2021年2月28日日曜日

ドラゴン・タトゥーの女 (2011)

デヴィド・フィンチャー監督の久しぶりのクライム・サスペンスは、スウェーデンの作家、スティーグ・ラーソンの処女作であり、同時に絶筆になった「ミレニアム・シリーズ」の第一弾の映画化。とは言っても、2009年に本家スウェーデンですでに映画化されているので、ハリウッド版リメイクという位置づけ。

ここで大きな問題は、どっちを先に見るかということ。単体の映画としての完成度から言えば、ハリウッド版に軍配が上がりそうなんですが、原作をしっかりと映像化したという点ではスウェーデン版もあなどれない。

そもそも、2時間40分のハリウッド版は第1部にあたる「ドラゴン・タトゥーの女」のみ。一方のスウェーデン版は、それに続く第2部、第3部も連続的に制作し、全9時間で「ミレニアム」の全貌を描いている。

第1部については、ハリエット・ヴァンゲル失踪事件の解明を、ミカエル・ブルムクヴィストが依頼され、過去の連続殺人事件を含めて天才ハッカーのリスベット・サランデルと共に解明していくというストーリーはほぼ同じ。原作に忠実と評判のスウェーデン版と比べても、ハリウッド版の変更点は多くは無いし、少なくとも骨子となる展開は変更されていません。

好き嫌いは個人の好みですから、どっちでもいいと言えばそれまでですが、第1部だけで見たとしても、主役の一人リスベット・サランデルの人間としての描き方はスウェーデン版の勝利と考えます。

リスベットには驚愕の過去があるわけですが、第1部はそれについてはあくまでも序章にすぎません。それでも、スウェーデン版では、この本筋と関係ないストーリーがどうなっていくのか強い興味を持たせる作りになっていました。これは、続けて第2部・第3部を作ることが決まっていたことも関係あるのでしょうが、ハリウッド版ではこのサイド・ストーリーが浮いてしまっている感じは否めない。

特にリスベットは天才ハッカーのはずなのに、ハリウッド版ではアナログな調査が多い。コンピュータを駆使して、ネットワークへの侵入から情報を取り込んでいく過程は、スウェーデン版の方が圧倒的によく描かれています。またブルムクヴィストの雑誌ミレニアムそのものについての情報も、ハリウッド版では省かれています。

スウェーデン版は、ブルムクヴィストはミカエル・ニクヴィスト、リスベットはノオミ・ラパスが演じ、ちょっとはいけてる中年記者と小柄で少年のような人との交流が下手な女子という感じ。

ハリウッド版では、ブルムクヴィストは、「007」のダニエル・クレイグ。はっきり言ってイケメンの中年の星です。リスベットを演じるのは、フィンチャー監督前作で登場したルーニー・マーラ。こちらは、前作と打って変わってパンクな姿は驚き物ですが、基本のカワイ子ちゃんは隠せない。

一般的な世評としては、ハリウッド版は悪くはありません。マーラのエキセントリックなリスベットも評判が良い。ですから、原作を読んでいない人、あるいはスウェーデン版を見ていない人は、ハリウッド版からみる方が良いかもしれません。

ただし、「ミレニアム」という連作として重要な部分がハリウッド版では、中途半端に登場するので、そこの部分は冗長な印象は持ってしまうかもしれません。探偵ブルムクヴィストとワトソン役リスベットに割り切って、ハリエット事件だけに集中して2時間の映画にした方がすっきりしたかもしれません。

ハリウッド版は、久しぶりにタイトルはフィンチャー節が炸裂してかっこいい。Led Zeppelinの「移民の歌」のカバーに乗って、ドラゴンとハッカーをイメージしたCGがうねるように描かれているのはMVを見ているようで素晴らしい。

また、本編の映像も実にスタイリッシュ。アクション・シーンはありませんが、クレイグのブルムクヴィストもありだと思わせますし、マーラのリスベットも魅力的であることには違いありません。調査を依頼するヴァンゲル家のヘンリックは、つい先頃亡くなったクリストファー・プラマーです。

自分のようにいろいろ悩んで、スウェーデン版を先に見ちゃった人は、残念ながらあくまでも「リメイク」であって、オリジナルを超えるほどではないという感想になってしまうのはお許しいただくしかありません。


2021年2月27日土曜日


車やバイクで、他人の迷惑を顧みず走り回る連中は今の時代にもいるわけですが、日本では70年代に登場したバイクによる集団暴走行為をする連中が最初の社会問題になったんだろうと思います。

それ以前は、カミナリ族と呼ばれていたバイク集団がいましたが、主として社会から落ちこぼれた、あるいは社会に反抗したいという若者が中心。

ところが、70年代はいわゆる「不良」たちがグループを形成するようになり、積極的に他人に対する迷惑行為として暴走を繰り返すようになったと思います。

これから「暴走族」という呼び名が定着し、迷惑行為を超えて犯罪行為に及ぶようになり、時には暴力団などの予備軍的な性質も持つようになりました。

当初は大通りをルール無視で走り回り、爆音とクラクションを響き渡らせていた暴走族は、警察の取り締まりが厳しくなると、一本、二本裏の道を平気で走り回るようになりました。

そこで、その時代に中学生・高校生だった自分の場合、彼らをかっこいいと思う・・・わけはなく、住宅街の中にある家の前を走り回る暴走族が登場したことで、うるさいとしか思えず、大変怖い存在でした。

話は変わって、医者になって大学病院で救急医療に携わるようになると、当直をしていて夜中に働かされるほとんどがバイク事故。何カ所も骨折して、死ぬかもしれなかったような事故を経験しても、彼らは「治ったらまたバイクに乗りたい」と言うんです。

もう、理解の範疇を超えている。できれば、自分がいる病院の近くでは二度と事故らないでもらいたいと思ったし、バイクがなければどれだけ仕事が楽になるかと考えたものです。

そんなわけで、はっきり言って、バイクは嫌い。自分は絶対にバイクに乗りたいと思わないし、家族にも乗らせない・・・なんて、思って来ました。

2021年2月26日金曜日

ケアプラザでおしゃべり


去年3月一杯まで、ケアプラザ協力医を10数年間やっていました。

ケアプラザというのは、横浜市社会福祉協議会が運営する、介護保険事業所です。地域の在宅要介護者に対する様々なサービスを行っていて、それぞれの区に数カ所ずつ設けられています。

毎年、だいたい2月に区内のケアプラザ全部を対象にしたケア・マネージャーさんを対象とした勉強会の講師を行っていたんですが、協力医を止めた後の今年も喋らせてもらいました。

こんな時期ですが、人数を制限しての開催。マスク着用で2時間喋るのは、かなり辛いのですが、聞いて下さる方も熱心で気合が入りました。

当然新型コロナの話は避けられないので、あらためていろいろ調べました。また、今回は「老化」全般の話で、自分の専門外のところを絡める必要があったので、準備にはけっこう苦心しました。

ということは、自分が講師なんですが、喋る機会を貰うと自分の勉強になるということで、こういう依頼は大歓迎ということです。協力医を辞めても誘ってもらえるというのはありがたい事です。

2021年2月25日木曜日

ミレニアム 火と戯れる女 & 眠れる狂卓の騎士 (2009)

スウェーデン版「ミレニアム」の映像化シリーズは、第1部は劇場公開用映画として、さらに第2部と第3部は続けてテレビ映画として連続で制作されました。第2部と第3部は、ダニエル・アルフレッドソンが監督し、主要キャストは同じです。

第2部と第3部は内容も連続しており、第1部の謎解きとは一転して、リスベットを巡る公安警察の中の特殊組織による30年近い陰謀を暴くという大がかりなサスペンスになっています。

第1部で、リスベットの後見人となったビュルマン弁護士から性的強要をされたエピソードは、第1部の中では本筋とは無関係で、リスベットの人間性を理解するサイド・ストーリーという感じだったのですが、実はこれが「ミレニアム」最大のスリルの序章でした。

30年近く前に、ソビエトの諜報員だったアレクサンデル・ザラチェンコは、スウェーデンに亡命。結婚しリスベットが生まれますが、リスベットの母親は度重なるDVのため脳に損傷をうけます。12才だったリスベットは、帰り際のザラチェンコにガソリンをかけて焼き殺そうとしますが未遂に終わり、児童精神病院に収容されました。

ここで、精神科医師のテレポリアンにより虐待され、長期の拘束を受け「重度の精神疾患」により責任能力が無いと烙印を押されます。パルムグレン弁護士が後見人を引き受け、社会に戻ったリスベットは、パルムグレンとは信頼関係を築き、警備会社の調査員として働くようになったのです。

一命をとりとめたザラチェンコは、秘密裏に結成された公安警察の中の特務機関により守られ、増長してあらゆる悪事に手を染めるようになっていました。パルムグレンが脳梗塞で倒れたため、リスベットを監視・コントロールするために新しい後見人として特務機関が送り込んだのがビュルマンでした。

そんな時、ザラチェンコらが行っていた人身売買による売春行為を、フリーのジャーナリストのダグが嗅ぎ付け雑誌「ミレニアム」に売り込んできました。ミレニアムでは、その買春した客らに政府関係者も含まれていたことから、記事にすることを承認します。

しかし、ダグと一緒に調査していたミアの二人は、深入りし過ぎてザラチェンコらに殺されてしまいます。また買春した要人が特務機関の人間だったことから、調査を継続するブルムクヴィストらにもしだいに危険が迫ってくるのでした。

第2部「火と戯れる女」では、リスベットはダグらの殺人容疑で警察から追われ、そして間隙を突いてザラチェンコにたどり着き瀕死の重傷を負うところまで。そして第3部「 眠れる狂卓の騎士」では、病室から携帯だけでブルムクヴィストの捜査に協力し後半は裁判で真実を明らかにしていく様子が描かれます。

