2018年2月28日水曜日

古代終焉 (6) 荘園制度の確立


日本史の時代区分では、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、ヤマト王権が台頭する古墳時代、そして国家として確立する飛鳥時代までが古事記や日本書紀の範囲であり、史料も少なく考古学と合わせて考証する必要があります。実質的に古代と呼べるのはこの辺りまでとするのが妥当に思いますが、さらに奈良時代と平安時代半ばまでが古代の範疇に入っているのは、古代の次の中世が荘園制度を基盤とする社会と定義されているからです。ですから、そもそも荘園とはどんなものか理解しておかないと、古代の終点、中世の始まりがはっきりしません。


荘園は、時の政権の公的支配を受けない私的所有・経営の土地のことで、特にヨーロッパではいろいろな権限が領主に集中していました。中国、朝鮮でも荘園制度があり、それぞれの国情による差はあるものの、同じ頃に同じような制度が存在したことはなかなか面白い。

日本での荘園制度については、当然話は古代に遡らないといけません。弥生時代に入って農耕文化が根付いてくると、生産のコントロールが始まり、貧富の差が生じます。その中心人物が「王」として、小さな「国」があちこちに多数形成され始めました。彼らは後に「豪族」と呼ばれ、民衆を直接に支配していくわけですが、その中の一つが次第に勢力を拡大しヤマト王権となり、小国を統合支配していきます。

7世紀半ばの孝徳天皇の時代、実質的に政治運営を行った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともに、大化の改新と呼ばれる一連の政策を続けざまに行いました。この時に、戸籍・計帳・班田収授法をつくれというのがあり、豪族による民衆・土地の直接支配を否定し、初めて国家が管理運営する制度を発足させたことになります。

しかし、奈良時代に入り、人口の増加、田畑地不足から次第に班田収授法は次第に運用が難しくなっていきました。723年に開墾推進のため三世一身法が発布され、期限開墾した農地は三代まで私有が認めらましたが、期限付きなので実効性はありませんでした。743年には、期限を撤廃した墾田永年私財法を発布し、力を持った貴族・大寺社・地方の富豪が積極的な開墾を行い、実質的な私有地を持ち初期荘園と呼ばれるようになります。

10世紀になり、班田収授は実質的には行われなくなり、初期荘園の監督は地方行政に任せられるようになります。地方行政長官の役割を担う国司は、力を持つようになり、初期荘園の納税義務を免除したり、逆に一定の徴税を確保するために土地を取り上げたりするようになります。

11世紀には、中央の有力者へ土地を寄進する荘園が増え有力者への土地集中が起こると、租税免除、官吏の立ち入りを拒否する権利なども発生し、国家所有地と私有地の割合は半々になります。1069年に後三条天皇により荘園整理令が出され、厳密な審査が行われ、違法な手続きによる土地所有を摘発しましたが、一方で公的に認められる荘園制度を確立することにつながります。

2018年2月27日火曜日

平昌冬季オリンピック


冬季オリンピックが終了しました(もちろん、パラリンピックはこれからですが)。

始まる前は、開催国の韓国が北朝鮮と急接近する姿勢が何かと問題にされ、またロシアの集団的ドーピングの件もあり政治色の強いオリンピックと心配されました。

実際、始まってみると、選手たちの一人一人の頑張りは、そういう余計な危惧を吹き飛ばしてくれたようで、十分に楽しませてくれました。

終わってみれば、日本は冬季五輪で過去最高のメダル数を獲得し大成功でした。もちろん、メダルを狙えるロシアの公式参加がないことは差し引いて考えないといけません。

今回は隣の韓国での開催だったので時間差がなく、極端な早起きや夜更かしをしなくて済んだのはよかったのですが、逆に日中の仕事中の競技が多くて、けっこうテレビ観戦には苦労しました。

特にフィギュアスケートは、アメリカが放送権を持っていたせいで、朝から始まるという変則的な試合時間でした。日本人選手の登場は遅くて、お昼過ぎが多かったのですが、ぎりぎりクリニックの昼休みにかかるかどうかでやきもきしました。

各種競技でワールドカップが行われるようになり、商業主義がまかり通るようになったオリンピックの存在意義についてはいろいろと議論が多い所ですが、多くの国、多くの競技が一堂に会する機会としては代わるべきものがありません。

メダルには金銀銅の3つのランクがありますが、ワールドカップなら金とそれ以外では随分と価値が違うような感じがしますが、不思議とオリンピックではどのメダルでも獲得したことに賛辞が贈られます。

葛西選手のような「例外」もありますが、スポーツは基本的に若者が主役です。日本の若者たちの活躍は、高齢化の進む日本ですが、大袈裟ですが未来への希望みたいなものを感じさせてくれました。

出場した選手の皆さん、入賞したしないにかかわらず本当にご苦労様でした。皆さんの活躍は、人々を元気にして、何となく日々を頑張ろうという気持ちにさせてくれました。

2018年2月26日月曜日

古代終焉 (5) 形骸化していく天皇


薬子の乱が落ち着き、いよいよ平安京が始動しました。第52代嵯峨天皇は桓武天皇の第2皇子で、文人としての才能に秀でていました。嵯峨天皇、空海、そして橘逸勢は三大名筆家として有名です。天皇を囲んだ詩文が盛んになり、宮廷はサロンのようだったと言われています。遊行も好み、あちこちに出向いてその時々の式の景観を楽しんだようです。

嵯峨天皇は、自分のこどもたちに姓は朝臣、源(みなもと)を名乗らせます。独立させることで、朝廷の費用節約効果を狙ったわけですが、これが後の源氏の始まりとされています。天皇は、823年に弟である大伴親王に譲位し、お気に入りだった嵯峨院に移り842年に嵯峨上皇として亡くなりました。

桓武天皇の第3皇子であった大伴親王は、第53代淳和天皇として即位しました。このあたりから皇位継承の順位の決め方は複雑で、理解の範囲を超えてしまいます。淳和天皇は、皇后のこどもであった平城・嵯峨天皇とは母親が違う。そして、第1皇子である恒世親王は、淳和天皇の皇后の子ではありません。そこへ、第2皇子として皇后が恒貞親王を産みます。ところが、恒世親王の方が桓武天皇に最も近いらしい。

いずれにしても親を飛び越して恒世親王を天皇に即位させられないため、淳和天皇に順番が回ってきたということらしく、当初は淳和天皇は桓武上皇が亡くなったときに面倒を避けるために臣下降格を願い出ていました。しかし、嵯峨上皇はこれを認めませんでした。結局、即位した淳和天皇は、恒世親王を皇太子に立てますが、即日、本人が辞退してしまいます。そこで、嵯峨上皇の子である正良親王が立太子しました。

833年、天皇は正良親王に譲位しようとしますが、またもや本人が嫌がってしまうという事態に陥ります。しかし、桓武天皇以来仕えている右大臣、北家の藤原冬嗣の勢いは無視できないほど強く、正良親王は冬嗣の娘を妃とし、さらに道康親王をもうけている以上、それ以外の選択肢はありませんでした。

正良親王は嫌々即位し第54代仁明天皇となり、淳和天皇の第1皇子だった恒世親王は数年前に若くして病死していたので、第2皇子の恒貞親王を皇太子に立てます。しかし、直後に承和の変が発生し廃太子され、道康親王があらためて皇太子になりました。これは、冬嗣の息子の良房が、平城天皇の息子である阿保親王をたき付けて起こさせてものらしく、橘逸勢らがクーデターを計画したというもので、恒貞親王は濡れ衣の巻き添えだったようです。850年に天皇は病没し、道康親王がただちに第55代文徳天皇として即位しました。

文徳天皇には、紀氏系の妃が産んだ惟喬親王が第一皇子でしたが、藤原良房の娘も天皇即位の年に第2皇子として惟仁親王を産みました。結局、藤原北家に逆らえなくなっていた天皇は生後9か月の惟仁親王を皇太子とし、良房は太政大臣に昇格します。

もう、藤原家の勢いを抑えることはできません。天皇のそばには藤原家の娘を大量に送り込み、右大臣には良房の弟、良好が就きます。そして、この時期に多くの皇位継承の可能性のある親王が出家しているのも、ただの偶然とは思えません。

858年、文徳天皇が亡くなり惟仁親王が第56代清和天皇として即位しましたが、この時わずか8歳でした。当然、藤原良房が摂政の位置に入り完全に実権を掌握します。866年には応天門の変が発生します。大内裏八省院の正面の応天門が焼失したのは、左大臣源信の仕業であると大納言大伴善男が訴えましたが、虚言だとされ逆に大伴氏、それを助けたとされる紀氏が中央から退かされ、源信も以後は表舞台からは消えてしまいました。

872年、藤原良房は亡くなりますが、その地位は良房の兄である長良の息子で、良房の養子になった基経が継いでいきます。天皇は、876年にわずか27歳で、妃の一人である長良の娘の高子が産んだ9歳の貞明皇子に譲位し4年後に亡くなりました。もはや、天皇は実質的な権力は何も持たない存在であり、藤原家が権力の主座に座り、藤原氏の手の中で転がされているだけの存在となっていました。

