夏季臨時休診

夏季臨時休診のお知らせ 8月14日(金)~8月19日(水)臨時休診します。

2026年7月31日金曜日

みょうがとゴーヤ


少しみょうがに慣れて来たら、もっと積極的にみょうがの味を楽しみたい。

そんなレシピです。

しかも苦手な人が多い、みょうがとゴーヤの合わせ技です。

この組合わせだと、腰が引けてしまうかもしれませんが、ダブル腰引きで逆に強く押し出しとなるから不思議です。

下ごしらえは大事。みょうがは細切りにしたら水にしっかりさらします。

ゴーヤは苦いのは中央のワタの部分。ここをスプーンなどで、しっかりとこそぎ落とすのが大事。それさえすれば、塩もみとか下茹でとかは不要で、そのまま問題なく食べられます。

まずゴーヤに味をつけます。

醤油1、酢1、砂糖小さじ1/2で1時間ほど漬け込んでおきます(ビニール袋の中に入れると少量の汁でOK)。

食べる時にみょうがと混ぜるだけで完成。味をみて足りなければ、ゴーヤを漬けた汁を追加します。

これもまた癖になる味です。

2026年7月30日木曜日

Shot of Love (1981)


1980年のボブ・ディランのツアーは、過去のヒット曲、つまり世俗的な歌が封印され、すべてキリストへの愛と信仰を歌うものとなり、観客からは不評を買います。しかも、曲間で宗教的な説教をするものですから、本気度は間違いないのですが、ブーイングを浴び観客数も伸びません。しかも、前アルバム「Saved」の売れ行きも悪いと来ては、さすがのディランも考えざるをえません。

ツアーの終盤、11月からは、かなりゴスペル調に改変されたとはいえ以前のレパートリーが解禁・復活されます。時には、カルロス・サンタナ、ロジャー・マッギン、マイク・ブルームフィールド、ジェリー・ガルシアらがゲストに登場し、エンターテインメント性を押し出してライブを盛り上げました。

ディランはゴリゴリの信仰一辺倒から、人と人との関係から生まれる世俗的なものにも目を向けることを思い出したと言えます。と同時に、自分のRundown Studioで、新作のためのリハーサルも開始しました。アルバムのために用意された新曲にも変化が現れ、信仰心の現れから来る喜びなどと同時に、以前のような一般的な詩情をたたえるような曲作りが戻ってきています。

1981年8月に発売されたこのアルバムでは、1曲目からかなり激しいロックで「私は愛が必要なんだ」と歌います。とりあえず、説教ではなく、あくまで自分の気持ちのことなのでちょっと一安心。2曲目はローリング・ストーンズのロン・ウッド(ギター)とリンゴ・スター(ドラム)がセッションに参加したもので、「暴走しがちな自分の心を鎮めよう」という歌。

ところが3曲目には再び「信仰を笑いものにしたければすればよい。信仰を持つ者はキリストの手の内で守られている」と信仰の正当性を強調してみせます。かと思うと、伝説のコメディアン、レニー・ブルースの歌では、純粋が故に弾圧されたとピアノ中心のバラードにしています。

レゲエを大胆に取り入れ、信仰心が無く魂が死んでいる人間のことを歌ったかと思えば、過ぎた夏の日を思い出す。そして再びハードなロックナンバーでこの世界のトラブルをひたすら指摘していくのですが、ラスト・ナンバー「Every Grain of Sand (砂のそれぞれの一粒)」は、数あるディラン自作曲の中で最高傑作と言われることもある名作バラードです。

ゴスペル期を総決算するような内容の曲で、以前ような「信じない者は裁かれる」という攻撃的な面が消え、「自己の弱さを受け入れ、あらゆる微細な一粒の砂や一枚の葉の中に神の意志を見出す」という祈りに昇華しています。宗教色を理由に批判していた多くの評論家も、この曲だけは名曲と認めざるを得ませんでした。

なお、レコードA面最後の「The Groom's Still Waiting at the Altar」は発売時には収録されていません。シングル・レコードとして発売された「Heart of Mine」のB面からCD化の際に追加されたもので、当初、ディランは出来に不満を感じていたようです。しかし、ラジオ局から絶賛され、正式のアルバムの曲として採用されたという珍しい経緯があります。

一般にゴスペル期と呼ばれているのは、「Slow Train Coming」、「Saved」、そしてこの「Shot of Love」の三作品を指して使われているのですが、見事に色分けされていることに気がつきます。「Slow Train Coming」はゴスペルをロックに取り入れた音楽的に成功した新人のキリスト教徒、「Saved」は狂信的で説教的な面が強く押し出されたエゴイスティックなキリスト教徒、そして「Shot of Love」では人との関わりを思い出し普遍的な祈りを捧げるキリスト教徒です。

これらが、ディランの音楽性の幅を広げたことは間違いなく、無駄ではなかったことは誰もが認めるところですが、やはり一般の音楽ファンからは受け入れにくい部分が多々あったことは本人も認識しているはずです。一度自分自身を徹底的に破壊したことで、それが現実的なアルバムの売れ行き、ライブの観客数などに反映され、少しずつ現実にも目を向ける精神的なゆとりを取り戻すために必要な期間だったのかもしれません。

2017年にリリースされた「The Bootleg Series Vol.13 Trouble No More」では、8枚のCDと1枚のDVDでこのゴスペル期のアウトテイクとライブを集大成しています。ゴスペルだからと敬遠されがちな時期ですが、特にライブの熱量は凄まじい。バックを務めるミュージシャンも素晴らしいのですが、1978年の日本公演ではとってつけたようなところもあった女性コーラスも見事に一体化していて完成度の高い演奏を繰り広げています。

過去曲も解禁した1981年6月のライブでは、ゴスペル期の曲の間に「Like a Rolling Stone」、「Maggie's Farm」、「Mr. Tambourine Man」などなどの往年のヒット曲が多数入ってくるのですが、そのいずれもがライブ演奏としてはベストと言っても良いくらいの出来なのに驚きます。三枚のスタジオ・アルバムは聞かなくても、このボックスだけは聞いておくべきかもしれません。


Shot of Love
Heart of Mine*
Property of Jesus
Lenny Bruce
Watered-Down Love
The Groom's Still Waiting at the Altar
Dead Man, Dead Man
In the Summertime
Trouble
Every Grain of Sand

Bob Dylan (Vo, g, harmonica, perc, pf)
Steve Douglas (sax), Tim Drummond (b), Donald Dunn (b)
Jim Keltner (ds), Danny Kortchmar (ele.g), Carl Pickhardt (pf)
Steve Ripley (g), Fred Tackett (g), William Smith (org)
Benmont Tench (key)
Carolyn Dennis, Clydie King, Regina McCrory, 
Madelyn Quebec, Monalisa Young (back.vo)
*Ringo Starr (ds), Ronnie Wood (g)

March ~ May, 1981, Los Angeles

☆☆☆☆☆☆・・・

2026年7月29日水曜日

Saved (1980)


ここから80年代に入ります。世間を見渡してみると、アメリカの音楽界には大きな潮流が押し寄せていました。その一つが、AOR(Album Oriented Rock)の流行です。日本では曲解されてAdult Oriented Rockと呼ばれ、大人のための洗練されたロック音楽で、ジャズやR&B(リズム・アンド・ブルース)などの要素を取り入れた、都会的なオシャレなサウンドが特徴とされます。

ブルース・ロックから転向したボズ・スキャッグスの1976年の「シルク・ディグリース」は、その先駆けとして名高いアルバムです。ボビー・コールドウェルは、1978年のデヴュー曲「風のシルエット」のヒットで「Mr.AOR」と呼ばれるようになりました。そして、クリストファー・クロスは1979年に「南から来た男」でデヴュ―し、瞬く間にAOR界の人気者になります。

人気が低迷していたブラス・ロックの老舗バンド、シカゴはデビッド・フォスターをプロデューサーに迎えてAORバンドとして再生しました。西海岸のロックの雄、イーグルスの中心メンバーだったグレン・フライもAORに転向して成功します。同じく名門、ドゥービー・ブラザースも、1975年に加入したマイケル・マクドナルドの影響でAOR化していきました。

ボブ・ディランのイメージは「周囲に迎合しない無骨なフォーク、ロックの詩人」で、当然AORとの対極にいそうなアーティストだと思いますが、あらためて聞いていると1978年の「Street Legal」は、ブラスや女声コーラスを導入して、都会的なウエスト・コースト・サウンドに寄せたAOR的なアルバムであることに気がつきます。

また、「Slow Train Coming」はアルバム全体でキリストを褒めたたえるというのはまさにアルバム志向(Album Oriented)ですし、電子ピアノの導入も大人っぽいオシャレを感じます。また、参加したマーク・ノップラーのギターは泥臭さが無い都会的なサウンドでした。つまり、ゴスペル期のディランは、AORの主流とは方向性は違うものの、いろいろな葛藤を乗り越え人間として大人になったサウンドに変化していたということができるのかもしれません。

とは言え、ゴスペル期真っ只中のディランは、ライブでも心から説教をしたりするようになり、集まった聴衆からは評判が悪い。それでもめげないのがキリスト信仰に目覚めたディランの強さなのか、1980年2月になると新作アルバム「Saved」の制作に取り掛かります。

前作は隠喩的な表現でしたが、今回はまさに直接的な宗教色を出した「(自分が)救済(された)」というタイトルです。さらにアルバム・ジャケットには「神の手」のイラストが描かれるという念の入りようです。

前作では「ゴスペルっぽい」音楽でしたが、確かにこれはゴスペル。黒人教会で普通に歌われていても違和感がないかもしれない。歌詞の中身も、積極的に自分が信仰によって救われたことを知らしめるものばかりになりました。

オープニングはゴスペル名曲のカバーで、これから始まるのは神のための音楽である宣言になっています。自分が救われた歓喜を歌い、導いてくれた人々に感謝し、神のために自分は何をできるかを問います。世間から何を言われても岩のように信仰心は変わらず、さらなる高みを目指して進み、神の慈悲に感謝を捧げるのです。そして、ラストで「最後の審判を迎える準備はできているか」と周囲に問いかけ、周囲に悔い改め信仰を促すのです。

自分のような非英語圏の非キリスト教徒の人間にとっては、内容の理解には難がありますが、例えばサザン・オールスターズのライブで、桑田佳祐が全曲仏教を勧める歌を歌って、最後に般若心経を唱えているようなもの・・・だとすれば、リアルタイムで聞いたアメリカの人々の反応は、困惑と批判に満ちたものになったことはしょうがない。

一方的なメッセージであり、かつ詩的要素がほとんどない創造性が欠如しているという批判は一理あります。とは言え、圧倒的な熱量で歌いまくるディランは凄い。音楽としては、けっこう魅力的な仕上がりなのが不思議です。


A Satisfied Mind
Saved
Covenant Woman
What Can I Do for You?
Solid Rock
Pressing On
In the Garden
Saving Grace
Are You Ready

Bob Dylan (vo, g, harmonica, key)
Tim Drummond (b), Jim Keltner (ds), Spooner Oldham (key)
Fred Tackett (g), Terry Young (key, back.vo)
Monalisa Young, Carolyn Dennis, Regina Havis, Clydie King (back.vo)

February 11 ~ 15, 1980, Muscle Shoals Studio, Sheffield, Alabama

☆☆☆☆☆・・・・・

2026年7月28日火曜日

Slow Train Coming (1979)


人生の大きな問題に遭遇し、なおかつ辛い結末を迎えた時、人は何かにすがり何とか立ち直るための機会をうかがいたくなるというのは、ボブ・ディランほどの人物とて同じでした。ひたすら我が道を行くタイプと思われていたディランも、結婚生活の破綻・家庭の崩壊、そして財産のほとんどを失う失敗を経て、何か別の力を必要とする気持ちになっていたのです。

ディランの出自はユダヤ教です。ユダヤ教は旧約聖書を聖典として、まだ姿を見せない救世主(メシア)のもとで、神との契約を忠実に守ることが求められます。おそらく、ジョーン・バエズと親交があった頃に、バエズの信仰するクエーカー教を通じてキリスト教を知る最初のきっかけがあったかもしれません。どん底の精神状態の中で、メシアはイエス・キリストのことだったと考えたディランは1978年の世界ツアーが終了するとキリスト教へ改宗したのでした。

アルバム「Street Legal」のジャケット裏に感謝を捧げる人々のリストがあり、その中に「Queen Bee」というのが含まれています。実はこれは、ツアーの黒人女性コーラスなどを手配したメアリー・アリス・アーテスという黒人女性で、敬虔なキリスト教信者でした(後に結婚直前までの深い仲になっています)。

ツアーの終盤に、ステージに投げ入れられた銀の十字架と、その直後に「キリストに触れた」体験をしたディランは、ツアー終了後すぐにメアリーの通うキリスト教福音派教会を訪ねます。1979年の1月から3月までの間は、ディランは音楽活動はまったくせず、ほぼ毎日聖書学校に通い、ついに信仰により生まれ変わるという意味の「Born Again」に達しました。

ここからディランは、自らも認めるゴスペル期に突入します。フォークの衣を脱ぎ捨てロック、そしてカントリーになったかと思うと再びロックに戻り、今度はゴスペル。ディランの音楽史は自己破壊と創造の繰り返しです。

アメリカの音楽史は、奴隷として大陸に連れてこられた黒人が大きな役割を果たしていることは既知の事実ですが、スタートは黒人霊歌(スピリチュアル)です。20世紀はじめに讃美歌を取り込んで始まったのが希望を表すゴスペルで、悲哀を表すのはブルースとなり、不満の爆発はロックン・ロールとなって広まっていきます。

ゴスペルの特徴は、手拍子や足拍子でリズムを刻みながら、リード・シンガーに絡むように聴衆(あるいはコーラス隊)が応答するコール& レスポンスによって、体全体で神への感謝の感情を強く表現するというもの。黒人教会で歌われているような本格的なゴスペルのイメージとは、ディランの物は多少違いますが、世界ツアーから参加するようになった黒人コーラスがより強化されて宗教色を強化していることは間違いない。

ディランは過去の楽曲と決別をするため、ただちに新曲を書き始めますが、それは完全にキリスト教信者となりキリストの教えを伝えるためのものになっていました。3月末に久しぶりに気になっていた他人のコンサートを聴きに出かけます。それはまたデヴューして間もないロック・バンド、ダイアー・ストレイツのライブで、ギターのマーク・ノップラーにすぐさま新作への参加を依頼しました。

新作は4月末から2週間ほどかけて録音されていますが、ノップラーの他にはダイアー・ストレイツからはドラムのピック・ウィザースが参加し、後は腕利きのスタジオ・ミュージシャンが集められました。「ゆっくりと列車がやって来る」というタイトルの意味は、「列車」は「世界の終末・神の審判」を象徴しているらしい。もともとは「Slow Train」は、黒人音楽の中では「天国への旅路・神のもとへの帰還」を意味しています。

オープニングの「Gotta Serve Somebody」では、「誰もが神か悪魔に仕えていて、一人で生きているわけではない」と歌い、ディラン初のグラミー賞受賞となるヒット作となりました。ここでは、エレクトリック・ピアノが今まで以上に用いられていて、キーボードを担当したバリー・ベケットのセンスが光ります。また、全体を通してノップラーの切れの良いギターが素晴らしい。

「Precious Angel」では自分に救いの道を開いてくれたメアリーを讃え、続けて「私はあなた(神)を信じる」と歌います。そして社会の腐敗を「スロー・トレイン」として告発し、「考え方を変えるべきだ」と警告します。その後もキリストの教えや聖書のエピソードを歌に乗せ、最後はピアノの伴奏だけでキリストの復活を前にして人々は膝まずくのです。