第1部から全部通して見ると、普通のテレビドラマ1クール分なので、けっこう大変なのです。しかし、脚本が良いのか、ストーリーの展開のスピードが落ちることなく、リスベットの動きは地味な感じですが飽きさせません。

やはり、もともと続き物の構想で書かれた原作なので、話の作り込みがうまく出来ている。第1部「ドラゴン・タトゥーの女」は、リスベットとブルムクヴィストの紹介編みたいな位置づけで、おそらく原作者が一番力を入れたのは第2部~第3部の巨悪との因縁・対決なのだと思います。

全体を通して、人権を重んじる北欧国らしい、男尊女卑に対する痛烈な批判精神が貫かれています。リスベットも社会からの落後者ではなく、社会から押し潰された被害者として描かれている。それでも裁判では、リスベットはモヒカンにしてパンクないで立ちで登場し、自己主張をすることで単なる弱者ではなく立ち向かう勇気があることを示しているように思いました。

現在は日本語版としては、最初に出た劇場用のそれぞれ2時間半程度のものと、のちにテレビ用に追加編集してそれぞれが3時間になった「完全版」のものがDVDだけで登場しました。ブルーレイは英語字幕付きの海外版しかありません。

どうせ見るなら完全版をお勧めしますが、現在では高価な中古しか手に入りません。しかし、三作をまとめて見るだけの価値は十分にあります。リスベットの強烈なキャラクターは、十分に中毒性があると言えそうです。

2021年2月24日水曜日

ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女 (2009)

これはスウェーデンの映画。スウェーデン語は耳になじみが無く、英語と違って違和感がありますが、慣れるとそれほど気にならなくなります。

この映画については、どうしても原作のことに触れておかないといけない。

原作小説を書いたのは、スウェーデンのジャーナリストのスティーグ・ラーソン。2002年に執筆を開始した初めての小説が「ミレニアム」であり、もともとは10部構成とする予定でした。

第1部が「ドラゴン・タトゥーの女(2005)」、第2部が「火と戯れる女(2006)」、第3部が「眠れる女と狂卓の騎士(2007)」ですが、実はラーソンは2004年に第1部が刊行される直前に心筋梗塞で死去しています。

つまり処女作が絶筆となってしまったわけですが、死後本が出版されるとスウェーデン国内だけでなく海外でもベスト・セラーとなり、多くの賞を受賞しています。

その後ダヴィド・ラーゲルクランツが続編として「蜘蛛の巣を払う女(2015)」、「復讐の炎を吐く女(2017)」、「死すべき女(2019)」を独自の構想から書きあげ、「ミレニアム・シリーズ」の第4~6部として出版されました。

原作は推理小説のジャンルにあたり、その内容は、基本的に犯人捜しのサスペンス・スリラーの形式です。スウェーデンでこれを映画化するにあたっては、(自分は未読ですが)原作にかなり忠実な映像化がされており、「Who done it?(誰がやったか)」という点からも詳しいストーリーを書くことはできません。

とりあえず、このストーリーの背景については説明できる。不正などの告発に物おじしない社会派の雑誌「ミレニアム」の中心人物がミカエル・ブルムクヴィスト。ブルムクヴィストは、著名実業家の不正を記事にしますが、名誉棄損で訴えられ敗訴。半年間の禁固刑に処せられます。

一方、もう一人の主人公がリスベット・サランデル。パンクな服装と、あちこちに付けたピアス、背中にドラゴンの刺青をしています。DVを繰り返す父親に対する殺人未遂により、精神病院などへの入退院を繰り返してきたため、暴力的な無能力者という烙印を押され、弁護士の後見人が付きます。しかし、物事を見極める観察力・記憶力は極めて優秀で、ハッカーとしても一目置かれ、警備会社の調査員の仕事をしています。

ヴァンゲル財閥の長老であるヘンリック・ヴァンゲルは、ブルムクヴィストの身辺調査を行い信頼できる人物と判断し、40年前に殺された可能性がある実の娘のように可愛がっていた姪のヘンリエッタの失踪事件の解明を依頼します。本人は忘れていましたが、ブルムクヴィストは父親がヴァンゲル財閥の仕事をしていた関係で幼い時にヘンリエッタにも会っていたのです。

ブルムクヴィストの身辺調査を行ったのがリスベットで、ブルムクヴィストのパソコンをハッキングして、ヘンリエッタの事件を知り、事件の核心にせまる重要なことに気がついたことから、二人は協力し事件の解明に当たることになります。

事件に関係するのはヴァンゲル家のヘンリックの3人の兄と、その息子・娘たちで、ヘンリックは彼らの中に犯人がいると考えていました。ここで、次から次へとスウェーデンの耳慣れない名前が続々と出てくるのは、少しだけ忍耐が必要です(一族の秘密の因縁は金田一耕助の事件並み)。

この本筋に、リスベットにまつわる暴力を受けてきた過去や、後見人弁護士による性的虐待の話が絡んで、複雑な人間像を織りなしていきます。ですから、単なる推理ドラマではなく、むしろ調査する側の人間心理に深く切り込んでいくので、物語の深みが増しています。

ニールス・アルデン・オプレヴ監督による映像化に当たっては、おそらく多少の整理整頓はされているとは思いますが、くどすぎることもなく、だからといって簡単でもない出来はなかなかのものです。もっとも、そのためにはこの手の映画としては長目の3時間が必要ということ。

北欧の極寒の閉塞感のある雰囲気が画面上に生かされていて、画面の重厚感を増すことに成功していると思いました。ブルムクヴィストを演じたのはミカエル・ニクヴィスト、リスベットはノオミ・ラパスがキャスティングされています。二人とも国際的にも活躍した俳優で、いわゆる美男美女コンビではないところが、映画により現実味を持たせているようです。


2021年2月23日火曜日

チョコレート 2


バレンタイン・デイからは1週間過ぎましたけど、今年はこんなのをいただきました。

ドイツの車メーカーの一つ、フォルクス・ワーゲン。その会社の一番馴染み深いのは、「ビートル」の名称で親しまれた車です。

これはビートルの形のチョコレートのセットで、車のフロント・トランクを開けると付属している工具箱をモチーフにしているようです。チョコレートを作っているのはモロゾフなので、これそのものは日本製。

この車には特別な愛着を持っている人が少なくないので、かなり喜ばれるし思います。自分のようにトヨタ車ばかりに乗ってきた者でも、ちょっとこども心をくすぐられる感じでワクワクします。

贈る相手が喜びそうな物を選ぶというのは、なかなかできそうでできない。ご配慮感謝します。

2021年2月22日月曜日

ソーシャル・ネットワーク (2010)

目下のところ、デヴィド・フィンチャーの監督した映画としては、この作品がほぼ最高評価を得ていると言って間違いない。

いまやネットを利用する人々の多くが登録している「facebook」の創業者、マーク・ザッカーバーグを主人公として、サイトの立ち上げから巨大化していく過程を、抱えた2つの訴訟の裁判前聴聞会の様子と絡めてたどっていきます。

facebookについては、自分は登録はしましたがほぼ利用していません。何故かは説明しにくいのですが、何となくSNSに縛られる感じが好きじゃない・・・という感じでしょうか。ですから、最も若くして億万長者になったザッカーバーグ氏に対しては、特別な感慨は持っていません。

最初に思い切って言いますが、世評とは異なりますが、自分はこの映画は好きではない。

この映画で描かれている内容については、本人も積極的には否定していないらしい。映画的なフィクション部分もあるでしょぅが、少なくともこの主人公は自分にとってはすごく嫌な奴です。

主人公が嫌いということは、当然、彼には共感できないし感情移入できない。映画としては、そんな人間を特に持ち上げていないところは良いと思いますが、約2時間見続けるのは苦痛です。

ハーバード大学の成績優秀な学生であるマーク・ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)は、やたらと早口でまくしたて、女の子にも上から目線でデリカシーのかけらもない。

ある日振られた腹いせに、ブログに彼女を侮辱する内容を書き込み、さらに大学内の寮のサーバーをハッキングして女学生の個人情報を盗み出します。この情報をもとに、女子学生の人気投票サイトを立ち上げて、学校内に一気に知られるようになりますが、同時にサイテーの奴としても名が売れる。

ボード部で人気があった双子のウィンクルボス兄弟から、大学内社交サイトの立ち上げに協力してくれといわれたマークは、彼らには協力するそぶりは見せましたが、自分で親友のエドゥアルドに資金協力してもらい独自のSNSを立ち上げてしまいました。

立ち上げたSNS、つまりfacebookは瞬く間に大学内に広まり、他大学にも広げていきます。音楽をやり取りできるNapsterを立ち上げたショーン・パーカーは、マークと接触し事業拡大を援助しますが、エドゥアルドを強引に排除してしまいます。

このことから、ウィンクルボス兄弟からアイデア盗用、エドゥアルドから共同創業者としての地位保全の訴訟を起こされることになるのです。弁護士から、「今のあなたならスピード違反の罰金みたいなものだから和解する」ように勧められます。

過去と現在が行ったり来たりする構成ですが、その間は数年しかたっていないので、最初のうちはどっちがどっちなのか戸惑います。いずれにせよ、どっちも嫌な奴なのは変わらない。最後に女性弁護士に「あなたは嫌な奴じゃない。そう振る舞っているだけ」と言わせて、何とか好感度を上げで締めくくろうとしている。

いやいや、そうじゃないでしょう。2時間見てきて、嫌な奴は変わらない。この主人公は、金のためでもなく、女のためでもなく、自分の知的好奇心のために親友も彼女も切り捨てていく人物です。いわゆる、大人の対応ができないこどもみたいなものということでしょうか。