2018年2月25日日曜日

古代終焉 (4) 最澄と空海


多くの日本人が「自分は無宗教」だと思っているそうですが、現実には神道や仏教は生活の中の基本的な思想を作り上げるのに大きく関与していることは否定できません。そもそも、大多数の人は「初詣」に行って神に、そして墓参りをして仏・先祖に手を合わせています。

まずは、日本の仏教の歴史をごくごく簡単におさらいしましょう。

仏教は、釈迦によって紀元前450年頃のインドで始まり、中国・朝鮮を経由して渡来した人々により日本に伝わりました。本当の最初がいつだったかは、当然不明。公式には、6世紀なかばの欽明天皇の時代に、百済の聖明王から仏像・経典が送られてきたのが始まりとされます。

神事に携わる役目についていた豪族(物部氏、中臣氏)は新興の宗教に対しては否定的な立場であり、一方蘇我氏は積極的に受容を推進し、しばらくは皇位継承とも絡んで両者のせめぎあいが続きます。しかし、推古天皇の時代になって、厩戸皇子、蘇我馬子ら崇仏派が圧倒的な力を持ち、ついに朝廷内での優位が明確化しました。

8世紀になって、聖武天皇は、仏教の拡大を積極的に進めました。全国に広めるため、全国に国分寺・国分尼寺を創設し、また東大寺大仏造営を行いました。急速な拡大は、僧不足という問題を引き起こし、なんちゃって僧が増えてしまいます。そこで、中国から鑑真を招き戒律の教えを受け、僧になるための制度を整えます。

仏教の力が拡大するにつれ、朝廷に対しても物事を左右する力を持ち出し、鑑真死去後に代わって登場した道鏡は孝謙上皇を操り自ら「天皇」になろうとまでしました。桓武天皇は、反対勢力をそぎ落とす目的で遷都を行った際、仏教の肥大化した力も良しとせず、既存の寺院の新都への移転を認めませんでした。長岡を経て平安京で、新たな寺院を建立し、いよいよ国民全体への仏教普及が本格化する平安時代になりました。

さて、ここで登場するのが、現在でも仏教界のスーパースターとして尊敬され続けている二人の僧、比叡山を本拠に日本の天台宗の開祖である最澄、そして高野山を本拠に真言密教の開祖である空海です。

二人は同時代人であり、同じ時の遣唐使船に乗り中国で修業を行い、帰国後にそれぞれが仏教の普及に尽力し、そして対立もしたことで対比されて論じられる機会が多い。

766年、最澄は近江で比較的裕福な家の子として生まれました。この年は道鏡が法王になり、全盛を迎えた年です。12歳で出家し、14歳で得度し僧侶となりました。19歳で東大寺で受戒し、朝廷が認める正式な僧になります。これで平城京での地位が約束されたにもかかわらず、その数か月後には比叡山に入りました。

人を導くためには、六根清浄(目・耳・鼻・舌・身・意が清らかなこと)の達成、仏法真理の解明、戒律を守り執着を絶つ必要があり、その修業のための入山であり、その結果得た功徳を広く世の人々に施すことを自ら書き記しています。当時の制度化した僧侶制度のもとで、僧になることだけが目的になっていて、世俗化した官僚的な僧が多かったことに対する反発があったことは間違いありません。

霊山に籠り寝食を惜しんで修業を行う最澄は、先達と仰がれ少しずつ仲間が増えていきました。また、いろいろな仏典を集め研究しているうちに、もともと鑑真が持ち込んだとされる天台宗に出会い自分の進むべき道を見出しました。

794年、桓武天皇が平安遷都を行うと、比叡山のことは天皇の知るところとなり、797年に天皇の身辺の諸事のために尽くす10人の内供禅師(ないぐぜんじ)の一人に任じられました。理想だけでは志を実現できないことも理解していた最澄にとっては、天台宗を広めるための絶好の機会を得たということです。定期的な勉強会を開催し、従来の宗派の僧侶たちへも講義を行い、ついに桓武天皇より許されて804年に遣唐使船に乗り込むことができました。

中国で天台宗本山で勉強した最澄は、1年に満たない期間でしたが、修業を認められ、密教と禅の戒律も学び翌年に帰国しました。翌年には、従来の各宗派の分担を改革することに成功しますが、この年、最大の庇護者であった桓武天皇が亡くなりました。

一方、空海は774年に香川に生まれ、幼少から読み書きに秀でており、15歳で都(長岡京)に出て官吏になる勉強を始めます。しかし、ある僧(誰かは不明)との出会いから密教に傾倒し、19歳で大学を辞め、公的制度とは関係ない私度僧として畿内や四国での山岳修行を始めます。何らかの開眼をした空海は、24歳の時に初めての仏教についての書物を著します。その後「空白の7年間」と呼ばれる時期がありますが、おそらく平城旧京であらゆる仏教経典を勉強し、804年、30歳で東大寺で受戒、正式な僧侶になりました。

空海は僧侶になりたてでまったくの若僧であり、理由は謎とされていますが、最澄と同じ遣唐使船団の船に乗ることができました。遣唐使として政府からの公式派遣だった最澄と違い、空海は基本的に私費留学でした。空海の乗った船は、やっとのことで唐に着きますが、長安の都についたのは日本を出て半年後のことでした。

空海は中国密教を確立した恵果の下で学び、異例の速さでその極意を伝授されました。そして806年に、今まで日本には伝わっていなかった大量の経典などとともに帰国すると、809年に平安京に入り、密教の伝道者として急速に頭角を現したのですが、これは「薬子の変」で天皇側について唐風文化を好んだ嵯峨天皇の信認を得たことが大きいようです。

密教についても唐で学んだ最澄は、台頭してきた密教スペシャリストの空海に対して身を低くして教えを乞いました。空海から借りた書物を勉強し、法の伝授の儀式を受けています。

しかし、実は根本的な部分で二人の密教の解釈は異なっていました。最澄は、いろいろな考え方を取り込み最も優れた仏教である天台宗へ統合していくことが目的で、密教も無視できない含有されるものの一つと考えていました。しかし、空海は、密教は通常の大乗仏教と一線を画すより優れた仏法であると考えていたことが決定的な差になっています。

最澄は、そもそものスタートから「万人が仏性を宿した尊い存在で仏になれる」とし「法華経」が真理の教えとしています。空海は、密教以外は言葉で説いた釈迦の教えであり、密教は仏の悟りであり言葉にできないものであり、何かと経典を借りて読みたがる最澄の姿勢に対しては疑問を持っていたようです。最終的には経典を貸すことを止めたことで、最澄との関係に亀裂が入りました。そして、密教を学ばせるために空海の元に派遣した最澄の弟子が、再三の要請に応ぜず空海の弟子になりきってしまったことで、完全に決裂したようです。

最澄は、それまで3か所しかなかった戒壇院(正式な僧侶になるための受戒をする場所)を4か所目として比叡山に作るように働きかけを始めました。しかも、出家・得度の過程が無くても仏の道に進みたいと思う誰にでも受戒をできるようにするというものでした。しかし、その許可が下りる直前の822年に56歳の生涯を終えます。

空海はその後に、平安京の東寺、平城京の東大寺に修行道場を開設し、高野山に念願の本拠地造営に着手します。人間は死後に仏になるという通常の仏教の教えと異なり、空海は生きた身のまま修行により仏になれる(即身成仏)と説き、835年、自ら一切の食事をとらず永遠の禅定に入り(入定)、約2か月後に62歳で亡くなりました。弘法大師の諡号は、921年に醍醐天皇より送られたものです。

2018年2月24日土曜日

Bluetoothが切れやすい


なにも、Bluetoothが短気で怒りっぽいわけじゃない。

Bluetoothはデジタル機器の無線接続規格の一つで、2000年頃から知られるようになり、近距離で常時接続する比較的速度は遅くてもかまわないものに向いているといわれています。

最近は、何でもBluetooth接続になり、各社の独自のワイヤレス・レシーバーを別個に用意する必要が少なくなりました。

ノートPCなどでは、USBの接続口の個数が限られるので、できるだけBluetoothで繋ぐ方が便利だったりします。

デスクトップでも、キーボードやマウスは一度無線に慣れてしまうと、有線は使いたくなくなるので、利用価値があります。

ところが、BluetoothのマウスやキーボードをPCで使おうと思うと、ちよっと時間がたつと接続がすぐに切れてしまい、次に動かしたときになかなか反応しなくていらいらするということはよくあります。

また、接続も必ずしも安定していなくて、一度ペアリングに成功して接続が登録されているのに、次にPCの電源を入れたときに自動で接続されないことも珍しくありません。

これは、しょうがないので、一度デバイスを削除して再登録するしかありません。

使用中に途切れてしまうのは、けっこう困ることが多い。原因はいろいろ考えられますが、多くの場合、PCでは省エネの目的でデバイスの電源をオフにする設定があるのが原因です。

