夏季臨時休診

夏季臨時休診のお知らせ 8月14日(金)~8月19日(水)臨時休診します。
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2023年1月11日水曜日

俳句の鑑賞 56 森澄雄


森澄雄は大正8年(1919年)、兵庫県生まれの俳人です。父親は歯科医で、俳句を詠む人物でした。5歳から長崎に転居し、昭和17年に九州帝国大学を卒業してすぐに招集され、ボルネオで終戦を迎えます。

父親の影響もあり十代から俳句を始めていましたが、「馬酔木」で加藤楸邨に指導を受けたこともあり、昭和15年、楸邨が「寒雷」主宰・創刊した際には、すぐに師事し参加しました。

戦後は都立高校で教鞭をとるかたわら、「寒雷」の編集にも参加。昭和45年、主宰誌「杉」を創刊し、戦後俳壇を牽引しました。平成7年に脳梗塞を起こし半身にマヒが残るものの俳句を続け、平成22年、肺炎により91歳で亡くなりました。

同世代だった飯田龍太とは、しばしば比較されることが多く、龍太の自然賛歌的な土着性の句柄に対して、森は「人間探求派」と呼ばれた楸邨の教えをさらに進めた、日常生活に根ざした人生を詠むのが特徴とされています。

除夜に妻白鳥のごと湯浴みをり 森澄雄

まさにこれこそが愛妻俳句。湯浴みをする妻を「白鳥のごとし」とは、普通は照れて言えるもんじゃない。除夜とくれば、おそらく大晦日の事でしょう。一年の垢を落とすかのように、湯浴みする妻の肌の白さを白鳥に例え、本来はエロティックなはずなのですが、作者は今年もご苦労さまでしたと労っているかのようです。

磧にて白桃むけば水過ぎゆく 森澄雄

「磧(かわら)」は、石がごろごろしているような水際のこと。どこかの清流の河原あたりが舞台でしょうか。初夏の日差しの中で涼しげな風景を見ながら、取り出した桃の皮を剝いてみると、目の前の水もどこかに向かって流れていることに気がつきます。

これらだけでも龍太との違いは明瞭です。現実的な無骨な龍太に対して、森はロマンチストで俳句も詩的、時に抽象的です。上句でテーマを表さず、読み進めるにつれしだいに盛り上がっていくような作りが得意なのかもしれません。

昇天寸前早老婆の白日傘 森澄雄

「早」は、ここでは「日照り(ひでり)」と読み、夏の強い日差しと共に、干からびた感のある老婆を表現しているのでしょう。暑さのため、ふらふらと歩いている様子が、今にも倒れそうなのに、手にする日傘の白さだけがとても目立ったということ。

西国の畦曼殊沙華曼殊沙華 森澄雄

西国は、森が少年時代を過ごした九州の地のことか。水田の境界部分の歩ける土手を畦道と呼びますが、そこには曼殊沙華、いわゆる真っ赤な彼岸花が咲いている。それも一つや二つではなく、たくさんたくさん咲いていることを単語の繰り返しで表現しています。

曼殊沙華は天界に咲く花とされ、俗な表現として死ぬことを「西に行く」というのがありますので、単なる田園風景というよりは、仏教思想を基にして何らかの死を意識したものではないかと思えます。

ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 森澄雄

「ぼうたん」は牡丹の花。それが百、つまりたくさん咲いている様子は、まるで湯気がゆるゆると(ゆらゆらと)立っているかのように見える。自然の美しさを、普段生活の中で何気なく目にしているものに例える手法です。

鳴門見て讃岐麦秋渦をなす 森澄雄

これも鳴門の渦潮の荒々しい様子を、強風に大きく揺れ動く麦畑に例えた句です。例えですから、当然鳴門の渦が麦畑のはずはないので、それを虚構と言えなくもないのですが、誰もが納得できるような説得力があることが強みです。

いずれも、直接的な形容をせずに、作者の心情を強く押し出している作風です。現代の俳句に通じる基本形がここにあるように思いました。

2023年1月9日月曜日

俳句の鑑賞 54 寺山修司


戦後の昭和の時代、いわゆる高度経済成長期に、若者の文化に関連して「ヒッピー」と並んでよく使われた「アングラ」という言葉を覚えているでしょうか。今の若者世代にはまったく意味が通じないと思いますが、「アングラ」は権力に対抗して商業的ではない文化活動の総称として使われました。

アンダーグラウンド(地下)を略したもので、政治に限らず世の中のすべての権威を持つものに反対するような、時には非合法な活動を含む前衛的な文化・芸術活動であり、その独特な存在感は当時の若者に支持され一世を風靡しました。しかし、彼らも名前が知られるようになると、次第に表舞台に出るようになり、商業化へソフト・ランディングを余儀なくされていきました。

アングラ演劇では、唐十郎と共に有名になったのが、演劇集団「天井桟敷」を率いた寺山修司でした。昭和10年(1935年)、警察官の息子として青森に生まれた寺山は、戦後進駐軍の関連の施設などを転々とし、中学2年の時に同級生の影響で俳句を始めました。

昭和29年、早稲田大学に入学。寺山の興味は、俳句よりも短歌に移っていて、しだいに注目されるようになりましたが、その一方で歌壇・俳壇からは、有名歌・有名句からの引用と思えるような内容が多かったため「模倣小僧」と蔑称されてしまいます。

腎臓病を発症し、大学は1年で中退しますが、戯曲の処女作が好評を博ししだいに演劇関係の仕事が増えていきました。昭和42年に「天井桟敷」を結成し、評論集「書を捨てよ、町へ出よう」、映画でも「田園に死す」などの代表作を残し、昭和58年肝硬変・敗血症により47歳で亡くなりました。

目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹 寺山修司

燃ゆる頬花よりおこす誕生日 寺山修司

暗室より水の音する母の情事 寺山修司

恋地獄草矢で胸を狙い打ち 寺山修司

寺山は短歌については、リアルタイムに歌集を数冊ほど出版していましたが、俳句については40歳に近づいて初めて取りまとめた自選句集を刊行しました。これらは、その中に収載されたものですが、反安保に揺れた60年代の空気を多感な青春期に吸っていないとなかなか共感しにくい。