マークの行動論理はものすごく強い主観で決まり、そういう人物を扱えるのはさらに強烈な主観を持ったショーンのような者だけということ。もっとも、そういう人たちだから大成功するか大失敗するというのもあるかもしれません。

フィンチャーが、そこを描きたいと思ったのならまずまずというところ。殺人などの犯罪に関わるストーリーではありませんが、次第に組織が大きくなっていく過程はある意味サスペンスです。そのあたりの描き方は、さすがという感じ。

なお、冒頭、彼女と口喧嘩して振られるシーンはなんと99テイク撮ったらしい。彼女であるエリカを演じるのはルーニー・マーラーで、次のフィンチャーの映画では主役に抜擢されました。

2021年2月21日日曜日

治療薬マニュアル


内科と比べると、整形外科は使用する薬は多くはありません。専門にしている関節リウマチについては、絶えず薬の情報については注意を払って来ましたので、自分のテリトリーだけに限れば薬のマニュアルは必ずしも必要とはしません。

とは言え、世の中には「薬」と呼ばれるものがごまんとあって、すべてに精通することは到底不可能。必然的に、全部が載っている本が無いと診療に支障をきたすことになります。

特に、ジェネリック品が幅を利かせるようになってからは、使い慣れているはずの薬でも、商品名だけではなんだかわからないということがしばしばあります。

鎮痛薬としてよく名前が知られているものに、「ロキソニン(第一三共)」があります。ジェネリックが登場して長いので、今は20社以上が販売していますが、今は一般名である「ロキソプロフェン」にほぼ統一された感があり混乱が減りました。

一時は、ジェネリック・メーカーが、それぞれ勝手に商品名をつけていて、「ロ」から始まれば想像しやすいのですが、そうじゃない物もたくさんあって、ずいぶんと困ったものです。

また、開業医という立場になると、整形外科以外の薬を出すことも多くなりましたし、薬手帳などで他院から処方されている薬を確認することも重要になってきます。

毎年出版されているこの本のシリーズは、開業以来、2年ごとに買い替え、今回は2019年版以来の更新。なんか買い直すたびにどんどんページ数が増えていて、今回は2848ページ、B6サイズでコンパクトなんですが、厚さは5cmはありそうです。

ほとんど立派な国語辞典並みになってきましたが、パソコンで使える電子版の利用権利もついてきます。ただし、昭和のおっさん的には、やはりアナログの方が使い勝手が良い。まだ当分は、こういう紙の本の世話になると思います。

2021年2月20日土曜日

ベンジャミン・バトン 数奇な人生 (2008)

デヴィド・フィンチャーにとっては、初めてのアクション、サスペンスの無い映画。ヒューマン・ドラマ・・・なんですが、設定そのものがファンタジー。

何しろ、生まれた時が80才台の老人。年齢と伴に若返っていくという何とも理解不能な不思議な現象の運命の元に生まれたベンジャミン・バトンを、フィッチゃー監督と3回目のタッグを組むブラッド・ピットが熱演しています。

原作の短編小説を1922年に書いたのは、映画では「華麗なるギャツビー」で有名なF・スコット・フィッツジェラルドです。映画化の話は80年代から出ていましたが、何しろ主人公が若返っていくという主軸となるプロットの映像化をどうするかで悩みに悩んで、企画は二転三転してきました。

アカデミー賞は、主要13部門にノミネートされ・・・ましたが、受賞は美術賞と視覚効果賞だけ。フィンチャー作として全体的な評価としては、必ずしも上位にはランクしているとは云い難い。

その理由は・・・わかる。確かに、だんだん若返っていくということを除くと、一人の男の人生を静かになぞっていくので。大きな事件があるわけではなく、あまり盛り上がらない・・・のに、長い。2時間半越えはちょっと辛い。

一人の人生を生から死まで追いかけるので、大河ドラマみたいなもので長くなるのはしょうがないとは思いますが、なんとかもう少しエピソードを絞り込めなかったものかという思いはあります。時間に逆行する話のプロローグとして、冒頭の時計職人の話が出てくるのですが、これなどは本編とはほぼ無関係で必要性は感じにくい。

物語はハリケーンが近づく病院の中で、命を終わろうとしている老婆、デイジーが娘に彼の父親、ベンジャミン・バトンの数奇な人生を語る形で進行します。ハリケーンが近づくことは、これも直接的な関係が良くわからない。

この話のテーマは「永遠」ということらしい。年老いて生まれた男がどんどん若返って、こどもだったデイジーとついに結ばれる。その時だけが二人の時間軸が交差する。しかし。そこを過ぎると、デイジーはどんどん年老いていき、ベンジャミンはこどもになっていくのです。

技術的なことは、どうやってこの現象を映像化するのかという点に尽きます。こども時代のベンジャミンは、複数の子役が演じ、CGによりブラッド・ピットの外見を合成しているようです。一方、デイジーを演じるケイト・ブランシェットは、老けメークで年を取っていきます。これらの変化はそれなりに見事で、あまり違和感はありません。

ただ、どうやっても年々若返っていくという設定そのものが受け入れにくい。コメディみたいなものなら、笑ってそんなこともあるよくらいですませられますが、シリアスなドラマとしては、現実味が無さすぎる。

とは言っても、フィンチャーだから、何とかまとめ上げたという見方もできますし、映画として挑戦するだけの価値があるストーリーだろうとは思います。少なくとも、異様な人生だったベンジャミンを否定せず肯定的に描き切ったことには敬意を払わずにはいられません。

生物学的な年齢と、精神年齢とは必ずしも一致しないことは普通にあることで、何となく合わせようとする気持ちが普通です。しかし、どうやっても合わせられない時に、それを受け入れていく大きな意思、あるいは受け入れられない時の決断といったものを感じる映画なのかなと思いました。


2021年2月19日金曜日

2001年 宇宙の旅 (1968)

60年代に娯楽性の高いSF映画がどんどん作られた感がありますが、はっきり言って賞レースとは縁遠いものばかりでした。しかし、スタンリー・キューブリックが放ったこの映画で、SF物での芸術性が一気に高まり、単なる娯楽ではない文芸性を伴うことで、映画史上に名を残しました。

はっきり言って、SF映画としてこの作品を超えたものは半世紀たっても存在しないし、すべての映画の中でも十本の指に収まるくらいに選ばれるようなの不朽の名作です。

この映画にまつわるエピソードは膨大な量にのぼり、あまりに多くの論評がされているので、いまさら自分のような単なる映画好きがどうのこうのと言う必要はありません。

もう何十年も前に映画館で見て、レーザーディスクを買い、DVDはもちろんブルーレイでも買いなおしました。何度も見直していますが、毎回新しい驚きがあり、毎回楽しめる。ただし、「さぁ、見るぞ」という気合は必要で、約2時間半の緊張を覚悟しないといけません。

何故かと言うと、一つ一つの場面の素晴らしさを見逃してはいけないのは当然のこと、必要以上に言葉で明示的にストーリーを説明しないことが大きな理由です。見るものの想像力を試しているようなところがあって、だからこそいろいろな解釈が議論され続けていると言えます。

それは冒頭の「人類の夜明け(The Dawn of Man)」と最後の「木星と無限の彼方(Jupiter and beyond the Infinity)」のパートで顕著です。いずれも台詞は無く、映像と効果音、あるいは電子音楽だけで進行します。

「人類の夜明け」は比較理解しやすい。類人猿がコロニーをつくって生活していて、水を巡ってグループ間の抗争が生じる。ある時武器を使うことを覚えたグループは文明を手に入れるのです。

次の瞬間、画面は宇宙空間に時空を超えて変わります。この後の当時の知見を最大限に考慮した宇宙での様々な事象については、多くの考証がなされ、ほんの少しだけ誤りが指摘されていますが、些細なことで映画の価値が損なわれるものではありません。

「木星と無限の彼方」では、木星近くの宇宙空間にてディスカバリー号乗務員のボーマンが体験する光と時間が交錯する幻想的な空間を、見ている者も一緒に経験するわけですが、おそらく初めて見た時はほとんど混乱の中で映画が終了すると思います。

ですから、(映画の楽しみ方として正しいかわかりませんが)何度も見返すことが推奨されるし、何回か見ていくうちに自分の中に何らかのイメージが出来上がって来て、その個々の一つ一つが正解になって来る。

謎を謎のままにしておくことは、生理的に気持ちが良いものではありません。何とかその理由を知りたい、納得したいと思うのは人間としては普通の事なんですが、そこを逆手にとって個人で解決するように仕向けていることがすごいことです。

まだ一般にはコンピュータなど影も形も無い時代に、これだけの見事な特殊撮影を実現したことだけでも勝算に対します。後に「未知との遭遇」や「ブレードランナー」で活躍したダグラス・トランブルによる当時最先端の技術は、50年たっても色あせていません。

「2001年」は、まだ見ていない方は、死ぬまでに絶対に見るべき映画ですし、すでに見た方は再度見直すことを是非お勧めしたくなります。

ちなみに、1984年に続編として「2010年」が制作されました。ここでは、「2001年」の謎だった部分がある程度合理的に説明されてしまいました。そういう意味で、「2001年」の最も特異的な部分を安易に解決して、個人が抱いていたイメージを潰してしまった作品という言い方ができる。ですから、正当な続編ではありますが、むしろ見ない方が良い作品です。

2021年2月18日木曜日

ミクロの決死圏 (1966)

懐かしいこどもの時に見た、今となっては古典的なSF映画の一つ。

SFは、Science Fictionの略で、映画に限らず小説などの芸術の一分野であることは、今更言うまでもない。

こどもの時に、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」のようなロボット物、「サイボーグ009」や「8マン」のような改造人間物などの漫画にワクワクしましたが、いずれもあえて分類すればSF作品。

