります。

2027年のイギリス。人類は出産能力を失い、希望の持てない世界ではテロ事件が多発し、不法入国者の激増で治安が悪化していました。冒頭、最も若い18歳の少年が死亡したことをニュースが伝える中、主人公であるエネルギー省に勤めるセオ・ファロン(クライヴ・オーウェン)は、コーヒーショップから出た直後にショップで爆弾テロが発生します。この間の1分半は手持ちカメラで主人公を追う形のワン・カット撮影です。

セオは、通勤の途中で不法入国者の人権を守る反政府組織であるFISHに拉致されます。なんと、リーダーは別れた元妻のジュリアン・テイラー(ジュリアン・ムーア)で、不法入国者の娘を脱出させるため通行証を手にいれてほしいと頼まれます。しぶしぶセオは、従兄の文化大臣に嘘をついて通行証を手に入れます。

ジュリアンに引き合わされたのは黒人の若い娘キーで、通行証はセオが同伴することが条件になっていました。早速、出発した一行でしたが、途中で暴徒に襲撃されジュリアンは銃撃され絶命します。ここもワンカット4分の緊迫した映像です。

キーは妊娠していたのです。実はFISHは、赤ん坊を盾に政府に優位に立とうとして、暴徒を装ってジュリアンを殺害し、キーを引き留める計画でした。キーを連れ出したセオは、元ジャーナリストで友人のジャスパー(マイケル・ケイン)に匿ってもらいます。しかし、FISHが追ってきたため、ジャスパーは逃げる時間を稼ぎ盾になって殺されてしまいます。

セオとキーは不法入国者を装って、海のすぐそばにある収容所に入り、キーは無事に出産します。しかし、FISHが収容所を襲ってきたため軍隊との激しい戦闘になります。ここもかなりの長時間ワンカット撮影で、緊迫感を盛り上げます。何とか脱出した二人は、ボートで海に漕ぎ出しますが、銃撃を受けたセオはボートの上で息を引き取ります。そこへ、キーを安全な場所連れていくトゥモロー号が近づいてきました。

ディープ・パープルのデヴュー曲「ハッシュ」、キング。クリムゾンの名曲「キリムゾン・キングの宮殿」が流れたり、ピンク・フロイドの「アニマルス」さながらの発電所と空に浮かぶ豚のバルーンが登場します。後テーマに使われるのもはジョン・レノンの「ブリング・オン・ザ・ルーシー」です。フィッシャーディスカウが歌うマーラーの「亡き子を偲ぶ歌」も使われていたりして、昭和人としては音楽の使い方に唸ってしまいます。

新たにこどもが生まれなくなって18年間。このままだと、長くても100年後には人類は一人もいなくなっている。何も遺す必要はなく、何も希望を持てない世界というのは、本当だったら恐ろしいことで、人類最後の一人にだけはなりたくないものです。

主だった登場人物は皆、人類の唯一の希望となるこどものために犠牲になっていく。そんな思いを託すだけの価値が一人の赤ん坊にあるわけですが、正直に言うと、そんな未来があるかもしれないとはなかなか想像しにくく、ちょっと共感しずらいところがあります。

そこをリアルな映像でなんとかもたしているのが、キュアロン監督得意の長回しのワッンカット・シーン。実際には、複数のカットをつなげて、CGなどをうまく利用しているらしいのですが、こういうさりげないCGの使い方は映画作りのお手本になるのではないでしょうか。

おおかたのディスピア映画では、主人公はまったく歯が立たないか、とりあえず一時は救われます。しかし、ここでは、未来につながる希望の回復が描かれるという点では、皆死んでしまう割には後味は悪くないというところでしょうか。

2021年9月13日月曜日

12モンキーズ (1995)

1962年のフランスの約30分の短編映画は、大変に風変わりでした。タイトルは「La Jetee (ラ・ジュテ)」といい監督はクリス・マイケル。フォトロマンと呼ばれる手法を用いていて、簡単に言えば静止画像を順に見せていく紙芝居のようなもの。荒廃した未来から来た男が現代の女に恋して、過去の自分の前で死んでしまうという話(ネットで視聴可能)。

一方、こちらの映画は、「未来世紀ブラジル」のテリー・ギリアムが監督し、映画の冒頭で「La Jetee」にインスパイアされたことが示されています。「ブラジル」のようなブラック・ユーモアは封印され、アルゼンチン・タンゴの響きと、ルイ・アームストロングの歌声が全体の雰囲気づくりに一役買っています。

2035年。1996年に12モンキーズが起こしたウィルス散布により、世界のほとんどの人類が死亡し、何とか生き残った1%の人々はウイルスを避けて地下での生活を余儀なくされていました。囚人のジェームス・コール(ブルース・ウィリス)は、減刑と引き換えに過去に戻って、ワクチンを作るためにウイルスを採取することになります。

ところが、タイム・スリップしたのは1990年。コールは妄想癖のある患者として精神病院に収容され、コールは女医のキャサリン・ライリー(マデリーン・ストウ)と患者のジェフリー・ゴインズ(ブラッド・ピット)と知り合い、ゴインズに人類のほとんどが死ぬ話をします。ゴインズの手引きで脱走しようとして捕まりますが、未来に一度引き戻されます。

