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2018年2月19日月曜日

古代終焉 (2) 平安京遷都と藤原氏


桓武天皇は、即位と同時に皇太子にしていた弟の早良親王を、藤原種継暗殺に連座したとして流刑に処し憤死させました。そして新たに立太子したのは、自分の長男である安殿親王でしたが、その時まだ12歳。

遂に長岡京棄都を決断し巻き直しを図る桓武天皇は、平安京の造営に対しては積極的でした。ただでさえ今までになく長期にわたり都として栄えた平城京を棄都しただけでも、かなりの軋轢が生じていただろうところへ、10年と経たずにさらに長岡を放棄するというのですから、天皇自らの強権を発動させるためには当然だったのかもしれません。

そして794年に桓武天皇は詔の中で、「自然の地形に守られたこの場所は、平安が続く都にふさわしい」と延べ遷都を敢行しました。ただ、そのど真ん中を東西に分ける大きな賀茂川があるのは、長岡でも水害に悩まされた経験からも、水路は必要ではあるが困りました。

現在の京都の地図を見ると、二条城のすぐ東を北から南へまっすぐ細い堀川が通っていますが、実は、これが本来の賀茂川の流れで大方を埋めて流れを人為的に東寄りに移動させたもの。当時の技術からしても、相当大きな土木工事だったと思われます。遷都後の都完成を推進するための機関として組織されたのが「造営吏」で、そこに登場してくるのが和気清麻呂、菅野真道らの重要官僚たちでした。また秦氏、物部氏らの氏族も技術系集団として登用されています。

ここで、少し藤原家のことを整理しておきたいと思います。藤原家といえば、その祖は中臣鎌足。中大兄皇子、後の天智天皇の最大の参謀でした。亡くなる直前に藤原姓を天智天皇からもらったことから始まります。

鎌足の次男の不比等が藤原家を継ぎ、文武天皇からは不比等直系のみが藤原姓を名乗ってよいとされました。娘の宮子は文武天皇夫人で、聖武天皇の母親です。不比等には4人の男子がいて、武智麻呂が南家、房前が北家、宇合が式家、麻呂が京家として藤原四家を興します。しかし、四人とも737年の天然痘の流行で相次いで亡くなりました。

南家の武智麻呂の次男、仲麻呂は、力をつけて孝謙天皇の最大の片腕となり、孝謙天皇も仲麻呂私邸に住むようになりました。聖武上皇崩御により、天武系皇太子の道祖王を廃して大炊王を皇太子にしたのは仲麻呂の暗躍によるものです。757年、橘奈良麻呂の乱では、殺される対象にされました。その後、孝謙天皇は道鏡にのめりこんでしまい、764年、自ら藤原仲麻呂の乱をおこしますが失敗し斬首されました。

式家長男の広嗣は、次第に反藤原勢力が台頭してきたことで、740年に反乱を起こし処刑されました。次男の良嗣は、兄に連座して一度流刑になりましたが、数年後に許され地方官僚に回されます。762年、当時最も力を持っていた南家の仲麻呂暗殺計画が露呈し失脚しました。

そして八男が百川で、天智系の光仁天皇即位の裏でかなり暗躍したらしい。772年、光仁天皇が井上内親王の廃皇后、他戸親王の廃太子し、翌年、山部親王、後の桓武天皇を立太子したのも、すべて百川が裏で天皇を操ったといわれています。長女、旅子は桓武天皇夫人になり、次女、帯子は安殿親王皇后になっています。

三男清成の息子が、長岡京造営最高責任者で暗殺された種継です。桓武天皇の信頼が厚く、天武系を切り捨てるために長岡遷都を進言しました。長男は仲成、娘に薬子がいます。薬子は自分の娘が安殿親王の妃になった時に、一緒に宮仕えに上がったところ、安殿親王の寵愛を受けることになり、これに合わせて兄の仲成も出世しかなり傲慢な振る舞いをしたようです。ここで、仲成、薬子にとって父親の種継が命を懸けた長岡京から平安京遷都はかなりのショックだっただろうということが後の事件の伏線です。