科学的にある程度あり得そうだけど、現実には経験できないような空想の世界を見せてくれるのがSFですから、映画はその表現の場として最適かもしれません。歴史的には、SF映画は「月世界旅行(1902)」に始まり、「メトロポリス(1927)」で広く認知されました。

SF映画の歴史を語りつくすことはできないので、あくまでも自分の印象としてですけど、一般に広く受け入れられたのは60年代。ただし、多くはB級映画の域を超えたものではありません。

その中でもひときわ目立った存在の映画がこれ。未来物や宇宙物ではなく、その時代に想像できる最先端技術の話。「アンドロメダ・・・(1971、R・ワイズ監督)」とともに医学的SFの代表作です。

何しろ、ミクロ化した潜水艇に乗船した人間を患者の体内に注入して、外からの外科的手術ができない脳底領域の血種を取り除こうという、医者としてもわくわくするような話です。もっとも、現代の医学知識からすれば、突っ込みどころは満載ですが、60年代前半の医療技術ということで納得してみるしかありません。

監督は職人気質のリチャード・フライシャー。賞からはやや縁遠い人ですが、手堅く映画をまとめる力は十分にここでも発揮されています。


東西冷戦の真っ只中、両者は人をミクロ化する技術を開発しましたが、持続時間が短いことがネックになっていました。東側のベネッシュ博士は、ミクロ化持続時間を延長させることを可能にし西側に亡命してきます。しかし、その直後襲撃され、頭蓋内の底面に生じた血の塊(血種)により脳が圧迫され意識不明になってしまいました。

ミクロ化を実用化するミニチュア機動部隊の秘密基地に運ばれたベネシュの手術を行うのは脳外科の名医デュバル博士(アーサー・ケネディ)と助手のコーラ(ラクエル・ウェルチ)、部隊の医務部長のマイケルズ博士(ドナルド・ブレザンス)が補佐し、潜水艇を操縦するのがオーウェンス大佐(ウィリアム・レッドフィールド)、そして不測の事態に対処するためベネッシュを亡命させた諜報部員のグラント(スティーブン・ボイド)の5人が体内に入ります。

もう配役で、だいたい裏切り者は想像できてしまうわけですが、「ベン・ハー」で人気が出たボイドの顎の割れ具合は見事だし、当時のセクシー・シンボル、ラクエル・ウェルチにもドキドキさせられます。

頸動脈から入って、脳底に達し手術をしたら頚静脈から脱出する。血流を弱くするため、超低温で心拍数を可能な限り少なくする。血種を焼くのはレーザー。潜水艇は原子力なので、放射能を探査して現在位置を確認する。ただし、1時間を超えて少しずつ大きくなると免疫機能に認識されて異物として白血球の攻撃を受ける・・・などなど、確かに医学的に妥当(と錯覚しそう)な作戦が用意されています。

段階的にミクロ化して潜水艇を注射器に入れ行く過程は、丁寧に描かれています。こういうところを科学的に細かい事を言うのは野暮という物です。血管の中に入ると、数が少なすぎかと思いますが、いかにも赤血球、白血球、血小板らしきものが周囲を浮遊していてで、アカデミー美術賞および視覚効果賞を受賞しただけのことがあります。

航海が順調なのは最初だけで、動脈と静脈が繋がっている動静脈瘤のため、いきなり頚静脈に紛れ込む。コースを修正するため、57秒間だけ心臓を停止させ、その間に心臓を通過するという難題をクリアします。さらに酸素を補給するため肺の壁にホースを差し込んだりする。

ここで治療用レーザーの固定がはずれて壊れるという怪しい出来事も発生します。仕方が無いので無線機(モールス信号!)の部品(トランジスタ!!)を使って修理します。脳底に速く到達するため内耳を通過することになり、外では一切音を出しちゃいけないという笑うに笑えない事態。

何とか脳に達すると、神経細胞に光が走って電気的な信号が起こっている様子も面白い。タイムリミットあと数分というところで。いよいよ血種を焼いているとついに裏切り者が正体を現し、潜水艇を放棄。時間切れで大きくなり始めたため白血球の攻撃を受けながら、視神経を通って目から脱出することに成功しました。

原題は「Fantastic Voyage」で、まさに幻想的な航海を楽しめます。

2021年2月17日水曜日

チョコレート


そういえば、この前の日曜日はチョコレートの日・・・

いえいえ、バレンタインデーということで、いまだに何とも不思議だと思っている記念日でした。

日本では、自分が大学生の頃に始まったものですが、いろいろな変遷を経てもう「送る意味」なんてものはどうでも良くなった感があります。

一つのコミュニケーション手段と考えれば、うまく使えればいいと思いますが、製菓会社の思惑にのせられて「使われ」ないように注意したいところ。

何かをあげたい人がいるなら、誰から誰にでも構わないし、チョコにこだわらず何をあげてもいいんじゃないでしょうか。

そういえば、2月は節分がありましたが、いつからか恵方巻なるものが流行り、大量の余った太巻きが廃棄されることに批判が集まっていました。

今年も、翌日にもスーパーの総菜売り場には大量の太巻きが並んでいました・・・チョコレートにしても太巻きにしても美味しいですけどね。

2021年2月16日火曜日

スタッドレスタイヤ


冬の自動車運転の必需品と言えば、タイヤ・チェーン。

・・・と言っていたのは昭和の話。その後、スパイクタイヤという、鋲(スタッド)がついた物が登場し、チェーンを巻かなくても走れる手軽さが売りでした。

ところが、スタッドによって道路を傷め、粉塵による健康被害が問題になり、しだいに規制されるようになった。日本では80年代初めにスタッドが無くても、しっかり雪道を走れるスタッドレス・タイヤが登場し普及しました。

自分の場合は、年に数回の雪のために高い値段でタイヤ・セットを揃えるのは無駄と思っていたので、10年くらい前まではチェーン愛好家でした。

チェーンと言っても、鉄の鎖ではなくスタッドがついたプラスチック・チェーンのタイプで、装着も簡単で、何しろタイヤ1セットを買うよりはるかに安い。

でも、2014年だったと思いますが、このあたりでも記録的な大雪で、チェーンでも万能ではないという当たり前の現実に打ちのめされてからスタッドレスを用意するようになりました。

今装着しているのは、2019年11月の冬シーズン前に購入したもの。タイヤサイズが大きいので、ホイール付き4本セットで10数万円かかったと思います。最初のシーズンは、この当たりでは2回くらい雪だったと思いますし、長野に一度行きましたが、まったく雪が無かった。

この冬は、コロナの関係で遠出はまったく無し。首都圏の雪も、ほとんど降ったかなという程度。というこで、まだほとんどスタッドレスの恩恵を受けてないというところ。

安全・安心のための投資ですから、それでいいといえばそれまでですが、さすがに安くは無いものですし、他の車に使いまわしができるものでもない。

大雪で困っているところにお住まいの方には申し訳ありませんが、一シーズンに一度でもいいからスタッドレスでよかったということがあってもいいかなと思ってしまいます。

2021年2月15日月曜日

ゾディアック (2007)

前作から5年ぶりのデヴィド・フィンチャーの監督作は、60年代末から70年代初めにかけて実際にあったいまだ未解決の連続殺人事件の映画化です。映画に登場するロバート・グレイスミスによるノンフィクションを原作として、実際に事件を詳細に調査しなおしています。

おそらく、当時を知るアメリカ人にはよく知られた凶悪事件ですが、日本人の我々はある程度の事件に関する予備知識を必要とします。

事件は、1968年12月20日、未成年カップルがサンフランシスコ近郊のハーマン湖で射殺されたことから始まります。続いて、1969年7月4日、男女がヴァレーホの駐車場で拳銃で襲われ、女性が死亡し、男性は何とか命を取り留めました。映画はこの事件からスタートします。

その翌日、警察に犯人らしき男から殺人をしたと電話がかかってきます。そして翌月に、警察、新聞社などにゾディアックと名乗る人物から暗号文を含む手紙が送りつけられました。

この暗号文は、使われた文字数から「408暗号文」と呼ばれ、パズル好きの一般人によって解読されました。そこには「森で動物を殺すよりも人を殺す方が楽しい。人間は最も危険な動物」などと書かれていました。

9月27日、ベリエッサ湖畔でカップルがナイフで襲われ、またもや女性が死亡し、男性はなんとか助かりました。10月11日、タクシー運転手が射殺され、ゾディアックから運転手の血痕が付着する布の断片が新聞社へ送られてきました。

また、警察署へ電話があり、ある有名な弁護士が就いてくれるならテレビ番組に電話すると言って来ます。実際に電話がかかって来ますが、ゾディアックは結局自首して出ませんでした。そして、第2の暗号である「340暗号文」が送られてきました。

その後沈黙したゾディアックでしたが、1974年になって新たな犯行を示唆する手紙が警察へ届きましたが、これを最後に目立った動きは途絶えました。

実は、昨年12月に「340暗号文」がついに解読されたというのがニュースになりました。内容は、テレビ番組に登場したのは偽物であり、今までに殺した被害者たちが死んだ後の自分の奴隷になるので死ぬことは怖くないというものだったということです。

さて、映画はこれらの事実を淡々と描くことに注力しています。これまでのフィンチャーらしいスタイリッシュなタイトルも見られません。映画というエンターテイメントの中で、意識的に可能な限り事実の列挙する、ある意味抑揚が無い展開です。

当然、事件そのものが未解決ですから、最後で犯人が捕まったりするような起承転結の結がありません。犯人捜しのサスペンス映画と思って見ると、肩透かしを食わされることになります。

