映画監督としてデヴィド・フィンチャーは、「セブン」、「ゲーム」に続くこの映画で、完全にサイコティックなサスペンス映画作家としての地位を確立したと言えます。家庭用ビデオ、DVDなどの普及により、作品を繰り返し鑑賞する環境が整ったことで、映画公開時よりも評価がしだいに高くなっていき、現在では一般からも広く受け入れられています。
それにしても、この映画くらい紹介の仕方に頭を悩ませるものはない。映画全体のトリックがものすごく重要で、ネタバレ無しでは絶対に説明できない。かと言って、そこを避けると「とにかく見てください」で終わってしまいます。
ストーリーそのものについては、ネットでは完全に説明しているものもありますので、知りたい方は検索してもらうとして、この映画のポイントだけ記しておきます。
映画全体はフィンチャーらしい全体に暗めの色調で統一され、登場人物も地味な服装が多い。その中でブラッド・ピットが演じる主人公の一人、タイラー・ダーデンだけは比較的ファッション性の高いカラフルな服が多く際立っています。
それに対する「僕」(エドワード・ノートン)は、出張ばかりの真面目に働くサラリーマンで、一般的なスーツにネクタイという服装で、高圧的な上司に逆らえない。いろいろな宣伝にのせられて、流行りの家具などを買い集めて、時代についていこうと必死。
偶然知り合った二人ですが、非合法的なことも平気で、いろいろな知識も豊富、それでいてイケメンのダーデンと「僕」の正反対なところが浮きたっています。ダーデンは、物質にこだわり、グローバル化の中で人が個性を無くしていると話し、「僕」はしだいに影響されていくのです。
この「僕」の心理的変化は、映画の中でサブリミナルという手法も用いて表されている。一瞬だけ、一見無関係な映像を挟み込むことで、見ている物に意図的な意識を刷り込ませるもので、彼のマッチョなものへの憧れを暗示します。
当初は「僕」はダーデンと無意味に殴り合うことで、解放された気分になり喜びを感じます。つまり、社会的に普通に暮らしていても、時流に流されているだけで、現代人には鬱積しストレスのはけぐちが心のどこかに必要になっているということ。
しかし、何かを破壊する行為はしだいにエスカレートしていくことになる。2001年に起こったアメリカ同時多発テロ事件は、イスラム過激派の犯行とされましたが、事件発生時にはこの映画に登場するような反グローバリゼーション勢力の関与も議論されました。
単純な話として、テレビでAが流行りと言われると、Bの方が自分にとっては良いと思ってもAを選択してしまうことはよくあります。気がつくと周りも全部Aになっていて、自分という一個人は埋もれてしまう。あえてBを選んだ場合は変人として扱われ、社会から疎外されていくのです。
確かに、自分もAを選ぶことが圧倒的に多く、実はBを選んでいた時はそれを表に出さないようにしていることに思い当たります。Bを選ぶことが多いほど、現代人はストレスをため込んでいき、精神的に追い詰められるか、どこかで何かを暴発させる必要に迫られる。
この映画のようなあまりにも危険な犯罪に及ぶことは、現実的にはかなり困難を伴うので、あくまでもフィクションにすぎないのですが、高く評価することは共感する人が増えているということで、それはそれで危険な香り? かもしれません。
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