マウスやキーボードについては、この設定を変えることで、たいてい無事に使うことができるので、あらたなPCを使い始めるときには、必ず確認した方がよさそうです。

デバイス・マネージャーを開き、Bluetoothの項目の中から"Generic Bluetooth Radio"または、それに準ずるもののプロパティを開きます。

電源の管理というタブがあるので、そこから「電力節約のためコンピュータでこのデバイスの電源をオフにできるようにする」の□のチェックを外すだけです。

たぶん、ほとんどの場合はこれでOK。ただ、毎月のように新しいPCに触れるわけではないので、いつも忘れていてイライラして、あっ、そうだったと気が付くの繰り返しなんですよね。


2018年2月23日金曜日

ナンとカレー


ドライブの途中で見つけたお昼ご飯。

何とカレーが入っているナンです。

カレーパンみたいなものなんです。

ナンはカレーにつけて食べるのが定番・・・なんで、一緒にしちゃったという発想はわかる。

・・・なんですが、カレーパンのいいところは、外はカリカリ、中はふにゃふにゃ。

これは、外もふにゃふにゃなんです。

う~ん、味は悪くないのですが、カレーそのものがソースだけで具がほぼ無いし。

というわけで、イマイチなんで、どこに売っていたかは書けません。

偶然発見したら食べてみてください。

2018年2月22日木曜日

更科 @ すすき野


近いので一番よく利用する蕎麦屋が、横浜市青葉区すすき野にある更科です。

いわゆる、こだわりの手打ちの名店とかではない街の普通の店ですが、毎度登場するだけの「バカにできない」旨さがあります。

まず、更科というだけあって、蕎麦の実を磨き上げた「吟醸」作りの白い麺が美味しい。細くてもしっかりとしたこしを感じます。

そして、冷たくても温かくても汁が絶品です。昆布・鰹中心の当たり前の出汁なんでしょうが、醤油と砂糖のバランスが最高です。ついつい飲み干したくなる。

今回は、あまり注文したことがないのにしようと・・・鴨汁つけそばにしてみました。

せいろについては文句なし。ポイントは「鴨汁」です。当然、ちゃんと鴨肉が入っています。香りを引き立てるため、汁は温かくしてあります。

大変美味しくいただきました。ただ、強いて言うなら、ざっくり切った焼いた長葱も入っていたら・・・最高です!!

2018年2月21日水曜日

古代終焉 (3) 平安京を棄てろ


時の天皇の息子は「箱入り」で育てられるのは当然ですし、ましてや774年に生まれから病弱ともなれば、桓武天皇の息子、安殿(あて)親王はかつての平城京で大切に育てられたことでしょう。長岡京に移り、安殿親王は785年に立太子します。

当時、天皇や皇太子の護衛についていた、今でいうSPみたいな役職が帯刀舎人です。793年に、桓武天皇の帯刀舎人が皇太子の帯刀舎人に殺された事件があり、天皇は激怒して犯人を捜索・処刑しています。事件は、安殿親王がやらせたという噂ありと、わざわざ日本後紀には書かれています。

桓武天皇も、女性に対してはけっこう出自を気にせず妃にしてしまう方だったようですが、皇太子も親を見て育ちますから似た様だったみたいです。新しい宮仕えの娘に伴ってやってきた母親の色香にやられてしまいました。その人物こそが、桓武天皇の右腕、長岡京造営責任者であった藤原種継の娘、薬子(くすこ)でした。

薬子は生年不詳で、当時何歳だったのかはわかりませんが、すでに既婚者で5人のこどもを生んでいたようですから、若くても20歳代後半だと思います。おそらく皇太子は二十歳前後。この関係には、さすがに桓武天皇はダメだしをして、薬子を皇太子の起居する東宮から追放しました。

805年、桓武天皇は体調を崩し、自分の余命を覚悟します。後事を託すため皇太子と政府重鎮を呼び出しました。しかし、安殿皇太子は当初これを拒否して参内せず、周囲から説得されてしぶしぶ出かけた様です。そして翌年桓武天皇崩御により、第51代の平城(へいぜい)天皇として即位しました。平安京になったのに、なんで平城に戻った諡号なのか不思議ですが、それには深い理由がありました。

とりあえず、新天皇は政治には意欲的に取り組む姿勢をみせたのですが、自由になって薬子を宮に呼び戻し、薬子の夫を九州へ左遷したことで話は歪んだ方向へ進み始めます。この頃、続日本紀には種継暗殺の記述は削除されていたのですが、薬子の意向もあって平城天皇はこれを復活させました。

種継暗殺および早良親王廃太子のエピソードは、祟りとなって様々な凶事の根源にあると考えられたため、桓武天皇は早良親王に祟道天皇という敬称を与え、追善法要を行い、そして続日本紀の記述を削除していたのです。薬子からすれば、父親の業績が抹殺された思いだったのでしょうし、平城天皇からしても自分の皇位継承の妥当性を明らかにするための記述の復活だと考えられています。

薬子にすれば、天皇の皇太子時代に引き離され、父の業績の記録は消され、そして何よりも父が命を懸けた長岡京が棄てられたことにより、桓武天皇に対しての恨みは相当な大きさになっていたのだろうと想像できます。

808年、天皇の弟の一人であった伊予親王が、藤原北家の藤原宗成に謀反を勧められます。このことは密告により露見し、首謀者とされた伊予親王は母共々幽閉され抹殺されました。これは藤原式家の薬子、その兄である仲成の陰謀だったようです。翌年、病弱な平城天皇はわずか34歳、在位3年ちょっとで薬子の反対を押し切って弟の神野皇子に譲位し、平城上皇となって平城京に移り引退したかのように見えました。

即位した第52代嵯峨天皇は、当初平城上皇にだいぶ気を遣っていたようで、平城上皇の高岳親王を皇太子に立てています。しかし、平城上皇の政策の見直しから対立が始まり、810年に、ついに平城上皇は「貴族たちは、平安京を棄てて、皆平城京に戻れ」と平城京還都の詔を出しました。

嵯峨天皇は、還都に従う態で自分の腹心である坂上田村麻呂らを平城京に派遣し、まず藤原仲成を捕らえ追放・処刑、薬子の官位を剥奪します。これに対し、平成上皇はついに挙兵し力づくでの皇位重祚を画策しますが、素早い嵯峨天皇の対応に万事休す。上皇は剃髪して出家、薬子は服毒し自害、高岳親王は廃太子されました。

この一連の流れは、「薬子の乱」と呼ばれます。嵯峨天皇は、続日本紀から再び種継暗殺の経過を削除しました。平城上皇は、その後についてはほとんどわかりませんが、824年にひっそりと亡くなりました。

鴨長明は「方丈記」の中で、「大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにける」と書いています。つまり、平安京が都として定まったのはこれらの事件の後からという認識でしょう。悠久の古都は、やっとスタートについたということです。

2018年2月20日火曜日

雨水


雨水は、気温が上昇してくるのにつれて、雪が雨に変わってくる頃ということ。

山々では雪解け水が増えだすので、川の水量が増してきて、農耕を始めるのに適した時期になった知らせとなります。

今年は北陸を中心に大雪が続き、いろいろな記録を塗り替えていますので、大変な地域では、まだまだそんな雰囲気ではないかもしれません。

首都圏では、今日あたりにまた雪が降るという天気予報でしたが、近づくにつれて結局雨か曇りに変わりました。

朝の冷え込みは多少緩んできていて、手袋は無くてもいいかなと思えるくらいになっています。いろいろなところで、冬の終わりを感じるようになってきました。

ついこの前、蕾だった盆栽の梅も数日前に開花して、見頃を迎えてきました。

2018年2月19日月曜日

古代終焉 (2) 平安京遷都と藤原氏


桓武天皇は、即位と同時に皇太子にしていた弟の早良親王を、藤原種継暗殺に連座したとして流刑に処し憤死させました。そして新たに立太子したのは、自分の長男である安殿親王でしたが、その時まだ12歳。

遂に長岡京棄都を決断し巻き直しを図る桓武天皇は、平安京の造営に対しては積極的でした。ただでさえ今までになく長期にわたり都として栄えた平城京を棄都しただけでも、かなりの軋轢が生じていただろうところへ、10年と経たずにさらに長岡を放棄するというのですから、天皇自らの強権を発動させるためには当然だったのかもしれません。

そして794年に桓武天皇は詔の中で、「自然の地形に守られたこの場所は、平安が続く都にふさわしい」と延べ遷都を敢行しました。ただ、そのど真ん中を東西に分ける大きな賀茂川があるのは、長岡でも水害に悩まされた経験からも、水路は必要ではあるが困りました。

現在の京都の地図を見ると、二条城のすぐ東を北から南へまっすぐ細い堀川が通っていますが、実は、これが本来の賀茂川の流れで大方を埋めて流れを人為的に東寄りに移動させたもの。当時の技術からしても、相当大きな土木工事だったと思われます。遷都後の都完成を推進するための機関として組織されたのが「造営吏」で、そこに登場してくるのが和気清麻呂、菅野真道らの重要官僚たちでした。また秦氏、物部氏らの氏族も技術系集団として登用されています。

ここで、少し藤原家のことを整理しておきたいと思います。藤原家といえば、その祖は中臣鎌足。中大兄皇子、後の天智天皇の最大の参謀でした。亡くなる直前に藤原姓を天智天皇からもらったことから始まります。