つまり、この映画で見ていくべきは、事件に関わった三人の男たち。ロバート・ダウニー・Jrが演じる敏腕記者のポール・エイブリーは、記事を書いたことでゾディアックの標的になるかもしれない恐怖から、精神的に追い詰められていきます。

マーク・ラファロが演じるのは、当初から事件の担当になったデイブ・トースキー刑事。証拠不足で容疑者を逮捕できず、本当に犯人と確信していたのか、早く終わりたかっただけなのか悩み、長期化するにつれ孤立していきます。

ジェイク・ギレンホールは、原作者であり新聞社の風刺漫画化であるロバート・グレイスミスを演じます。最初は、エイブリーについて野次馬的な興味を持っていた事件でしたが、エイブリーやトースキーが脱落していくと、家族からも見放される異様な執念で真相究明に走り回るのです。

つまり、事件の直接の被害者だけでなく、彼ら三人を通して事件に関係した人々の人生を大きく変えてしまう事を描き出しているのです。そういう意味では、この映画はサスペンス素材を素にしたヒューマン・ドラマという扱いをするのが正しいのかもしれません。

2021年2月14日日曜日

パニック・ルーム (2002)

デヴィド・フィンチャー監督は、サスペンス物で一躍有名になったとは言え、実はこれまでの作品は純粋な犯罪物ではありません。この映画で、初めて犯罪をテーマにした、いわゆるクライム・サスペンスを手掛けています。

パニック・ルームはパニックになった時に緊急避難するための部屋という意味ですが、通常はセーフ・ルームと呼ばれている物。日本では、家屋の構造上あまり普及しているとは云い難いのですが、欧米の資産家などでは、シェルター並みに堅牢な作りの隠し部屋を持っていることは珍しくないらしい。

この映画は、たまたま引っ越した家にパニック・ルームがあり、そこに元住人によって隠された遺産を目当てに賊が侵入。母娘がパニック・ルームに逃げ込み、賊と対峙するというストーリーが展開します。タイトルもニューヨークのビル群に、文字が立体的に浮かんでいるところはフィンチャーらしくスタイリッシュ。

パニック・ルームに入った母娘はどうにもできないし、逃げ込まれた側も手も足もだせないという、言って見れば両者が「密室」に閉じ込められたようなシチュエーションが面白い。

スピルバーグとの仕事も多いデヴィド・コープが制作・脚本で、基本的に夜の間の屋内だけの密室劇のような作り。フィンチャーは、サスペンスとして今まで以上に緊張感を高める演出をしています。

母親は当初ニコール・キッドマンが予定されていましたが、直前の出演作「ムーラン・ルージュ」でケガをしたため降板。急遽、フィンチャーの実力を認めるジュディ・フォスターが、カンヌ映画祭の審査員をキャンセルして出演しました。

ところが、撮影中にフォスターが妊娠していることがわかり、お腹が大きくなってくることで、監督は大いに悩むことになりました。さらに娘役のクリステン・スチュワートの身長も伸びてしまって、撮影終了時にはフォスターの身長を上回ったというのも驚きです。ある意味、フィンチャー自身が一番スリルを味わったかもしれません。

三人の賊は、計画を立てたジュニア(ジャレッド・レト)、パニック・ルームの設計者のバーナム(フォレスト・ウィテカー)、荒っぽいことが平気なラウール(ドワイト・ヨアカム)で、それぞれのキャラクターは明確でわかりやすい。

カメラは人が通れない所を自然と通過するよなスムースな動きがあったり、縦横を回転させるような場面などで、見るものの視点を自在に操っているかのようです。この辺りは、サスペンスの神様、ヒッチコックの映画を意識しているように感じます。

また娘は糖尿病があり、腕時計型の血糖計測装置の数字を時々見せる事で、サスペンス度をさらに増していくのも面白い。後半で、低血糖発作を起こした娘のためにパニック・ルームから母親が出たところから、今度は賊がパニック・ルームに娘を人質にして立てこもり、立場が逆転する構成もよいと思います。

この映画はフィンチャーの監督作品としては、(「エイリアン3」を除いて)最も低評価で、これだけがいまだブルーレイ化されていません。実は、まだフィンチャーの名前を知らなかったんですが、単純にフォスターのファンというだけで新作として発売されたDVDを購入していました。

これまでの作品と違って、サイコ・スリラー的な要素はなく、ハッピーエンドなのでストーリーの奥深さはあまりありません。また、解決の仕方も安易と言う意見も頷ける。

そう思うと物足りなさは否定できませんが、室内劇という制約の中で、高低をうまく利用して、立体的な映像を作っているところはさすがですし、クライム・サスペンスとしては一級の仕上がりになっていると思います。

2021年2月13日土曜日

チック・コリア


チック・コリアが、2月9日に亡くなった。

ジャズを聴かない人には、馴染みが無い名前かもしれませんが、今の時代にジャズの巨匠と呼べる数少ないミュージシャンの一人でした。

マイルス・デイビス門下生を中心にジャズを聴く自分にとっては、ジャズの世界では「アイドル」の一人であり、リアルタイムに追い続けてきただけに、昨日ネット・ニュースで記事を見つけた時はショックが大きかった。

60年代半ばから頭角を現し、ハービー・ハンコックに続いてマイルス・バンドに参加。70年代に入ると、キース・ジャレットにバトンを渡しました。キース・ジャレットは、昨年脳梗塞により事実上引退し、どんどんジャズの世界が狭まっていく感じです。

1972年の「Return to Forever」は、ジャズにロックとラテンのフレーバーを持ち込んだ、クロスオーバー初期の傑作。この前後にECMに吹き込まれた一連のものは、透明感のある美しいフレーズで満たされていました。

1976年からはPolydorから、ロック・テイストを強調したバンド名義のアルバムと、ファンタジー色の強いソロ・アルバムを並行して発表し、自分はレコードが出るたびに喜々として買いに走ったものです。

80年代以後は、エイトビートのいかにもジャズというアルバムも多くなり、目を付けた若手との共演もずいぶんと行って来ました。その中には、上原ひろみや小曽根真のような日本人も含まれていたのは嬉しい事でした。

しだいに忘れられているようなジャズの世界を牽引し続け、ずっと現役で活躍してきたチック・コリアですから、いなくなると益々ジャズの灯火は細々となってしまうように思います。

79才。今どきだと長生きとは言えない年齢でした。

合掌

2021年2月12日金曜日

ファイト・クラブ (1999)

映画監督としてデヴィド・フィンチャーは、「セブン」、「ゲーム」に続くこの映画で、完全にサイコティックなサスペンス映画作家としての地位を確立したと言えます。家庭用ビデオ、DVDなどの普及により、作品を繰り返し鑑賞する環境が整ったことで、映画公開時よりも評価がしだいに高くなっていき、現在では一般からも広く受け入れられています。

それにしても、この映画くらい紹介の仕方に頭を悩ませるものはない。映画全体のトリックがものすごく重要で、ネタバレ無しでは絶対に説明できない。かと言って、そこを避けると「とにかく見てください」で終わってしまいます。

ストーリーそのものについては、ネットでは完全に説明しているものもありますので、知りたい方は検索してもらうとして、この映画のポイントだけ記しておきます。

映画全体はフィンチャーらしい全体に暗めの色調で統一され、登場人物も地味な服装が多い。その中でブラッド・ピットが演じる主人公の一人、タイラー・ダーデンだけは比較的ファッション性の高いカラフルな服が多く際立っています。

それに対する「僕」(エドワード・ノートン)は、出張ばかりの真面目に働くサラリーマンで、一般的なスーツにネクタイという服装で、高圧的な上司に逆らえない。いろいろな宣伝にのせられて、流行りの家具などを買い集めて、時代についていこうと必死。

偶然知り合った二人ですが、非合法的なことも平気で、いろいろな知識も豊富、それでいてイケメンのダーデンと「僕」の正反対なところが浮きたっています。ダーデンは、物質にこだわり、グローバル化の中で人が個性を無くしていると話し、「僕」はしだいに影響されていくのです。

この「僕」の心理的変化は、映画の中でサブリミナルという手法も用いて表されている。一瞬だけ、一見無関係な映像を挟み込むことで、見ている物に意図的な意識を刷り込ませるもので、彼のマッチョなものへの憧れを暗示します。

当初は「僕」はダーデンと無意味に殴り合うことで、解放された気分になり喜びを感じます。つまり、社会的に普通に暮らしていても、時流に流されているだけで、現代人には鬱積しストレスのはけぐちが心のどこかに必要になっているということ。

しかし、何かを破壊する行為はしだいにエスカレートしていくことになる。2001年に起こったアメリカ同時多発テロ事件は、イスラム過激派の犯行とされましたが、事件発生時にはこの映画に登場するような反グローバリゼーション勢力の関与も議論されました。

単純な話として、テレビでAが流行りと言われると、Bの方が自分にとっては良いと思ってもAを選択してしまうことはよくあります。気がつくと周りも全部Aになっていて、自分という一個人は埋もれてしまう。あえてBを選んだ場合は変人として扱われ、社会から疎外されていくのです。

確かに、自分もAを選ぶことが圧倒的に多く、実はBを選んでいた時はそれを表に出さないようにしていることに思い当たります。Bを選ぶことが多いほど、現代人はストレスをため込んでいき、精神的に追い詰められるか、どこかで何かを暴発させる必要に迫られる。

この映画のようなあまりにも危険な犯罪に及ぶことは、現実的にはかなり困難を伴うので、あくまでもフィクションにすぎないのですが、高く評価することは共感する人が増えているということで、それはそれで危険な香り? かもしれません。