何となく伝わるものはありますが、定型ではないといって自由律とも言えず、季語は何かしら入っているもののまったく頼っていないというところが、まさに「アングラ」なのでしょうか。

ただ、アウトサイダーを気取っているものの、心の奥底ではどこかひ弱でいろいろな愛情を渇望しているような印象を持ちます。反発と渇望する気持ちとは、紙一重、表裏一体みたいなところかあると思います。

ふるさとの山の姿や絵双六 寺山修司

旅の鞄に菫いくども傷つけられ 寺山修司

蝉鳴いて母校に知らぬ師の多し 寺山修司

父ありき書物のなかに春を閉じ 寺山修司

寺山は、父の仕事のために青森県内を転々とする少年時代を過ごしたためか、「自分にふるさとはない」とうそぶいていたようですが、これらの俳句の中には捨てがたい郷愁のようなものを感じます。

父が出征したため母と二人で苦労した戦時中、そして戦死したため追いかけ抜き去りたくてもできない父親の背中をずっと見ているようなところもあるかもしれません。それらを自己解決できないうちに、寺山は早死したのです。

2023年1月8日日曜日

俳句の鑑賞 53 平井照敏


平井照敏(ひらいしょうびん)は、昭和6年(1931年)、東京に生まれ、東京大学文学部でフランス文学を学び、フランス文学者、詩人、青山学院暖気大学教授として活動しました。

30歳半ばで俳句を始め、加藤楸邨に師事し、「寒雷」編集長を経て、昭和49年に自らの主宰誌「槇」を刊行します。俳人としての著作には句集以外にも評論も多数ありますが、中でも高く評価されているのが歳時記の編集です。

歳時記は膨大な量の情報を整理する必然から、多数の編者が関わることが多く、一人の手によるものは多くはありません。そのため、記述の統一性にばらつきがあったり、例句の選択に村が出る部分はやむをえない。

現在手に入る最新の一人の手による大規模な歳時記は平井照敏によるもので、主として80年代後半に編纂されています。もっとも特徴的なことは、季語の本意をしっかりと記述しているところ。

例えば「梅雨寒」という季語については、通常は「梅雨の時期のある低温の時」という説明になりますが、平井の本意は「昭和になって使われ始めて新しい季題で・・・気候不順の思いを抱く」とあり、一歩踏み込んで俳句の実作により実効性のある説明になっています。

生き作り鯉の目にらむまだにらむ 平井照敏

膝小僧瞳のごとし夏電車 平井照敏

いずれも初めての句集から。すでに、独特の表現に煙に巻かれる感じがします。ある種の擬人化と言えそうな手法ですが、内容が慈愛に満ちた優しさを帯びていて、ちょっと気持ちが軽くなります。

活きつくりの魚は死んでいるのでにらむはずがない。実はにらんでいるのは作者であって、そこに生物の死とは裏腹のユーモアを感じます。夏の暑い時期に男性は短パンだったり、女性も丈の短いスカートを着用して膝小僧が露出している様子が、まるで目の玉が並んでいるかのように見えたということでしょう。

暗中に崩れし苺アガメムノン 平井照敏

文学者らしい俳句。「アガメムノン」はギリシャ神話の英雄で、「トロイの木馬」で有名なトロイア戦争におけるギリシャ軍の総大将でした。トロイアに挑むため、自分の娘を殺して生贄にしたとされ、熟してクズグズになった苺は崩れ落ちる娘を想像します。

啓蟄に虫ことごとく裸足なり 平井照敏

啓蟄は二十四節気の一つで、3月始めの頃。温かくなり、冬ごもりを終えて土の中から虫が這いだしてくる頃という意味。虫ですから裸足なのは当たり前ですが、本当にうようよと虫がいる様子が見えてきます。

春の日の今日は誰一人死なざる日 平井照敏

実際、そんなはずはないのですが、あまりに暖かでのどかな日和だったので、人が死ぬようなことは無いと感じたのでしょう。このような想像は、まさに季語の持つ本当の意味を熟知していることからの展開と言えます。

文学者の視点、詩人としての視点が絶えず見え隠れしてる俳句だと思いますが、それは季語そのものをストレートに用いず、別の物に置き換えるような発想を俳句にしているという印象から来ます。

それだけ表現の幅が広がり、少ない文字数で表現される世界が大きくなるのがわかりますが、これは真似ようとして真似できるものではありません。平成15年、72歳で病没しましたが、歳時記の中にしっかりとその遺産が残されました。

2023年1月3日火曜日

俳句の勉強 68 新年の季語 2


現代でも知られている、正月の風物詩を季語の中から選び出しています。

本来は、家々を訪れて祝福する芸能の一つが「獅子舞」、あるいは「越後獅子」と呼ばれる物ですが、今ではテレビでしか見ることはありません。たまに、店の前で余興として行われている程度。

格子戸を出て獅子舞の煙草喫ふ 星野立子

太鼓橋の裾の猿曳人だかり 星野立子

高濱虚子の家にも、獅子舞が御祝儀目当てでやって来ていたのかもしれません。娘の立子は、偶然に、格子戸の外に出て獅子舞を演じた者が一服して休憩している様子を見たんでしょうね。

似たような芸能に「猿回し」がありますが、さすがに生き物を扱うので獅子舞よりも大変です。今は、テレビか特別な場所でしか見れません。高濱家があったのは鎌倉ですから、この太鼓橋は鶴岡八幡宮の入口に架かる橋のことでしょう。初詣に出かけた立子が目にした光景です。

生まれた年とその年の干支が同じ者の中から、五穀を守る歳徳神を祀る準備の大役に「年男」が選ばれます。最近は、節分で豆まきをする人の呼び名として知れられています。選ばれるというと光栄なことで、一般には歳徳神のご加護を得られると言われています。とは言え、実際は年末から三が日まで、正月関連の雑用全般をしなければならないので大変だったのではないかと想像します。