鎌足の次男の不比等が藤原家を継ぎ、文武天皇からは不比等直系のみが藤原姓を名乗ってよいとされました。娘の宮子は文武天皇夫人で、聖武天皇の母親です。不比等には4人の男子がいて、武智麻呂が南家、房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家として藤原四家を興します。しかし、四人とも737年の天然痘の流行で相次いで亡くなりました。

南家の武智麻呂の次男、仲麻呂は、力をつけて孝謙天皇の最大の片腕となり、孝謙天皇も仲麻呂私邸に住むようになりました。聖武上皇崩御により、天武系皇太子の道祖王を廃して大炊王を皇太子にしたのは仲麻呂の暗躍によるものです。757年、橘奈良麻呂の乱では、殺される対象にされました。その後、孝謙天皇は道鏡にのめりこんでしまい、764年、自ら藤原仲麻呂の乱をおこしますが失敗し斬首されました。

式家長男の広嗣は、次第に反藤原勢力が台頭してきたことで、740年に反乱を起こし処刑されました。次男の良嗣は、兄に連座して一度流刑になりましたが、数年後に許され地方官僚に回されます。762年、当時最も力を持っていた南家の仲麻呂暗殺計画が露呈し失脚しました。

そして八男が百川で、天智系の光仁天皇即位の裏でかなり暗躍したらしい。772年、光仁天皇が井上内親王の廃皇后、他戸親王の廃太子し、翌年、山部親王、後の桓武天皇を立太子したのも、すべて百川が裏で天皇を操ったといわれています。長女、旅子は桓武天皇夫人になり、次女、帯子は安殿親王皇后になっています。

三男清成の息子が、長岡京造営最高責任者で暗殺された種継です。桓武天皇の信頼が厚く、天武系を切り捨てるために長岡遷都を進言しました。長男は仲成、娘に薬子がいます。薬子は自分の娘が安殿親王の妃になった時に、一緒に宮仕えに上がったところ、安殿親王の寵愛を受けることになり、これに合わせて兄の仲成も出世しかなり傲慢な振る舞いをしたようです。ここで、仲成、薬子にとって父親の種継が命を懸けた長岡京から平安京遷都はかなりのショックだっただろうということが後の事件の伏線です。

2018年2月18日日曜日

King of Ice


平昌冬季オリンピックが開幕して1週間。前半最後の華、男子フィギュアスケートで、日本の羽生結弦選手が金メダルを獲得し、ソチでの前大会に続いて2連覇を達成しました。

もう、散々言われていることですから、あらためてここに書くほどのことはありませんが、ケガのために出場すら危ぶまれ、ぶっつけ本番で臨んだ大会での結果ですから、驚異としか言えません。

心より祝福します。日本人として誇りに思えます。

整形外科医として、別の視点から羽生選手のケガについて考えてみます。

メディアで報道されているケガは「足首の靭帯損傷」というもの。足首の靭帯損傷というのは、軽い言葉で言えば「捻挫」のこと。一番多いのは足を内側に捻ってしまうことで、外くるぶしから前下方向に向かう靭帯を伸ばして傷めます。

靭帯を少し伸ばしただけというものだけではなく、靭帯が断裂するもの、あるいは靭帯付着部の骨の剥離骨折を伴うものなど、いろいろなパターンがある。

ところが、足首は比較的安定度が高い関節なので、痛みが我慢できるなら平地を歩く分には何とかなることが多いので、けっこう無理してしまう人が多いケガです。

捻挫でも、ギプスを巻いて固定し、松葉杖で体重をかけないようにして3週間我慢してもらえるなら、重症の捻挫でも歩行についてはほぼ問題ないくらいに回復します。

しかし、スケートではジャンプを中心に足にかける力は相当強いはずですから、それに耐える程度に回復するにはさらに数週間は必要だろうと思います。

ケガをした時の映像を見ると、ジャンプの後、着氷の角度がややつきすぎたのか、エッジが引っかかって滑らなかったのか、ケガをした右足を捻っていることは間違いない。

スケートシューズは足首を保護できるようになっているはずですが、より大きく高くジャンプするために、足首の自由度を損ねないようなシューズを使っているのかもしれません。もしもそうなら、高得点とリスクは表裏一体ということです。

2か月間まったくスケーティングしなかったそうですから、靭帯損傷ではなく、外くるぶしの骨折だったのかもしれません。

スケート選手にとって、長期間氷に立たないということは、おそらく最も苦痛なことでしょうけど、完全に治すにはどうしても時間が必要です。

ですから、これは最良の選択で、ちょっとよくなったからと早くにスケートを再開していたら、いつまでも痛みが続いて結果はついてこなかっただろうと思います。

実際、スポーツのケガで、目の前のやりたいことを我慢できずに無理して痛みを長引かせるお子さんは多い。また、それを頑張りと評価してむしろ無理させてしまう親御さんもいます。

レクリエーション、あるいはアマチュアのレベルなら、それもいいかもしれません。しかし、それなりの結果をきちんと出したいと本気で思っているなら、まずケガをしっかり治すということを優先すべきということを、今回の羽生選手のケースでも見えて来たと思います。

羽生選手が登場して以降、男子フィギュアは300点以上が当たり前になり、4回転ジャンプは当たり前になりました。その流れはたかだか数年間のことです。

羽生選手は、フィギュアスケートの残っていた伸びしろを発見し解放した先駆者の一人であり、そしてそれを実践して進化させた唯一のスケーターと言えます。

技術的な面だけでなく、精神的なことも含めて、まさに"King of Ice"の称号に相応しい存在になったと日本人だけでなく、世界中が認めた今回の大会でした。

2018年2月17日土曜日

お伊勢橋


港北ニュータウンから江田駅に向かって行くと、国道246号のすぐ手前に「お伊勢橋」という歩道橋があります。

この写真では、正面に246、その向こうが駅です。

なんで、こんな名前なのかと以前より多少は疑問に思っていました。実は、もともとは両側は山でその切通がこの道になったもの。

山から山へ渡るための橋だったわけですが、この橋を右から左にわたった先に伊勢社という神社がありました。

現在は荏田総鎮守である劔神社合祀されたため、伊勢社は無くなってしまったのですが、その名残りとして橋があるというわけらしい。

たまプラーザ駅近く、ちょっと南に行ったところにも伊勢社があり、こちらは今でも健在。他にも全国各地に伊勢社はあるようで、日本全体を見守る伊勢神宮の天照大神に対して、狭い地域を守る村の鎮守として大切にされてきたということですね。


2018年2月16日金曜日

古代終焉 (1) 長岡京遷都と棄都の謎


続日本紀は、桓武天皇の治世の途中で終了してしまいます。その続きは日本後紀、続日本後紀に記録されていくわけですが、ほぼ一般向けの書物はないに等しい。実質的には平安時代になるわけで、通常の歴史書か、平安時代の様々なテーマに沿ったものならたくさんありますが、ここまでの天皇を中心とした「国史」を手軽に勉強するのはなかなか難しい。

実際のところ、日本後紀は編集に携わった藤原緒継による「序」が存在するにも関わらず、第1~4巻が現存せず、あるのは第5巻から。そのため長岡から平安遷都にまつわる、多くのあったはずのごたごたが記録にありません。意図的な削除の可能性も否定できません。

それでも、ここまで来ると、さらにこの先はどうなったのか興味津々で、何とかあらすじだけでも追っかけてみたい気持ちがおさまりません。実際、古代から中世への切り替わりは、平安時代の荘園制度がポイント。続日本紀が終わっただけでは、まだ古代を制覇したとは言えないわけです。そこで、いくつかの資料を参考にしながら、もう少し歴史を追いかけてみたいと思います。

続日本紀の最後のエピソードとかぶりますが、長岡京についてのいくつかの問題点を整理するところから始めてみたいと思います。

桓武天皇は782年に「冗官整理の詔」し呼ばれる勅を宣じ、その内容は「官民疲弊しているので宮殿造営はやめ、倹約し蓄えを増やそう。今の暮らしに不足は無い」というものでした。

ところが、784年には長岡京造営を開始し、半年を待たず遷都を敢行したことは、先の詔で述べたことと相反する思うのが当然で、歴史学者からも謎の一つとされています。しかも、大急ぎでばたばたと未完の家に引越しする様は、まるで夜逃げのようだとも言われています。

しかし、詔の内容は、あくまでも平城京についてはこれ以上金をかけることはしないという宣言であって、逆に平城京は捨てる、遷都するぞという意気込みの表れというように解釈できるものです。

784年は六十年干支が一巡してスタートの年である甲子の年で、物事がうまく始まる最良のタイミングと考えられていました。この年を逃すことなく、天武系の色濃い平城京にかわる天智系の新しい都を作り出すことは、天智天皇の曾孫にあたる桓武天皇にとっては大きな意味を持っていたと考えられます。

地理的な要因として、淀川に隣接しているところが重視されたようです。瀬戸内海に直接出れることは平城京にはできないことで、この利便性は経済効率の良い都運営を可能にします。長岡京の突貫工事に際しては、難波京の建物が解体・移設されたそうです。