2021年2月11日木曜日

KAMI 2


スマホは、LINEとゲームで使い道がほぼおわっている自分です。

ゲームについては、長い時間ずっと遊ぶことはないので、やりたい時に短時間で決着がつくものがいい。

例えば、「ポケモンGO」はいまだに細々と続けていますが、ほとんどルーチン・ワーク程度。どちらかと言うと肉体労働に近い感覚(嫌いじゃありませんが)。

ストーリー性の高い物は時間がかかるので、ボケ防止も兼ねて頭脳労働を必要とするパズルゲームが好み。最近見つけた、けっこうはまるのが「KAMI 2」というゲームです。

幾何学的に色分けされた紙の色を一色に統一するというゲームなんですが、回数が無制限なら話は簡単。ところが、塗りなおしができる手数が決まっていて、けっこう考え込むことがあります。

例えば上の絵柄では、暗い緑を残して、他の色のところは個別に暗い緑で塗っていくと8手ですべて暗い緑になります。

3か所のオレンジを明るい緑塗りなおして、広がった範囲を暗い緑にすれば、真ん中の小さい三角と右上との角の明るい緑が残り、暗い緑を明るくすれば5手でゴール。

一番小さい明るい緑三角を暗い緑にしてできた三角を、今度はオレンジに塗りなおすと大き目のオレンジの三角になります。これを明るい緑にして、後は暗い緑で塗れば、これ5手でゴールということになります。

やり方はいろいろですが、最小手にするためにはいかに同じ色の範囲を広げていくがポイント。複雑な柄の場合は、けっこう丸一日チャレンジしてもわからないこともしばしば。

でも、全部が同じ色になった時には達成感があって、何かとても嬉しい気分です。無料の範囲でも広告は出ませんし、何度でも最初からやり直しができるのも良心的。けっこうお勧めです。


2021年2月10日水曜日

謎の数字 !?


近くの公園、打ちっぱなしのコンクリート壁に、謎の数字が表れるようになりました。

何かのカウントダウンなのか・・・

最近世界中に発見されているモノリスみたいなものなのか・・・

それても、単なる誰かのいたずらなのか・・・

もしかしたら、魂が入れ替わった美人刑事と凶悪犯人に関係した物・・・です。

このあたりはずいぶんと前から、いろいろな映画やテレビ・ドラマのロケ地として知られています。これも、今、放送中のドラマに関係したものらしい。

近くに住む人からは、人気俳優さんの目撃情報がちらほらと流れてきます。

それにしても、壁に落書きしてそのままにしておけませんから、ロケが終わるときれいに消しているんです。いわゆるADさんですか、下働きをする人たちは大変ですよね。

2021年2月9日火曜日

ファンタジア (1940)

洋画を見る時、字幕付きで見ますか? それとも日本語吹き替えで見ますか?

自分の場合は、圧倒的に字幕。そもそも外国の人が日本語を流暢に話しているのは違和感あるし、時には口の動きと聞こえる声が合っていないのも嫌。

その俳優さんの声をちゃんと聞きたいというのもありますし、確かに山田康夫のクリント・イーストウッドは合っていたことは否定しませんが、山田康夫が亡くなって、別の人が吹き替えするのは何か違う。だったら、最初からイーストウッド本人の声がいい。

AmazonとかのDVDのレヴューで、やたらと吹き替えが完全じゃないと文句を言う人がいるんですが、自分はどうでもいいわけで、場合によっては安けりゃ海外版でもOKみたいなところがあります。

例えば、キューブリックの「2001年宇宙の旅」なんかだと、もともとセリフは少ないし、何度も見て話しはわかっているので字幕すらいらないくらい。それよりも、確実に吹き替えはいらない、字幕すらいらないという驚異の名作がこれ。

ディズニーの長編3作目にあたる古典的映画ですが、何しろ全編クラシックの名曲に合わせた驚異のアニメーションで、耳に聞こえるのは基本的に音楽だけです。史上初のステレオ録音というのもポイント。

巨匠レオポルト・ストコフスキー指揮による。フィラデルフィア管弦楽団の演奏で登場するのは・・・

ストコフスキー編曲のオーケストラ版のバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」
デュカスの「魔法使いの弟子」
ストラヴィンスキーの「春の祭典」
ベートーヴェンの「交響曲第6番 田園」
ポンキエッリの「時の踊り」
ムソルグスキーの「禿山の一夜」
シューベルトの「アヴェ・マリア」

映像に合わせて音楽を用いるのではなく、音楽に合わせて映像を作った画期的なものでした。幻想的なアニメーションが次から次へと登場し、とにかく目を奪われること間違いなしです。

自分は何歳だったか思い出せませんが、小学生の時に映画館で見ています。とにかくその時の印象が強かったことだけは間違いない。ディズニーのアニメはこどもができてから、いろいろと買い揃えましたが、実は「ファンタジア」は真っ先にレーザーディスクで買っていました。

クラシックに興味が無い人でも、なかでもストーリー性が明確な「魔法使いの弟子」と「禿山の一夜」はわかりやすいし、80年前の作品とは思えない斬新さを見出すことができます。

特に「魔本使いの弟子」はミッキー・マウスが登場するので人気も高い。「禿山の一夜」から「アヴェ・マリア」にシームレスに移行するフィナーレは、「闇から光へ」を表現した素晴らしい出来栄えです。

2000年に「ファンタジア2000」として続編が作られていますが、やはりオリジナル版を超えるようなものではありません。現在ではBlurayで、ほぼオリジナルの状態で鑑賞できるとは良い時代になったものです。


2021年2月8日月曜日

ウエスト・サイド物語 (1961)

60年代を代表するミュージカル映画というと、「サウンド・オブ・ミュージック」と伴に不朽の名作とされるのが「ウエスト・サイド物語」です。何と、どちらも監督はロバート・ワイズ。

もとは1957年初演のブロードウェイ・ミュージカルであり、音楽はポピュラー音楽にも造詣が深いクラシック界の巨匠、レナード・バーンスタインが担当しました。映画でも多少の変更はありますが、舞台の音楽をほとんど使用しています。

内容は、シェークスピアの恋愛悲劇「ロミオとジユリエット」であることは良く知られていて、場所はニューヨークの下町に帰られました。

モンタギュー家をリフ(ラス・タンブリン)が率いるポーランド系非行グループのジェット団、キャピュレット家をベルナルド(ジョージ・チャキリス)が率いるプエルトリコ系非行グループのシャーク団に置き換われました。

そして、ロミオであるジェット団のトニー(リチャード・ベイマー)が、ジュリエットであるベルナルドの妹マリア(ナタリー・ウッド)に恋をすることになっています。

ジェット団とシャーク団はお互いに縄張りを争っていて、トニーがマリアに近づいたことで、リフとベルナルドは決闘することになり、間に入ったトニーがベルナルドを殺してしまい、マリアに思いを寄せていたジェット団のチノにトニーも殺されてしまうという悲劇です。

ジュリエットが死んだと勘違いしてロミオは自ら命を絶ち、それを知ったジュリエットも後追い自殺するというシェークスピアの結末と違って、マリアは争うことの無意味さを切々と歌って去って終わります。

何と言っても映画版では、踊りのシークエンスが見事。バーンスタインの音楽に合わせた、スタイリッシュなダンスは同時大変に話題になりました。

挿入歌としても、「アメリカ」、「トゥナイト」、「マリア」などのヒット曲が生まれ、サウンドトラック・レコードも大ヒットしました。アカデミー賞では、11部門にノミネートされ、脚色賞以外の主要部門を総なめにしました。

ただ、主要キャストの歌唱が、当時としては「当たり前」のように本職の歌手によって吹き替えられていて、演じた側、歌った側の両方からいくつかの訴訟を起こされたりしています。また、ブルジョア感の強いナタリー・ウッドが、どう見てもプエルトリコ系には見えないというところもしばしば言われているところ。

現在、スティーブン・スピルバーグが、リメイクを制作中ですが、基本的にはバーンスタインの音楽を使用しているようです。ミュージカルは初めてのスピルバーグがどのようにこの名作を料理するのか、お手並み拝見というところです。

2021年2月7日日曜日

サウンド・オブ・ミュージック (1965)

言わずと知れた、ロバート・ワイズ監督による名作ミュージカル映画。アカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演女優賞をはじめ10部門を制覇しました。

ナチス・ドイツの脅威が迫るオーストリアで、新米家庭教師のマリア(ジュリー・アンドリュース)が、 トラップ家にに赴任。厳格な父親ゲオルクのもと、7人のこどもたちと伴に歌を通して心を通じます。

ゲオルクもしだいにマリアに惹かれ、二人は結婚し家族全員で合唱団を結成。コンクールに出場し優勝しますが、ナチスに反対するゲオルグは家族を伴ってスイスへと亡命しました。

・・・と、まぁ、ごくごく簡単にあらすじを説明するとこんな感じですが、実はこれ、実話をもとにしています。

マリアがトラップ家に来たのは1926年のことで、翌年ゲオルクと結婚。1935年、一家はザルツブルク音楽祭の大衆歌手コンテストで優勝しトラップ室内聖歌隊としてコンサート活動を始めました。1938年、オーストリアはナチスに併合され、アメリカへ亡命。トラップ・ファミリー合唱団として人気を得ました。

1949年にマリアが書いた自叙伝をもと、数々のスタンダードを世に送り出したリチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン二世の楽曲によりブロードウェイ・ミュージカルがヒットし、ならばというので映画化されたというもの。

2年前のエリザベス・テイラー主演の歴史巨編「クレオパトラ」の大失敗により、会社の存続すら危ぶまれた20世紀フォックスは、「サウンド・オブ・ミュージック」の成功により持ち直しました。

