マイク・ブルーフィールドとアル・クーパーは、フォークからロックに移行するボブ・ディランをしっかりと支えた功労者です。
1965年3月の「Bringing It All Back Home」で初めてエレクトリック・バンドを導入してロック色を出しましたが、ここはまだ中途半端でアコースティックをエレクトリックに替えただけという見方もできます。続く1965年8月の二人が参加した「Highway 61 Revisited」は名盤と言われ、ディランのロックへの本格的な転向が高らかに宣言されました。
マイク・ブルームフィールドはシカゴ出身、ディランより2歳年下で、すでにデヴューしていた同郷のポール・バターフィールドに誘われ、彼のブルース・バンドのギタリストとして頭角を現し始めていました。
1965年6月のセッションでは、ディランの要望でブルームフィールドが呼ばれました。ディランはブルームフィールドのシカゴ仕込みのブルース・ギターの音に惚れ込んでいたのです。またディランの考えている音楽を鋭く察知して、他のミュージシャンにも方向性を伝達する力があり、実に頼りがいのある逸材でした。
さらに2歳年下の生粋のニューヨークっ子のアル・クーパーが、セッションに参加したのは「奇跡的な偶然」と言われています。ソング・ライターでギタリストとして活動していたクーパーは、見学のためにスタジオにやってきました。あわよくばという気持ちがあったわけですが、ブルームフィールドがいたためさすがに出番はないと観念していました。
ところが、たまたま「Like a Rolling Stone」の合間でのリフをオルガンで弾いたところ、ディランの耳にとまりそのままキーボード・プレイヤーとして飛び入り参加することになったのです。この曲の製作過程は「The Bootleg Series」で事細かに公開されていますが、最初は3拍子だったのが4拍子になり、クーパーのオルガンが加わって仕上がったことがよくわかります。
そして、8月には伝説となったニューポート・フォーク・フェスティバルに二人そろってバックを務めることになります。アコースティックな響きを想像していた観客は、突然の大轟音に騒然となります。ディランは翌年春からのイギリス・ツアーにブルームフィールドの参加を打診しますが、本業のバターフィールド・ブルース・バンドか忙しく断られました。残念と言えば残念ですが、結果として代わりにThe Bandのメンバーとの付き合いが始まったわけです。
ブルームフィールドとクーパーは、その後の一緒に演奏する機会が何度かありました。コロンビア・レコードのディレクターになったクーパーは、1968年にセッション・アルバムの制作をブルームフィールドに持ちかけました。スティーブン・スティルス(後にCSN&Yなどで活躍)も参加したアルバムはスマッシュ・ヒットします。
またその勢いのままフィルモアで二人はライブを行い、この時のライブ盤が「フィルモアの奇蹟」として発売され、これもまた売れました。これらは、いわゆるセッション・ブームの先駆けとなり、日本でもこの頃輸入盤レコード店に行くと、この2枚のアルバムはたいてい目立つところに飾ってあって、人気なんだと思ったものです。
しかし、ブルームフィールドは薬物依存が強まり、しだいに表舞台から遠ざかっていき、1981年に過剰のヘロインにより亡くなっています。アル・クーパーは1968年にホーン・セクションを加えたBlood Sweat & Tearsを結成します(シカゴ結成の前年)が、ファースト・アルバム発売後に脱退、以後はソロ活動とプロデュース業に専念しました。