しかし、長岡京造営は簡単にはいきません。遷都翌年、まだ工事が続く中で、藤原種継が暗殺されました。種継は長岡京造営工事の最高責任者で、この事件により都完成の遅れは必至となります。そして、天皇の側近だった和気清麻呂の進言もあり、793年に天皇は再び遷都することを宣言し、1年後の794年に引越しをしてしまいます。

長岡京は、10年の歳月を費やしてもいまだ完成せず、日照りによる飢饉、疫病の大流行、さらには皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病などが続発し、種継暗殺に関与したととして処罰された早良親王の怨霊によるものと言われるようになります。おそらく、決定的だったのは利便性を考えた淀川近接が仇となり大雨にる川が氾濫が大きな被害をもたらしました。

長岡京は、発掘された遺跡から完成間近までたどり着いていたと想像されていますが、わずかに10年で放棄せざるをえない状況になったわけです。造営を任せていた種継を失ったことで失敗に終わったことを教訓した桓武天皇は、今度は自ら遊猟と称して頻回に視察に繰り出し、積極的にかかわることになります。

しかし、これらの激動の中で、反対勢力も登場し、造都に目が行き過ぎる天皇に多くの隙が生じたことも、様々な問題を噴出させていくことになるのでした。

2018年2月15日木曜日

第22回田園都市リウマチフォーラム


今回から、共催はファイザー製薬から中外製薬に変更になりました。もともとは、ファイザーが企画主催していた、元聖マリアンナ医科大学の山田先生の連続講演会を引き継ぐ形で始まったのですが、昨今のいろいろな大人の事情で、ファイザーが手を下したということです。

この手の会を行うことは、透明性・公平性などのいろいろな条件が求められるようになり、なかなか厳しい時代になってきたのですが、こちらもやるからには自分たちが勉強したいテーマをはずしたくはありません。

とは言っても、完全に自立して運営することは難しいので、ある程度の妥協はしかたがない。中外は何とかこちらの希望も最大限くみ取ってもらえて、初回としてはけっこう実のある会にできたように思います。

講演は昨年4月に聖マリアンナ医科大学に新しく着任した川畑教授による、「高齢リウマチの治療戦略」というもの。地域の中では、リウマチ関連では最寄りの大学ですから、聖マリアンナ医科大学との病診連携は重要で、川畑新教授には、ぜひこの会の存在を知ってもらい、今後もいろいろと協力をしていただければ嬉しいかぎりです。

超高齢化社会となった日本では、病気の発症も高齢化してきており、リウマチも例外ではありません。治療戦略は高齢になるほど限定的にならざるをえず、その選択は苦慮することが増えました。

問題点と、その対応について突っ込んだ話を聞くことができて、大変勉強になりましたが、同時に今日からの診療での疑問・悩みも増えたかもしれません。今後も、勉強を怠れないテーマの一つです。

さて、この会の重要な部分が「症例検討会」です。医学の知見は一つ一つの症例の積み重ねです。一つの症例が、全体に適応するとは限りませんが、その一つを疎かにしては医学そのものが成り立ちません。

今の製薬業界は、お互いに「一定の統計学的に妥当な知見」に拘って互いにけん制しあう状況にあります。これは、いろいろなデータ捏造問題などが発覚したためですが、少しでもコンセンサスが得られていない、あるいは根拠が明らかになっていない話は一切してはいけないということらしい。

たった一つの症例で、診断の妥当性、治療の方針などを語ることはもってのほか。ましてや、この手の会で、記録として文書に残すことは絶対にだめで、視覚的に見せたりするだけでも厳しい条件がつきます。

そんな難しい制約がありますが、今回は新横浜整形外科・リウマチクリニックの菱山先生に「妊娠希望のコントロール不良患者さん」の症例を提示してもらいました。

当然、妊娠・出産年齢も高齢化してきている現状では、今まで以上に問題となるケースが増えてくるテーマだと思いますので、リウマチ診療をしていると他人ごとではありません。

当然、正解は簡単には決められないのですが、いろいろな考え方がディスカッションされ、患者さんと治療の方針を決めていく際に参考になる話がたくさんあり、大変有意義な検討会にできたと思います。

おかけで、今後もこの流れを死守して、会を継続していくことが大変重要だなと再確認できました。

2018年2月14日水曜日

梅蕾


梅は蕾より香あり、という諺があります。

梅は蕾でもよい香りを漂わせることから、才能のある人や大成する人はこどもの時からその雰囲気が漂っているということ。

一昨年の夏の落花後に手に入れた豊後梅盆栽なんですが、2度目の蕾を付け始めていて、春が間近になっている気配を感じさせてくれるようになりました。

けっこういい加減な管理しかしていないので、成り行きまかせの結果なので、あくまでも梅の木の生命力だけが頼りみたいなところ。

雪が降っても、ほったらかしで外に出っぱなしだったので、ほとんど路地植えとおんなじです。でも、鉢の中で土の量は少ないので条件悪いですよね。

花が終わったら、植え替えに挑戦したいと思います。

2018年2月13日火曜日

キーボードをけちるな


アナログは、文字を手書きしていた時代。タイプライターが登場して、文字入力はメカニカルに変わり、そこへ電子回路が組み込まれキーボードと呼ばれるデジタルの時代が始まったのは・・・かれこれ、40年近く起ちましたね。

今は、キーを打つことから、タッチの時代だという方が大勢いるとは思いますが、コンピュータ入力の方法が変わるほどに、最初から知っている人間にとっては、実は作業効率が悪くなっていくようです。

クリニックや病院で電子カルテが導入され始めたときは、かえってカルテを書くことが遅くなり嫌がる医者が多かったことは間違いありません。

自分は開業した時、ある程度慣れていた自信があったので、抵抗はありませんでしたし、むしろ完全ペーパーレスを目指しました。でも、現実には、すべての紙を無くすことは不可能で、今になっても実現はしていません。

電子カルテに書き込むのは、確かに手で書いていた時よりも記録する量は減ってしまいます。最低限必要なことは漏らしたくないとは思っても、患者さんと向き合う時間を減らさないようにするには時間が足りません。

そこで、誤字脱字については気にしないことにしています・・・が、わざわざ、それを指摘する患者さんもいますけど・・・後で、読み返したときに意味が理解できるなら良しとする方針です。

さて、去年電子カルテパソコンの総入れ替えを行い、その時にできるだけコンパクトで安価な無線キーボードを新たに使い始めました。

ところが、ところがです。これが、困ったことに、打ちにくいなんてものじゃない。コンパクトにまとめるために、それぞれのキーが近いのはまだいいとして、キーの配列が独特すぎた。

これは慣れの問題だろうと、使い続ければ何とかなると思ったのですが、決定的なのはDELキーの位置。ENTERキーの右上に遠いところ。BSだけ使えばいいだろうと思うかもしれませんが、キーの間隔が狭いので、BSやDELを使おうとすると普段ほとんど使わないキーを触ってしまいぐちゃぐちゃになるんで、半年我慢しても、イライラがおさまりません。

しかも、キーがときどき引っかかるのも問題。そのまま床に叩き付けたくなることが多くなってきました。こりゃ、もうダメとあきらめざるをえない。

そこで、いろいろ探した結果、値段はけっこうするんですが、MicrosoftのSurfaceキーボードを購入しました。フルサイズにしては、比較的コンパクト。Bluetoothで接続は安定していて、何といってもキーの配列が標準的です。

ENTERとBSキーが小さめというレヴューはありましたが、これはノートパソコンのキーボードと比べれば許容範囲の大きさです。

今までより、やや指を広げないといけないのですが、これこそ慣れの解決が期待できることですから気にしないで行きたいと思います。打鍵感は、言うまでもなく素晴らしい。しっかりとした感触があり、打ち損ねはほぼなさそうです。

文字入力はデスクトップでの使い方としては、情報入力の基本中の基本ですから、やはりけちってはいけないところなんでしょうね。

2018年2月12日月曜日

記紀から知る建国の思想


一般に、日本の歴史の中で古代と呼ばれる時代を、古事記、日本書紀、そしていくつかの信頼される史書を通して勉強してきました。それらのあらすじから見えて来たものは、基本的に現在は「天皇」と呼んでいる、大王(おおきみ)の系譜をたどることでした。

ただし、特に記紀の目的は、繰り返しになりますが「歴史」であると伴に、大王が君主として支配し続けることの正当性を明らかにし、大王に対して尊敬の念を持ち服従すること迷いをなくすことにあったことは明白でした。それまでの語り継がれてきたいろいろな伝承があるにせよ、それを文字に残し記憶から記録に変えたのは天武天皇の時代です。

天武天皇は、国家の形成に対してそれまで以上に意識の高い天皇でした。観念的な部分よりも、理論的な合理性を重視した天皇であったという気がします。しかし、自らの絶対的な支配者としての立場を明白にするために、記紀の中におそらくは多くの創作、あるいは口承の改変が行われました。

しばしば言われることですが、「歴史は勝者が作るもの」ですから、記録された時点での勝者、あるいは支配者にとって都合の良いものが中心になるのは避けることはできません。つまり、その実務的な編集作業は、勝者の一角として天皇家に匹敵するほどの力を持っていた藤原氏が深く関与していたことは間違いがありません。