冒頭、広大な丘陵でアンドリュースによって歌われる「サウンド・オブ・ミュージック」は、映画の世界観を現す印象的なシーン。音楽をこどもたちに教えるため歌われる「ドレミの歌」、嵐の夜の怖さを紛らわすために歌う「私のお気に入り」、コンクールでの「エーデルワイス」など、広く知られた楽曲が登場します。

ここで、父親役を演じたのはクリストファー・プラマーで、サイレント期を思わせるような端正なくっきりとした風貌です。カナダ生まれ、首相も輩出した名家の出身。音楽的な素養もあり、この映画でも歌を披露します。自分場合は、プラマーは、心理サスペンスの隠れた傑作「サイレント・パートナー(1970)」という映画で知った俳優で、凄みのある悪役を演じていました。

ちょうど「サウンド・オブ・ミュージック」を見直したばかりなのですが、偶然、2月5日に91才で亡くなったことが報道されました。ご冥福を祈ります。




2021年2月6日土曜日

ゲーム (1997)

デヴィド・フィンチャー監督の「SE7EN」に続いて送り出した作品は、主人公がまったく理解できないトラブルに巻き込まれていくサスペンス。

すでに、前作で独自のカラーを打ち出していたフィンチャーですが、この映画でもフィンチャー・ワールド全開で、すでに作家性が確立してきたように思います。

ストーリーは、実は最後に大どんでん返しがあるので、見てない人にはさすがに教えられない。とりあえず、大事なポイントだけおさえておきます。

大富豪で仕事一筋の堅物、ニコラス・ヴァン・オートンを演じるのは、普段の役は何か色欲が目立つマイケル・ダグラス。そのあまりできの良い弟とは言えないコンラッド・ヴァン・オートンは、ショーン・ペン。そしてニコラスに絡む謎の美女、クリスティーンにはデボラ・カーラ・アンガーという配役。

ニコラスは小さかった時、おそらく誕生日バーティの8mmフィルムで記録された映像から映画はスタート。父親は、タバコを片時も離さない大富豪で、フィルムの中で笑うことはありません。実はすでにこの映像の中にたくさんの仕掛けがあり、見ている物はフィンチャーの「ずる賢い」誘導にのせられています。

何故かは明らかにしていませんが、父親は48才で自宅で飛び降り自殺。ニコラスは父親の跡を継いで、今は笑うことも忘れひたすら仕事をする毎日。タバコは吸わず、妻にも去られ、父親の代からいる家政婦だけと豪邸に暮らしています。

これは自分にも言えることだと思いますが、こどもは親に愛されたいし親を超えたい、いわゆるフロイトの提唱するエディプス・コンプレックスが存在する。少なくとも男の子にとって、最大のライバルは父親であり、父親よりも劣った存在にはなりたくない。

こどもの時に父親を突然亡くしたニコラスは、おそらく巨大な父親像の記憶しかなく、絶えず父親よりもまだ劣っている自分という強迫観念をもっているのではないかと思います。そして、ニコラスは、父親が亡くなった年齢と同じ48才の誕生日を迎えました。

コンラッドは、大学を中退し、精神を患い入院していたこともある。ニコラスは、父親代わりとしてコンラッドを見守ることも自分の使命の一つと考えているようです。コンラッドは、誕生日プレゼントだと言って、ニコラスに一枚のカードを渡します。

そのカードは、CRS(Consumer Recreation Services)という会社が提供する「ゲーム」への招待状でした。詳細は不明のままですが、ゲームは人生が変わるような体験ができるものらしい。そして、その日からニコラスの生活の歯車が徐々に狂いだしていくのです。

彼の周囲に起こる奇妙な事件はどんどんエスカレートしていき、車ごと海に落とされたり、銃撃を受けて死にそうになる。そして、全財産を失い気がつくと棺桶に入れられてはるか離れたメキシコにいました。無一文のニコラスは、唯一残った亡き父から送られ形見の高級時計を売って金を作り、なんとか街に戻ります。

全てを失ったニコラスは、父親からの呪縛から解放され、初めて人として大事なことが見えてくる。妻が去った理由も理解し、初めて素直に謝罪することができました。そして、CRSの正体を知るべく反撃を開始するのです。

巧妙に仕掛けられた罠にはまるのは、ニコラスだけでなく見ている我々も同じ。次から次へと起こる出来事は、何が本当で何が嘘なのか、誰を信じていいのか、混乱する一方です。しかしタイトルそのものが示しているように、フィンチャーはこれはすべて「ゲーム」なのだというところがすべてを現している。

事件の連続でサスペンスを基本にした映画ではありますが、その結末を知るとある意味笑えないコメディです。しかし、フィンチャーがその中に忍ばせている人間性に関するテーマは深遠で、すでに名匠の風格を認めざるをえない。一度は一緒に騙される価値のある映画だと思いました。

2021年2月5日金曜日

セブン / SE7EN (1995)

人気映画シリーズの一つに「エイリアン」のシリーズがありますが、第1作(1979年)と第2作(1986年)のヒットの後作られた第3作(1992年)は評判が悪い。企画段階からトラブル続きで、どういうわけか監督を引き受けたのが初映画監督となるデヴィッド・フィンチャーでした。

ヒロインのリプリーを演じるシガニー・ウィーバーは、当初出演しない方針だったのですが、内容に口出しして良いという条件で登場。ですから、初監督作で気合の入ったフィンチャー監督と頭を丸めて意気上がるウィーバーは事あるごとに対立したらしい。

そんなわけで、フィンチャーはこの映画の後は、「映画を撮るくらいなら大腸がんで死んだ方がまし」と言うくらいでしばらく映画界から距離を置きます。「エイリアン3」は、スタジオ側がフィンチャーと関係なく編集を入れたため、フィンチャー自身は自分の作品とは認めていません。

デヴィド・フィンチャーは1962年生まれで、十代の頃から映画に興味を持ち8mmカメラをいろいろいじくっていたようです。ジョージ・ルーカスが設立したILMに1980年入社し、映画界の仕事を始めます。

1986年に自らビデオ制作会社を立ち上げ、多くのビック・スターのプロモーション・ビデオで名が知られるようになりました。そこで初めて長編映画から声がかかったのが「エイリアン3」だったというわけ。

1年半がっくりしていたフィンチャーは、1995年「SE7EN(セブン)」で復活を果たし、今や主としてサスペンス系映画の第一人者として確固たる地位を築きました。

完全主義者として有名で、100テイク撮ったこともあるなんて話が知られています。MVで名を上げたスタイリッシュな作りは独特で、サスペンスと言ってもいわゆる犯人捜しではありません。1992年のデヴュー以来、約30年間で長編映画はわずかに11本。一つ一つの作品の作り込みは半端でないことは容易に想像できます。

早速、本人が認める「処女作」である「セブン」から全部見てみようじゃありませんか。ただし、最新作「マンク(2020年12月)」は公開されたばかりで、まだ見れないのであしからず。

タイトルの由来はキリスト教における「7つの大罪」から来ています。聖書では言及されていませんが、人を罪人にしてしまう源として4世紀ごろから言われ始めたものとして、傲慢(pride)、強欲(greed)、嫉妬(envy)、憤怒(wrath)、色欲(lust)、暴食(guttony)、怠惰(sloth)の7つをあげています。

脚本を書いたアンドリュー・ケビン・ウォーカーは、ミルトン作「失楽園」、ダンテ作「神曲」、チョーサー作「カンタベリー物語」などの宗教的古典からヒントを得て、「7つの大罪」に合わせた連続猟奇殺人事件のストーリーを作り上げました。

冒頭、主役となる二人の刑事が紹介されます。1週間後に定年退職を迎えるウィリアム・サマセット(モーガン・フリーマン)は、独り者で几帳面。当地に赴任してきたはがりの新米が、デビッド・ミルス(ブラッド・ピット)で、若者らしく慎重さには欠けますが元気とやる気が取り柄。数分間で、二人のキャラクターを視覚的に分からせてくれる。

そして、パンクで電子的な音楽にのせて鋭角的なタイトルバックが始まり、犯人の犯行の一部が少しずつ映像として流され、この映画の不気味さを増幅させている。全体にカメラの動きやカット割りは多めで、登場人物が見るものは、視聴者にも見せてくれることで、緊張感を高めていきます。

最初は肥満の男が「暴食」の罪により、続いて悪徳弁護士が「強欲」により殺されます。その尋常ではない殺人現場の様子から、サマセットは連続殺人事件であることに早くから気がつきます。そして「怠惰」により小悪党が1年かけて、じっくりと死に追いやられる状況から、ついに警察全体も「7つの大罪」をモチーフにした被害者の関連の無い連続殺人と認めざるをえないことになる。

「7つの大罪」に関連した本の図書館の貸し出し記録から、二人はジョン・ドゥ(ケヴィン・スペイシー)を容疑者と割り出し自宅に向かいますが、発砲され逃げられてしまいます。ドゥは電話をしてきて二人を称賛するのでした。

続いて「肉欲」により娼婦、「傲慢」により美人モデルが殺されますが、そこへ何とドゥ本人が警察に出頭してきました。さらに2つの死体がありその場所を教えるからと言い、二人の刑事を指名して町から離れた荒れ地に向かいます。そこで残った罪である「嫉妬」と「憤怒」の対象が明らかにされる、衝撃的で過酷なラストを迎えることになるのです。

最終的に、ジョン・ドゥの正体は明らかにされていませんし、その動機についても何となく語られるものの、それほど明確な説明はありません。しかし、都会の見て見ぬふりをする他人に対する無関心が、このような事件を引き起こすベースにあることを伝えようとしていることは間違いありません。