年男勤め終りし素袍脱ぐ 島村茂雄

「素袍(すおう)」は下級武士の平服、あるいは平民の礼服で、堅苦しい服を着続けた仕事からやっと解放されて、安堵の様子が伝わります。

春の七草を用いて七日にお粥を食べるというのは、今でもスーパーにセットが売られているので、たいていの家庭で行われていそうです。一般的な七草は、芹(せり)、薺(なずな)、御形(ごぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座(ほとけのざ)。菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)ですが、ナズナは通称ぺんぺん草、スズナは蕪(かぶ)、スズシロは大根のこと。

その藪に人の住めばぞ薺打 一茶

八方の岳しづまりて薺打 飯田蛇笏

季語としては「七種」が一般的。本来は、六日の晩に七草を俎板に並べて叩くというところから、「薺打」、「叩き菜」などの季語もあります。二人とも時代こそ違いますが、静まり返ったところに七草を叩く音が響き渡ることを詠んでいます。

秋田県の伝統行事としてよく知られているのが「なまはげ」と「かまくら」で、正月行事を締めくくる小正月(15日ごろ)に行われますが、現在はなまはげは大晦日、かまくらは2月半ばのようです。

なまはげの鬼の口より酒の息 本谷久邇彦

かまくらの明一本の燭で足る 山口誓子

正月15日にお正月様が帰っていくための煙を焚き上げる行事が「左義長(さぎちょう)」で、「どんと焼き」というほうが馴染みがあるかもしれません。今では、注連飾りや松飾、あるいは古いお守りやお札を焼くための行事として続いています。

山神にどんど揚げたり谷は闇 長谷川かな女

左義長へ行く子行き交ふ藁の音 中村草田男

他にもたくさんの正月の季語がありますが、それぞれの神社仏閣の固有の行事を除くと、風習としては忘れられてしまったものが多い。残せるものは残すべきですが、残念ながら時代の変化によって消えていくのも仕方がないところ。

自分の知っている言葉だけでも、俳句の中に利用して遺しておくのも意味があるかもしれません。


2023年1月2日月曜日

俳句の勉強 67 新年の季語 1


歳時記を開くと、大分類として四季があります。ただし、本来春に含まれる1月だけは、信念として独立した大分類になっていて、これだけで他の4つの季節にせまる数の季語が収録されています。

だいたい「初××」という言葉はほぼ間違いなく新年の季語なので、悩むことはめったにない。また、だいたい正月独特の風習も問題ないのですが、時代の変遷と共に忘れ去られたものが多い。そういう季語は、現代人としてはピンとこないし、俳句にしても絵空事的なものになってしまいます。そこで、今でも説明なしにほとんどの人に理解されるような言葉を拾い集めてみました。

おせち(お節)というと、正月の定番料理ですが、季語としては「喰積(くいつみ)」、あるいは「重詰」と呼びます。本来は、儀礼的に不変の縁起物を重箱に詰めて客に出したものですが、冷凍技術が進んだ現在は、和洋中なんでもありで美味しい物が並びます。

喰積のほかにいさゝか鍋の物 高濱虚子

昔「おせちにあきたらカレーもね」というCMがありましたが、虚子もおせちばかりでは飽きてしまったようです。いかにも正月あるあるな俳句。

次の子も屠蘇を綺麗に干すことよ 中村汀女

「屠蘇(とそ)」は、おせちと共に正月に延命長寿の縁起物として振る舞われる薬酒です。みりんの中に生薬の入った小袋を入れておきます。朱色の大中小の三段重ねの盃に、本来は別々の生薬からの薬酒を注いで飲んだらしい。

自分も、こどもの時に親からは「真似事」として飲まされた覚えがあります。はっきり言って、変な匂いがして甘ったるいので一口でも正月早々に罰ゲームをやっている気分。言葉としてはまだ残っているのですが、ほとんどの家庭では好きなお酒を飲むだけが普通になっていそうです。

「雑煮」は今でも普通に使われている言葉。「羹(かん)」とも呼び、「羹を祝う」、「雑煮餅」、「雑煮椀」なども傍題として使われます。

しんしんとすまし雑煮や二人住 一茶

雑煮に入れる物は、地域によって様々ですし、味付けも鰹出汁、鶏ガラ、味噌など様々。正月といっても、一茶の貧しい家では、入れる物がなかったのでしょうか。すまし汁は、出汁、醤油、塩で味を整えたスープで、ここにいろいろな物を合わせていくベースみたいなもの。

雪国のありとも見えず松飾 長谷川かな女

「門松」、「松飾」は現在も用意している家が多い。とも言っても、立派な門松を門の両端に設置するほど立派な家はそうそうありません。せいぜい、細い松の枝を入口にくくりつけていることがほとんど。手軽な松飾は玄関に貼り付けるだけですので、自分も重宝して使っています。片付けるのは「松納(まつおさめ)」で、一般的には六日の夕に行います。

丸餅を二つ重ねて飾るのが「鏡餅」で、今では真空パックになってプラの蜜柑の模型が乗っていることがほとんど。丸くて鏡みたいというわけではなく、心臓をかたどったもので「魂」を表すものと考えられています。

鏡餅暗きところに割れて坐す 西東三鬼

正月気分が抜け始める頃に、気づくと乾燥してひび割れが入った鏡餅が置き去りになっていたことに気がついたということ。ちょっと哀し気なところが、逆に現実感を強めています。普通は十日間飾っておき、十一日に「鏡開」として割って食します。刃物で切るのは縁起が悪いので、割って開くということ。

正月らしい遊びといえば、「歌留多(かるた)」、「双六(すごろく)」、「福笑い」、「羽子板」、「独楽(こま)」などがあります。注意しないといけないのは、「凧上げ」は新年ではなく春の季語になっていて正月に限定されないということ。

胼の手も交りて歌留多賑はへり 杉田久女

ばりばりと付録双六ひろげけり 日野草城

羽子板の役者の顔はみな長し 山口青邨

「胼」は皮膚の固くなった「たこ」のこと。昔は、こども月刊誌などの1月号の付録に双六がついているのが普通でした。立派な羽子板には、当代の人気歌舞伎役者の顔を模した立体感のある飾り付けがしてあります。