時代の流れの中で刻々と発生するエピソードを、その事象のみを淡々と記録することができれば、作為のない真っ新な「歴史」になるのかもしれませんが、おそらく歴史学は、それらの事象の生じた理由と、その後にどういう影響を与えたか明白にすることで成り立ちます。そのためには、「勝者」だけに偏よらない事実を見つけ出すことが重要ですが、古代史においては史料に乏しく様々な憶測が発生します。でも、そこが「謎」であり魅力があるところです。

今一度、記紀にみられる神代の世界に立ち戻ってみます。

縄文時代以後、日本は農耕民族として発展してきました。縄文時代と呼ばれる時期は、その後の時代区分と比べるとやたらと長い。時を遡るほどわからないことは多くなりますから、やむを得ないことではあります。稲作は縄文時代に始まっていたことはわかっていますが、国土全体に広がり文化として形成されるのが次の弥生時代であり、それは個人行動から集団行動、つまり「国の始まり」につながります。

自然発生的な植物採取から、意図的に栽培し収穫を得るという変革は、貧富の格差を発生させ、それが支配者を誕生させるきっかけです。また、植物栽培という観点からは、太陽の光と熱が重要であることが理解されるようになりました。世界中の農耕民族にとって、太陽が照らす昼間の重要性は、当然のように太陽信仰という考え方を発生させることはごく自然なことです。

つまり太陽がすべての恵みの根底にあり、そのことをイメージ化したものが「神」という存在であり、日本ではそれが最高神としての天照大御神に凝縮されたといえます。

古事記では「天地開闢後、造化三神が現れる」ところから始まりますが、日本書紀では「初め世界は混沌であったが、澄んだものが上に登り天、濁ったものは沈んで地を造り、その間に神が生じた」と書かれています。太陽がある空をより高貴なものとし、すべてのことの始まりから天の支配性と地の従属性を変えようがない真理としています。

天から地に最初に降り立つのは伊邪那岐(イザナギ、日本書紀では伊弉諾尊)と伊邪那美(イザナミ、日本書紀では伊弉諾尊)で、二人(二柱)は、まず国土を産み作ります。人間の周囲にある自然環境すべてが同じところから発生し、すべてのものに霊魂、もしくは霊が宿っているという宗教の根源的な考え方(アミニズムと呼ばれる)を示しています。

たとえば現代でも食事の始まりのあいさつとして、無意識のうちに「いただきます」と言うことが定着しています。これは、神への供え物などを頭上に「頂く」ことが語源とされています。しかし、その意味は人とその他の生命、自然そのもののすべてが同じところから生まれたもので同胞であることから、その命を自分のために「頂く」という気持ちが込められているそうです。

最後に生まれるのが、天にいて世界の頂点を支える天照大神、太陽が消えている夜の時間を密かに守る月読尊、地を支える須佐之男(素戔嗚尊)の三神です。月読尊の話題がほとんど無いことを不思議に思っていましたが、あらためて考えると人の活動は太陽が出ている昼間が主であり、夜は静かに何事も起こらないことが望まれているわけですから、月読尊の話が少ないことは当たり前なのかもしれません。

須佐之男命が天に上がって、大暴れして再び地上に追放されることは、天と地の決定的な上下関係を示し、一度地の者とされればどんなに抗っても無駄であることを意味しています。そして、天孫降臨の話によって最も高貴な太陽神の血統を引くもののみが地上を支配することができるとしました。

だからこそ、時にかなりの無理をしてでも天皇の「万世一系」に対するこだわりがあり、それを守ることが支配階級の安定につながったわけです。第二次世界大戦の敗戦後、天皇は自ら「天皇は神ではなく、人である」ということを明らかにしましたが、それでも意識するしないにかかわらず日本人の民族意識の根底に深く根付いているところなのだと思います。

2018年2月11日日曜日

記紀から知る建国の日


現在の日本国は、第二次世界大戦後の新憲法で「天皇は国民の象徴」とし天皇の政治的決定権はありません。それ以前となると、鎌倉時代から江戸時代までは実質的に武家に支配権を牛耳られたとはいえ、天皇を頂点とする王政国家でした。

統一国家の形は、飛鳥時代から奈良時代における律令制度の確立により形成されたわけです。その兆しといえるのは推古天皇の時代、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子が皇太子となって政権実務を任された7世紀初頭と考えられています。

古事記には、いつのことなのか確認できる細かい年月の記載はありませんが、正規の国史として編纂された日本書紀には、十干十二支や元号による記述があります。これらを中国・朝鮮の史料と対照させることなどにより、現在一般的な西暦に当てはめることが可能です。

ですから、少なくとも「天皇制」という形式のもとで国家として成立して約1400年の歴史があるということができます。ただし、「大王(おおきみ)」から「天皇」という呼称を用いるようになり、対外的に「倭国」から「日本」という国名を使い律令制を導入したのは天武天皇で、その志を継いで完成に導いたのは持統天皇です。となると、国家としてはおおよそ一世紀減って約1300年というのは、厳格に考えて間違いないところです。

「万世一系」の天皇による支配が始まったことを、国のスタートとするならば、日本書紀の記録上は、当然初代天皇とされる神武天皇(神日本磐余彦、かんやまといわれひこ)にまで遡らねばなりません。九州から東征して「辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した」と記述されています。

神武天皇の実在性については不問にして、辛酉の年がいつなのかということが問題になるわけです。60年周期の十干十二支では、辛酉は58番目の年で、一番最近では1981年です。日本書紀に記載された項目を素直に当てはめていくと、最も近いのは紀元前660年が辛酉の年にあたります。明治時代に、この年を国の始まりとして「皇紀元年」と定めたわけで、例えば2018年は皇紀2678年と云うことができる。

そこで、辛酉の年660年1月1日を現在の暦に換算すると、西暦紀元前2月11日が神武天皇が即位した日であり、天皇制が始まった記念日と考えるようになりました。現在では、2月11日を「建国記念の日」とし、国民の祝日としています。

ただ、それを素直に受け入れるのは現実的には無理があります。日本書紀の記述には、天皇支配の正当性を担保するため、多くの歴史的事実の改ざんや創作が含まれていることは間違いありません。初期の天皇の生物学的に不可能といえる異常な長寿を含めて、多くの天皇の実在に関して疑問が持たれています。

そこには神代の「神話」からシームレスに話をつなぐために、意図的に時間の引き延ばしがされたと考えるのが妥当です。「邪馬台国」と中国から呼ばれた国が存在したのは3世紀のことで、女王である「卑弥呼」が亡くなったのは西暦247年か248年です。日本書紀では、神功皇后が卑弥呼であることを強く示唆する記述があり、神武天皇とそれに続く欠史八代と呼ばれる天皇が創作であるなら、崇神天皇あたりから実在するとして、現実的な時間の流れは1世紀あたりで、紀元前60年、西暦1年、61年が辛酉の年になります。

いずれにしても、信頼できる確実なデータは無いので、根拠にする話そのものの信憑性がはっきりしないわけですから、全面的に受け入れていくか、逆に全てを疑って考えるかしかありません。

また、皇統の継続性で言うと、問題になるのは継体天皇の存在です。皇子がいないうちに第25代の武烈天皇が亡くなった時、事実上皇統は途切れたという考え方があります。現在の民法上は、親族というのは6親等までという規定があるようです。ただ、現実的には、普通に親戚と呼んでいるのは4か5親等くらいまでではないでしょうか。

じゃあ、武烈天皇と継体天皇との間の系図はどうなっているかというと、二人それぞれの高祖父(ひいじいさんの父)が異母兄弟というもので、あえて言うなら10親等となるんでしょうか。元を辿っていけば「人類皆兄弟」ですが、さすがにこれで「万世一系」の主張にはかなり無理があるというものです。王朝で考えると継体天皇の即位、つまり6世紀初めから約1500年続いているということになります。

つまり日本国は、最長で約2700年、最短で約1300年続いている国だということで、いずれにしてもギネス記録であることには変わりないようです。何月何日であっても、一年に一度くらいは自分の国の歴史、風土、文化などを少しだけでも考えることは悪いことではありません。

2018年2月10日土曜日

万葉集 (5) 代表的な歌


何しろあまりにたくさんありすぎて、万葉集をいきなりポンっと渡されたら、誰もがどこから手を付けていいのか悩むはずです。最初から一つ一つ順番に読み込んでいくのもありですが、相当な覚悟と忍耐を必要としそうです。

例えば、歴史の時系列を追って、その時々に詠まれた歌を拾い読みして、いろいろな事件の裏を想像していくという読み方もあります。または、名歌とされているものを中心に、有名どころをまずおさえておくのも、とっかかりとしては悪くはありません。

実際、人気投票のようなことはいろいろあるようで、その時代・風潮によって、選ばれるものに変化はありますが、定番とされている有名どころを紹介してみます。

山上憶良

銀母  金母玉母  奈尓世武尓  麻佐礼留多可良  古尓斯迦米夜母
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに
 優(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも

秋野尓  咲有花乎  指折  可伎數者  七種花
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り
 かき数ふれば七種(ななくさ)の花