8月にアルバムが発売されると、古いファンの反発と同時に新しいファンを獲得し、商業的には大成功と言う結果になりました。評論家の評判も悪くなく、アルバムとして高く評価されています。


Gotta Serve Somebody
Precious Angel
I Believe in You
Slow Train
Gonna Change My Way of Thinking
Do Right to Me Baby (Do Unto Others)
When You Gonna Wake Up
Man Gave Names to All the Animals
When He Returns

Bob Dylan (g, vo), Barry Beckett (key)
Mickey Buckins (perc), Tim Drummond (b), Mark Knopfler (lead g)
Pick Withers (ds), Muscle Shoals Sound Studio (horns)
Carolyn Dennis, Regina Havis, Helena Springs (back.vo)

April 30 ~ May 11, 1979, Muscle Shoals Sound Studio, Alabama

☆☆☆☆☆☆☆・・・

2026年7月27日月曜日

みょうがサラダ(冷や奴)


みょうがは、どちらかと言うと大人になってから食べられるようになる人が多い・・・まぁ、自分もそうですけど。

しゃきしゃきした食感はOKなんですが、独特の香りが苦手だったりします。

でも、みょうがは今が旬ですから・・・旬なものを食べると言うのは、季節を感じるということで、食生活を豊かにしてくれます。

とにかく、しっかりと水にさらしてあく抜きをすれば、あまり気にならずに食べれるので、今回は豆腐に乗せてみました。

一緒にしたのは、千切りにした大葉と長ネギです。

香味野菜の代表そろい踏みというところで、この組み合わせがお互いを補完して抜群に美味しい。

今回の味付けは醤油とごま油だけです。

実に旨い。簡単に食事で涼を取れる感じで、実に暑い時期に向いています。

2026年7月26日日曜日

Street Legal (1978)

 


日本・ニュージーランド・オーストラリアでの公演から帰国したボブ・ディランでしたが、「Rolling Thunder Revue」以来、バンドのまとめ役だったベースのロブ・ストーナーがバンドから抜けてしまいました。新しいディランのラスベガス風のスタイルに納得できなかったことと、年末まで長いツアー予定に不安を感じていたことが原因と考えられています。

代わりに加わったのはThe Doorsを経てエルビス・プレスリーの最後のバックを務めたジェリー・シェフで、メンバーはすぐさまランダウン・スタジオに入り新作の録音を開始しました。今回も、4月末からわずか1週間で録音を完了しているのはさすがとしか言いようがない。

ニュー・アルバム『ストリート・リーガル』は、それまでのボブ・ディランのフォークやアコースティックなイメージを覆す、ホーン・セクションや女性コーラスを大々的に導入した、ソウルフルかつゴージャスな「ビッグ・バンド・サウンド」が最大の特徴です。ただし、本来リハーサル用のディランのプライベート・スタジオでライブ感覚で収録されたので、楽器間の分離が悪く発売されたレコードは音質的にはかなり難がありました。しかし、1999年にリミックスされ、奇跡的な音質改善が図られたことでより評価が高まりました。

ディランは離婚騒動、映画「Renaldo & Clara」の失敗や「Rolling Thunder Revue」による経済的な打撃など、精神的にも肉体的にも多くの問題を抱えている中で、自らをリセットする気持ちが世界ツアーやアルバムに刻まれ、ツアー後の改宗を予感させるようなものが漂う内容となりました。とはいえ、表面的には今までになくポップな感じで、歌い方もディランとしては丁寧なので聞きやすいアルバムになっています。

1曲目は「衛兵の交代」というタイトルで、タロットカードや中世の騎士が登場し、自分が登場してから世界は崩壊に向かい、新しい支配者へ移行しているという難しい内容で、ディランのボーカルに女性コーラスがコール&レスポンスで被さるところは、ゴスペル風の仕上がりになっています。次は「新しい仔馬(女性の比喩)」を飼っているのですが、その名はルシファー(堕天使)という不穏な名前で可愛らしいタイトルなのに泥臭いブルースです。

「泣かないで、僕がそばにいる、すべてうまくいく」と女性を慰めたかと思えば、「君の愛は本物なのか?」と疑ったりします。「セニョール」は、謎の人物に「我々はどこへ向かっているのか?」と世界に絶望して問いかける。傷つけ合った恋人たちは、お互いを許し忘れるしかないので、「もう話し合って終わりにしよう」と別れを告げるという具合に、サラとの別れを感じないわけにはいかない曲が続きます。そしてラストで、暗闇を通り抜けて長い旅が終わり「僕にはまだ息がある」で締めくくられ、何とか生き抜く決意を新たにして終わります。

6月には世界ツアーの第2レグの開始と同時にこのニュー・アルバム「Street Legal」が発売され、順調に売り上げを伸ばし前2作に匹敵するヒットになります。ツアーはロンドンの6公演から始まり、オランダ、ベルギー、西ドイツで4公演、7月にはパリで4公演、さらにスウェーデン、西ドイツで4公演の後、イギリスに戻って7月15日まで続きました。

メンバーは2か月間の休養の後、9月15日からカナダを含む全米を回る過酷な65公演を12月16日まで行い、全114公演という世界ツアーは終了しました。しかし、さすがに11月以降、ディランの喉の調子が悪くなり、ただでさえしゃがれた声がさらにかすれてしまいます。疲労のピークになった11月17日、サンディエゴでの公演で、またもや伝説が生まれました。

 ライブの終盤、ステージの苦し気なディランに向かって、観客席から小さな銀の十字架(シルバー・クロス)が投げ込まれたのです。 普段のディランであれば、ステージに投げ込まれた物は無視するところですが、この日はなぜか足元の十字架を拾い上げポケットにしまったのです。

翌日、アリゾナ州へ移動したホテルで、ディランはさらに体調が悪化し、思わず銀の十字架を身につけたのです。すると「イエス・キリストが部屋に現れ、自らの体に直接手を置くのを感じた」と本人が後に語っています。この「個人的なキリストとの出会い」という決定的な体験によって、ディランは生まれながらのユダヤ教からキリスト教へと改宗することになるのです。


Changing of the Guards
New Pony
No Time to Think
Baby, Stop Crying
Is Your Love in Vain?*
Senor (Tales of Yankee Power)
True Love Tends to Forget
We Better Talk This Over
Where Are You Tonight? (Journey Through Dark Heat)

Bob Dylan (vo, g)
Steve Douglas (ts, ss), David Mansfield (vn, mandolin)
Alan Pasqua (key), Billy Cross (g), Jerry Scheff (b)
Steven Soles (g, back.vo), Ian Wallace (ds), Bobbye Hall (perc)
Carolyn Dennis, JoAnn Harris, Helena Springs (back.vo)
*Steve Madaio (tp)

April 25 ~ May 1, 1978, Santa Monica, California

☆☆☆☆☆☆☆・・・

2026年7月25日土曜日

The Complete Budokan 1978 (1978, release 2023)


1972年11月に映画のためにボブ・ディランは、家族を連れてメキシコに一時移住しました。おそらく、このあたりから交通事故後は家庭人として優等生だったディランと妻のサラの関係にひびが入り始めたのではないかと、勝手に想像します。ですから「Planet Waves」では「Wedding Song」で変わらない愛を歌いましたが、1974年の年明けからThe Bandとのツアーが始まり音楽中心の生活になったことが、より一層の不満をサラに抱かせたことは間違いない。

そのために「Blood on the Tracks」は、二人の関係を修復したい気持ちとあきらめから不安が入り混じった複雑な歌ばかりが並ぶことになりますが、やはり常人とはちょっと違うのがディランという人です。「Rolling Thunder Revue」は、昔の恋人だったジョーン・バエズを招き仲良くデュエットをしてしまうのですから、当然サラの不満・怒りは頂点に達し、第1期ツアーが終了した時点で完全に修復不能なほどに関係が崩壊しました。

第2期ツアー後は、ディランは撮影した映画「Renaldo & Clara」の編集作業に没頭します。目立った音楽的な活動は1976年11月のThe Bandの解散コンサート出演くらいでした。1977年3月にサラは裁判所に離婚を申請。こどもたちの親権や財産分与についてすったもんだの末に、6月末に離婚が成立します。

足掛け5年近い私生活のもたつきは、音楽を楽しむうえで不要と考えがちですが、こうしてディランの生み出してきた音楽を続けて聞いていくと、プライベートとは言えこれらの経緯が音楽そのものに大きな影響を及ぼしていたことがわかります。また、物議をかもしたこの後の初来日公演の意味も理解しやすくなります。

不評で終わった第2期「Rolling Thunder Revue」の経済的な損失と離婚による莫大な和解金は、さすがのディランであっても大きな打撃となりました。それが、翌年の日本を含む世界ツアーを行う呼び水になったわけで、初めてディランを迎える日本からすれば喜ばしいことだったわけです。

秋から少しずつツアーの準備を始めるのですが、ここで日本のプロモーターから「過去のヒット曲」をリクエストされたディランは、以前なら無視するところですが、何しろ今は金が必要です。ところが困ったことに中には長いこと歌っていない曲もあるので、歌詞どころかメロディもいまいちわからないというわけで、自分の曲の楽譜集を購入したという笑うに笑えない逸話があったりします。

12月になるとカリフォルニア州サンタモニカにある、ディラン自身のスタジオ「ランダウン・スタジオ(Rundown Studios)」でツアーのリハーサルが始まります。このツアーは、今までの「ボブ・ディラン」を壊して、新たに再生するという目的があり、フォーク・ロック路線を捨ててホーンと女性コーラスを加えたビッグバンドへの転向という目的でメンバーが集められました。この年の8月にエルビス・プレスリーが亡くなっていて、この変化はプレスリーのショーのイメージが関係しているといわれています。

新しいバンドのまとめ役は、前年のツアーから参加しているロブ・ストーナー(b)で、スティーヴン・ソールズ(g)とデヴィッド・マンスフィールド(vn)も続投されました。新たなメンバーは、ビリー・クロス(g)、アラン・パスクァ(key)、イアン・ウォレス(ds)、ボビー・ホール(perc)、スティーヴ・ダグラス(sax)らで、女性バックコーラス(ヘレナ・スプリングス、ジョー・アン・ハリス、デビー・ダイ)が加わり華やかさとゴスペル感が強まりました。

私設スタジオでのリハーサルは、かなり熱の入ったもので、ディランは次々にレパートリーを追加していき、積極的に古い曲は今までのイメージを崩すようにしたため、メンバーは大変だったようです。実はこれらのリハーサル音源は、後に「Rundown Rehearsal Tapes」と呼ばれる海賊盤として出回り、密度の高い集中したセッションは高く評価されています。

年が明けて、いよいよ世界ツアーが開始されますが、まずスタートは2月20日から3月4日の日本での11公演で、大阪3公演以外はすべて日本武道館でした。このうち、2月28日と3月1日に、日本からの強い要請でライブ録音が行われました。両日からチョイスされた全22曲が収録された2枚組レコードとして11月に日本だけで発売されましたが、ディランも録音の良さを認め翌年4月に全世界でも発売されました。

本来なら、この「Bob Dylan at Budokan」を聞けば良いのですが、実は実際のステージでのセットリストは無視した順番で曲が並んでいるため、当時の雰囲気が伝わりにくいのです。ところが、2007年にソニーの静岡工場でおよそ30年ぶりにこの時のマスターテープが発見され、日本サイドが粘り強く交渉を重ねた結果、ついに2日間のコンサートの様子を丸ごと収録した完全版が2023年に発売されました。コンサートの様子をそのまま感じ取るには、あえてこちらの完全版を強くお勧めします。

初来日ということで、いろいろと大騒ぎで注目されたわけですが、デニムに身を包んだフォーク・ギターを抱えたディランの登場を期待していたかどうかわかりませんが、ステージに現れたディランは何と白いスーツ姿。しかも1曲目はみんなが大好きな「激しい雨」・・・なんですが、驚いたことに何とディランが歌わない。インストゥルメンタルです。これには集まった聴衆は度肝を抜かれたに違いありません。まさに今回のライブはこんな感じで行くと目次を見せられたような感じです。

確かにセットリストには有名曲がふんだんに盛り込まれているのですが、今までにないアレンジが施され、曲によっては原形をとどめていないものすらあります。このことと、ディランがラスベガスのスター然とした衣装やバンド編成であったため、日本国内でも本国アメリカでも批判的な論評が多く出されています。

実際のところ、過去の演奏を知らずに初めて聞くなら、うん、そうか、ですむんですが、さすがに思っていたものと違うというのは、聞く側からするとちょっと辛い。その都度、スタイルをガラリと変えてきたのがディランだと思うようにしても、期待との落差は埋められない溝を感じます。

もっともとても聞きやすいディランというのも妙ですが、即興性が目立つディランにアレンジ力が意外とあるという発見もあり、今まで作り上げてきた偶像を破壊するという目的は十分に達成したステージだと言えるかもしれません。ディラン一行は日本公演が終わるとすぐさま移動し、ニュージーランド、オーストラリアで11公演を4月1日まで行い、世界ツアーの第1レグを終了しています。


A Hard Rain's a-Gonna Fall
Repossession Blues
Mr. Tambourine Man
I Threw It All Away
Shelter from the Storm
Love Minus Zero / No Limit
Girl from the North Country
Ballad of a Thin Man
Maggie's Farm
To Ramona
Like a Rolling Stone
I Shall Be Released
Is Your Love in Vain?
Going, Going, Gone
One of Us Must Know (Sooner or Later)
Blowin' in the Wind
Just Like a Woman
Oh, Sister
Simple Twist of Fate
You're a Big Girl Now
All Along the Watchtower
I Want You
All I Really Want to Do
Tomorrow Is a Long Time
Don't Think Twice, It's All Right
It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)
Forever Young
The Times They Are A-Changin'

February 28, 1978, Budokan, Tokyo


A Hard Rain's A-Gonna Fall
Love Her with a Feeling
Mr. Tambourine Man
I Threw It All Away
Love Minus Zero / No Limit
Shelter from the Storm
Girl from the North Country
Ballad of a Thin Man
Maggie's Farm
One More Cup of Coffee (Valley Below)
Like a Rolling Stone
I Shall Be Released
Is Your Love in Vain?
Going, Going, Gone
One of Us Must Know (Sooner or Later)
Blowin' in the Wind
Just Like a Woman
Oh, Sister
I Don't Believe You (She Acts Like We Never Have Met)
You're a Big Girl Now
All Along the Watchtower
I Want You
All I Really Want to Do
Knockin' On Heaven's Door
The Man In Me
It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)
Forever Young
The Times They Are A-Changin'

March 1, 1978, Budokan, Tokyo


Bob Dylan (vo, g, harmonica), Steve Douglas (sax, fl, recorder)
Steven Soles (aco.g, backing vo), Billy Cross (g), Alan Pasqua (key)
David Mansfield (pedal steel g, vn, mandolin, dobro)
Rob Stoner (b, backing vo), Ian Wallace (ds), Bobbye Hall (perc)
Debi Dye, Jo Ann Harris, Helena Springs (backing vo)

☆☆☆☆☆☆・・・・

2026年7月24日金曜日

みょうがサラダ(豚肉の冷しゃぶ)