再度、調査を続行するように命じられたコールは、今度は1996年に送り込まれます。キャサリンを強引に同行させて、断片的な手掛かりをたどっていくと、細菌学者の父(クリストファー・プラマー)を持つゴインズが動物愛護団体として活動する12モンキーズのリーダーであることが判明します。しかし、ゴインズに面会したコールは、何が本当なのかわからなくなり混乱し、再び未来に引き戻されるのです。

キャサリンはしだいにコールの言うことが真実かもしれないと思い始め、再び姿を見せすべてが妄想だったと言うコールを連れて事実を探そうとします。ゴインズらは父親を誘拐し、動物園の檻に入れ、代わりにすべての動物を街に解き放つのでした。

12モンキーズの目的がウイルス散布ではなかったことに安心して、逃亡のため空港に向かった二人は、ジェフリーの父親の助手がウイルス散布の真犯人であることに気がつき追いますが、張り込んでいた警察によってコールは射殺され、キャサリンはちょうど空港にいてこの出来事を目撃した少年のコールを見つけるのです。助手は飛行機に乗り込み、隣になったコールを未来から送り込んだ科学者の一人と握手をするのでした。

ブルース・ウィリスは、「ダイハード」のセクシーでかっこよいイメージを自ら破壊する演技を見せますし、それにも増して超ハイテンションで切れまくるブラッド・ピットが凄すぎる。二人の名優の常軌を逸した名演があったからこそ映画としての価値が生まれていることは間違いありません。

それにしても、謎が多い映画です。何度もコールのことをボブと呼んでるくる声。未来からのアドバイスのようで、コールを見張っている何者かがいるのかもしれませんが、正体は明かされません。一度、第一次世界大戦の前線の真っ只中にタイムスリップしてしまうのも、キャサリンがコールを信じるきっかけにはなりますが、やや唐突な印象です。

ラストでも、未来の科学者が真犯人の横にいるのは、ウイルスを手に入れて未来を救うことにつながるのか、あるいは彼らが本当の意味で世界を支配するための事件の黒幕なのかと悩んでしまいます。それに、もしかしたら、すべてがこどものコールの妄想だったのかもしれません。

真犯人については、実は途中で数回登場して伏線が張られているので、最後で急に「あいつが犯人」と言われても、思い出すとなるほどなという感じ。複雑な構成の映画なので、一度見ただけではなかなか理解がしずらいのですが、タイム・スリップとタイム・ループを掛け合わせたような斬新な発想の記憶に残る名作SFと言えそうです。

2021年9月12日日曜日

ロボコップ (2014)

さすがに続編は作らないだろうと思ったら、何と、20年ぶりにロボコップが復活。確かに続編じゃない。21世紀にになって流行りのリブートというやつで、新たな設定で第一作を作り直してしまいました。

オムニ社のトップ、セラーズは中東で成功している保安ロボットを、国内でも売り込みたいのですが、感情を持たないロボットの導入は根強い反対がありました。デトロイト市警のアレックス・マーフィ巡査は、ギャングのバロンを追っていて相棒のジャック・ルイス(黒人男性)が重体になり、自身も爆弾によりほぼ即死に近い状態になる。

セラーズはサイボーグ研究の権威、ノートン博士の協力の元、マーフィの妻の承諾を得て彼をサイボーグとして蘇らせるのでした。目を覚ましたアレックスは、頭部と右手を除いてロボット化していて、自分の状態を理解できずに混乱します。次第に慣れてきたアレックスは、戦闘テストをクリアしました。

しかし、過去の記憶により興奮状態になりコントロールができなくなることがわかり、ノートンはマーフィの感情を消失させる処置を行います。ロボコップとして警察前のお披露目では、妻とこどもに対しても無感情で、いきなり群衆の中にいた凶悪犯を逮捕して見せ、以後次から次へと犯罪を摘発し活躍し始めました。

しかし、次第に再び自ら感情のコントロールを取り戻したマーフィはバロン一味を壊滅し、警察内のバロンと組んでいた本部長らも逮捕します。しかし、マーフィの暴走を恐れたセラーズは、強制的にマーフィをシャットダウンし、マーフィを破棄して家族にもマーフィは死んだと説明します。ギリギリでノートンに再起動されたマーフィは、オムニ社に向かい自分の妻子を人質に逃亡しようとしていたセラーズに銃口を向けるのでした。

というわけで、オリジナルとおおきく違う点は、マーフィが過去の記憶のデータに苦しむサイボーグ様のからロボットから最初から記憶が残っているロボット様のサイボーグに変更されたということでしょうか。それだけ、人間としての辛さ悲しさが前面に出てくる設定です。

マーフィは死んだヒーローではなく、死にそうになったけど復活したヒーローです。ですから、セラーズは、宣伝材料として最高のヒーローは死んでなると言って破壊を指示することになります。

家族とのかかわりも、サイボーグになることを妻は最初から承知して同意しますし、一度家に帰って、変わり果てた姿を家族に見せます。ですから、マーフィとかつて呼ばれたロボコップではなく、この映画の主人公は最初から最後までアレックス・マーフィという人間という感じです。