額田王

茜草指  武良前野逝  標野行  野守者不見哉  君之袖布流
あかねさす 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る

柿本人麻呂

東  野炎  立所見而  反見為者  月西渡
東(ひむがしの) 野にかぎろひの 立つ見えて
 かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ

志貴皇子

石激  垂見之上乃  左和良妣乃  毛要出春尓  成来鴨
石走る 垂水(たるみ)の上の さわらびの
 萌え出(い)づる春に なりにけるかも

大伴家持

春苑  紅尓保布  桃花  下照道尓  出立□(女偏に感)嬬
春の園 紅(くれない)にほふ 桃の花
 下照る道に 出で立つ娘子(おとめ)

小野老

青丹吉  寧樂乃京師者  咲花乃  薫如  今盛有
あをによし 奈良の都は 咲く花の
にほふがごとく 今さかりなり

山部赤人

田兒之浦従  打出而見者  真白衣  不盡能高嶺尓  雪波零家留
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ
 富士の高嶺に 雪は降りける

大伴旅人

和何則能尓  宇米能波奈知流  比佐可多能  阿米欲里由吉能  那何列久流加母
我が園に 梅の花散る 久かたの
 天より雪の 流れ来るかも

他に当然たくさんの有名歌はありますが、最低このくらいは知っていて損はないようです。ここから掘り下げようと思えば、それは万葉底なし沼の始まりかもしれません。

2018年2月9日金曜日

万葉集 (4) 言霊の力


事霊 八十衢 夕占問 占正謂 妹相依

言霊の 八十(やそ)の巷(ちまた)に 夕占(ゆうけ)問う
 占(うら)まさにのる 妹(いも)は逢い寄らむ

言霊のはたらくあちこちに通じる辻で、霊力の強い逢魔が時の夕刻に占いをしたら、その答えはまさに思った通りで、あの子はきっと私に気があるとなった

この歌の作者は柿本人麻呂です。出だしの言霊について考えてみましょう。

万葉集では、その時代を生きた人々の心情が浮き出てくるのですが、その基本には「たま」があり、時によって「玉」、「珠」、「霊」、「魂」となって登場してきます。

今でも、特別な根拠があるわけでもなく、魂の存在を何となく信じている日本人は少なくありません。でも、魂は何かと聞かれても、はっきり説明はできない。人に限らず、自然現象も含めて万物に内在している何かであって、出たり入ったり、別のものにくっついたりして自由自在な存在で、これがあることが力を持つことになると考えています。

例えば、天之日矛伝説では、天之日矛が朝鮮から渡来し神功皇后の祖先となった説明がなされますが、そもそも日本に来た理由が「玉」です。天之日矛の奥さんは、太陽がさして生まれた玉が女性に変身した姿。つまり日本という国の分身としての「たま」だったりするわけです。

玉を集めたりして「たま」を身に着け、より自らの力を増やすのは「魂振り」、離れてしまいそうな「たま」を落ち着かせるのは「魂鎮め」、名を呼んだりして離れた「たま」を元に戻すのは「魂呼ばい」と呼ばれます。

万葉の時代、つまり古代の日本では口から出る「言(こと)」と物を指す「事(こと)」は区別されず、言の端が「言葉」で口から出ると現実の事になると信じられていました。それが、言葉そのものにも「たま」があり、霊力があるという言霊信仰です。

ですから、女性は簡単に名を明かすようなことはしません。名を知られるということは、相手に「たま」を取られて言いなりになるということ。名を尋ねるのは求婚であり、名を教えるのは承諾だそうです。

万葉集は、ちょうど記憶からの口承に頼っていた言葉を、文字に書いて記録に残す転換期に作られました。ただし、言葉が持っていた言霊を文字に書き文章にすることで、逆に「たま」の力はむしろ弱まっていくことになったのかもしれません。

2018年2月8日木曜日

桃花かな


桜より、梅より、まず桃の木が春が近づいていることを教えてくれました。

ピンクを桃色というくらい、可憐な花が咲き始めました。桃は、バラ科の植物で、花の咲く時期としては、これはけっこう早めなのかもしれません。

ということは、知ったかぶりして「桃」ですとか書いてますけど、実はまったく違うものかも・・・って、自信ないんですよね。

確かに3月が桃の節句というくらいで、本当に桃なら満開まで1か月早いのかもしれません。

とりあえず、青空とマッチしてきれいに咲き誇っているんですから良しとしましょう。

2018年2月7日水曜日

生きていた信ちゃん


全国に信用金庫がありますが、大企業相手の大手都市銀行に対して、中小企業への融資をメインに高度経済成長期を支えたという印象があります。

自分が子供の頃は、近くにあったのは渋谷信用金庫、たぶん通称で「しぶしん」と呼ばれていたと思いますが。

しぶしんの営業の方は家にも来ていたようで、いくつかのアメニティグッズを置いていったようです。

中でも、記憶に残るのは貯金箱。当時使われていた信金オリジナルの「信ちゃん」のキャラクターを用いていました。

その後、大手銀行が知れ渡っている有名キャラクターを使用するようになったのを真似て、信用金庫も信ちゃんをやめてしまったようです。

さらに、大手が中小企業や個人へも営業を拡大したので、信用金庫はだんだん存在価値が薄れてしまったように思います。

ところが、最近たまたま通りかかった場所に地域の信用金庫があって、しかもその窓には懐かしの信ちゃんが並んでいました。

お~、生きていたのか!! という感じです。自分と同じくらいの年を重ねているはずなんで、還暦間近のはずなんですが、まだまだ若々しく少年のたたずまいです。

いろいろなところに懐かしさというものがあって、なんか嬉しくなった昭和おじさんでした。

2018年2月6日火曜日

まくり家 @ 祐天寺


都内の店を紹介するのは珍しいのですが、たまにはこういうところにも顔を出すことがあるということ。

場所は祐天寺。駅前から駒沢通りに出る、細いけどバスも通るメインの繁華街。何軒かラーメン店はあるので、多少の選択は可能です。家の近くでは、歩いて行ける範囲での選択はかなり限定的ですから、さすがに都内というだけのことはある。

ここは、いわゆる「家系」の豚骨醤油の店。味はというと、可も無し不可も無しというところ。横浜が家系の本場でたくさん店がありますから、この手の味には慣れているのかも。

これは、標準のメニューですが、例えば横濱家に比べれば、チャーシューは大きいし、海苔もたくさんついています。そういう意味では頑張っているのかもしれません。

実は、高校生の時に通っていた塾が祐天寺にあったんです。今回、祐天寺に足を踏み知れたのは40数年ぶり。当時がどうだったかは、まったく思い出せず、塾があった場所もわかりません。

ただ思い出されるのは、帰りは毎回、友人と渋谷まで歩いて戻ったこと。何故かというと、途中の中目黒で、1杯100円のラーメン屋があって、そこでごく普通の醤油ラーメンを食べるのが楽しみだったんですよね。

それから考えると、ラーメンは「日本食」として、ものすごく進化した文化になったものだと感心してしまいます。

2018年2月5日月曜日

万葉集 (3) 歌の形式と種類


君之行 氣長成奴
山多都祢 迎加将行
待尒可将待

君が行き 日(け)長くなりぬ
山たづね 迎へか行かむ
待ちにか待たむ

あなたが旅立ってからずいぶん長い日が経ってしまった
あの山道をたずねて迎えに行こうか、やっぱり待っていようかな

これは、万葉集に収録されている最も古い時代のものとされていて、仁徳天皇の磐媛皇后が、亡くなった天皇を偲んだ歌です。万葉調の短歌形式による相聞歌です。

万葉集に含まれる歌の形式は、短歌が最多で9割以上を占めます。短歌の基本形は五七五七七の三十一音からなり、五七五を上の句、七七を下の句と呼び、上の句の三句の後ろに区切りがあります。

万葉集では五七・五七・七という具合に、二句と四句の後ろに区切りがある(二句切れ、四句切れ)ものが多く、三句切れより重厚感が増すと言われ「万葉調」と呼ばれています。

いずれにしても、形式内に収めるために、一文字が多くの意味を含有しているので抒情性が強くなり、裏の裏まで読み込むことで芸術性も高くなります。

それに対して長歌(ちょうか)は、五七・五七・・・を繰り返し、最後を五七七で結ぶのが基本で、短歌に対して叙事性が強いものになります。ただ、初期には不規則な句を含む場合も多く、形式をが確立させたのは柿本人麻呂と言われています。しばしば、短歌形式の「反歌」が付属していて、本編のテーマを反復して強調したり、不足を補完・発展させます。

短歌と長歌でほぼすべてですが、後はごくわずかに旋頭歌、仏足石体歌、連歌体と呼ばれるものが含まれます。

内容的には、主として宮廷関連の公的色彩の濃い「雑歌(ぞうか)」、主として恋歌を中心とする個人的な手紙のようなやり取りのような「相聞(そうもん)」、死者の追悼・哀悼を表す「挽歌(ばんか)」の3つに分類されます。

一部に集中的に収載されている東国方面の民謡は「東歌(あずまうた)」と呼ばれ、また九州での対外防衛に駆り出された防人、またはその家族によるものを「防人歌(さきもりうた)」と云います。