梅雨が明け、めっちゃ暑い。覚悟していたとは言え、やはり現実に37゚は辛い。

・・・と泣き言を言いたくなるところで、せっかくですから少しでも涼し気な食事にしたいと思い、こんなことをしてみました。

たいしたことをやったわけではありません。

薄切りの豚肉をさっと茹でて、一緒に旬のみょうがメインのサラダを食べようというわけです。

使った野菜は、みょうが、きゅうり、ニンジン、ゴボウです。

ポイントは、できるだけ細く切るところ。みょうが、ゴボウはあくが多い野菜ですから、しっかり水にさらして使います。

味は何でもいいんです。面倒ならポン酢だけでもOK。

今回は、ちょっとエスニック風に、ナンプラーににんにく、砂糖少々と言う組み合わせのドレッシングを作ってかけました。

涼し気で、すっきりした味わいで、この時期ぴったりです。

2026年7月23日木曜日

Around DYLAN - The Band


ボブ・ディランの人物史は、The Band抜きで語ることはできません。メンバーはディランから多大な影響を受けたと同時に、ディランも彼らとの共演はホームのような居心地の良さを感じていたのではないでしょうか。

50年代末にアメリカの歌手のロニー・ホーキンスは自分のバンド、The Hawks (ホークス)を率いてカナダに渡りましたが、ドラムのレヴォン・ヘルム以外が脱退してしまったため、現地でギターのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニュエル、オルガンのガース・ハドソンを採用しました。

1964年からレヴォン&ザ・ホークスとして単独で活動を始めますが、1965年の夏、ロバートソンは偶然にディランが「Like a Rolling Stone」のレコーディング中だったスタジオを見学します。これがきっかけで、秋のライブでロバートソンとヘルムがディランのバックにつくことになりました。しかし、電気楽器を取り入れてロック化したディランの演奏は、純粋なフォーク音楽信奉者から不評を買いました。ライブではブーイングの嵐だったので、耐えきれなかったヘルムは故郷に帰ってしまい、メキシコ湾の石油採掘のしごとに就いたりして放浪するのでした。

残ったロバートソンは他のホークスのメンバーと共にディランのレコーディングに参加した後、1966年春のディランのヨーロッパ・ツアーに同行しました。アメリカに戻った後、ディランの「Blonde on Blonde」の発売直後にディランが交通事故により休養を余儀なくされたため、活動は一時休止になってしまいます。

怪我がおちついたディランは、静養先のウッドストックにメンバーを誘いました。1967年は毎日のようにビッグ・ピンクと呼んだ家で、戻って来たヘルムも含めて私的な「地下室」セッションを続けました。ここから多くのことを学んだメンバーは、1968年に「The Band」と改名し「Music from Big Pink」でメジャー・デヴューを飾ります。

アメリカのルーツ音楽の一つであるカントリー音楽をベースにした、いわゆるルーツ・ロックの先駆けとして彼らのアルバムは絶大な支持を得ました。ヒッピー文化から派生し勢いをつけていたサイケデリック音楽に対抗し、より影響力のあるロック・バンドとして成長していくことになります。

1973年には、再びディランと組んで「Planet Waves」のためのセッションで共演し、そのままの勢いで1974年1月~2月のディランのアメリカツアーを対等な立場で回りました。1966年のツアーとは違い、今回は激しい非難を受けることなく、各地で大歓声で迎えられたのですが、グループ内ではロバートソンの発言力が強まり、リーダーのヘルムとの間の関係がしだいに悪化していたのです。

それでも、彼らはマリブに自分たち専用スタジオ「シャングリラ」を完成させますが、ツアーに疲れたロバートソンとライブをメインに考えるヘルムの確執は広がるばかりで、ついに1976年11月25日のコンサートをもって、バンドを解散することになってしまいます。

この時のライブが「Last Waltz」で、マーティン・スコセッシ監督により映画としても映像が公開されています。ライブにはエリック・クラプトン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズなどの豪華なゲストが登場しましたが、ここでもゲストに誰を呼ぶかでメンバー内では大きな揉め事になっています。

それでも、最後に登場したボブ・ディランとの共演は、全員が一丸となった見事な演奏を聞かせてくれました。このライブは、当初3枚組レコード(CDでは2枚組)として発売されましたが、その後完全版として4枚組CDも登場しています。

その後、ロバートソン抜きで再結成され活動を再開しますが、往年の人気は戻ることはありませんでした。1986年にマニュエルが自殺、1999年にダンコが病死し、事実上活動を停止しました。ヘルムは2012年、ロバートソンは2023年、そしてハドソンも2025年にそれぞれ亡くなっていて、生存するメンバーはいなくなっています。

2026年7月22日水曜日

Around DYLAN - The Byrds


The Byrds(ザ・バーズ)は、1964年にロジャー・マッギン、ジーン・クラーク、デヴィッド・クロスビー、クリス・ヒルマン、マイケル・クラークによって結成された五人組のフォーク・ロック・バンドです。

彼らは、マイナー契約で1枚のシングルを出しましたがまったく売れませんでした。そんな時に、マネージャーとなったジム・ディクソンがディランの熱心なファンだったことから、ディクソンはディランのマネージャーであったアルバート・グロスマンから、まだ未発表だった「Mr. Tambouline Man」のデモ音源を入手しました。

さらにディラン本人が彼らの前で直接演奏をして聞かせたことで、メンバーも受け入れて当初はディランのようにアコースティックな演奏をしました。しかし、ビートルズの影響を受けてロック・ビートを導入するように変更し、さらに彼らの武器である美しいハーモニーを重ねることにしました。

そして、ここで登場するのがジャズの帝王マイルス・デイビス。デモを聞いたマイルスは、今の若者が求めているのはこれだと、コロムビア・レコードに直談判したことで、バーズはディランと同じコロムビアとシングル1枚だけの契約にこぎつけます。そして、1965年4月に「Mr. Tambauline Man」を発売したのです。

事実上のデヴュー作は、なんと爆発的にヒットし全米1位を獲得したことで、バーズはコロムビアと長期契約を結ぶことができました。ちなみに、後年、バーズはマイルスの「Milestones」を、マイルスはバーズの「Guinnevere」をお互いにカバーしています。

その後もディランの多くの楽曲をカバーしていて、1979年にはディランの曲だけでコンピレーションが発売されていますが、2002年の再発売の際にはライブも含めて何と20曲を収録しています。ディラン本人の歌唱は癖があって、中には曲構成がわかりにくいものもあったりしますが、バーズ版で聞くととても音楽的に整っているところが面白い。

デヴュー1年で、フォーク・ロックの概念を作り上げたバーズは、人気も急上昇して海外公演も成功させます。しかし、プロデューサーのテリー・メルチャーは、楽器の演奏は未熟だとしてスタジオ・ミュージシャンを登用する措置を取ったため、主導権を握りたいディクソンと対立し、しだいに間に入ったメンバーも疲弊してしまいます。

1966年には、時代の流れを敏感に感じたバーズは、早くもサイケデリック調を取り入れます。ヒットした不協和音から始まる「Eight Miles High」は、先駆的なサイケデリック・ロックと言われ、これらを含むアルバムは逆にビートルズに影響を及ぼしました。しかしそれぞれの理由でしだいにメンバーが脱退し、マッギンの力が強くなり、ついにはクロスビーとも決裂してしまいました。

1968年には新しいメンバーを導入し、サイケから一転してカントリー・ロックへと方向性を転換します。しかし、メンバー間の軋轢などが相次ぎ迷走したバーズは1973年2月に解散しました。その後も各自がバラバラに活動し、離合集散を繰り返しながらさまざまな揉め事を度々起こすことになってしまいます。

1990年にマイケル・クラークを除いた4人が、50年代後半~60年代前半に人気があったロイ・オービソン追悼公演に揃って出演し、ステージにはディランもゲスト参加して共演を実現しています。

2026年7月21日火曜日

梅雨明け


出たー、昨日、梅雨明け宣言。

去年はなかなか宣言が出なくて、やっと7月18日(頃)でした。

今年は、ほぼ平年並みで、そりゃ、もういいよねという天気です。

昨日は37゜・・・まぁ、このくらいではもう驚きません。横浜気象台の観測データによると、最高気温は34.8゚となっていますが、公式記録はいつも低めですね。

これからが本格的な灼熱列島。くれぐれもしっかりと水分をとって、体調管理をしてください。

一昨日は、バレーボールのネーションズ・リーグで男子が予選全勝の12連勝という快挙に湧きました。決勝トーナメントは女子は22日から、男子は29日から。

そして、昨日は、FIFAワールドカップの決勝で、ランク一位のアルゼンチンと二位のスペインが激突。

スペインの圧倒的な攻めに、アルゼンチンは防戦一方。これはPK戦かと思われた、最後の最後でスペインの劇的な決勝弾が生まれました。

暑い暑いと思っていても、色々楽しみはあるのが夏ですから、少しでも気楽に過ごせるといいんですけどね。

2026年7月20日月曜日

Around DYLAN - Joan Baez


ジョーン・バエズ・・・と呼ぶのが日本では定着していますが、ネイティブには「バイェズ」と発音する方が正しいらしい。ニューヨーク出身ですが。顔立ちからも想像できるようにメキシコ系の生まれで、アメリカの女声フォーク・シンガーとしては第一人者という評価は間違っていません。

生まれたのは1941年で、ボブ・ディランと同い年、誕生日は4か月ほど早い。バエズがいなければ、ディランは誕生しなかったとまでは言えないにしても、世間に知られるのは相当遅れたことだけは確実です。

バエズは13歳の時にピート・シーガ―のコンサートを体験したことで、フォーク・ソングに強い興味を持ち、ボストン大学に進学したものの音楽活動に没頭するようになりました。大学を中退して、クラブで歌うようになり、1959年の第1回ニューポート・フォーク・フェスティバルで飛び入りでステージに立ち、その圧倒的な歌唱力と美声でいっきに有名になります。

多くのレコード会社から誘いを受けたバエズでしたが、小さなヴァンガードという会社と契約。1960年10月に、デヴュー・アルバムが発売されます。これはニューヨークのダンスホールで、ボーカル用とギター用の2本のマイクだけで、一発録りというシンプルな方法でしたが、よりリアルな雰囲気を伝えることに成功していると評価されました。

バエズの生まれた家は、キリスト教の一種であるクエーカー教を信仰していました。クエーカー教は、神父などの仲介者を介さなくても神の精神は個々の中に直接存在すると教えられます。つまり、すべての人は平等であるということが基本であり、絶対的な平和主義のもと暴力を否定します。

従って、その音楽活動もごく自然に平等を訴え、暴力を否定する方向に向かい、公民権運動や反ベトナム戦争というような反体制的な方向が顕著になります。そのため、当時のアメリカ政府機関からは危険人物として監視されていたと言います。

1961年、すでにフォークの女王と呼ばれるようになっていたバエズは、グリニッジ・ヴィレッジのフォーク・クラブで、ミネソタから出てきたばかりの無名の若者だったボブ・ディランと知り合います。外見や声はともかく、ディランの曲には非凡なものを感じ、自身のコンサートにゲスト出演させ世間にディランの存在を広める手助けをしました。

1963年のニューポート・フォーク・フェスティバルでは、ディランと同じステージに登場しデュエットをしたこともあって、ディランの人気は確実なものになったと言えます。この頃から、明らかに二人の関係は恋人であったことは間違いなく、お互いのコンサートに帯同するようになります。

しかし、1965年のイギリス・ツアーでは、バエズも同行しましたが、以前のようにステージに呼ばれて一緒に歌うことはありませんでした。なんとかフォークの世界にとどまるようにとバエズは説得しますが、ディランは次第にバエズに対して冷淡になり二人の関係はツアーの後で決裂したと言われています。そして、1965年のニューポートで、ディランはロック化宣言をして反体制的なフォークから距離を置くようになります。

その後バエズの反戦活動はより活発になり、徴兵反対運動では2回逮捕されています。1968年に反戦活動家のデヴィッド・ハリスと結婚しますが、ハリスは徴兵拒否ですぐさま逮捕・収監されています。1972年のクリスマスには北ベトナムのハノイを訪問し、折しもアメリカ軍の大規模な爆撃(いわゆるクリスマス爆撃)に遭遇し、防空壕の中で歌い続けるという体験もしています。

1975年には、ディランの「Rolling Thunder Revue」ツアーに誘われて、10年ぶりに二人はデュエットを行いましたが、夫婦仲が不安定なディランの私生活の乱れなどから、しだいにツアーは荒れてしまい、バエズも多くの不満を抱えることになってしまいます。

その後もバエズはアムネスティ(国際人権NGO)活動への協力や、南米の軍事政権批判などの活動を続け、一貫して自由・平等の心情を突き進んでいましたが、音楽活動は2018年に引退を表明しています。

2023年にバエズの活動を振り返るドキュメンタリー映画「I Am A Noise」が公開されました。楽しいだけではない苦しいことも多かったバエズの音楽人生が、主観的かつ客観的にまとめられていて、大きな話題になりました。また、デヴューから1966年までのディランを追いかける伝記映画「名のなき者 / A Complete Unknown」がティモシー・シャラメ主演で公開され、バエズ(演じたのはモニカ・バルバロ)との関係も詳しく描かれています。

2026年7月19日日曜日

Hard Rain (1976)


1976年1月年明け早々、ボブ・ディランのニューアルバム「Desire」が発売され大ヒットしました。ディランは前年の「Rolling Thunder Revue」ツアーの最終日を、冤罪の殺人罪で投獄された黒人ボクサー、ルービン・"ハリケーン"・カーターの救済支援のため慈善コンサートにしましたが、その熱気をそのまま引き継ぎ1月25日にテキサス州のヒューストン・アストロドームで2回目の慈善コンサートを開催します。

ジョーン・バエズとお馴染みとなったツアー専用バンドであるGuamのメンバーに加えて、スティーヴィー・ワンダー、リンゴ・スター、カルロス・サンタナ、スティーヴン・スティルス、アイザック・ヘイズ、ドクター・ジョンなど前年以上に豪華なゲストが集結した賑やかなものとなりました。ただし、実は様々な出費がかさみ、カーターへの寄付はほとんど残せなかったようです。

そもそも前年のツアーが、大勢のギャラと小さい会場での売り上げ減少により巨額の赤字を生んでいました。プロモーター側からの要請で、少しでも挽回する必要に迫られたディランは、4月から5月にかけて「Rolling Thunder Revue」第2期ツアーを行うことになりました。気の置けない仲間たちと楽しく旅芸人一座のように各地を回り、即興性を重視した観客との距離が近いステージ・・・というディランの元々の理念は、ここで完全に崩壊してしまいます。

つまり、興行収入を増やすために、スタジアムやアリーナといった、音楽が商業主義化したとディランが嫌悪した大規模会場ばかりでツアーが組まれたのです。フロリダ州レイクランドで4月18日に始まったツアーは、フロリダ州、ジョージア州、テネシー州、アラバマ州、ミシシッピ州、ルイジアナ州、テキサス州、オクラホマ州、カンザス州、コロラド州、ユタ州という具合に南部を中心に5月25日までの5週間に27公演という過密スケジュールで強行されました。

しかも、大規模会場に関わらず事前のプロモーションが不十分で満員にできない会場が続出します。最終日のユタ州ソルトレイクでは、急遽組まれたことにあって客席は半分しか埋まらないという惨状でした。少しでも資金を回収せざるをえなくなったディランはテレビ放送を受け入れ、5月23日のコロラド州フォート・コリンズのライブが撮影されました。

アメリカで9月に放送された際には、怒りにまかせたようなディランの絶叫ばかりが悪目立ちして、高評価だった前年のツアーと比べて酷評が並びました。実際、第2期ツアーは経済的な問題だけでなく、多くの問題が噴出し崩壊寸前だったと言われています。なお、公式のDVDなどは発売されていませんが、テレビ放送された分については1977年に日本でも放送されたので、今でもネットなどで視聴が可能です。