ロボコップ・スーツは相当改良されたとみえ、走ったりもできるし、けっこうなアクションもこなせるのも、ロボットらしさを希薄にしています。特殊撮影は、さすがにCGてんこ盛りになって、これまでの安っぽさは無くなりました。

これが第一作だったら、そこそこのSFアクション映画という感じなんですが、過去のシリーズを知っていると「何だかなぁ・・・」感はぬぐえないというところでしょうか。旧シリーズを好きな人は見ない方が良さそうですし、こっちを先に見た人は旧シリーズは無視した方が良さそうです。

2021年9月11日土曜日

911


2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件発生。

明らかに世界を震撼させ、人々の生活を一瞬で変えてしまった、人類史から外れることが無い大事件でした。

第二次世界大戦後に戦勝国として優位性が高まり、「世界の警察」を自認するようになったアメリカ合衆国は、かつて経験したことが無い本土、それも心臓部に対する直接的な武力行使により混乱の21世紀の幕開けとなりました。

イデオロギーの対立による領有権拡大のための国家間の戦争という、かつての常識はもう通用せず、テロリストは深く闇に潜み実態を見せませんし、特定の領地を持っているわけではありません。

アメリカは「復讐」という目的のため、アフガニスタン、イラクへ軍を派遣し困難な近代戦を展開しました。しかし、その後のいろいろな明らかにされた事実によって、戦争に至るアメリカ国内のスキャンダルも取り沙汰されるようになってきています。

就任早々に戦争の決断を迫られることになったジョージ・ブッシュ大統領、テロの首謀者と目されるウサーマ・ビン・ラーディンを追い詰め殺害したバラク・オバマ大統領、自尊心を失い疲弊したアメリカを立て直そうとしたドナルド・トランプ大統領。

そして今年あらたに就任したジョー・バイデン大統領は、先頃アフガニスタンからの米軍完全撤退を混乱の中で実行しました。バイデン大統領は、事件当時の機密文書の開示を指示をしましたので、今後、噂に上った事実なども含めて事件の解明が進むのかもしれません。

今日で20年目の911を迎えました。

2021年9月10日金曜日

ロボコップ3 (1993)

2匹いないドジョウなのに、3匹目がいるわけはなく、それを実践したような映画です。監督はフレッド・デッカーという人なんですが詳細は不明。ナンシー・アレンは再登場しますが、主役のでピーター・ウェラーに代わってロボコップを演じるのはロバート・ジョン・バークです。


デトロイト市を実質的に牛耳っているオムニ社は、日本のカネミツ社に買収されてしまいましたが、それでも相変わらずデルタシティを実現しようと、リハッブと呼ばれる情け容赦ない特殊部隊によって立ち退きを拒否する住民を強制排除していました。

そして、ロボコップをリハッブに入れるため、メンテナンスを担当しているマリー・ラザラス博士に人間らしい判断をしないように神経遮断回路を組み込むよう命じます。ラザラスは、ロボコップを人間として認めているので、回路は破棄しました。

ロボコップと相棒のアン・ルイスは、立ち退きを拒否する過激な市民グループのアジトである教会に向かいますが、そこへリハッブも到着し、隊長のマグダゲットは立ちはだかったルイスを射殺します。損傷したロボコップは、ルイスの殺害犯として追われる立場になり、市民グループに匿われます。

ラザラスを連れ出しオムニ社な抵抗しないというプログラムを消去して修復されたロボコップは、ルイスの仇を討つためにリハッブ隊を襲撃しますが、隊長には逃げられてしまいます。カネミツ社はオオトモと呼ばれるサイボーグを投入し、立ち退き推進とロボコップの処分させようとします。

マグダゲットは警察官に立ち退きに加わるように命令しますが、全員でバッジを捨てて市民の側につくのでした。ロボコップの活躍もあり、市民と警察官らはリハッブに勝利し、ロボコップはオムニ社の最上階で、マグダゲットと2体のオオトモと対決するのでした。

・・・って、もう、何だか支離滅裂な感じで、B級アクションとして見ても、かなり展開が雑。最後は、ロボコップがジェットエンジンを背負って空を飛び回るとなると、もう何でもありのようです。特撮も前作より粗くて、この時代としてはかなり貧弱。

さすがに、ここまで来ると、さらなる続編は作ろうと思わないでしょうね。




2021年9月9日木曜日

バスケットボール・ゴール


体育館の天井から吊り下げ方式のバスケのゴール。

多用途目的の体育館では、よく見られる光景です。 それにしても、これはけっこう大きい方じゃないかと思います。

何でかと言えば、天井が高いから。

体育館には窓際に作業用の細い通路が2階部分として設置されていることが普通ですが、この体育館は3階部分の通路もあります。

ここは・・・地区センター!!