2018年2月4日日曜日

立春


節分です。節の分かれ目だから節分。節は季節の節。今回は、冬から春に変わるということ。

当然、冬から春、春から夏、夏から秋、空きから冬と年に4回の節分があるわけで、それぞれ立春、立夏、立秋、立冬と呼ばれています。

中でも立春は、古来から節分の豆まきという行事、または近年、恵方巻を食べるという習わしが周知され、一番盛り上がる節分です。

豆まきは、もともと中国の鬼の面を被った人を弓で追い払う「追儺(ついな)」という厄払いの行事が奈良時代に伝わったもので、これに節分の際に行われていた「豆打ち」という日本の行事が合体したものらしい。

先週の雪が溶けきらないうちに、今週も雪が降りましたが、水を多めに含んでいたのか、むしろ先週の雪をうまく溶かしてくれた感じ。寒を寒で制して、春の気配に間に合ったというところ。

これからは、各地から少しずつ春の便りが増え始める・・・といいんですが、実際はもうしばらくは寒いのは覚悟しておかないとね。

2018年2月3日土曜日

万葉集 (2) 成立事情


籠毛與 美籠母乳
布久思毛與 美夫君志持
此岳尓 菜採須兒
家吉閑名 告紗根
虚見津 山跡乃國者
押奈戸手 吾許曽居
師吉名倍手 吾己曽座
我許背齒 告目 家呼毛名雄母

ぎょぎょぎょ、こりゃ一体・・・と思いますが、実は万葉集はすべての歌が漢字だけで書かれています。話し言葉に読みが同じ漢字を当てているので、本来の漢文ではありません。これが膨大な歌を収載する、万葉集の最初の歌。奈良県桜井市付近の森で、通りかかった雄略天皇が、美人に一目惚れして詠んだ歌とされています。

訓読分はこんな感じ。

籠(こ)もよ、み籠持ち
掘串(ふくし)もよ、み掘串持ち
この岳(をか)に菜(な)摘(つ)ます兒(こ)
家聞かな、告(の)らさね
そらみつ大和の国は
おしなべてわれこそ居(を)れ
しきなべてわれこそ座(ま)せ
われにこそは、告らめ、家をも名をも

現代語訳するとこんな感じ。

籠よ、美しい籠を持ち
箆(へら)よ、美しい箆を手に
この丘に菜を摘む娘よ
どこの家の娘か、名は何という
広い大和の国は
すべて私が従えている
すべて私が支配している
私こそ教えよう、家も名も

「万葉集」は全20巻、4516首の歌を収録しています。ちなみに、万葉集以後を集めた「続万葉集」と言えるのが「古今和歌集」です。

そもそもタイトルからして、いろいろと議論があるようです。昔の仮名書きでは「まんえふしふ」と書いたので、現代では「まんようしゅう」と読むのが一般的ですが、「まんにょうしゅう」かもしれない。

その意味は、何代にもわたる万代(よろずよ)から集めたもの、あるいは多くのという意味で万(よろず)の言葉(ことのは)を集めたものと考えられています。「葉」は、言葉以外に、歌の例えとしての木の葉(このは)、あるいは歌を書いた紙を数える単位としての葉(よう)など様々な意見があります。

編纂の経緯についてもほとんど確定的なことはわかっていませんが、天武紀に国家形成が進む中で、宮廷への服属の印の一つとして、諸国の歌を献上させていて、その折りに集まってきた宮廷讃歌を中心に編集が始まったとことが想像されます。

そして少なくとも、主たる編集は天平時代、天武系の聖武天皇の時で、何らかの指示があったと思われます。つまり記紀と同じく、神格化した天武天皇の威光を高めることが目的としてあることは間違いなく、天武・持統天皇を中心として、父親の舒明、母親の皇極からの皇統礼賛の意識があるわけです。そして、諸国を巡ることが多い大伴家持が関わるようになって、最終的に自らの歌を中心にまとめあげられたとみられています。

家持が亡くなるのは785年のことで、ほぼ完成したものが家持の手元にあったはずなんですが、何しろその直後に「藤原種継暗殺事件」が発生します。家持はこの事件の犯人の仲間として扱われ、万葉集も一度表舞台から消された存在になります。桓武天皇が806年に亡くなったのをきっかけに家持の罪が許され、平城天皇が即位した後に、万葉集はやっと公開されたと考えられています。

2018年2月2日金曜日

万葉集 (1) 記紀歌謡を受け継ぐ


桓武天皇の時代、783年頃に現存する日本最古の歌集である「万葉集」が完成しています。このことは、日本書紀、続日本紀のいずれも触れられていないため、正確な成立については不明な点が多い。

もともと、古事記、日本書紀には登場人物が、その時々に「・・・とお詠いなさった」という記述がたくさん出てきます。これは彼ら、彼女らの素朴な心情を歌に託して記載していたもので、一番最初に出て来るのは須佐之男命が作ったとするもの。

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに
  八重垣作る その八重垣を

というのが、日本初の短歌とされています。須佐之男命は八岐大蛇を退治し、櫛名田比売を妻としました。そして、出雲の国にすがすがしい場所を探し、須賀宮を作り、宮から立ち上った雲を見ての一句だそうです。

短歌形式が確立するのはずっと後のことですし、もちろん、本当の作者は後世の誰かでしょう。しかし、この他にも200首あまりの歌が詠われていて、歌の中には素直な心情を発露することがしばしばあり、直接に書けない裏事情を匂わせてあったりすることもあるので、なかなか侮れません。

これらは、通常は記紀歌謡と総称されていて、多くは長歌と言って、特定の形式に縛られていません。キリスト教の聖歌なども似たような発展を遂げているのですが、もともとは何かを伝承していく過程で、原始的な節をつけることで、印象を深め記憶に残しやすくなります。おそらく記紀歌謡は、実際に口に出して詠っていたのかもしれません。

文字文化が入ってくると、歌謡も文字として記録するようになり、ここから形式が整備されて、文学として和歌の形態が出来上がってきます。和歌は通常「わか」と読んでいますが、「やまとうた(倭歌)」と読めることは重要な意味がありそうです。ここにも中国の漢詩をライバル視して、張り合っている構図が浮かび上がってきます。

6世紀末の推古朝以後、国家の基盤としての律令体制が整い始めると、優雅な芸術文化もしだいに盛んになりました。和歌(厳密には現代の短歌とは区別されるらしい)は、五七五七七の形式が決まり、全部で三十一文字(みそひともじ)から作られるようになりました。

万葉集の最初の歌は、5世紀半ば頃の雄略天皇の長歌から始まります。古事記でも、雄略紀はやたらの歌謡が出てくるので、よほど好きだったのかもしれません。以後、多くの天皇、皇室、貴族らの歌が登場してくるのですが、第1期の開花期である「初期万葉」と呼ばれているのが、舒明天皇の時代から壬申の乱までの40数年間。

続いて天武朝から平城京遷都までの40年余りが、まさに和歌の確立する第2期の「白鳳万葉」。特にこの時期に注目されるのは、宮廷歌人の登場です。代表は、持統天皇をパトロンに持った柿本人麻呂。プロとして、より芸術度を高めることに成功しました。

そして、その後が第3期の円熟期である「平城万葉」で、遣唐使による中国からの風潮が入って来て、山上憶良、大伴旅人を代表とする自発的な心情を個性的に歌い上げる歌人が登場してきます。新しいものが入ってくると、古いものとの間で摩擦が生じたり、また逆にうまく混ざりあったりします。

そして聖武天皇から始まるバブルな時期、まさに華麗な天平文化が熟成する数十年間は「天平万葉」と呼びますが、一方で疫病の流行や政局の混乱が相次ぎ、大伴家持、大伴坂上郎女らによる鬱積して繊細な抒情的な世界が広がります。

もちろん、天皇周囲の人々の歌だけではありませんが、これらの収集・編纂の目的には、天皇を讃え、中央集権確立に役立てようという意図があることは明白です。登場する皇統歌人らは、実は古事記の続きの人々です。つまり、日本書紀には続編となる続日本紀があるのに対して、万葉集は古事記の続編たる性格を秘めているということは定説となっています。

2018年2月1日木曜日

Total Eclipse


今日は、何と云ってもこれ。

皆既月食。天気が心配でしたが、しっかり天体ショーを観察できました。

少しずつ、いかにも地球の影が月にかかっていく感じが、実感としてわかりました。

影が覆い尽くすと、月は赤く浮かび上がってきて、"Blood Moon"をちゃんと見れたのは初めてだと思います。

ただ、写真に撮るのはけっこう大変。普通の満月を撮影するときの基本は、マニュアル・モードで、ISO400, F8.0, SS:1/800秒。


欠け始めは、満月条件からスタートして、少しずつ調節。3/4くらいまで欠けるまでは、それほど難しくはありませんでした。

ところが、暗くなるにつれて光がどんどん減ってしまうので、"Blood Moon"の写真はISO感度は最高まで上げています。何しろ手持ちの500mm望遠を使用していますから、SSも手振れしない限界までゆっくり。Fも可能なだけ広げてます。

そのためノイズも多いし、暗くてピントも合いにくい。これで精一杯です。