特に大きな問題となったのは、下世話な話で恐縮ですが、第1期の始めからツアーの現場に離婚危機にあったディランの妻サラが同行していたことにあります。これは同時に撮影されていた映画「Renaldo & Clara」のクララ役という理由だったのですが、ディランとバエズの関係改善の様子がサラの怒りを買い荒れる原因になりました。

第2期ではサラは同行していなかったのですが、ディランは経済的なことも含めて精神的にかなり追いこまれていて、バエズに対してもかなり厳しい態度を取るようになったらしい。バエズはバエズで、映画で「元恋人」役をやらされたことに強い不満がありました。また、キャストと同じ扱いを受けるはずだったスタッフが、第2期では格差をつけられたことも、自由・平等を信条とするバエズには納得できないことでした。

ジョニ・ミッチェルやロジャー・マッギン、ロニー・ブレイクリーらの看板ミュージシャンは参加せず、他のメンバーもあくまでも雇われたからという感覚になり、バエズさえも自分の出番が終わると会場を後にしてしまうようになります。また、ディランの荒れた心を反映してか、彼らの間にマリファナやコカインが蔓延し、より人間関係を悪化させたといわれています。

コロムビア・レコードは公式に公演のレコーディングをしていましたが、テレビ局との連動企画として、5月23日のライブを中心としたアルバムを制作し、テレビ放送に合わせてディランの2番目のライブ盤として発売しました。過激すぎるディランが不評だったのは、テレビ特番と同じですが、今の耳で聞くとフォーク・ロックの延長にある第1期と対照的なハードなディランもなかなか興味深い。

さんざん関係修復を願って歌い続けたのに、おそらくツアーの中でサラとの関係はついに崩れ去り、ディラン自身も修復不能であることを認めざるをえない状況になったのだと思います。その精神の葛藤は、この第2期ツアーで大暴走・大爆発し、共演者を置き去りにして収拾がつかないほど過激な演奏となり、一音一音、一言一言が怒りと恨みに満ちたようなライブになった・・・くらいの説明ができそうなくらい強大なエネルギーが放出されています。

音楽としてのフォーマットはなし崩しになり、ある意味すさまじさを感じます。反骨精神のもとに演奏技術よりも生々しい叫びやメッセージ性を重視する「パンク」という音楽の呼び名は、まだ一般にはあまり浸透はしていなかった頃ですが、もしかしたらここから始まったのかと思えたりもするのが愉快です。

個人的には、このディランもディランの多面性の一つとして問題なく許容できます。むしろ、もっと聞きたい欲求もありますが、第2期ツアーの全貌がわかるようなCDボックスが発売されれば、次第に破綻していく過程も明らかになり興味は尽きません。ただし、内容が内容だけに公式にこれ以上の音源が登場することは難しいかもしれません。


Maggie's Farm
One Too Many Mornings
Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again*
Oh, Sister*
Lay Lady Lay*
Shelter from the Storm
You're a Big Girl Now
I Threw It All Away*
Idiot Wind

Bob Dylan (vo, g)
T-Bone Burnett (g, pf), David Mansfield (g, pedal steel guitar)
Bob Neuwirth (g, back vo), Scarlet Rivera (vn), Mick Ronson (g)
Steven Soles (g, back vo), Rob Stoner (b, back vo), Joan Baez (g, back vo)
Howard Wyeth (ds, pf), Gary Burke (ds)

May 16, 1976, Fort Worth, Texas*
May 23, 1976, Fort Collins, Colorado

☆☆☆☆☆☆☆☆・・

2026年7月18日土曜日

IHクッキングヒーター


もう、ずいぶん前にもともの据え置きのガスコンロが壊れて、IHクッキングヒーター2台を利用していました。

最初のうちは火力が弱いとか、フライパンを持ち上げて振れないとか、不便を感じたものですが、慣れと言うのは恐ろしいもので、いつの間にか何の違和感も無くなっていました。

で、、、2つのうち1つが壊れた。温度感知のセンサーがいかれてしまいました。

急遽カセットガスコンロの出動となり、とりあえずしのいでいたんですが、あることに気がつきました。

火は熱い!!

当たり前ですが、IHに慣れると調理器具に手が近づいても熱くないんです。炎が無いと言うことが当たり前になると、同じような操作をしているとガスコンロは火傷しそうになる。

夏場になると、台所の暑さもパワーアップしていそうで、こりゃ、かなわん、ということになりました。

そこで、Amazon Prime dayセールで、ネットのおすすめ第1位の山善の製品が安くなっていたので、まとめて2台購入しました。

いやいや、1台でいいんじゃない・・・と思うかもしれませんが、実はもう1台も温度センサーが怪しくて、高温で停止というのが頻繁に起こっていて使いにくくなっていたんです。

IHクッキングヒーターの火力は、どこのメーカーでも最大1400Wみたいです。それでもちょっと足りないとおもうことがあるので、それ以下は間違いなく却下。

どうせ2台なら、最初から二口コンロのものがあるんですが、1400Wとなっていても二口ともではなくて、片方は低出力の仕様になっているものがほとんど。だったら、二口1台より一口2台の方が使い勝手は良くて、しかも値段も安くなると言うことになりました。

カセットガスコンロは、いいんですけどボンベが連続で1時間で空になるので、これをメインに使うと、大量のボンベを消費することになります。やはり特別な料理の場合とか、災害時用としてキープしておくのが正解だと思います。

2026年7月17日金曜日

Night of Hurricane (1975, unofficial)


ボブ・ディランを聴きこんでいく上で、公式盤だけ聞いていればいいはず・・・だったんですが、ディランのタレントがわすが両面で40分程度レコード盤で収まるわけがないことを痛感するばかりです。ディランの音楽が一個人の音楽史にとどまらず、ある意味アメリカ近代文化史を書き換えてきたという事実の重みを理解するためには、「The Bootleg Series」のようなアーカイブ音源を揃えても不十分で、非公式の海賊盤も時には必要とします。

特に1975年の「Rolling Thunder Revue」ツアーは、ロックのみならず大衆音楽史の中で。伝説中の伝説と呼ばれるものです。21世紀になって発売された公式盤はその片鱗を捕えていることは確かなのですが、それはディランのライブの一つという枠を超えるものではありません。ステージの全貌を理解するためには、すべての出演者を含めた全体の流れを知る必要があります。

ツアーの最終日、1975年12月8日。ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで行われた、ルービン・カーター救済コンサートは、ゲストも多く、何と250分という長丁場のコンサートになりました。もっとも他の会場でもだいたい3時間越えですから、観客もさぞかし大変だったかもしれません。幸い、サウンドボードからの大変音質の良い海賊盤が普及しているので、順番に聞いていきます。

まず登場するのはボブ・ニューワースです。ヒット曲があるわけではありませんが、フォークやロック音楽を陰で支えた功労者で、ディランにとっても本音で語れる数少ない友人の一人で、ツアーのメンバー集めにもかなり動いたようです。

次はTボーン・バーネット。今でこそグラミー賞を何度も受賞したプロデューサーとして有名人ですが、この時は駆け出しのギタリストで、ニューワースに見いだされて参加しました。そして、「Desire」でベースを担当し混乱したセッションをまとめあげるのに貢献したロブ・ストーナーが続きます。

ディランにキリスト教をすすめ、しばらくバンドに残ったスティーヴン・ソールズに続いて登場したのが、何とミック・ロンソン。デヴィッド・ボウイの初期を支えたハード・ロッカーで、フォーク系のメンバーが多い中では異色の存在ですが、全体の音を厚くする仕事をしています。そして、「Hurricane」の再録音で急遽呼ばれてそのままツアーに参加したロニー・ブレイクリーがピアノの弾き語りを披露します。

ここまでは今回のバンド・メンバーの顔見世という感じ。ディランはこのバンドをGuamと呼んでいました。「Desire」の立役者、ジプシー・バイオリンを弾くスカーレット・リベラも、Guamの一員として大活躍です。さて、続いてツアーにずっと帯同してきた一人目のゲスト、ジョニ・ミッチェルが登場し4曲を歌います。

ここまででおおよそ1時間というところ。ここで、慈善コンサートの目的であるルービン・カーター救済のために各界の有名人(モハメッド・アリ、ビル・フランクリンなど)がステージに上がり約17分間のスピーチタイムとなります。獄中のカーターも電話で出演するというおまけつき。

そして、このライブだけの最初のスペシャル・ゲストが登場します。若き日のディランのフォークのアイドルの一人と、ディラン自ら紹介されたのはランブリン・ジャック・エリオットで、ウディ・ガスリーと行動を共にしてガスリーのスタイルを継承した人物です。エリオットは4曲歌って喝采を浴びてステージを後にし、いよいよ真打ディランの番です。ハードなロック版ディランが7曲続きますが、この中の1曲でThe Bandのロビー・ロバートソンが飛び入りで参加しています。

ディランがフォークギターに持ち替えると、ジョーン・バエズが登場し、弾き語りデュエットで6曲を歌います。以前は、好き勝手に歌うディランに天才的に寄り添うハーモニーをつけたバエズですが、ここではディランに負けない勢いで差し込んでいく感じです。ここでディランは一度引っ込んで、バエズのソロが6曲。ヒット曲の「Diamonds and Rust」はかつての恋人ディランを歌った曲なので、この場で歌われるというのは感慨深いものがあります。

バエズに紹介されて登場した今夜限りの二人目のゲストはロバータ・フラック。美しい透き通る声に癒されます。そして、ツアーの功労者の一人、元バーズのロジャー・マッギンがソロを取りますが、バーズのヒット曲「Eight Miles High」には観客は大喜びだったでしょう。

そしてディラン再登場で、「Hurricane」を含む8曲を熱唱し、全員でガスリーの「This Land is Your Land」を歌い上げて長いコンサートが終了しました。いやぁ、お疲れさまでした。お付き合いくださりありがとうございます・・・という感じですが、スピーチの部分はともかく、音楽についてはなかなかうまく配置された構成でけっこう飽きずに聴くことができます。

ディラン21曲に対してバエズは12曲に登場ですから、バエズがこのツアーの成立におおきく関わる大看板であったことがわかります。ツアー参加し同行した人の中には、名優として有名なサム・シェパードがいました。彼は、「Renaldo & Clara」の脚本家として誘われたのですが、ほとんど書いた脚本は無視されて、ひたすらディランら一行を観察する羽目になり、後に手記を出版しています。またディランの古い友人であるビート・ジェネレーションの詩人、アレン・ギンズバーグも帯同しステージで詩の朗読などをしていました。

ディランをはじめ、メンバー全員が、音楽は楽しむものだということを実践したツアーで、個々の満足感はかなりあったようです。全員が気迫を持ってステージに挑み、芸術としては大成功であったと言えますが、どう考えても大人数で小さな会場ばかりでライブをすれば、おのずと赤字になることは陽を見るより明らかで、全31公演の興行収入は200万ドルほどだったのに対して経費は想像を絶する額だったようです。

1975年のツアー終了直後、すぐさま翌年の第2期ツアーの計画が立てられました。しかし、北東部中心に回った第1期が莫大な赤字を出したことにより、今度は南部の大きな会場で告知も余裕をもって集客に努める方針に変更されたため、そこにはディランが求めた「即興的な旅芸人一座」というコンセプトは失われていくことになります。


Good Love Is Hard To Find (Bob Neuwith)
Introduction (Announcement)
Sleazy (Bob Neuwirth)
Hula Hoop (T-Bone Burnett)
Too Good To Be Wasted (Rob Stoner)
Laissez Faire (Steven Soles)
Life On Mars (Mick Ronson)
Band Introduction (Announcement)
Alabama Dark (Aka Hank Williams) (Bob Neuwirth)
Need A New Sun Rising (Ronee Brakely)
Cindy (When I Get Home) (Bob Neuwirth)
Mercedes Benz (Bob Neuwirth)
Shadows And Light (Joni Mitchell)
Coyote (Joni Mitchell)
Edith And The Kingpin (Joni Mitchell)
Don't Interrupt The Sorrow (Joni Mitchell)
Speech (Bill Franklin, Muhammad Ali & Others)
Ramblin' Jack (Announcement)
Muleskinner Blues (Ramblin' Jack Elliot)
Pretty Boy Floyd (Ramblin' Jack Elliot)
Salt Pork, West Virginia (Ramblin' Jack Elliot)
I'm A Rich And Ramblin' Boy (Ramblin' Jack Elliot)

When I Paint My Masterpiece (Bob Dylan)
It Ain't Me, Babe (Bob Dylan)
The Lonesome Death Of Hattie Carroll (Bob Dylan)
Tonight I'll Be Staying Here With You (Bob Dylan)
It Takes A Lot To Laugh, It Takes A Train To Cry (Bob Dylan w/Robbie Robertson)
Romance In Durango (Bob Dylan)
Isis (Bob Dylan)

The Times They Are A-Changin' (Bob Dylan & Joan Baez)
Dark As A Dungeon (Bob Dylan & Joan Baez)
Mama, You Been On My Mind (Bob Dylan & Joan Baez)
Never Let Me Go (Bob Dylan & Joan Baez)
I Dreamed I Saw St. Augustine (Bob Dylan & Joan Baez)
I Shall Be Released (Bob Dylan & Joan Baez)

Diamonds And Rust (Joan Baez)
Swing Low, Sweet Chariot (Joan Baez)
Prison Trilogy (Joan Baez)
Joe Hill (Joan Baez)
Long Black Veil (Joan Baez)
Please Come To Boston (Joan Baez)
Introduction (Announcement)
25th Of Last December (Roberta Flack)
Why Don't You Move In With Me? (Roberta Flack)
Eight Miles High (Roger McGuinn)
Chestnut Mare (Roger McGuinn)
The Night They Drove Old Dixie Down (Roger McGuinn)

Love Minus Zero/No Limit (Bob Dylan)
Simple Twist O'Fate (Bob Dylan)
Oh, Sister (Bob Dylan)
Hurricane (Bob Dylan)
One More Cup Of Coffee (Bob Dylan)
Sara (Bob Dylan)
Just Like A Woman (Bob Dylan)
Knockin' On Heaven's Door (Bob Dylan)
This Land Is Your Land (All Members)

December 8, 1975, Madison Square Garden, NYC

☆☆☆☆☆☆☆・・・

2026年7月16日木曜日

The Bootleg Series Vol.5 The Rolling Thunder Revue (1975, release 2002)


1974年から1976年はボブ・ディランのこれまでの音楽人生の中でも、最も創作意欲が高まった絶頂期といわれています。特に、伝説となった「Rolling Thunder Revue」ツアーは、ロックだけでなくポピュラー音楽史上一つの到達点としていまだ語り継がれています。

1974年のThe Bandと組んだ巨大スタジアムを中心としたツアーは、観客との距離が遠くディランにとってはむしろ孤独感を感じるものでした。商業的には成功したものの、ロック産業の中で金蔓として利用されて疲弊していく感覚の中で、もっと小さな会場で臨機応変な即興性を重視したい気持ちが強まったのです。

「Blood on the Tracks」が好評で一息ついたディランは、自分のスタート地点だったニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジに出入れするようになり、旧友たちとの再会で「音楽が好きで楽しかった」時のことを思い出したのだろうと思います。彼らを集め音楽を創作する最初の行動が「Desire」のセッションでした。

またこの時期にフランス南部の地中海沿いの町を訪れたディランは、ジプシー文化に触れ、キャラバンを組んで行く先々で歌ったり踊る彼らの文化を自分のツアーに取り入れることを思いつきました。気のおけない仲間たちと集団で移動しながら、事前告知なしに客との距離が近い小さな劇場で、いろいろな音楽を楽しみながら演奏するというコンセプトが具体化したのが「Rolling Thunder Revue」だったのです。