都筑区の葛が谷地区にある、住民がいろいろな集会や行事を行うために利用できる公共施設です。体育館の大きさに驚くばかりで、都筑区ってお金があるんだなあと思ってしまいます。

自宅のある地域の地区センターは、体育館はありますが広さはバスケをするコートとしては1/4程度です。ゴールは壁に直接設置されています。

床可動式のゴールだと、価格が高いものは一千万円近いようですが、天井吊り下げは専用設計で安全面でもいろいろと対策が必要になるので・・・

2021年9月8日水曜日

ロボコップ2 (1990)

一作目が思いがけなくヒットすれば、二匹目のどじょうを狙うのは映画界の常套手段ですが、残念ながら前作を超えられる続編はめったに無いというのもありふれた話。

ロボコップも当然のように続編の制作に取り掛かるわけですが、もともとB級SFアクションですから、続編に期待されるハードルはそれほど高いわけではないのですが・・・

監督は「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」で一躍有名になったアーヴィン・カーシュナー。主要登場人物である、ピーター・ウェラー、ナンシー・アレン、ダン・オハーリーなどは前作に引き続き続投しています。

近未来のデトロイト市では、ケインの組織がヌークと呼ばれる麻薬を広めており深刻さを増していました。一方、デトロイト市はオムニ社に莫大な借金をしており、オムニ社会長オールドマンは契約通り金を返せないなら市全体を明け渡すよう市長に詰め寄ります。さらにオムニ社は、ロボコップよりもっと強力なロボコップ2の製作にとりかかり、会長にうまく取り入ったジュリエット・ファックス博士(ベリンダ・バウアー)に任せます。

ケインらに捕まったロボコップは、見せしめにバラバラにされてしまいます。オムニ社は修理はしたものの、ファックスが非攻撃的なプログラムに入れ替えてしまう。自己矛盾に気がついたロボコップは、自ら高圧電線に触れプログラムを消去しました。そして、ロボコップはケインを追い詰め逮捕しますが、ケインは重傷を負います。

ファックスは、ケインの凶暴性と生への執着がロボコップへの適性があると考え、ケインの生命維持装置を切り死亡させサイボーグ化させるのです。ケイン一味の残党は、自分たちの安全の引き換えに借金を肩代わりすると言って市長に接触しますが、借金が無くなっては困るオールドマンは、ロボコップ2を使って彼らを抹殺するのでした。

デトロイト市を再開発するデルタ・シティ構想の発表会の席上で、オールドマンはロボコップ2を披露しますが、もともと麻薬中毒のケインの中枢神経は薬切れで暴走してしまうのです。ロボコップは、何とかロボコップ2を倒しますが。オールドマンはファックスの独断専行ということにしてしまいます。「逃げる気よ」というルイスに、ロボコップは「我慢しろ、我々はしょせん人間だ」と言うのでした。

始まりでロボコップのかつての家族への思いを描いていますが、人間のマーフィーは死んでロボコップは別物であると気持ちを切り替えた後は、犯罪摘発マシーンとして活躍します。サイボーグとして復活したヒーローの心の葛藤というテーマは、さらりと流された感じ。

ロボコップのスーツは、かなり改良され一作目よりはだいぶ動きやすくなったらしい。また色調もより精錬された青味がっかった色に変更されています。ロボコップとロボコップ2の格闘シーンは、ストップ・モーション・アニメで描かれており、それなりに楽しめますが人形臭さがわかりやすい。

10代前半と思われる少年がケイン一味のNo.2で、かなり頭の切れる悪賢いこどもとして登場するんですが、それがこどもである必然は無いし、彼の背景についてはまったく触れられていません。また、少年野球チームが店の強盗を働いたりと、今の目で見ると当然倫理的に問題となるところが少なくありません。

前作もそうですが、悪者は見るからに悪党と、企業利益のためには何でもするオムニ社の二つの集団があり、描き方が半々になってしまうため、悪役の憎むべきポイントの描き方が中途半端な感じです。やっぱり、続編ですから・・・まぁ、いっか。

2021年9月7日火曜日

ロボコップ (1987)

リアルタイムには、「ターミネーター」と一部混同して、似たような格好のヒーローが出てくるB級SFアクションという印象を持っていたのがロボコップのシリーズ。しかも、当時子供向け「レンジャー・シリーズ」と抱き合わせで放送されていた、「宇宙刑事ギャバン」にも容姿がそっくりさん。

そんなこともあって、あまり重きを置かない映画の一つというのが自分の中での位置づけだったんですが・・・あらためて見ると、けっこう暴力的なハードなシーンが多く、ハリウッド映画としての娯楽映画としては、けっこう異色の作品だったのかなと思いました。

監督はオランダ出身で、一定の評価を受けているポール・バーホーベン。基本的にはB級であることにはかわりはないのですが、低予算ながらけっこうなヒットを飛ばしました。

近未来のデトロイトは、一企業であるオムニ社が牛耳る街になっていて、警察もオムニ社が経営する民間の会社になっていました。犯罪が多発し、警察官の殉職も後を絶ちません。アレックス・マーフィ巡査(ピーター・ウェラー)は、デトロイトに転勤してきて女性警察官アン・ルイス(ナンシー・アレン)と組むことになりますが、着任早々、ギャングのクラレンス・ボディッカー(カートウッド・スミス)の一味により無数の銃弾を浴びて死亡します。