いずれも誰もが知っているとは思いますが、古くからあるアナログな遊戯なので、しだいに消えていくようです。実際、ほとんど見かけなくなりましたね。

2023年1月1日日曜日

俳句の勉強 66 元旦の俳句


あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

日本人なら当たり前のように、新年を迎えて晴れ晴れとした気分になるものです。良い事も悪い事も、新しい年になることで一度リセットして、さらに頑張ろうとかもう一度やり直そうとか思います。

元日やおもへばさびし秋の暮 芭蕉

旧暦を基準にしている俳句の世界では、1月から季節は春。特に1月は「新年」と呼ぶ特別な季節の名前で呼ぶ慣わしになっています。芭蕉は、大晦日までいろいろと信念を迎える準備でばたばたとしていましたが、まるで秋の暮を思わせるような静かな元旦を迎えたと感慨に耽っていたのでしょう。

1月1日は、年の始めであり、月の始めでもあります。そして日の始まりでもあるので、「三始」という呼び方もあります。

面白い別名は「鶏日(けいじつ)」で、荊楚歳時記(6世紀に成立した中国の年中行事を記したもの)が元になっています。1日は鶏、2日は狗(いぬ)、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬というように6種の家畜の名で呼び、それぞれの日にはそれぞれの家畜を屠殺しない決まりになっていました。実は、7日にも「人日」という別名があって、死刑を行わない日とされていたそうです。

元日二日京のすみずみ霞けり 蕪村

元日はかはいや遍路門に立つ 一茶

やはり、現代と違って江戸時代の元日はだいぶ違った風景だったようです。ここ数年は、元旦から営業するという店は減ってきていますので、静かな元旦が戻ってきている気がします。

元日や見直すふじの去年の雪 正岡子規

元旦の朝、あらためて富士山を見やる。そこには雪が積もっているのですが、たった一日でも昨日より前は去年の事だということ。

元日や比枝も愛宕も雪の山 高濱虚子

元日や鷹がつらぬく丘の空 水原秋櫻子

元日や枯野のごとく街ねむり 加藤楸邨

大正・明治になっても、やはり正月は静かな印象です。戦後の高度経済成長期が、元旦の景色を変えたんでしょうか。でも、その頃に少年時代だった自分を思い出してみると、少なくとも三が日はどの店も休みでしたので、せっかくお年玉を貰ってもおもちゃ屋さんは休みで行けなかったものです。

元日や手を洗いをる夕ごころ 芥川龍之介

一般には小説家として認知されている芥川龍之介ですが、俳句もたくさん詠んでいます。これは、「元日」の俳句を探すと、たいてい名句として登場する賑やかな元日を思わせる句。新年を迎え、年賀の来客があったり、自身も初詣に行ったりと何かと忙しい。でも、夕方になって一段落して手を洗っていると、今日も暮れて行くのだとしみじみと思ったということでしょう。

名人の句を並べた後に、つたない素人句を出すのも気が引けますが、何でも勉強なのでご容赦いただきたい。

元日や干されたままの洗物

大晦日まで掃除をしまくって、すっかり外に干していた洗濯物を取り込むのを忘れていました。あれは去年の洗濯だなぁと・・・

元日に人人人の夜明け前

小高い丘の上に、まだ暗いうちから集まって来る人々。何か怪しい企みでもあるか、否、初日の出をまっているでした・・・という光景。その集団の一人になったこともありますが、何しろ寒い。テレビの中継で富士山をバックに見る方が気楽です。

2022年12月26日月曜日

俳句の勉強 65 年末の季語


否が応にも年末はやってくる。そして、一年が終わると新年を迎えて、また一年の繰り返し・・・毎年、同じ年末のように思いがちですが、年を取るといろいろと感慨も変わってくるものです。

年末に相応しい季語を探してみました。

当然12月31日は「大晦日」で季語。陰暦では月の最後の日は「三十日(みそか)」なので、元々は12月29日を大晦日の前日として「小晦日(こつごもり)」と呼ぶ季語になります。今の暦では12月30日でもかまいません。

春や来し年や行きけん小晦日 芭蕉

「大晦日」でも「小晦日」でも、どっちでも構わなさそうな句。さすがの芭蕉も、一日の違いを詠み分けるのは難しかったのかもしれません。

漱石が来て虚子が来て大三十日 正岡子規

子規のもとに友人や弟子たちが集まって来る様子。本当に子規にとっては、心待ちにしていたかけがえのない時間を過ごしたことでしょう。

もう今年もわずかだなという感慨を込めた季語が「年惜しむ」、あるいは「惜年」です。 大晦日の夜に限定して使われるのは「年越」というのはわかりやすい。

ポケットの胡桃鳴らしつ年を越す 加藤楸邨

テレビが普及していなかった時代には、大晦日というと静かに過ごす感じだったのでしょうかね。カリカリと胡桃がこすれる音が聞こえてきます。

面白いものとしては「年末賞与」というのがあります。いわゆるボーナスのことで、元々は越年資金という意味合いがありました。

懐にボーナスありて談笑す 日野草城

さぞかしポケットの中は暖かかったことでしょう。自然と笑って、同僚たちと喋る余裕があったということ。自分はボーナスをもらった経験が無いので、この嬉しさはピンとこない。

家では神棚をささやかに、神社仏閣では大々的に内外を掃き清める行事が「煤払(すすはらい)」です。年末というよりは、もう少し早めのことが多いのですが、年の瀬の風物詩になっています。

煤掃きや調度すくなき人は誰 蕪村

家財道具が少なければ、煤払いも楽ちんというもの。蕪村もとぼけた句を詠んだものです。誰? っと聞いていますが、たぶん自分の事なのではないでしょうか。

キリスト教救世軍の歳末行事で、駅前なので行う募金活動で「社会鍋」です。三脚に鍋を吊るして行うわけですが、もう今のご時世では見かけなくなりました。

来る人に我は行く人慈善鍋 高濱虚子

鍋の前をたくさんの人通りがある様子でしょうか。みんな鍋の前を行き過ぎるだけで、なかなか募金する余裕がある人は多くはありません。虚子も通り過ぎた一人なのかもしれません。