「Desire」のセッションの仲間たちを中心に、賛同したミュージシャンやスタッフなど総勢70名ほどの大所帯がバスで移動するツアーは、建国200年を迎えたアメリカにとって1620年にメイフラワー号で清教徒が大陸に初上陸した建国の地、マサチューセッツ州プリマスで10月30日から開始されました。

その後ロードアイランド州、バーモント州、ニューハンプシャー州、コネチカット州、ニューヨーク州を経て、カナダに渡りトロントやモントリオールでもライブを行いました。12月にアメリカに戻り、最終的に12月8日にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで千秋楽を迎えます。

最終日は「Night of the Hurricane」と題された、黒人差別により殺人の冤罪を着せられたルービン・"ハリケーン"・カーター救済のための慈善コンサートでした。このコンサートには、さらに追加のゲストが加わり、またモハメッド・アリらによるスピーチも行われています。

このツアーの特異な一面は、ディランをはじめ多くの出演者が顔を白塗りにしたり、仮面を被ったり、あるいは特徴的なメイクをしてステージに上がったことがあげられます。これはフランス映画の名作「天井桟敷の人々」からヒントを得たものと思われますが、自分を隠すというより、表面的な部分を消し去ることでより本来の自分の姿を表現するためだったといわれています。

この1975年のツアーは、多数の海賊盤によってマニアの間では知られていましたが、長らく公式音源は発売されないままでした。しかし、ついに2002年に「The Bootleg Series Vol.5」の2枚組CDとして、主としてボストン、ケンブリッジ、モントリオールでライブからディランのステージを再現したベスト選曲という形で発売されました。

全22曲のうちかつての盟友、ジョーン・バエズとの共演が4曲含まれています。バエズとフォーク期のディランは、間違いなく恋人の関係だったわけですが、バエズの説得を無視してディランが反体制的なフォークからロックへ転向したことで関係は決裂していました。原点回帰を目指していたディランはバエズに声をかけ、バエズも音楽的なリスペクトとツアーそのものの意義を感じたことで参加を決めたようです。

サーカスや旅芸人一座のようなステージですから、バエズもソロの時間もありましたし、他にも何人かが主役のコーナーも設けられ、1回のステージは3時間以上のものだったのですが、残念ながらCDではすべてカットされています。ほとんどの公演は正式に録音されていたので、やや中途半端な感じは否めません。

その後、2019年になって14枚組のボックスCDで「The Rolling Thunder Revue  / The 1975 Live Recordings」が発売されました。10月に行われたリハーサルがCD3枚、11月19日のマサチューセッツ州ウースター、11月20日のマサチューセッツ州ケンブリッジ、11月21日のマサチューセッツ州ボストン(昼夜の両公演)、12月4日のカナダのモントリオールでのディランの演奏のすべてがそれぞれ2枚のCDに収録されています。

これは同年Netflixで公開されたマーティン・スコセッシ監督による「Rolling Thunder Revue: A Bob Dylan Story」に連動した企画でしたが、そもそも2時間20分に及ぶ映画の素材となる映像が残っていたことに驚きます。実は、このツアーはディランのアイデアで、自ら監督を務めた「Renaldo & Clara」という映画の撮影が同時に行われて、その中にステージ上あるいはステージ裏の光景がふんだんに盛り込まれていたのです。

ただし、ボックスセットもディランのステージのみに編集されていて、バエズとのデュエット以外は含まれていないことがとても残念です。これはあまりに出演者が多すぎて権利関係の手続きが煩雑すぎること、そしてそれらに興味を持つ人にはすでに多く出回っている海賊盤があるというコロムビアの開き直りもあるようです。

ちなみに「Renaldo & Clara」の映画は、ディランが「天井桟敷の人々」に触発されたもので、1978年に公開されました。しかし、4時間近い上映時間とストーリーらしいストーリーが無いため、難解で散漫と不評で数週間で上映中止となっています。スコセッシ版は、主としてツアーに的を絞ったドキュメンタリーですが、実はモキュメンタリー形式(架空の出来事を実際のドキュメンタリーのように演出するもの)になっていて架空のインタヴューなどが盛り込まれています。


Tonight I'll Be Staying Here with You
It Ain't Me Babe
A Hard Rain's a-Gonna Fall
The Lonesome Death of Hattie Carroll
Romance in Durango
Isis
Mr. Tambourine Man
Simple Twist of Fate
Blowin' in the Wind*
Mama, You Been on My Mind*
I Shall Be Released*
It's All Over Now, Baby Blue
Love Minus Zero/No Limit
Tangled Up in Blue
The Water Is Wide (traditional)*
It Takes a Lot to Laugh, It Takes a Train to Cry
Oh, Sister
Hurricane
One More Cup of Coffee (Valley Below)
Sara
Just Like a Woman
Knockin' on Heaven's Door


Bob Dylan (vo, ele.g, aco.g, harmonica)
Joan Baez (vo*, aco.g, perc), Ronee Blakley (vo)
T-Bone Burnett (ele.g, pf), David Mansfield (Dobro, mandolin, violin, steel guitar)
Roger McGuinn (ele.g, vo), Bob Neuwirth (aco.g, vo), Scarlet Rivera (vn)
Luther Rix (perc, ds), Mick Ronson (ele.g), Rob Stoner (b)
Steven Soles (aco.g, ele.g, vo), Howie Wyeth (ds, pf)

November 19, 1975, Memorial Auditorium, Worcester, MA
November 20, 1975, Harvard Square Theatre, Cambridge, MA
November 21, 1975, Boston Music Hall, MA
December 4, 1975, Montreal Forum, Canada

☆・・


2026年7月15日水曜日

Desire (1976)


1975年1月に発売された「Blood on the Tracks」の成功は、ボブ・ディランとコロムビア・レコードに安堵をもたらしました。しかし、ディランの結婚生活の破綻危機からの精神的な疲労は続いていて、春になると一人でニューヨークに舞い戻ります。3月にはニール・ヤングとの共演を行なったり、あちこちのクラブに出没していましたが、偶然に街で旧知のジャック・レヴィと再会したことで新たな創作意欲が湧きあがりました。

ジャック・レヴィはブロードウェイで結果を出していた劇作家・演出家で、主観的な歌作りに限界を感じていたディランはそのままレストランに誘い、客観的な創作を仕事にするレヴィに相談したのです。すぐさま二人は言葉とメロディのアイデアを出し合い、今までのディランにはなかった物語がある映画のような世界観の曲が次々に出来上がりました。

今までごく一部で他人との共作がありましたが、あくまでも曲全体をよくするためのアイデアを出し合うというようなものでした。ディランは、基本的にはまったくのトラディショナル曲でなければ、ディラン独りの自作曲ばかりを歌ってきました。完全な分業・共作というスタイルは初めての試みでしたが、孤独な世界にうんざりしていたディランにとっては、おそらく大きな救いだったのではないかと思います。

前作が主役と数人のエキストラというような雰囲気の中で作られたことの反動で、ディランはこれらの新曲録音に際してとんでもない方法を考え付きます。ディランは孤独から脱却して、大勢の中から偶発的に発生する即興性を目指すために、有名無名を問わず、多くのミュージシャンに参加を打診しました。

この結果、7月14日の最初のセッションでスタジオに集まったミュージシャンは十数人でしたが、その中にはデイブ・メイソン(元トラフィックのギタリスト)もいました。しかしこの日のセッションでは、思っていたような結果が出せず、ディランとレヴィは再度曲作りからやり直します。

7月28日に2回目のセッションが行われましたが、これが伝説のカオス・セッションとして有名です。音を残した人だけでも21人、外野席を合わせるともっと大勢の人がいたらしい。エリック・クラプトンも参加していたのですが、ちょっとだけ演奏してあまりの混乱にあきれて帰ってしまいました。これら2回のセッションでのテイクは、あまりに音が多すぎてどうにも整理がつかず、クラプトンが参加した1曲を除いてすべてボツになっています。

ただし、特筆すべき二人の女性がいました。嘘のような本当の話ですが、バイオリン・ケースを持って街を歩いていたアマチュア演奏家だったスカーレット・リベラは、たまたま車で通りかかったディランに、バイオリンが弾けるなら、今度セッションに来てよと「ナンパ」されたのです。初回から参加したリベラのジプシー・バイオリン奏法による音色は、確実にアルバムの付加価値となりました。

1回目のセッション後に、ディランは女性ボーカルがいたほうがいいと考え、人選を会社に任せました。担当者の推薦で、カントリー歌手としてデヴューしたばかりのエミルー・ハリスが呼び出され、2回目のセッションでいきなり歌詞だけ渡され、後はディランの歌に合わせてぶっつけ本番でハーモニーをつけたのです。しかし、結果として、ほとんどディランとハリスのデュエットと言ってもいいようなテイクが数多く採用されました。

7月29日、30日、31日と続いたセッションでは、困惑したベテラン勢はしだいに顔を出さなくなりますが、リベラとハリスは最後までディランに食いついたことは驚異的なことでした。大混乱のセッションでしたが、ここまでで何とかアルバムとしての使える音源が揃ったことになります。

冒頭曲「Hurricane」は、いきなりリベラのバイオリンが強烈な印象を残すアップテンポのナンバーですが、1966年に発生した殺人事件が題材になっています。犯人として拘束されたのは、世界チャンピオンも狙えると言われていた黒人プロ・ボクサーのルービン・"ハリケーン"・カーターでした。証人の偽証、警察の証拠捏造、人種差別により意図的に選ばれた陪審員などが後年明らかになっていますが、無期懲役となったカーターが1974年に出版した自伝によってディランの知るところになります。

カーターの冤罪を訴える内容の歌になっていて、この歌の影響で多くのカーター救済の運動が活発化したことは間違いありません。最終的にカーターが自由の身になったのは1988年のことで、冤罪が証明されるまでにさらに十数年を要したことになります。7月のセッションで一度OKテイクが出ていましたが、一部の歌詞に事実誤認があるとして10月に歌詞を変えてこの曲だけが再録音されました。ハリスは参加できなかったため、ここで聞ける女性ボーカルはロニー・ブレイクリー(女優でカントリー歌手)が担当しています。

「Isis」では神秘的な女性との恋が破局し、宝探しの旅に出るものの失敗して女性の元に戻るというもの。「Mozambique」は、国として独立したばかりでしたが、政治的な面には触れず、ディランとハリスが陽気な南国の様子をポップに歌い上げます。リベラの哀愁を帯びたバイオリンが際立つ「One More Cup of Coffee」は、ジプシーの娘に恋した盗賊が死の谷に向かう前に一杯のコーヒーを希望するという内容。

「Oh, Sister」は、ぶっつけ本番のハリスの緊張感が最も効果的だったラブ・ソング。「Joey」は11分の大作で、1972年に暗殺された実在のニューヨーク・マフィアを歌い上げます。「Romance in Durango」はカオス・セッションの唯一のテイクで、悪漢と恋人の逃避行の歌。「Black Diamond Bay」という名の孤島のホテルに人々が集いますが、火山の噴火ですべてが失われる様子を、自分はニュースで見ている。「Sara」は、妻のサラの実名を冠した直接的な復縁を乞うラブ・レターです。しかも、サラが見学に来た日に、サラの目の前で録音されたというから驚きです。この曲だけがディラン単独の作詞・作曲です。

翌年の1976年1月早々に発売され、このアルバムも高い評価を得て、ダブルミリオンを達成してファンにも広く受け入れられました。ただしマフィアを美化したような「Joey」だけは厳しい批判を招いています。また、アルバムからは外れましたが、ディランとハリスの激しいデュエットが聴けるロック・ナンバー「Rita May」が、後にシングル盤として登場しています。


Hurricane
Isis
Mozambique
One More Cup of Coffee
Oh, Sister
Joey
Romance in Durango
Black Diamond Bay
Sara

Bob Dylan (vo, g, harmonica)
Scarlet Rivera (violin), Emmylou Harris (vocal), Vincent Bell (ele.g)
Rob Rothstein (b), Erik Frandsen (slide guitar), John Sussewell (ds)
Howard Wyeth (ds), Domonic Cortese (accordion), Steven Soles (g), etc.

July ~ October, 1975, NYC

☆☆☆☆☆☆☆☆☆・

2026年7月14日火曜日

岩泉ヨーグルト


岩泉というのは岩手県下閉伊郡にある町の名前で、岩泉町は本州では、一番面積が広いらしい。

観光地としては龍泉洞という鍾乳洞が有名ですが、最近とくに話題になったものがあります。

それがヨーグルト。

岩泉ホールディングス株式会社が作っているもので、大谷翔平選手が自分の出身地の名物として「世界一」と絶賛したそうです。

・・・当然、いっきに手に入りにくくなる。ネットで高価転売が始まるわけなんですが、多少落ち着いてきたようで、とある〇城△井というスーパーで売ってました。

で、買いました。

食べました。

味は・・・普通に美味しい。これが世界一かどうかはわかりませんが、確かに美味しいと思います。

それよりも特徴は、まるでギリシャアイスクリームのような独特の伸びと粘り気があるところ。

袋に詰めてからの後発酵というのがポイントらしい。それを低温長時間発酵という手法で実現して、生乳の香りと旨味を引き出しているとのこと。

1kg入りで900円で、安くはないけど、めちゃめちゃ高いというほどでもない。

みかけたら、一度お試しを。

2026年7月13日月曜日

Blood on the Tracks (1975) Part2


ニュー・アルバムのレコード・プレスが開始されようと言うタイミングで、急遽工程にストップをかけたボブ・ディランは、ただちに弟のデヴィッドに楽器の調達と地元のミュージシャンを集めるように依頼し、12月27日と30日にミネアポリスの小さなスタジオに入りました。

当然コロムビア・レコードは、ディランのコロムビア復帰作第1弾として大がかりなプロモーションなどを含めた準備をしていたわけで、レコード・ジャケットは印刷が終了し完成済みです。さすがに焦りまくって怒り心頭ですが、何しろ復帰契約でレコード制作に口を出さないと約束させられていますし、ディランだけでなく会社としてももしも売れなかったらと言う不安も抱えていたので受け入れるしかありませんでした。

ディランが弟の助言で発売を踏みとどまったテスト盤は、わずか5枚しか存在しないらしいのですが、そのセッション音源の一部はコンピレーションである「バイオグラフ(1985)」、「The Bootleg Series Vol.1 ~ 3(1991)」に収録されました。というのも、1975年1月の公式盤発売の数か月後という早い段階から、回収できなかったテスト盤をベースにしたニューヨーク・セッションの流出音源が多数の海賊盤として流通する事態が起こったため、これらに一定の歯止めをかける目的がありました。

そして2018年には「The Bootleg Series Vol.14 More Blood, More Tracks」が発売され、先行したニューヨーク・セッションのほぼ全貌がCD6枚で公になっています。また2019年には、全世界で7,500枚という限定アナログ盤でテスト盤が復刻されています。ミネアポリス・セッションについては、公式盤に収録された5曲のマスター以外は、その他の音源はまったく見つかっていません。

興味が無い方には、そもそもテスト盤なんてどうでもいいことなんですが、テスト盤では伴奏のバンドは入らないか、あっても本当に軽めのサポートなので、アコースティックな雰囲気に終始します。一方、公式発売盤はバンドによる伴奏がしっかりと効果をだしているので、一聴するとかなり違った印象を受ける仕上がりなのです。