オムニ社では、治安を改善するため重役ジョーンズが立ち上げた警察ロボットED209を披露しますが、会長オールドマン(ダン・オハーリー)の目の前で制御不能の失態を犯します。そこでED209に代わって、社員のモートンは、完全なロボットではなくサイボーグであるロボコップを推進するのです。

ロボコップには、死んだばかりのマーフィーの中枢神経系などの生体の一部が用いられ、署に配属されたロボコップは瞬く間に目覚ましい活躍で犯罪者を捕らえていくのでした。ルイスもちょっとした動きから、マーフィーではないかと疑います。

脳に残っていたマーフィとしての記憶が蘇ってきたロボコップは、クラレンス一味を追い始めます。実はクラレンスの黒幕はジョーンズで、自分をコケにしたモートンを殺害させ、強力な武器を渡しロボコップも抹殺させようとします。

ロボコップは黒幕ジョーンズの証拠をつかみオムニ社に乗り込みますが、オムニ社役員には手を出せないという制御プログラムのため、逆にED209に追い詰められます。ルイスの助けで何とか脱出してクラレンスを倒し、再度オムニ社役員会議に乗り込んだロボコップは、ジョーンズの犯罪証拠を開示。会長がジョーンズを罷免したことで、銃口を向けるのでした。

ロボコップはメタル調のヘルメットとスーツで、顔の口の周りだけが見えています。動くのはかなり大変だったようで、実際重量もかなりあったらしい。そのせいか、逆にぎこちない動きがロボットぽくて味があります。起動時には「commad.com」を読み込んだことが示されるので、何と昔懐かしい「MS-DOS」で制御されているらしいというが驚きです。

相棒の名前が「アン・ルイス」というのは、日本人的にはけっこううける。演じるナンシー・アレンは脇役が多かったのですが、当時は出演者の中で一番知られていたかもしれません。

一度死んだ人間が機械化され復活するという設定は、まさにサイバーパンクであり、この映画はその元祖と言えそうです。「攻殻機動隊」なら、まさに義体と呼ぶべきもの。ターミネーターは完全ロボットですから、ファジーな判断力を要求される場面ではロボコップが勝つかも?しれません。

まぁ、SFアクション映画としては、当時としては新しい発想による、大きな破綻もなく楽しめる作品といえそうです。




2021年9月6日月曜日

ストーカー (1979)

旧ソビエト連邦、ロシアが生んだ巨匠、アンドレイ・タルコフスキーが、ソビエトで制作した最後の作品が「ストーカー」です。

ソビエトの映画事業は、国営のモス・フィルムがほぼ独占し、作られる映画のほとんどがプロパガンダ的な内容でした。商業的な成功が不可欠ではなかったので、芸術的・哲学的な映画を育む土壌があったわけですが、その一方で個人の思想的表現は強力な検閲によって封印されました。タルコフスキーの映画は検閲との闘いに明け暮れ、祖国を愛するタルコフスキーをもってしても大きな忍耐を強いられるのが日常であったようです。

この映画は「惑星ソラリス」につぐタルコフスキーのSF作品であり、全時代、全世界のSF映画ランキングの上位の常連と位置付けられています。 しかし、「ソラリス」が宇宙を扱ったため少なからずSF的な美術を含んでいたのに対して、本作はほぼヒューマン・ドラマであり、いかにもSFと思わせるようなところは皆無と言えます。

じゃあ、何故SF映画として扱われるのかというと、すべてはその基本的なストーリーのベースにのみSF的発想があるからということになる。原作はロシアでは有名なSF作家である、アルカジーとボリスのストルガツキー兄弟。しかも脚本を彼らが担当していますが、タルコフスキーの独自の解釈が膨らんだ内容となったといわれています。

映画はタルコフスキー作品としては珍しく、説明的な字幕から始まります。内容は、ストーリーの前提となる唯一のSF的事象のかなり控えめな解説です。つまり、ゾーンと呼ばれる不可思議な地域があること。隕石の落下か宇宙人の来訪か、何が起ったのかはわからない。ただちに軍隊が派遣されたが誰も帰還せず、立入禁止区域として鉄条網が張られ厳重な警戒がされていたということ。これらは、特派員によるノーベル賞受賞者のウォレス教授へのインタヴューの引用という形をとっています。

続いて扉の隙間から、ゆっくりとカメラが室内に近づいて、ベッドで川の字で寝ている家族を上から映し出します。電車?の振動でサイドテーブルのコップが揺れて動き、男が妻とこどもを起こさないようにゆっくりと起き上がります。顔を洗っていると、妻が起きてきてどこへ行くのか、今度捕まったら10年は出てこれない、私たちはどうすればいいのと妻は詰問します。男は妻を突き放し出ていくのでした。

男(アレクサンドル・カイダノフスキー)は「ストーカー」と呼ばれ、密かにゾーンの案内し生計を立てているのです。ストーカーは、作家(アナトリー・ソロニーツィン)と教授(ニコライ・グリニコ)から依頼され、二人をソーンに案内します。ちなみにこの三人、皆、容姿が似ていてわかりにくい(特に禿具合)。