新年を迎える飾り物はそれぞれ新年の季語なので、初春を迎えてから使います。ただし、その準備である「門松立つ」、「注連飾る」などは年末の季語。飾るのは遅くとも30日までに行います。大晦日に飾るのは「一夜飾り」と言って忌み嫌われます。

松立ててをりちんどん屋賑やかに 村山古郷

ちんどん屋も今の人にはわからない。自分が子供時には、よく家の前にもちんどん屋が通り過ぎたものです。鐘と太鼓をチンチン、ドンドンと賑やかに鳴らして、動く広告活動ということですが、年末になると商店街の歳末大売り出しの宣伝をしていたんでしょうね。

大晦日の近辺には、各神社などではいろいろな神事が行われますが、お寺では最後の最後、「除夜の鐘」で年を越します。煩悩の数である108回、約1時間ほどかけて鐘を突くのは今でも一般的に知れ渡っています。

奥武蔵雪山ならぶ除夜の鐘 水原秋櫻子

おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘 山口青邨

他にもいろいろありますが、時代が変わって過去の遺物化した季語も少なくありません。自分が経験したことが無い言葉を無理に使っても、そうそう良い俳句が作れるものじゃありません。季語の中身をしっかりと理解して使うことが肝腎ですね。

2022年12月24日土曜日

俳句の勉強 64 鳥雲に入るで苦心


長い季語です。「鳥雲に入る(とりくもにいる)」は、仲春の季語で、春になって北に帰っていく渡り鳥の群が雲間に入って見えなくなるということ。そこらに普通にいる鳥が夕方になって、巣に帰っていくことではありません。

単に北へ帰るだけなら「鳥帰る」という別の季語もあります。鶴に特化した表現だと「引鶴(ひきづる)」、鴫(しぎ)なら「戻り鴫」、白鳥は「白鳥帰る」、雁なら「春の雁」あるいは「帰雁(きがん)」、鴨は「引鴨」などなど。

「鳥雲に入る」は「鳥雲に」と短く使っても良い事になっていますが、単に帰るだけでなく遥か雲の合間に消えていくところがポイント。そこには、寂しくなるという感傷が確実に含まれていて、使用する場合に意識しないといけなさそうです。

鳥雲に入りて草木の光かな 闌更

鳥は北に帰って行って寂しいけれど、春が近づき草木が生き生きと大地に芽生え始めたのが輝いて見えるというところでしょうか。この季語に対しては、教科書的な模範解答ともいえる句だと思います。

鳥雲に娘はトルストイなど読めり 山口青邨

この場合は、あくまでも仲春という季節感を出すために使われている感じがします。わざわざトルストイという固有名詞を出して字余りにするのは勇気がいるところ。にもかかわらず、「など」として絶対的じゃなくしたのは不思議です。

少年の見遣るは少女鳥雲に 中村草田男

もしかしたら、ちょっと気になる同級生の女の子が転校で去って行ってしまうのを、少年がセンチメンタルになって見送る様子なんかが想像できる。何かちょっとした青春映画の冒頭の一シーンを見ているような気がします。

それにしても真っ向からこの季語を使うと7文字ですから、上句・下句なら字余り、中句だと全部使ってしまう。これは困った。盛り込みたいことを思いついても、とても字数が足りません。泣き言を言ってもしょうがないので、とにかく考えましょう。

校門を出れば大鳥雲に入る

これ、どうでしょう。いきなりちょいと捻った使い方ですが、下句を「雲に入る」だけと分解した形ですが、うまく五七五に収まりました。卒業で校門を出ていくと、こどもたちは思った以上に大きく成長していて、雲の中に消えていくように巣立つという感じ。

ちょっとひっかかるのは、仲春の季語ということは、基本的にまだ2月。卒業自体は3月で晩春の季語とされています。春の季語で夏の事をいっているわけではないので、許容範囲にできるものでしょうか。

鳥雲に人は夢無く地にはべる

これは鳥と人の対比。けっこう悲観的な内容。大空を自由に飛び回れる鳥たちと比べると、人は地上から自分の力で飛ぶことはできません。毎日、同じところであくせくと働いているだけです。本当は「人は」ではなく「吾は」でもいいくらい。

「入る」の二文字を省略すると、かなり自由度は高くなる感じですが、分離がはっきりする分、季語の持つイメージを生かすのが難しいように思います。

2022年12月19日月曜日

俳句の鑑賞 52 三島由紀夫

三島由紀夫。自分にとっては、1970年11月25日、市ヶ谷の自衛隊に籠城して割腹自殺を図ったことが、この人物を知ることになった最初。戦後の高度経済成長のピークを象徴した、大阪で開催された日本万国博覧会で盛り上がった日本人に冷水を浴びせかける事件だったと思います。


最初の出会いが衝撃的でしたが、その後、昭和を代表する小説家の一人であり、「仮面の告白」、「金閣寺」、「宴のあと」などの多くの後世に残る作品を発表しています。

三島は大正14年(1925年)、東京四谷に生まれました。華族出身の祖母の厳格なしつけの影響もあって、昭和6年、学習院初等科に入学。高等科に進学した際に、実は2級上に波多野爽波がいました。爽波の作った「木犀会」に参加した三島は、ここで俳句の指導を受けることになります。

実際、三島は俳句に深入りすることは無かったので、残された句も多くはありませんし、その内容も習作の域を出ない物が多いようですが、さすがに後に偉大な文学者・思想家となる人物ですから、一度は読んでみて損は無い。