フィンチャーの独自の映像美と合わせて、フリーマンとピットの演技が、映画の出来をあげていることもあります。実際、ピットはこのあと2本でフィンチャー作品に登場しており、監督の良き理解者の一人になりました。監督も前作と違い、自分と同世代のスタッフが集まったことで、思い通りの映画作りができて満足だったようです。

実際、映画の評価は高く、「サイコ」、「羊たちの沈黙」などと並び称されるサイコ・スリラーの傑作としてしっかり名を刻みました。

2021年2月4日木曜日

緊急事態宣言 期間延長について


緊急事態宣言は、当初2月7日までを見込んでいましたが、政府は一部を除いてさらに1か月間の延長を決めました。

数字だけを見ていると、新規に新型コロナウイルス感染者数が減り始めたようです。去年の場合と違って、今回の宣言で街中の人出が激減した印象はあまり無いのですが、クリニックの来院患者数は確実に12月なかばから減少に転じていています。

つまり、宣言が出たことより、年末に向けて皆さんが自主的に抑制的な行動に転じていることが大きく関与しているように感じます。宣言は後出しジャンケンのようなもの・・・

いずれにしても、医学的には「With Corona」というのはあまりにも困難。本気でオリンピックを実現したいのなら「Zero Corona」を目標にすべきだったことは明らか。ここは、宣言延長自体はやむを得ないところだと感じます。

引き続き、クリニックの診療は通常通りで行っていますが、患者数減少、感染予防のためスタッフの人員数は減らした体制にしています。特に午後5時以降は、看護師がいないことが多いので、採血・点滴など方はご注意ください。

当院の実施しているおもな感染対策は以下の通りです。

● 来院時検温 入口に非接触体温計測装置を設置
● 来院時手指消毒 トイレ内に消毒用アルコール・薬用ハンドソープを設置
● 来院者へのマスク着用のお願い
● 受付カウンター 飛沫防止シートの設置
● 院内の広さに見合った空気清浄機の設置
● エアコン使用中でも一定時間ごとに換気実施
● 待合室の個々の椅子の距離を開け、適宜次亜塩素酸希釈液で清拭
● 診察室は原則としてドアの開放
● 使用したリハビリ機器は患者さんごとに次亜塩素酸希釈液で清拭
● スタッフはマスク着用し患者さんごとに手指の消毒

当院は新型コロナに対応した発熱外来は実施していません。

最近1か月間の中では、1名だけ新型コロナ以外の理由によると思われる有熱者の診療を行っています。この場合も、待合室への入室はご遠慮いただき、受付から直接診察室にご案内するなど、導線に配慮した対応を行いました。

2021年2月3日水曜日

日向と日蔭


都内まで行くと川は蓋がされた見なくなっていることが多いのですが、横浜北部のこのあたりではそれなりに目にします。

とは言っても、自然の姿とはほど遠く、両岸は人工的に処理されて川というより水路という感じ。

普段なら味も素っ気も無い、見て楽しめるようなものじゃないんですが、この時は見事に陽の当たり方が両側に明暗を作っていたので見入ってしまいました。

川の流れに直角の方向に太陽があって、周りの建物が影を作る絶妙な条件が重なったタイミングで通りかかると見ることができるわけです・・・

って言うほどのもんじゃありませんけどね。

2021年2月2日火曜日

節分


季節と季節の分かれ目。各季節の始まりの日である、立春、立夏、立秋、立冬のイブ、つまり前日のこと。

通常は、立春の前の日に対して使われます。記憶にある限り、節分は2月3日なんですが、今年(2021年)は、2月2日が節分です。

それもそのはず、2月2日が節分になるのは、1897年(明治30年)年以来124年ぶりのことだそうです。

なんで? 地球が太陽の周りを1周する時間が365日よりも、ちょっとだけ(およそ6時間)長いから。少しずつずれてくるのを調整する必要から、国立天文台が決めているとのこと。

ちょっと視線を上に向けてみると、秋に葉を落とした樹々の枝に新芽が芽吹いていました。コロナだろうと何だろうと、春の準備は着々と進んでいるということですね。

2021年2月1日月曜日

レディ・プレイヤー1 (2018)

現在までに公開されているスティーブン・スピルバーグ監督作品としては、最新作がこの「レディ・プレイヤー1」です。スピルバーグの映画を全部見るというのもこれで終わり。

最後はスピルバーグの最も得意とするジャンル。近未来SFでアクション物、そしてCGてんこもりで、モーション・キャプシャーで人物が走って、跳んでという物。今どき流行りのVR(仮想現実、Virtual Reality)を取り入れてJ・キャメロンのヒット作を彷彿とさせるアバターが活躍します。

今より四半世紀先の話。天才プログラマーのハリデーが作った「オアシス」と呼ばれるVR空間で、多くの人々が、浮世を忘れて自分のアバターを使って好きなことをして楽しんでいる。ハリデーは、オアシスの中に3つの鍵を隠していて、それを見つけたものはオアシスのすべての権利を得られるイースター・エッグを手にすることができることになっています。

スラムに住むウェイド・ワッツ(タイ・シェリダン)も、そのエッグを求めて多くの時間をオアシスで過ごす一人。彼のアバターはパーシヴァルという呼び名で、オアシス内ではエイチ、ショウ、ダイトウらの友人がいます。ある日、パーシヴァルはアルテミスと呼ばれる凄腕の女性プレイヤーと知り合います。

パーシヴァルは、ハリデーのすべての記録が保管されているハリデー記念館に足しげく通い、ついにヒントを見つけ第1、第2のカギを手に入れます。しかし、ついうっかり現実世界の名前を口にしてしまったことから、オアシスを独占しようとするソレントが率いるIOI社から命を狙われることになる。

アルテミスは現実にはサマンサ(オリヴィア・クック)で、卑劣なIOIを潰すことが目的の集団の一員。第3の鍵のヒントをつかんだIOIは、その場所を封鎖したため、パーシヴァルは全ゲーマーに向かって、我々の自由のために戦おうとメッセージを送ります。

サマンサはIOIに捕らえられますが、何とか脱出してIOI内部からアルテミスとしてパーシヴァルをサポートします。しかし、多くのゲーマーとの全面対決の中、エイチ、トウゴウが倒れ、このままでは本当の命の危険もあるため、パーシヴァルはアルテミスを撃ちオアシスから解放します。

ソレントのアバターと直接対決になり、ソレントはゲーム内すべてを廃墟にする装置を起動し、すべてのゲーマーがオアシスから消滅しますが、何とパーシヴァルはエキストラ・ライフ・コインを持っていて、一人生き残りついに第3のカギを手に入れました。

最後にハリデーが登場し、ゲームは楽しいけれど、美味しい物は現実ではないと食べれないといって、パーシヴァルにイースター・エッグを渡します。パーシヴァル、いやウェイドは仲間たちと共同でオアシスを運営し、休みの日も作り、現実をサマンサと楽しむのでした。

・・・と、まぁ、そんな話に整理できるんですが、このリアルとヴァーチャルとの違いは、本当の俳優の実写演技とCGによるアバターでわかりますが、行ったり来たりが多くて、ちょっとオジサンにはついていくのが辛い所。

評判になったのは、80年代ポップ・カルチャーがてんこ盛りで、オアシス内に登場する見た事があるキャラクターの多さにびっくりします。日本人的には「AKIRA」のカネダ・バイク、ガンダム、メカゴシラなどはその最たるもの。特にダイトウは、甲冑姿の三船敏郎というのも笑える。

キューブリックの映画「シャイニング」が重要なカギになっていて、その場面の再現などは唸ってしまいました。パーシヴァルの愛車は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のデロリアンで、キング・コングやエイリアンも登場し、バットマンやハーレイ・クインもチラ見せします。

ハリデーは最近のスピルバーグ常連になったマーク・ライランスで、彼の親友でオアシスの共同開発者のオグデンはサイモン・ペッグが演じています。

全般的には高評価のようですが、「やっぱりリアルが一番」みたいなオチは当たり前すぎる。そもそも映画そのものがヴァーチャルなものですし、もう少しひねりが欲しかったところ。

スピルバーグの次回作は、なんと「ウエスト・サイド物語」のリメイク。ミュージカル映画としてベスト10に入るくらい有名な作品を、スピルバーグはどう料理するんでしょうか。コロナ禍の影響で、2020年公開を目指していましたが予定は遅れていてどうなるのかわかっていません。

スピルバーグ作品を全部見たら、スピルバーグが恋愛ものとコメディはダメなのがわかりました。これまで挑戦していなかったものとしては、実はミュージカルがあった。初めてミュージカルに挑戦したのか、あるいは普通の映画にしたのか興味が湧くところですが、ミュージカルなら何も超有名作をわざわざリメイクするというのは、かなり冒険の度合いが高いように思います。

他にもインディ・ジョーンズ・シリーズの新作の企画も進行中。ただし、こちらもさすがに80才近いハリソン・フォードが心配。そもそもスピルバーグ自身も70代なかばですからね・・・

一応、スピルバーグのベストを選び出してみると、月並みな選択ですが、順不同で「インディジョーンズ/失われた聖櫃」、「シンドラーのリスト」、「プライベート・ライアン」、「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」、「ペンタゴン・ペーパーズ」あたりを選んでおきたいと思います。「激突」、「ジョーズ」、「未知との遭遇」、「ターミナル」、「ミュンヘン」、「リンカーン」あたりが次点というところ。

スピルバーグが、アメリカン・ニュー・シネマ後のアメリカ映画を牽引してきたことは間違いない事実です。しかも、多彩なジャンルで、多くの傑作・佳作を量産してきたことは、高く評価される。クリント・イーストウッドが90才で新作を準備してるくらいですから、まだまだ我々をたくさん楽しませてもらいたいと思います。