教授は学者としての好奇心と真理の探究が目的、そして作家は物書きとしてのスランプから脱出するヒントをつかむためにゾーンに行きたいと言います。三人は監視所を突破して、ゾーンの奥へ軌道車に乗って進んでいきました。三人のアップが続く、無言の4分近い長いシーンで、映画的な時間と距離の長さが伝わってきます。

ここまではセピア調のモノクロームの画面でしたが、ゾーンに入ったところからくすんだカラーに変わります。教授はストーカーの個人的なこともある程度知っていて ストーカーの娘は生まれつき足が悪いことや、ゾーンの奥に行けばその人の切実な願い事が叶う「部屋」があるという噂を作家に語ります。

目の前にある建物の中に部屋があるのに、安全のため遠回りをして行こうとするストーカーに作家は苛立ち、一人でまっすぐ行くと言って歩き出しますが、建物の直前で何者かの声が止まれと命じます。ストーカーは、ゾーンは私たちの精神を反映する罠のシステムで、幸運な人を時に死に追いやり、不幸な人を通すと話します。

ロケ地は紆余曲折してエストニアの発電所付近が使われたようですが、何とも言えない人工的な建造物の廃墟と自然とのコントラストが、不思議な空間を作り出し、特別な特殊撮影をしているわけではないのに、これが「ゾーン」なのかと思わせてくれます。

今度は教授がリュックを忘れたと言って勝手な行動をしますが、周囲は刻一刻と変化するためストーカーは待てないと先を急ぎます。しかし、何と食事をして休憩している教授が先にいるのでした。

そして、ついに部屋の入口にたどり着きます。しかし、作家は部屋に入りたがらない。教授は、大事にしていたリュックから爆弾を取り出し、この部屋があると利用しようとするよからぬ者が後を絶たないから破壊すると言い出します。

ストーカーは、ここに人を連れてくることが誰かの救いになり、それが自分の幸せと語り、私から希望を奪わないでほしいと懇願します。そして誰も部屋に入ることなくゾーンを後にしました。

家に帰り、ストーカーは妻に、結局案内しても信じようとしない連中ばかりで、もう案内することはやめると言います。妻は映画を見ている者に向かって、母親がストーカーとの結婚を反対したこと、これも運命であり後悔していないことと語ります。ストーカーの娘は、テーブルの上にあったガラスのコップをじっと見つめるとコップが動き出します。その後から列車の走る振動が響いてきました。


「ストーカー」は、現在使われているような意味とはまったく違い、「獲物を追い詰める者」という意味。ストーカーを演じるカイダノフスキーは、ソビエトでは有名な役者のようです。作家はタルコフスキー作品ではでお馴染みになったソロニーツィン。そして教授を演じるグニコは「アンドレイ・ルブリョフ」のダニール、「惑星ソラリス」の主人公の父親でタルコフスキー組の一員と言って良いでしょう。

この映画では、脚本未完成のうちに制作が始まり、撮影予定地のトラブルなどもあって、タルコフスキーとしては検閲以外のところでかなり神経をすり減らしたようです。気心の知れた俳優やスタッフだからこそ、完成にこぎつけたのかもしれません。

カラーと白黒の使い分け、カメラの長回しなどはタルコフスキーらしいところ。しばしば登場する水のモチーフはここでも見られますが、どちらかと言うと濁ったり汚れた水が多い。回想や夢によって時間の流れを自在に扱うタルコフスキーですが、ここでは時間は直線です。そして、タルコフスキーにしては台詞が多い感じがします。とは言っても、物語の説明的な台詞ではなく、哲学的な問答でありなかなかその意味を理解するのは難しい。

最終的にも、ゾーンとは、そして部屋とは何なのかの一定の答えは提示されません。ただ、部屋については、途中に何度か登場するストーカーの先輩であるヤマアラシの話からある程度想像することは可能です。

ヤマアラシは先輩ストーカーであり、彼の弟は部屋にたどり着く前に亡くなっています。ヤマアラシは弟の復活を願うために部屋に入りますが、ゾーンから戻ると大金持ちになり首を吊って自殺しました。作家の解釈では、ヤマアラシが自殺したのは、自分の本性が現実化して耐えられなくなったからです。つまり部屋は、人間の表立った望みを叶えるのではなく、その人の本能・本性をあからさまにする力があるということらしい。

他にもストーカーの娘・・・についてもよくわからない。何故歩けないのか、そしてラストシーンの意味も不明です。父親の業を背負って生まれ、父親がストーカーの引退をしたことで、あらたなストーカーとして超能力を開眼したということかもしれません。

いずれにしてもロシア的キリスト教の思想が大きく関与しているらしいことは間違いなく、ストーカーの家族対する贖罪の意識が根底にあるようです。妻は冒頭ではゾーンに行くストーカーをなじるのですが、最後ではそういう夫を認めています。本当の幸せは、ゾーンの中ではなく、生活の場である貧しい部屋にこそ見つけられるということなのかもしれません。