ワイシャツは白くサイダー溢るゝ卓
 三島由紀夫

真夏の喫茶店でしょうか、真っ白な開襟シャツを着て、炭酸の泡が溢れ出そうなサイダーとの取り合わせで暑さを表現しています。

三島由紀夫全集(新潮社、昭和51年)には、約40句が収載されています。

アキノヨニスゞムシナクヨリンリンリ 三島由紀夫 六歳

6歳の時の句があるというのは驚きですが、いかにもこどもらいし句。鈴虫が鳴くのは秋の夜と決まっているようなものなので、上句の5文字は不要。下句は「リンリン」では字足らずなので、「リ」一文字を追加したのかもしれませんが、かえって鳴き続けている感じが出て好印象です。

おとうとがお手手ひろげてもみぢかな 三島由紀夫 七歳

これもいかにもこどもの句。こどもの手を「もみぢ」と表現するのはありきたりで、大人がやると陳腐の誹りを免れません。

ふとレコード止みつ彫像の鋭き冷え 三島由紀夫 十五歳

さすがに高校生の年頃ですから、俳句の中身に奥行きが出てきました。レコードの音楽が止んで、静かになった居間でしょうか。部屋にある彫像の冷たさが急に思い出されたらしい。

三島は俳句に対する考え方をエッセイとして残していて、「問題は俳句の制作に当つて、いかにして、五七五の形式にむりやり押し込められたといふ緊迫感が得られるかといふことである・・・(中略)・・・俳人の心の中に、五七五といふ檻にふさはしい限界状況がひそんでゐなければならぬ筈である」と述べています。

角川の大歳時記では三島の命日は「三島忌」、「由紀夫忌」、あるいは「憂国忌」として季語にしています。文学者・思想家としての三島が、多くの俳人にも影響を与えたということでしょう。

三島忌の男美学の首飾り 井沢正江

少年の耳輪の揺れや憂国忌 黒川江美子

憂国忌美学の底に潜む修羅 丹治法男

副葬の口紅と刷毛憂国忌 江里昭彦

終わりに俳句ではありませんが、三島が自決する直前に詠んだ辞世の句を紹介します。

散るをいとう 世にも人にも

 さきがけて散るこそ花と 吹く小夜嵐 三島由紀夫

益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに
 幾とせ耐えし 今日の初霜
 三島由紀夫




2022年12月18日日曜日

俳句の鑑賞 51 波多野爽波


波多野爽波(はたのそうは)、本名、波多野敬栄は、大正12年(1923年)に東京に生まれ、戦後の「ホトトギス」を牽引した俳人の一人。

学習院に初等科から入学し、中等科、高等科と進学しています。この間に体調をくずし療養している時に「ホトトギス」を読むようになり、昭和15年から投句を始め、星野立子の「玉藻」例会にも参加するようになりました。

学習院高等科で俳句仲間を増やし、昭和17年、京都大学入学。翌年、召集され中国の戦線で実戦を経験し、陸軍少尉として終戦を迎えます。帰国すると。すぐ「ホトトギス」、「玉藻」の再建に尽力し、1949年、最年少の「ホトトギス」同人になりました。

昭和28年、主宰誌「青」を創刊。その後、いろいろな俳句誌の垣根を超えた活動を通して、戦後俳壇の中心となっています。平成3年没、68歳でした。

チューリップ花びら外れかけてをり 爽波

爽波の有名な句の一つ。植物を題材にする時、特に花が咲く場合は、その盛りの美しさに目が行きがちです。しかし、ここでは花が開き切ってまさに花弁が落ちようとしている寸前を切り取ったところが新鮮です。

実は、高濱虚子によって爽波の「青」はチューリップに例えられたことがあり、ある意味、チューリップは爽波自身を表す花であり、「ホトトギス」との関係が暗に詠まれていると考えられています。また、この句が作られたのは平成2年で、病弱の爽波の自身の健康に対する不安も垣間見られます。

葭切や水を飛ぶとき茶色の羽 爽波

葭切は、大きな鳴き声が特徴の夏の水辺に見られる鳥。鳴き声で葭切の存在に気付いて、水辺を見ると、ちょうど飛び立った葭切の茶色の色だけが目に焼き付いたということでしょう。

一瞬の自然界の光景を客観写生する、発想力・描写力は、まさに虚子の直弟子として「ホトトギス」によって培われたものであることは間違いありません。ただ漠然としたムードよりも、写真で切り取るような現実に注目しているところが都会的かもしれません。

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 爽波

これも面白い。鳥の巣に入っていく寸前の鳥の描写です。動きが完結するところではなく、そのちょっと前か後を俳句にすることが特徴としてありそうです。完結していないことで、その後の小さなドラマをいろいろと想像できるのが楽しい。

朝に踏まれ寒星の下かへる靴 爽波

社会人としての爽波は銀行員でした。通勤地獄とも呼ばれる、仕事の行き来のラッシュを嫌と言うほど経験したのでしょう。朝はぎゅうぎゅう詰めの電車で靴を踏まれることは、まさに日常のこと。冬の帰り道、仕事に疲れて星空の下を帰る時は靴は踏まれることは無く、平穏を取り戻すのです。

冬空や猫塀づたひどこへもゆける 爽波

猫がするすると家の間を駆け抜けたかと思うと、ひょいと塀に飛びつき消えていく一瞬を目撃した作者は、その自由な動きが羨ましたかったのかもしれません。サラリーマンとしての不自由さみたいなものが、「冬空」という季語に凝縮しているように思います。

爽波の俳句実践は、自ら「俳句スポーツ説」として述べています。俳句は理論より実行。スポーツのように練習を繰り返すことが重要で、ものに即して反射的に対応し写生するための「体力づくり」が必要ということ。ですから、爽波は多作多捨を信条としていました。実はこのような考え方は、しばしば「俳句は筋トレ」と言う夏井いつき先生にも通じるところで、夏井先生も一つの季語で百句のような荒行を推奨しています。

2022年12月13日火曜日

俳句の鑑賞 50 飯島晴子

飯島晴子は、大正10年(1921年)、京都に生まれ京都の高等女学校を卒業。戦後に、東京で田中千代服装学院で学び、服飾関係の仕事に就きます。昭和34年、夫の代理で「馬酔木」句会に出席したのをきっかけに俳句を作りだした遅咲きの俳人です。