ロックのオールタイム名盤100選とかのランキングで必ず上位に登場するアルバムが、2つの異なる雰囲気を持ったバージョンが存在していることは、ディランの音楽を聴いていく上で簡単には無視できないポイントになっているのです。

テスト盤として配布された内容は、曲目・曲順は発売盤とまったく同じです。全10曲のうち「Simple Twist of Fate」、「You're Gonna Make Me Lonesome When You Go」、「Meet Me in the Morning」、「Shelter from the Storm」、「Buckets of Rain」の5曲はテスト盤からそのまま、あるいは少しの変更が加えられて発売盤に採用されています。

他の5曲は、ミネアポリスで急遽行ったセッションの演奏が採用されていますが、ここでもニューヨーク・セッションと同じように、ディランは集まったミュージシャンに対して、最低限の曲の説明しかせず、一発録りの緊張感を重視しました。

Tangled up in Blue
テスト盤(Take 3, Remake 3)ではアコースティックギターとベースのみで、ディランはゆったりとしたテンポで思い入れたっぷりに歌います。ミネアポリス盤では、キーを上げテンポアップした躍動感のあるフォーク・ロックになり、アルバムのオープニングにふさわしくなったように思います。

Simple Twist of Fate
同じテイク(Take 3, Remake)が使われました。ディランの弾き語りにベースのみが絡むスタイル。

You're a Big Girl Now
テスト盤(Take 2, Remake)はディランの弾き語りにスティール・ギターが控えめに間を埋めていました。ミネアポリス盤ではオルガン、アコースティック・バンド・サウンドが追加されています。

Idiot Wind
テスト盤(Take 4, Remake)は、短いイントロに続いてアコースティック・ギターとベースのバックにオルガンが薄く響きます。ミネアポリス盤はイントロなしで、ボーカル、ドラムとオルガンが一気にスタートし、強めのロックになっています。

You're Gonna Make Me Lonesome When You Go
同じテイク(Take 2, Remake 2)が使われました。ディランの弾き語りにベースのみが絡むスタイル。

Meet Me in the Morning
同じテイク(Take 1)が使われました。ニューヨーク・セッションで、唯一フル・エレクトリック・ブルース・バンドをバックにしています。

Lily, Rosemary and the Jack of Hearts
テスト盤(Take 2)は、 弾き語りとベースのみ。歌詞は15節まで。ミネアポリス盤は陽気な雰囲気が漂う、テンポアップしたホンキートンク・カントリー調のバンド・アレンジに変更。歌詞は1節へって、全体の長さも1分ほど短縮しました。

If You See Her, Say Hello
テスト盤(Take 1, Remake)はディランの弾き語りに、マンドリンが寄り添い、ベースとドラムはかなり控えめ。ミネアポリス盤は、ギターのストロークをおさえて、オルガンの柔らかな伴奏が目立ちます。歌い方もより落ち着いた感じです。

Shelter from the Storm
同じテイク(Take 4)が使われましたが、テスト盤はディラン一人舞台だったのが、発売盤ではベースがミックスされています。

Buckets of Rain
同じテイク(Take 4, Remake 2)が使われました。ディラン一人の弾き語りです。

また、ニューヨーク・セッションでは、「Up to Me」、「Call Letter Blues」、「Spanish is the Loving Tongue」の3曲がouttakeとなり収録が見送られています。「Spanish is the Loving Tongue」は古いフォーク・トラディショナルで「地下室」セッションのバンド・バージョン、「Self Portrait」セッションのカントリー版、ピアノ伴奏版がいずれもouttakeとされています。

全体を通して聞くと、テスト盤はディランの心の乱れ、虚しさ、怖れ、孤独感などが切々と伝わるアコースティック・サウンドが主体であり、確かに地味と言えば地味。発売盤はディランの心情を残しつつもバラエティ豊かな静と動が混在したバンド・サウンドが楽しめる作品ということができます。

どちらの方が優れているかというのは、個人の主観的な評価によるもので、どちらであっても最終的な評価は「傑作」、「名作」となったことは間違いない。基本的にはボツになった作品は聞かなくて良いはずなんですが、ことこのアルバムに関しては絶対に2つのバージョンを聞くべきであると思いました。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

2026年7月12日日曜日

Blood on the Tracks (1975) Part1


ボブ・ディランがThe Bandと一緒に行った1974年の「復活」ツアーは大成功で、各アリーナ会場は満員盛況でした。しかし、ツアー期間中に発売されたニュー・アルバム「Planet Waves」は高評価で初期こそ順調でしたが、途中から急速に販売枚数が鈍ります。これは新興レーベルのアサイラムが、ディランほどのビッグ・ネームを売るための体制が不十分だったことが原因で、大量の注文をさばける生産能力・運搬体制が整っていなかったのです。

また、ディランは過去の音源の権利を持ち続けるコロムビア・レコードが、「DYLAN」に続くお蔵入りネタばかりのアルバムをさらに作り出すことを怖れていました。そんな中で、ディランを復帰させたいコロムビアは、会長自らが密かに接触を試みてきました。

渡りに船という状況で、ディランが復帰の条件としてコロムビアに提示したのは、(1) 原盤権の返還、(2) 過去に遡って印税率の引き上げ、(3) 未発表音源の管理権、(4) アサイラムから出した2つのアルバムの原盤権をコロムビアが獲得する、(5) アルバム「DYLAN」をただちに廃盤とし市場から回収する、(6) 今後の制作される音源の内容に口を出さない、(7) 破格の前払い金(標準の10倍程度)の支払いなどで、コロムビアとしては全面降伏と言える屈辱的な内容でした。

それでもコロムビアは、これらの条件を了承したため、歴史的ともいえるアーティスト側の圧倒的な勝利と言える復帰契約が成立したのです。アサイラムに移籍して1年もたたないうちの8月に、ディランのコロムビアへの電撃復帰が発表されますが、まったく状況を知らされていなかったアサイラムのデヴィッド・ゲフィンは、どうにも打つ手がありませんでした。

順風満帆に見えるディランでしたが、プライベートでは妻サラとの関係が悪化し、家庭崩壊の危機に直面していました。ツアーを終えたディランは、ウクライナ出身の画家ノーマン・レイブの教室に通い出します。具体的なことは語られていませんが、ディランはレイブからかつて経験したことがない精神的な変革を教示されたようです。ただし、少なくともサラにはそれは理解不能で、二人の溝を深めるだけでした。

コロムビアと再契約したディランは、9月になるとすぐさまスタジオ入りしてニューアルバムの制作を開始します。これが邦題「血の轍」と題された、数あるディランのアルバムの中で最高傑作と評価されるものになりました。

内容は、そんなディランの精神的窮状を反映して、妻サラに対する捨てきれない愛情、一人になってしまう怖さなどを反映した私小説とでも言いたくなるようなものでした。ディラン自身は「私小説」であることを否定して、「こんなものを皆が楽しめるなんてどういうことだ」と語っていますが、超が付くほど内省的なものなので説得力はありません。

1曲目「Tangled up in Blue」は、男女の出会いの頃を中心に、いろいろなことを思い出しながら憂鬱な想いにかられる心情があふれます。そして、ちょっとしたボタンの掛け違いから「運命のいたずら」に翻弄される様子を歌い、今や君は自分にとって「大きな存在」となっていると訴えます。

ここで、想像の世界に入り込んだディランは、君が口を開くたびに「愚かな風」が吹いて、自分を悩ませるのです。そして君が去った後には、「孤独が襲い掛かり」、「朝になったらもう一度会いたい」と歌うのです。ここで10分近い16番まで歌詞がある、ディランがひたすら歌い続ける「Lily, Rosemary and Jack of Hearts」が登場します。ハートのジャックが、銀行強盗が成功するように隣のクラブで三角関係のドラマを仕組むという内容で、実際の歌詞はかなり難解。

現実に戻って、もしも(去った)彼女に会うことがあったら、「僕からよろしく」と伝えてほしいと多少の未練は残しつつ気持ちが整理できたと語り、彼女がいろいろな「嵐からの隠れ場所」になっていたことを思い出します。そして最後に、「バケツにいっぱい溜まった涙」があって、人生は悲しく儚いものだと歌いました。

後年ディランの息子ジェイコブは、このアルバムは「まるで両親の会話のようだ」と語っていて、ディラン自身が否定しようと、プライベートを色濃く反映していることは間違いありません。アルバムのタイトルも「血のにじむような人生の足跡」という解釈がされていて、当たらずとも遠からずというところでしょうか。

しかし、レコーディングはディランの気紛れに振り回されっぱなしでした。集められたミュージシャンには、楽譜どころかコード進行すら教えられずに、全員がディランの演奏の雰囲気とギターを弾く手元から、必死に伴奏を付けていくという常識では考えられないセッションでした。

ディラン自身も、当初からフォーク期のような自分のギター、ハーモニカだけの演奏をかなり意識していたようで、バックのバンド演奏は目立つ必要はないと考えていた節があります。4日間の短期集中で、一発取りに近い緊張感のあるセッションで録音を終了し、すぐさまテスト盤が作られコロムビアはクリスマス・シーズンでの発売を予定します。

ここで恒例となったディラン伝説が生まれるのですが、ホリディ・シーズンに地元ミネアポリスに戻ったディランは弟のデヴィッド・ジマーマンにテスト盤を聴かせ感想を求めました。デヴィッドの反応は否定的で、「シリアスすぎて地味。売れるとは思えない」というものでした。ディランもこの意見に同意して、ただちにコロムビアと連絡を取り工場を止めてしまいました。


Tangled Up in Blue*
Simple Twist of Fate
You're a Big Girl Now*
Idiot Wind*
You're Gonna Make Me Lonesome When You Go
Meet Me in the Morning
Lily, Rosemary and Jack of Hearts*
If You See Her, Say Hello*
Shelter from the Storm
Buckets of Rain

Bob Dylan (vo, aco.g, mandolin, org. harmonica)

New York Session:
Eric Weissberg (aco.g), Charles Brown III (ele.g)
Buddy Cage (pedal steel guitar), Thomas McFaul (key)
Tony Brown (b), Richard Crooks (ds)

September 16 ~ 19, 1974, NYC

*Minneapolis Session:
Chris Weber (aco.g), Peter Ostroushko (mandolin)
Kevin Odegard (aco.g), Gregg Inhofer (key)
Billy Peterson (b), Bill Berg (ds)

December 27 & 30, 1974, Minneapolis

2026年7月11日土曜日

続・石油原料節約パッケージ


1か月ほど前に、カルビーの石油原料節約パッケージ版「かっぱえびせん」の話を書きました。クリニックのスタッフが見つけて買ってきたものですが、その後、また見つけたと言って買ってきて見せてくれました。

今度はポテチです。

確かに中身は同じで、外側はどうでもいいことなんですが、こうやって白黒バージョンを見ていると、袋の色によって味の違いを判別していたことがわかりました。

ぱっと見ただけでは、何味なのかよく分かりません。不便と言えば不便。

ただ、何でも値上げされるご時世ですから、少しでも値段を据え置きしてくれる工夫については、消費者側も受け入れていくことは大事。

白黒パッケージについては、イラン危機による石油由来のナフサ不足が原因ですが、ナフサの供給が安定してきたことで、カルビーとしては少しずつ色付きに戻していくいうニュースがありました。

とりあえず表だけカラーに戻すらしい。

それにしても、自分はよく行くスーパー数か所では、いまだに一度も白黒パッケージは見たことが無いんですけど・・・

2026年7月10日金曜日

Before the Flood (1974)


1973~1975年は、アメリカ近代史の中で、政治・経済・文化のいずれもが大転換を強いられた激動の3年間と言われています。リチャード・ニクソン現役大統領の犯罪が露見したウォーターゲート事件を手始めに、国民の中に強い政治不信が生まれます。また、国民の不満を外に向ける役割も果たしていたベトナム戦争が終結し、事実上の「敗戦」を経験したアメリカには虚無感が広がります。

そして、公民権運動は有色人種や女性の地位向上をもたらし、白人男性社会の構図を脅かしました。さらに第1次オイル・ショックによりガソリン価格が高騰し、ガソリン消費大国のアメリカは大きな打撃を受け、不況と物価上昇により経済は低迷しました。

1776年7月4日にイギリスからの独立宣言をしたアメリカは、1976年の建国200周年を目前にして、それまで培った価値観が揺らいでいたのです。人工妊娠中絶が合憲とされ、同性愛も「病気」として扱わなくなるなど、現在に続く多様性の容認が始まりました。既成の権威や資本主義、物質主義に異議を唱える「カウンターカルチャー」の象徴だったヒッピー文化は、その矛先を失い急速に衰退します。

ボブ・ディランは、60年代前半に突然現れカウンターカルチャーの舵取りを任されたわけですが、交通事故を契機に後半は世間の目から逃れた内省の時代を経て、70年代に入るとその変化を表に出すようになりました。この時期はアメリカ全体としては「Me (私)の時代」と呼ばれるようになりますが、社会の混迷から全体の改革よりも自分を見つめ直し自分をよくしていこうと考えるようになり、ディランは再び時代の象徴のように見られることになるのです。

1974年年明け早々、1月3日、18,000人の大観衆を集めたシカゴ・スタジアムで、1966年以来となるディランのツアーが始まりました。ツアーの概要は、わずか6週間前に告知され、チケットは郵便での受付のみとなったため、各地の郵便局はパニックになったと言われています。ツアーに同行したのは1966年のツアーでも一緒だったThe Bandですが、The Bandはすでにスターとなって今回はバックバンドではなく共演という位置づけになりました。

ツアーは、1月3日から2月14日までの43日間、北米各地で40公演という超過密スケジュールで行われました。11月の「Planet Waves」のレコーディングでは、雰囲気を大事にした比較的コンパクトな演奏でしたが、ツアーでは大会場でものすごい数の観客を相手にしなければならないので、ディランもThe Bandのメンバーも負けないように大音量の派手なロックで畳みかけるつもりで準備をしていました。

シカゴで始まった第一声はデヴュー間もない頃に作られた「Hero Blues」で、今では「The Bootleg Series Vol.9 The Witmark Demos」でフォーク版を聞くことができますが、当時の人々はまったく知らないであろう曲です。しかし、ミディアム・テンポのブルース・ロックは観客を十分に盛り上げることに成功しています。続く「Lay, Lady,Lay」もオリジナルのカントリー調から見事なロックに変貌しています。

ジミ・ヘンドリックスのカバーを参考にしたという「All Along the Watchtower」まで、一気に畳みかけたかと思うと、そこからは一転してディランのソロ・パートとなりアコースティック・ギターとハーモニカだけの従来のステージで、「The Times They Are A-Changin'」や「Song to Woody」などを歌います。間にThe Bandのみの演奏を数曲ずつはさんで、最後は再びエレクトリック・パートでロックに変貌した「Like a Rolling Stone」などを歌いました。

2024年に、正式にアサイラム・レコードが録音していたツアー音源がコロムビア・レコードから「1974 Live Recordings」として27枚組CDボックス・セットとして発売され、ツアーのほとんどの演奏を聴くことが可能になりました。ただし、このセットの残念なところはThe Band単独の演奏はすべてカットされているところです。ディランに負けないほどに成長した彼らの演奏を含めてのツアーなので、ディランだけだと流れがバラバラな印象があります。

そういう意味では、ディランとしては初めてのライブ盤として1974年6月に発売された「Before the Flood (偉大なる復活)」の方が、ライブ全体の雰囲気が伝わりやすく作品として悪くはないと思います。とは言え、当時は、ディラン・ファンからすればThe Bandの単独パートは不要だという意見があったのはもっともなことだと思います。このアルバムは、大部分がツアーの千秋楽、2月14日のイングルウッドで収録されています(一部が同じ場所の前日の演奏)。