2021年9月5日日曜日

ゴミ置き場


ゴミの集積場所はいろいろなパターンがありますけど、うちの場合は近所16軒が1年ごとに持ち回りで家の前にゴミ置き場にしています。

ずっと同じ場所を指定できる、例えば公園の近くとかが羨ましい。それでも玄関とは別に道路に面した塀があるような家はまだいい。

うちと隣は、出入り口以外は駐車場になっていて、ゴミを置いておけるスペースがありません。前回は、隣と共同で出入り口の半分ずつを囲ってゴミ置き場にしました。

出入り口を塞ぐのは気の毒ということで、隣と合わせて1年間でよかったのですが、それでも実質当番が半年だとずいぶんと嫌味をいう家がありました・・・

今年から半分に分けて8軒になったのもあり、次回の当番は隣と合わせてというのは無い。ゴミが少なくなるとは言え、置き場所は変えようがないので、2年間家の前にゴミが集まって来るということになる。

・・・なんかなぁ・・・とは思いますが、文句を言うわけにもいきません。

カラス対策は蓋のあるゴミ箱で出すというルールになっていて、まぁ大丈夫とは思いますがどうなることやら。来年? いや再来年に次の当番ですかね。

2021年9月4日土曜日

総理、辞めるんですか?


お気の毒・・・と言っていいのかもしれません。現総理大臣が、事実上の辞意表明で、菅政権は1年で終了ということになります。

このところ、与党総裁選挙と衆議院選挙が近づいて、もう完全に政権与党の心国民にあらずの状態に突入していました。政界のことに詳しい人からすれば、今回の辞意は必ずしも予想できなかったことではなく、起こりうるシナリオの一つだったらしい。

でも、一般人にとっては唐突。前日まで悪あがきともいえる、権力維持のため見境ない作戦をいろいろとやっていたらしい報道ばかりでしたから、まさに寝耳に水の話です。

結局、なんとか総裁の座を守るための動きが、かえって菅おろしの風を強くして自らの首を絞めたという・・・だからお気の毒ということなんでしょうか。

コロナ対策に力を注ぐためという理由でしたが、だったら総理の椅子を渡すことは矛盾しているように思います。臨時国会を召集することもしないので、あと1か月とない任期では何も成果は生まれない。正直に反対勢力に勝てないと悟っただけ・・・と言うわけにはいきません。

コロナ渦の問題のさなかに、前首相の突然の辞任で、国民の審判を受けることなく総理大臣になった方。前政権では裏方的な存在で力を発揮した方。でも、言い方を変えれば、裏方だからこそ発揮できる力は、表に立っては空回りしかしないということを証明した方。

横浜市長選挙で自分の地元ですら、応援した候補にNOを突き付けられたことが、大きかったような話がでていますが・・・どうなんでしょうか。横浜市民としては、政権に対する批判票というよりは、単純に急に出てきた候補者そのものに信頼を寄せられなかっただけという感じがしていますけど・・・

何にしても、こういう権力闘争が自民党の本質であり、そして政治そのものなのかもしれないと、いろいろな意味で落胆させられる話です。

2021年9月3日金曜日

時計じかけのオレンジ (1971)

スタンリー・キューブリック監督のSF映画といえば、「2001年宇宙の旅」が全世界・全世代的にあまりにも有名。確かにSFというジャンルにこだわらず、すべての映画の傑作を選ぶランキングでも上位入賞間違いなしという傑作です。


そのせいで、この映画は「2001年」に続いて作られたSFで、おそらくキューブリック・マニアでないと忘れがちな一品ですが、さすがにキューブリックという作品に仕上がっています。

原作はアンソニー・バージェスが1962年に発表した小説。近未来のロンドンが舞台で、不良少年のアレックスが、強制的に「良い子」へ思考転換させられる、ある種のディストピア社会をブラック・ユーモアたっぷりに描きます。

いまさらストーリーを紹介するような野暮なことはしなくてもいいくらい、話としては有名ですし、ワーナー映画としてもドル箱のキューブリック作品なので、手を変え品を変えメディアを販売し続けています。

自分としては、1972年の日本での劇場公開こそ見れませんでしたが、リアルタイムに原作も読みましたし、何よりサンウド・トラックのレコードを購入して驚きの音楽にはまっていました。

音楽を担当したのはウォルター・カーロスで、1968年におそらく世界初のムーグ・シンセサイザーを使用したアルバム、「スイッチト・オン・バッハ」を作って、大ヒットを飛ばした人物。この映画では、ベートーヴェンなどを大胆に取り入れ、さらなる進化したシンセサイザー音楽を聞かせてくれました。

その一方で、アレックスが「雨に唄えば(Singin' in the Rain)」を歌いながら悪事を働くところが話題になり、エンディングでは元祖ジーン・ケリーの歌声が流れたりします。最新の未来的な音楽と、当時としては10数年前のヒット曲を織り交ぜるキューブリックのセンスは素晴らしい・・・と言いたいところですが、実は主役のマルコム・マクダウェルが何かを口ずさめと言われた歌ったからというのが面白い。

今の目からはたいしたことは無いのですが、エッチなシーンもあって、思春期の小僧としてはだいぶドキドキさせられた思い出があります。

あらためて見ると、社会に適応させるため思想改造という、根本的なテーマはけっこう怖い話です。また暴力的なシーンも多く、その影響が社会現象として問題にもなりました。

2021年9月2日木曜日

TIME / タイム (2011)