昭和39年、藤田湘子が「鷹」を創刊すると、晴子も「鷹」に移動して初めから湘子を補佐します。「鷹」の代表俳人として活躍しますが、指導することが好きで得意だった湘子と違い、孤高を愛し、吟行も「大勢でがやがやして句作できるはずがない」と考えていたようです。

句会では立場上、参加者の指導を行わなければならない状況がありましたが、もしかしたら晴子にとっては忍耐を強いられる苦行のようなものだったのかもしれません。句柄は、写生を基本とするも、情に流されることが無く明晰な分析に基づく緊張感を持ったものと言われています。


泉の底に一本の匙夏了る
 晴子

夏の屋外での食事などの後に、たまたま使い捨てのスプーンが泉の底に落ちて揺らめいているのを発見したのでしょうか。夏の行楽が終わったことを実感した瞬間なのかもしれません。

これ着ると梟が啼くめくら縞 晴子

「めくら縞」は紺色の無地の布のことで、比較的年配の方が着る着物に多い。めくら縞を着るということは、自分が年を取ったということなのか、あるいは落ち着いて見られたい気持ちなのか、知恵者と言われるフクロウは「よく似合う年になった」と啼くのか、あるいは「まだまだ早いよ」と啼いているのか・・・

この二句だけでも、他の女流俳人とはどこかが違う印象を持ちます。定番の「切れ字」を使わないことで、変に余韻を残さず言い切るところが緊張感の所以なのかもしれません。

さるすべりしろばなちらす夢違ひ 晴子

百日紅と言えば、普通は花色は赤。白い百日紅の花があたり一面に散っている幻想的な様子を平仮名で書ききって、下句では漢字で強い印象を与えるところが鋭い。「夢違い」は、良くない夢が正夢にならないように祈ること。

百合鷗少年をさし出しにゆく 晴子

百合鷗(ユリカモメ)は、カモメの仲間ですが雑食性で、しばしば人の食べ物も口にします。「少年が」ではなく「少年を」としたのはどういう意味なんでしょうか。主語は百合鷗になっています。少年が手に持っていた食べ物めがけて襲って来るところなんでしょうか。

茶の花に押し付けてあるオートバイ 晴子

茶の花は椿に似た小ぶりの白い花ですが、そこに無造作に置かれたオートバイとの取り合わせが、大袈裟に言えば文明による環境破壊のような高度経済成長期の日本の縮図を見た思いなのかもしれまぜん。

恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 晴子

男性の誰かと見事な紅葉に彩られた川岸とかを歩いている様子。「恋とも違う」という否定的な表現は、「恋なのかしら」と感じたからこそ出てくる気持ちなので、表ではなく裏を見せられているような感じです。

豆ごときでは出て行かぬ鬱の鬼 晴子

節分です。普通なら「鬼は外」と楽し気に豆まきをするところのはずですが、晴子の鬼は出て行かない。晴子は次第に老人性うつ病に悩まされることになったのです。平成12年、79歳の晴子は自ら人生に幕を下ろしたのでした。

2022年12月12日月曜日

俳句の鑑賞 49 藤田湘子

藤田湘子(しょうし)、本名、良久は大正15年(1926年)に小田原に生まれています。御幸の浜海水浴場の近くに生家はあります。中学は東京・芝公園近くの正則中学校に入学し、16歳の時に水原秋櫻子の「現代俳句論」に感化されて俳句を始め、17歳から「馬酔木」に入会します。

昭和20年、工学院大学に入学しましたが、徴兵され終戦を迎えます。鉄道省、後に国鉄に勤務し、昭和22年、「馬酔木」復刊記念大会で秋櫻子と初めて面会しました。

風音のやめば来てゐし落葉掻 湘子

記念大会の句。この句で初めて巻頭に選出され、昭和24年同人となりました。昭和30年に第一句集を刊行します。秋櫻子は序の中で、湘子の指導者として素質を指摘し、その理由として「立派な現役作者」であると評しています。

蝌蚪の水湧くがごとしや野かがやき 湘子

「蝌蚪(かと)」はおたまじゃくしのこと。晩春の季語となっていますが、カエルの種類によって一年中見られ多くは夏。ここでは、3月ともなって野原に緑が増えてきた様子ということ。第一句集の跋(あとがきのこと)は石田波郷によるもので、ムードを伝えることでは優れているが、形象が弱いことが弱点であると指摘し、年齢と共に成熟することを期待するとしています。

昭和32年、「馬酔木」の編集長となり秋櫻子を支えます。昭和39年、秋櫻子の了解を得て、衛星誌として「鷹」を創刊し代表同人となりますが、しだいに秋櫻子との関係が悪化してしまいます。湘子は「馬酔木」同人を辞退し、「鷹」を主宰することになりました。

暮れてきし血の冷たさに花林檎 湘子

音もなく紅き蟹棲む女医個室 湘子

波郷の指摘の通りで、ムードは満点なんですが、正直に言うと何を言いたいんだかわからない。物事の例え方が独特で、説明をしてもらわないと理解しずらい句です。また、説明してもらっても、だれもが納得するのか疑問が残りそう。

とは言え、「鷹」一筋となった湘子は、現代俳句協会でも実績を重ね、日本の高度経済成長期の俳壇を牽引する句作、評論、教育に活躍しました。著書としては昭和60年の「実作俳句入門」、昭和63年の「20週俳句入門」は、作句指南書として現在も多くの支持を集めており、再販が続いています。

羽抜鶏見て奥の間の磔刑図 湘子

枯山に鳥突きあたる夢の後 湘子

年を重ねて、ややわかりやすくなったような感じの句。何となく雰囲気を伝えるというところから、鋭角的に切れ込んでくる表現方法が強くなったように思います。昭和58年から丸3年間は、毎日一日十句を作り、「鷹」にすべてを発表しています。