ツアーとしては興行的には成功したと言えるのですが、実はディランもThe Bandもツアーが進めば進むほど自分たちの音楽が商業的に利用されているという気持ちが強くなっていました。それぞれが、自分自身を演じているというような、冷めた視点で見るようになり、必ずしも楽しいものではなくなったらしい。

アルバム・タイトルは「洪水の前」ですが、これは建国200年を目前して混沌と化した社会をリセットするための「洪水」であり、ディランは世間の注目の中で、「ノアの箱舟」の役割を担わされることになってしまうのです。

ちなみに、ジャケット写真は観客がライターに火をつけて掲げている写真が使われ、現代のライブではライトアップはお馴染みの光景ですが、この手の仕掛けがコンサートで行われた元祖と言われています。


Most Likely You Go Your Way and I'll Go Mine
Lay Lady Lay
Rainy Day Women #12 & 35
Knockin' on Heaven's Door
It Ain't Me Babe
Ballad of a Thin Man
Up on Cripple Creek*
 I Shall Be Released*
Endless Highway*
The Night They Drove Old Dixie Down*
Stage Fright*
Don't Think Twice, It's All Right
Just Like a Woman
It's Alright, Ma (I'm Only Bleeding)
The Shape I'm In*
When You Awake*
The Weight*
All Along the Watchtower
Highway 61 Revisited
Like a Rolling Stone
Blowin' in the Wind

Bob Dylan (vo,  guitars, harmonica, ), Robbie Robertson (ele.g, vo)
Garth Hudson (org, p, clavinet), Levon Helm (vo, ds)
Richard Manuel (vo, p, ele.p, org, ds), Rick Danko (vo, b)

* The Band only
February 13, 14, 1974  Los Angeles Forum, Inglewood, CA

☆☆☆☆☆☆☆・・・

2026年7月9日木曜日

Planet Waves (1974)


コロムビア・レコードからの報復措置があったものの、1973年秋に移籍問題を何とかクリアしたボブ・ディランは、移籍先のアサイラム・レコードのディビッド・ゲフィンのアイデアに従ってすぐさま新たな「復活の」動きを開始します。

まず、翌年にThe Bandと伴に大規模なツアーをする計画が始動します。ディランが大規模なツアーを行うのは、事故で隠遁生活に入る前、1966年のツアー以来です。この時のバックを務めたのもまだHawksと名乗っていたThe Bandでした。ディランとThe Bandはツアーのテストを兼ねて、何度かカリフォルニア州マリブのロビー・ロバートソンの自宅などに集まりセッションを重ねました。

ツアーを取り仕切るプロモーターは、ライブ会場であるフィルモア・イースト、フィルモア・ウエストを有名にしたビル・グラハムで、かなり早い段階から出演者未定のまま大きな会場をおさえていました。年明け早々から始まるツアーが公表されたのはたったの6週間前の11月25日で、郵便のみでの申し込みとしたので郵便局はパニックになります。

そして、ディランはロサンゼルスのスタジオにThe Bandのメンバーを招集し、ニュー・アルバムの制作に取り掛かりますが、初日は11月2日でしたがドラムのリヴォン・ヘルムが移動中で参加できなかったため、軽めのリハーサルでした。本格的に収録が行われたのは、5日、6日、8日のたったの3日間で、ディランのソロ曲のための9日を入れて正味4日間で完成させています。

これは、ツアーを目前にして時間が足りなかったというのもあるかもしれませんが、ディランのライブ感覚で多少のキズは気にせず、一気にたたみかけるように演奏したいという意向が強く働いたようです。ディランは細かく曲の説明をせず、メンバーはその場でディランの演奏に反応して曲を完成させるという、長年の信頼関係があったからこその緊張感のあるセッションになりました。

それでも、今までのアルバムではThe Bandはあくまでも伴奏バンドという印象があったのですが、初めてバンドを含めた一体感を感じることができる出来になっているのは凄い事です。発売されたのはツアー中盤の翌年1月17日で、ディランとしては初めてBillboardのランキングで1位になりました。

冒頭「On a Night Like This」は、内容は「冬の暖炉を囲む恋人」の話で、軽快なテンポでアルバムに入り込みやすい。「Forever Young」は今でも歌われる定番曲になっていますが、父親として息子の健やかな成長を願う気持ちが歌われていて、この曲だけは一連のセッションの中で、ディランもいろいろ悩んだようです。当初はスローバージョンでしたが、感傷的になりすぎるという理由でアップテンポ・バージョンも試され、両方がアルバムに入ったのはどちらかに決めきれない結果でした。

最後に収録された「Wedding Song」は、スタッフが全部終わったと思ったら、あと1曲やりたい曲があるというディランの申し出によって追加のような形で加わりました。The Band抜きのディランのギターとハーモニカだけという演奏で、ディランの苦しい心の叫びのような内容になっています。

当時、ディランと妻サラは、すでに破滅に向かうスイッチが入っており、「今の自分がいるのは君のおかげだ」と感謝の言葉が並ぶ一方で「君の言葉のナイフが自分を殺す」と歌うのです。それでも「君を失えば自分が壊れてしまう」と悲壮なジレンマに陥っている内容は、この後に発表される名作「血の轍」のプロローグとなっているかのようです。

久しぶりの全曲自作曲でかためられ、おおむね高評価を得たアルバムで、売れ方も出だしは絶好調のように見えました。しかし、注文が増えるほど、ディランほどのビッグ・ネームを扱ったことが無い新興アサイラムのレコード盤製造能力や全国への配送能力が追い付かなくなり、販売枚数は予想をはるかに下回ったのです。このことは、ディランにアサイラムに対する不信感を植え付けるのに十分すぎる結果でした。


On a Night Like This
Going, Going, Gone
Tough Mama
Hazel
Something There Is About You
Forever Young
Forever Young (slow version)
Dirge
You Angel You
Never Say Goodbye
Wedding Song

Bob Dylan (vo, g, p, harmonica), Rick Danko (b)
Levon Helm (ds, mandolin), Garth Hudson (org, accordion)
Richard Manuel (p, ds), Robbie Robertson (g), Ken Lauber (perc)

November, 1973, Los Angels, CA

☆☆☆☆☆☆☆☆・・

2026年7月8日水曜日

ほたて日和 監修 至福の冷製和え麺 @ ファミリーマート


1月に冬の温かメニューで「至福の塩ラーメン」を紹介したんですが、今度は夏の冷たいバージョンです。

監修したほたて日和は秋葉原にあるつけ麺の店・・・らしいんですが、当然行ったこともなく、その店が監修することの価値についてはよくわからんです。

ただ、コンビニで思わずこれを手に取ってしまった最大の理由は・・・

何と、何と、これ360kcalなんです。

普通のラーメン的な物からすると、実に低カロリーで嬉しい。

その上美味しい、とくれば何を迷う必要がありましょうか。

特にポイントが高いのが、付属の梅ジュレ。

味変をするために「途中で入れてください」、と注意書きシールが貼ってあります。

けっこうこれがいい感じなので、また食べたくなります。

2026年7月7日火曜日

Pat Garrett & Billy the Kid ~ Dylan (1973)


1972年はボブ・ディランは、他人のライブやセッションへのゲスト参加などが中心で、自らの創作活動はやや控えめです。それというのも、何と映画の話が舞い込んできて、そちらにかなり力を注いでいました。

ディランと面識があったルディ・ワーリッツァーが書いた「ビリー・ザ・キッド」の脚本が、MGMで映画化されることになり、監督はサム・ペキンパーに決定しました。ビリー・ザ・キッドについてはもともと興味があったディランは、ワーリッツァーを通して映画の音楽担当の希望を伝えます。ペキンパーはディランの音楽に感激し、音楽の依頼だけでなく、追加の役柄を設定してディラン本人の俳優としての出演まで決めてしまいました。

11月に家族と撮影地であるメキシコのドゥランゴへ移住したディランは、撮影の中で感じたインスピレーションにのっとって作曲を行ないます。翌年1月にはメキシコのスタジオで最初のセッションを持ち、2月にはカリフォルニアのバーバンクで最終セッションをおこない映画のサウンド・トラックを完成させます。特に劇中に使われた「Knockin' on Heaven's Door」は世界的なヒットとなり、多くのカバー・バージョンが登場しています。

とは言え、何しろ映画のサウンド・トラック・アルバムですから、ボーカル曲は全10曲中3曲だけで、あとはインストゥルメンタルではディラン目当てのファンには欲求不満にしかなりません。コロムビア・レコードも、発売を急いでいたのでなおさら中途半端感が出てしまいました(海賊盤で出回ったこれらのセッションの全貌では、他に2曲のボーカル曲がありますが、何故かお蔵入りになっています)。

その急いだ理由というのは、ディランとコロムビア・レコードの契約問題です。大プロデューサーのジョン・ハモンドに認められて、ボブ・ディランがコロムビアと契約したのは1961年10月26日のことでした。それから10年が経過して、アルバム「ニュー・モーニング」のリリースをもって最初の契約が基本的に満了したわけですが、ディランはコロムビアに対して少しずつ不満を抱いていたのです。契約を継続したいコロムビアは、多額の前渡金(アルバム1枚につき40万ドル)を提示しましたが、ディランが強くこだわった過去のバックカタログ(旧音源)の権利返還は拒否したのです。

当時力をつけてきた新興プロデューサー、デヴィッド・ゲフィンは、破格の待遇を提案しディランの引き抜きにかかります。ゲフィンは、自身が設立したアサイラム・レコードへの移籍の条件として、前渡金はありませんがアルバム1枚の売り上げごとに80セント純利益分配率を提示しました(当時の相場は20~40セント)。

しかも、原盤権(マスターテープ)の権利をディラン本人が所有するとしたのです。これはレコード会社が楽曲を再利用する時に、アーティストの意向を無視してできないということです。さらに、全面的なツアーの企画・運営をサポートすることも確約し、契約は1作ごとでいつでも辞められるというものとしました。


形の上では法的にも何ら問題を残さずに、1973年秋にディランはアサイラムと契約をします。しかし、ディランを失ったコロムビアは、ただちに報復目的で強力な対抗措置を取るのでした。それが11月のアルバム「Dylan」の緊急発売です。「Self Portrait」と「New Morning」のセッションでアルバムに使われなかった6曲のカバー曲と3曲のトラディショナル・ソングが収録され、ディランのオリジナルはまったく含まれませんでした。

まさに原盤権を持つコロムビアが、アーティストの意向をまったく無視して、公にするつもりのない「ゴミ」のようなものばかりを集めてアルバムを作ったのです。当然、このアルバムに対する評判は最悪で、ディランのアーティストとしての評価を十二分に下げる効果は絶大でした。ディランの新天地でさぁこれから、という出鼻をくじくことに成功したのです。当然、プライドを傷つけられたディランはこのアルバムに対しては、激しい怒りと拒絶の姿勢を取り、完全無視の態度をとります。

もっとも現在は単独のCDとしても発売されていて、ある意味ボーカリストとしてのディランを知ることができるアルバムとして再評価されているところがあります。それにしても、エルビス・プレスリーの代表曲「好きにならずにいられない」を歌ってしまうところは、怖いもの知らずというか、ディランらしいところなのかもしれません。

1973年のディランは2枚のアルバムが登場しましたが、いずれも実に立ち位置が難しいものでした。しかし、ディランの音楽史の中では大転換期にあたり、このような大混乱も大スターに成長したからこそのものであり、1974年からの反転攻勢を考えると一つの起爆剤にもなったのかもしれません。

"Pat Garrett & Billy the Kid"

Main Title Theme (Billy) (instrumental)
Cantina Theme (Workin' for the Law) (instrumental)
Billy 1
Bunkhouse Theme (instrumental)
River Theme (instrumental)
Turkey Chase (instrumental)
Knockin' on Heaven's Door
Final Theme (instrumental)
Billy 4
Billy 7

Bob Dylan (g, vo, harmonica), Byron Berline (back.vo, fiddle)
Fred Katz (cello), Ted Michel (cello), Gary Foster (recorder, flute)
Carl Fortina (harmonium), Jolly Roger (banjo), Bruce Langhorne (aco.g)
Roger McGuinn (g), Carol Hunter (g, back.vo), Booker T. Jones (b)
Terry Paul (b, back.vo), Jim Keltner (ds), Russ Kunkel (perc)
Priscilla Jones, Brenda Patterson, Donna Weiss – backing vocals

November, 1973, Mexico ~ Feburuary, 1973, Berkley

☆☆☆☆・・・・・・


"Dylan"

Lily of the West
Can't Help Falling in Love
Sarah Jane
The Ballad of Ira Hayes
Mr. Bojangles
Mary Ann
Big Yellow Taxi
A Fool Such as I
Spanish Is the Loving Tongue

☆☆☆・・・・・・・

2026年7月6日月曜日

Greatest Hits Vol.2 (1971)


1971年もボブ・ディランの活動は活発です。1971年3月にアメリカ南部ロックを代表するレオン・ラッセルをプロデューサーに迎えて、新曲「When I Paint My Masterpiece」、「Watching The River Flow 」のセッションが行われました。シングルとしては発売されましたが、「Greatest Hits Vol.2」以外のアルバムには登場しないレアな名曲になっています。

そして、1971年8月1日、ジョージ・ハリスンが主催したマジソン・スクエア・ガーデンで行われた「バングラ・デシュ救済チャリティ・コンサート」のステージで、ディランは久しぶりに人々の前に姿を見せたのです。ハリスンの熱心な誘いを受けてのことでしたが、直前までディランが出演するかどうかはっきりしなかったため、代替案の準備も行われていました。

ディランのサプライズ登場に観客は大歓声を上げ、ハリスンのギター、レオン・ラッセルのベース、リンゴ・スターのタンバリンという豪華な面々による最小限の伴奏を加えて、誰もが知っているフォーク期の代表曲5曲を歌ったのです。これは、ディランにとって、嫌っていた過去の封印を解き、大観衆の前で歌う自信を復活させるという大きな効果がありました。

このコンサートで、再びディランが脚光を浴びると、1967年の「Greatest Hits Vol.1」に続く、コロムビア・レコードはクリスマス商戦に向けた「Vol.2」の計画を進行させました。ディランの凄いと同時に謎なところですが、「Greatest Hits」というタイトルなのに、未発表音源や新録音音源が多く収録されて、ある意味評判の悪かった「Self Portrait」の再現・仕切り直しとでもいうような内容になりました。ジャケット写真は「バングラデシュ」のステージ写真が使われ、実は写真の右側にはハリスンがいてお互い顔を見合わせている時のものです。

8月21日、刑務所から脱獄を試みたジョージ・ジャクソン受刑者が警備員により射殺されるという事件が発生します。ジャクソンは黒人の急進派共産主義者で、必ずしも擁護される人物ではないように思いますが、ディランはこの事件を11月にすぐさまシングルとしてリリースし、ジャクソンを悼みつつ「この世全体が監獄で、周りの人々は看守」だと歌いました。体制を批判するディランが帰ってきたと、世評では比較的好意的に受け止められました。

11月に「Greatest Hits Vol.2」は、LPレコード2枚組として発売されました。ディランのベスト盤は数多くありますが、売れ行きは好調でレア度ではトップクラスですので、コンピレーションですがチェックを外せません。オリジナル・アルバムに匹敵する価値があると言えます。

Vol.1との重複は無く、全21曲中今までのアルバムに未収録が6曲、特に3月のレオン・ラッセルとのセッション、そして9月に行われた旧友ハッピー・トラウムとの二人だけでのセッションは他では聞くことができない新録音です。なお、「George Jackson」は含まれていません。