SF映画には時間物というジャンルがあり、タイム・トラベル、タイム・リープとかタイム・スリップ、タイム・ループ等々・・・一方、これはまさに「Time is money」という映画。まぁ、行ってみればディストピアにおける時間泥棒の話。監督はSFでは「ガタカ」で有名なアンドリュー・ニコル。

近未来の世界。遺伝子操作で人は25歳から年を取らなくなり、人口爆発を抑制するため寿命も25歳までと決められ、人々は生き延びたければ寿命につながる時間を稼ぐしかありませんでした。

時間は人同士で貸し借りができ、財布のようなガジェットに貯めておくことも可能。給料は時間として払われ、買い物も時間で行う。スラムでは、ほとんどの人々は24時間程度の時間しか持ち合わせがない生活の日々ですが、一方富裕層は巨万の時間を得て、永遠に近い命が保証されているのです。

スラムに住むウィル・サラス(ジャスティン・ティンバーレイク)は、ある日捨て鉢気味の富裕層の男を時間ギャングから助けます。男は長く生きることの苦しみを話し、サラスに余命116年を与え、自ら寿命をタイム・アップさせてしまいます。一方サラスの母親(オリヴィア・ワイルド)は、予定していたバス料金(時間)の値上げで乗ることができず、サラスの目前で時間が尽きてしまうのです。

サラスは、富裕層に対する憎しみが増し、彼らの住むグリニッジと呼ばれる地域に向かいます。賭博場で大富豪のフィリップ・ワイス(ヴィンセント・カーシーザー)からポーカーで数世紀分の時間を勝ち取りますが、スラムで死んだ男に対する殺人容疑でタイムキーパー(警察のような役目を持つ時間監視員)のレイモンド・レオン(キリアン・マーフィー)に逮捕されそうになり、ワイスの娘であるシルヴィア(アマンダ・サイフリッド)を人質にして逃亡しました。

何不自由ない暮らしをしてきたシルヴィアも、特別な目的も見いだせず長寿が保証されている自分に疑問を持っていました。1日分の命のために必死になっているサラスたちの生き方にしだいに共感するのです。

二人は、一緒になって父親の時間銀行を襲撃し、スラムの人々に時間をばらまくようになります。そして、ついに父親の金庫室から100万年分の時間を強奪し、ついに命の時間システムが崩壊する可能性を引き出したのでした。

寿命をお金のように使うという発想自体はなかなか興味深く、スラムの人口が増えると物価を吊り上げ、払いきれない者が多く死ぬようにするシステムというのは恐ろしい。

しかし、母親の自分も娘も誰もが25歳で外見がストップするというのは、どうもピンとこない。富裕層は実質的に不老不死なので、富裕層の人口もどんどん増える一方で、むしろ社会的に問題なのはそっちじゃないかと思ってしまいます。

社会に反抗して犯罪に手を染める男女というのは、「ボニーとクライド」を思い出します。中盤で警察の一斉射撃を受けるシーンもあったりして、おそらくある種のオマージュなのかなと。ただ、そのにしては二人の行動は安易で、お気楽な印象は拭えません。

むしろ、スラム出身でタイム・キーパーになったレイモンドの方が、いろいろな葛藤もあるでしょうし、自分の時間を確保するより捜査を優先する実直なところが興味深く、そのために最後、サラスを目前に死んでしまうのはちょっと気の毒な感じです。

まぁ、悪い映画ではありませんが、作り込みが甘い感じは否めない。時間という制約の中での犯罪物以上とは言い難く、もう少し、人の命の価値について深く切り込んだ内容が欲しい所でしょうか。


2021年9月1日水曜日

新学期


昭和のこどもにとっては、9月1日は新学期の始まり。夏休みで真っ黒に日焼けしたともだちと再会して、教室はワイワイ・ガヤガヤとなるものでした。

まだ、学校にエアコンなんて考えもしなかった時代ですから、9月とは言えまだまだ暑い。何とか間に合わせた夏休みの宿題を提出したら、早々に汗だくの教室からは退散です。

小学校の担任の先生は、渡部先生、栗原先生、菅原先生、桑島先生・・・けっこう名前は憶えているものです。1クラス30人、学年2クラスしかなかったので、みんな知り合い、ともだちでした。

あの頃は・・・今から考えれば、まだまだ日本は「後進国」だったかもしれませんが、世界に追いつき追い越そうという活気がありました。もちろんその中で、今では嘘みたいな話の「公害」という問題もあった。

実際、自分がこども時は、車が通りすぎる時は息をとめていたものです。あちこちで工事をしているので、神風ダンプが走り回っていて、なおさら排気ガスがすごかった。

話がそれましたが、横浜市では8月24日から開始の予定が感染者増加により今日から2学期です。たった1週間の延長にどれほど意味があるのか・・・

とにもかくにも新学期。コロナ渦の影響で、いろいろと楽しいことが制限された中で、物凄いことは期待しませんが、当たり前の思い出になるような新学期が迎えられることを祈ります。