大晦日には、ニューヨークのアカデミー・オブ・ミュージックで行われたThe Bandのコンサートにサプライズ登場します。すでにThe Bandはかつてのディランのバックバンドから、完全に独り立ちした人気を得ていました。日付が変わり1月1日になった頃に、予定されていたセットリスト終了後のアンコールとして事前の打ち合わせ無しで即興的に両者の共演が実現しました。

この日のライブは、「Rock of Ages」というタイトルで2枚組LPとして発売されましたが、オリジナルではディランの演奏は含まれていません。しかし2013年にこの公演のコンプリート盤が発売され、現在ではその時のディランとThe Bandの熱い4曲を聴くことができます。ディランには大きな刺激になり、後の1974年合同ツアーへの布石となりました。


Watching the River Flow*
Don't Think Twice, It's All Right (The Freewheelin)
Lay Lady Lay (Nashville Skyline)
Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again (Blonde on Blonde)
I'll Be Your Baby Tonight (John Wesley Harding)
All I Really Want to Do (Another Side of Bob Dylan)
My Back Pages (Another Side of Bob Dylan)
Maggie's Farm (Bringing It All Back Home)
Tonight I'll Be Staying Here with You (Nashville Skyline)
She Belongs to Me (Bringing It All Back Home)
All Along the Watchtower (John Wesley Harding)
The Mighty Quinn (Self Portrait)
Just Like Tom Thumb's Blues (Highway 61 Revisited)
A Hard Rain's A-Gonna Fall (The Freewheelin') 
If Not for You (New Morning)
It's All Over Now, Baby Blue (Bringing It All Back Home)
Tomorrow Is a Long Time*
When I Paint My Masterpiece*
I Shall Be Released*
You Ain't Goin' Nowhere*
Down in the Flood*

* Previously unreleased

☆☆☆☆☆☆☆・・・

2026年7月5日日曜日

ひじきとツナのマヨネーズ・サラダ


ひじきは漢字で「鹿尾菜」とか「羊栖菜」と書くんですが、漢字だけ見たら読めませんね。普通に平仮名か片仮名でいいんですが、海藻の一種で、不足しがちな鉄分、カルシウムを含み体に良いお勧めの食材です。

ただし、実はヒ素を含むので大量に食べ続けることは控えたい。下ごしらえとして、一度茹でることで、ヒ素の9割がたを抜くことができます。

日本の食卓には副菜としてしばしば登場するひじきですが、ほぼレシピはニンジン、油揚げなどと一緒に煮たものの一択だと思うのですが、他の調理法は無いものかと探してみました。

見つけたのはこれ。ひじきとツナのマヨネーズ・サラダです。

作り方も簡単。マヨネーズと醤油、だしで混ぜ合わせるだけ。今回はさらに時短で、マヨネーズと濃縮そばつゆを用いました。

一度茹でて水洗いしたひじきをぎゅっと絞って、ツナ缶を汁ごと混ぜます。さらに薄くスライスしたタマネギを加えて出来上がり。

なかなか美味しい。バリエーションが増えると、食材として活躍の幅が広がります。

繰り返しですが、「茹でるのは不要」と書いてあるものを除いて、特に生ひじきなどは、必ず5分ほど茹でて水洗いすることを忘れないようにしましょう。

2026年7月4日土曜日

Around DYLAN - Mike Bloomfield & Al Kooper


マイク・ブルームフィールドとアル・クーパーは、フォークからロックに移行するボブ・ディランをしっかりと支えた功労者です。

1965年3月の「Bringing It All Back Home」で初めてエレクトリック・バンドを導入してロック色を出しましたが、ここはまだ中途半端でアコースティックをエレクトリックに替えただけという見方もできます。続く1965年8月の二人が参加した「Highway 61 Revisited」は名盤と言われ、ディランのロックへの本格的な転向が高らかに宣言されました。

マイク・ブルームフィールドはシカゴ出身、ディランより2歳年下で、すでにデヴューしていた同郷のポール・バターフィールドに誘われ、彼のブルース・バンドのギタリストとして頭角を現し始めていました。

1965年6月のセッションでは、ディランの要望でブルームフィールドが呼ばれました。ディランはブルームフィールドのシカゴ仕込みのブルース・ギターの音に惚れ込んでいたのです。またディランの考えている音楽を鋭く察知して、他のミュージシャンにも方向性を伝達する力があり、実に頼りがいのある逸材でした。

さらに2歳年下の生粋のニューヨークっ子のアル・クーパーが、セッションに参加したのは「奇跡的な偶然」と言われています。ソング・ライターでギタリストとして活動していたクーパーは、見学のためにスタジオにやってきました。あわよくばという気持ちがあったわけですが、ブルームフィールドがいたためさすがに出番はないと観念していました。

ところが、たまたま「Like a Rolling Stone」の合間でのリフをオルガンで弾いたところ、ディランの耳にとまりそのままキーボード・プレイヤーとして飛び入り参加することになったのです。この曲の製作過程は「The Bootleg Series」で事細かに公開されていますが、最初は3拍子だったのが4拍子になり、クーパーのオルガンが加わって仕上がったことがよくわかります。

そして、8月には伝説となったニューポート・フォーク・フェスティバルに二人そろってバックを務めることになります。アコースティックな響きを想像していた観客は、突然の大轟音に騒然となります。ディランは翌年春からのイギリス・ツアーにブルームフィールドの参加を打診しますが、本業のバターフィールド・ブルース・バンドが忙しく断られました。残念と言えば残念ですが、結果として代わりにThe Bandのメンバーとの付き合いが始まったわけです。

ブルームフィールドとクーパーは、その後の一緒に演奏する機会が何度かありました。コロムビア・レコードのディレクターになったクーパーは、1968年にセッション・アルバムの制作をブルームフィールドに持ちかけました。スティーブン・スティルス(後にCSN&Yなどで活躍)も参加したアルバムはスマッシュ・ヒットします。

またその勢いのままフィルモアで二人はライブを行い、この時のライブ盤が「フィルモアの奇蹟」として発売され、これもまた売れました。これらは、いわゆるセッション・ブームの先駆けとなり、日本でもこの頃輸入盤レコード店に行くと、この2枚のアルバムはたいてい目立つところに飾ってあって、人気なんだと思ったものです。

しかし、ブルームフィールドは薬物依存が強まり、しだいに表舞台から遠ざかっていき、1981年に過剰のヘロインにより亡くなっています。アル・クーパーは1968年にホーン・セクションを加えたBlood Sweat & Tearsを結成します(シカゴ結成の前年)が、ファースト・アルバム発売後に脱退、以後はソロ活動とプロデュース業に専念しました。

2026年7月3日金曜日

揚げない「鶏唐揚げ」


唐揚げ好きですよね。

総菜として買ってきても旨いけど、やはり家で揚げたてで食べるのが一番美味しい。

ただ、いろいろ気にしていると・・・油が・・・

どうしてもカロリー高めで罪悪感のある食べ物です。

そこで、少しでも気持ちを楽にする方法を、いろいろな人が考えているもんです。

つまり、揚げるからたくさん油を吸ってしまいカロリーが高くなるので、揚げなければいいんじゃないかということ。

でも、唐揚げの美味しさは衣のサクサク感もあってのこと。こればかりは高温になる油が必要です。

そこで、よく紹介されている方法は「揚げ焼き」です。

それぞれの家庭の味付けがあるとは思いますが、自分の場合は、塩・醤油・にんにく・しょうが、そして少量の砂糖です。

肉と調味料を袋に入れてしばらく置いておいたら、片栗粉と小麦粉を同量入れて全体に粉がなじむようにしますが、ここで油を小さじ1くらいかけ回しておきます。

あとは、そのままフライパンに並べてじくり焼くだけ。追加した油と鶏肉から出る油で、内側から「揚げた」状態になって、しかも油も少なくて済むという作戦です。

油で一気に火を通すよりは時間がかかりますが、普通にカリカリ・サクサクの仕上がりで美味しく食べることができました。

2026年7月2日木曜日

Around DYLAN - Woody Guthrie


ウディ・ガスリーは、洋楽を聴くなら、どこかで一度は耳にしたことがある名前です。アメリカの最も重要な文化人の一人で、音楽家に限らず多くの人々に影響を与えました。ボブ・ディランにとっても、十代の頃に強く憧れたアイドルであり、彼のフォーク・スタイルに多大な影響を及ぼしました。

ガスリーの代表曲である、「This Land is Your Land」は、アメリカの第2の国歌と呼ばれ、歌えない人はいないと言われています。ディランも度々ステージで取り上げていました。立ち位置は違いますが、例えば日本なら美空ひばりが近い存在感かもしれません。今の若い人でも美空ひばりの名前は聞いたことがあるでしょうし、昭和の頃には美空ひばりに影響されていない歌手はいないと言ってもいいくらいだと思います。

ウディ・ガスリーは1912年、オクラホマ生まれ。1930年代から音楽活動を始め、労働階級の人々の抱える問題を題材とした多くの歌を作り歌います。直接的な政治活動はしませんでしたが、下級労働者や共産主義者からは圧倒的な支持を得るようになります。折しも大恐慌により人々の暮らしが困難を極めた時代に、ラジオから聞こえてくるガスリーの歌は多くの人の心の拠り所になったのです。

1940年代にニューヨークに進出したガスリーは、フォーク・コミュニティに受け入れられ仲間を作りつつ、レコード制作に乗り出します。下級階層の人々に寄り添うガスリーの歌は、自然と反体制的な内容を持つプロテスト・ソングという流れを作ります。自作した曲は1000曲以上といわれていますが、1940年代を通じてモーゼス・アッシュが録音した一連のものが、「Asch Recordings」として知られています。現在ではスミソニアン・フォークウェイズから、リマスターされた4枚のCD、全105曲がガスリー・コレクションの中核をなしています。

1940年代末から健康状態が悪化し、1952年母親からの遺伝によるハンチントン病と診断されます。また、事故によりギターを弾けなくなるのです。1956年以後は入院生活を余儀なくされたのです。

ロックンロールが好きな普通の高校生だったディランは、大学に入学すると友人からガスリーのレコードを勧められ強い衝撃を受けました。エレキギターを売り払ってフォークギターに持ち替えて、気持ちの上ではガスリーに「弟子入り」したのです。ディランの初期の歌唱は、実に「ガスリー的」です。大好きだったガスリーの節回しを自然と真似てしまうのは、ごく自然な事でした。

1961年はじめ、大学を中退してニューヨークに出てきたディランは、ニュージャージーで入院療養中だったガスリーを見舞いました。半年間ほどの間、頻回にガスリーのもとを訪れたディランは、傍らでギターを弾きガスリーの歌を何度も歌ったのです。このことがディランに歌を創作する意欲をもたらしたわけで、最初に作った「Song to Woody」はデヴュー・アルバムに収録されました。

ガスリーは1965年には話すこともできなくなり、ついに1967年10月3日にニューヨークの最後の入院先の病院で亡くなりました。当時、交通事故後の隠遁生活を続けていたディランは、翌年1月20日にカーネギーホールで行われたガスリー追悼コンサートにThe Bandを伴って1年半ぶりに姿を現しました。観客はロックになったガスリーの歌に驚きますが、2年前に浴びたブーイングと違い、大きな歓声に包まれました。

2026年7月1日水曜日

New Morning (1970)


1970年という年は、日本では万国博覧会が開かれ戦後の高度経済成長のピークを迎えていた頃。アメリカでは、1964年に公民権運動に否定的な南部の支持が得られないジョンソン大統領が誕生していましたが、しだいに南北ベトナムの紛争に介入する度合いを強めていきます。しかし、1968年を境に次第に国内の参戦支持は減少し、若者を中心としてより自由な社会を求める声が高まります。新たにリチャード・ニクソンが大統領となり、ベトナム戦争へのアメリカの介入を終わらせるよう多くの突き上げを食らっていました。


そんな世相の中で、ボブ・ディランは交通事故の負傷以来、相変わらず人前にはあまり姿を晒さない。1968年1月20日、ニューヨークのカーネギーホールで行われたウッディ・ガスリー追悼コンサートに1年8か月ぶりにステージに登場しガスリーの曲を3曲歌いました。次に姿を見せたのは、1969年8月31日、イギリスのワイト島のロックフェスティバルにTHE BANDを率いて出演します。しかし、これも1時間という短めのステージでした。

それでも1970年になると、さすがのディランも再始動し始めます。ニューヨークに戻ると3月はじめから「Self Portrait」のためのレコーディング・セッションを行いました。演奏されたのは以前のようなロック志向ではなく、比較的アコースティックなサウンドに女声コーラスやストリングスまで登場し、積極的に追加のオーバーダビングをするというものでした。

しかし、5月のセッションは一味違いました。スペシャル・ゲストに迎えたのはジョージ・ハリスンでした。実はこの時のセッションを含む一連の録音は、当初2020年にヨーロッパ限定の「The 50th Anniversary Collection」として発売されました。これは2012年から、未発表音源を年単位で小出しにするシリーズで、あくまでも著作権延長目的のかなり限定的なものです。しかし、さすがにハリスンの参加が大きな話題となったため、2021年に全世界に向けて「Bob Dylan 1970」としてリリースされています。

一番の目玉はディランが歌うビートルズの「イエスタディ」・・・といっても、一応歌ってみた程度のもので、どうせならハリスンの曲を歌えばいいのに思ってしまいます。次のアルバムに収録されるような演奏はありませんし、全体に新曲のリハーサル的なものだったのかと思います。ただし、ハリスンからたくさんの刺激を受けたことは間違いなく、ディランからナッシュビルの色が抜けていくことに役立ったように思います。

6月のセッションにはアル・クーパーが招集され、だんだん本気モードのスイッチが入ってきました。8月のセッションでは、次々とマスターテイクが採用され、ニュー・アルバムは10月21日は発売されました。久々の精悍な顔つきのディランの写真が表を飾ったジャケットが素晴らしい。落ち着いた大人の音楽を感じさせるアルバムで、多くのアーティストがサイケデリック調を見直すきっかけになったようです。

1曲目はシングルとしてもヒットした、実に気持ちの良い「If Not for You」で始まります。妻のサラに対して「君がいなければ、僕はどうにもならない」と歌います。ハリスン・セッションでも何度も試されていて、ハリスン自身はアルバム「All Things Must Pass」で取り上げ、オリビア・ニュートンジョンもカバーしました。

「If Dogs Run Free」はタイトルはわかりやすいのですが歌詞は難解で、「もしも犬が自由に走るなら」自分も(世間からの)束縛から解放されると言いたいらしい。ディラン初のジャズ的な伴奏に乗せて、女声スキャットを甘える犬の声に見立てている面白い曲です。タイトル曲「New Morning」は素敵なカントリー・ライフを歌うのですが、カントリーとの決別の意味が込められていると言われています。


If Not for You
Day of the Locusts
Time Passes Slowly
Went to See the Gypsy
Winterlude
If Dogs Run Free
New Morning
Sign on the Window
One More Weekend
The Man in Me
Three Angels
Father of Night


Bob Dylan (vo, p, aco.g, ele.g, org, harmonica)
David Bromberg (ele.g, Dobro), Harvey Brooks (b), Charlie Daniels (b)
Ron Cornelius (ele.g), Buzz Feiten (ele.g)
Al Kooper (org. p, ele.g, French horn), Russ Kunkel (ds), Billy Mundi (ds)
Hilda Harris (back.vo), Albertine Robinson (back.vo)
Maeretha Stewart (back.vo)

June ~ August, 1970, NYC

☆☆☆☆☆☆☆・・・