けむり吐くやうな口なり桜鯛
 湘子

年号が平成となった元年の句。春に捕れる鯛は、桜鯛と呼ばれ赤色が強く美味とされています。パカっと開いた口から火を噴きそうということ。やや前衛的ともいえる表現から、伝統的な写生を基にした表現に変わってきたようです。

平成17年、終の棲家となった横浜市青葉区の自宅にて死去、79歳でした。

2022年12月11日日曜日

俳句の鑑賞 48 大野林火


大野林火、本名、大野正は 明治37年(1904年)、横浜市出身の俳人です。中学生の頃から俳句を始め、昭和2年、東京帝国大学を卒業し、昭和5年に県立商工実習学校(現横浜創学館高等学校)の教師となりました。

昭和14年に初の句集を刊行し、「馬酔木」の水原秋櫻子らと交流を通じて本格的に俳人として活動するようになります。終戦後、俳誌「濱」を主宰、「俳句研究」や角川「俳句」誌の編集長を歴任し活躍し、昭和57年、78歳で亡くなりました。

雁や市電待つにも人跼み 林火

戦後の混乱期の市中を詠んだもの。ここでは「跼み」は「かがみ」と読みます。遥か上空を飛び去っていく雁と、混乱の中でいつ来るともわからぬ市電(おそらく路面電車)を待っている人々は、寒さにかがんで辛抱強く待ち続けているという光景が対比されています。

冬雁に水を打つたるごとき夜空 林火

きっと林火は空を見上げている時間が好きだったのではないかと思うのですが、この句でも雁がゆったりと上空を滑るように飛んでいる様子が見えてきます。

蔦紅葉巌の結界とざしけり 林火

「巌」はしばしば信仰の対象になる巨石のことで、蔦紅葉が生い茂ってまるで結界を作っているように見えるということ。深い森の中の幻想的な光景が思い浮かんできます。

雪の水車ごつとんことりもう止むか 林火

「ごっとん、ことり」という擬音が童謡のような楽しさ、懐かしさを醸し出しています。雪が積もって、動きを鈍くした水車ですが、「あー、止まっちゃう・・・あら、また動いた」という愉快な句。

風立ちて月光の坂ひらひらす 林火

「風立つ」は、一陣の風がすーっと吹き抜ける様子。月の光に照らし出される坂道が、その風によってゆらゆらと揺れたように見えたということでしょうか。静けさが一瞬乱れて、またもとに戻るような観念的な「ゆらぎ」を言葉にした感じがします。

「ホトトギス」との関係はありませんが、基本的に有季定型、自然を素直に豊かな叙情性を持って詠む作風と言われています。難解な言葉を使うわけではありませんが、じわーっとしみ出る余韻を残すような句に好感を持てました。

2022年12月9日金曜日

俳句の勉強 63 雪女で苦心


雪女と言えば、怪奇譚に出てくる怖いものを想像します。白装束で吹雪の中から、もわーっと出てきて、口から超低温の域を吐き浴びると人は凍って死んでしまう・・・みたいな。

一方、雪男というのもありますが、こちらはファンタジー色はおとなしめ。人里から遠くヒマラヤあたりの雪山の奥深くに、毛むくじゃらの巨大獣風の類人猿という感じで、雪女よりは実在する期待が多め。

実は、どっちも季語になっているから驚きます。

とはいっても、「雪女」は気象・天文の季語で、「雪男」、「雪女郎」、「雪の精」、「雪坊主」などが傍題に上がっています。結局の所、雪によって迫って来る闇とか吹雪の風切り音とか、あるいは猛烈な寒さなどの過酷な様子全般を含むようなイメージを持っているようです。

季語としては、蕪村よりも前から使われていたようでけっこう古い物。昔の方が、雪の恐怖みたいなものは人々が切実に感じていたのでしょうけど、現代の首都圏に住んでいると、恐怖を感じるほどの雪の経験がない。

黒塚のまことこもれり雪女 其角

其角は芭蕉の直弟子で江戸時代の人ですから、本気で雪女、雪の精を信じていたのかもしれません。ホワイトアウトするような猛吹雪の中、おぼろげに見えている黒塚。そこが雪女の棲家なんだということか。

雪女旅人雪に埋もれけり 正岡子規

子規も雪女を信じていたのかな。冬の深山で、傘をかぶり蓑を羽織って雪をかき分け進む旅人を雪女が襲うイメージです。「八甲田山」の映画のシーンを思い出します。

かく行けば平屋は住まず雪女郎 阿波野青畝

そもそも平屋という作りは、豪雪地帯を想定していない家の構造ですから、雪女が出るはずもない。東北の方まで行けば、当然雪で一階から出入り出来ないこともありますね。

みちのくの雪深ければ雪女郎 山口青邨

わかりやすい句ですが、青畝は盛岡の出身ですから、おそらく明確な実体験から詠まれたもの。もしかしたら、雪女を見たことがあったりして・・・

雪女郎おそろし父の恋恐ろし 中村草田男

ファンタジーの雪女郎は平仮名で「おそろし」として、おそらく父親の「老いらくの恋」の方が「恐ろし」と漢字にしたことで現実感が強くなったように思います。

何にしても、少なくとも楽しいものを想像する季語ではありません。何とか、考えてみます。

雪女口紅の端吊り上がり

白いモノトーンの中から、雪女が姿を現し、真っ赤な口紅だけがくっきりと見えてくる。そして、にやっと笑ったのか、口角が上がると・・・あー怖い。

いっこうにまつ恋醒めぬ雪男

最後はダジャレ。まぁ、わかる人はわかる。

やっぱり、経験のない情景の季語は難しい。しかも、ファンタジー色のある気象のことですから、なおさらどう使っていいのか悩むしかありませんね。







2022年12月7日水曜日

俳句の勉強 62 季節感の無い季語

季節を表す語だから季語なんですけど、中には季節感というものがあまり感じられないものもあったりします。こうなると、季語を使わずに残りの部分でその季節っぽい雰囲気を出したくなるので、えらく難しい挑戦になってしまいます。

特に食べ物がそう。何しろ、栽培方法と保存方法が確立して、運送の手段も早くなり、季節限定という食材は少なくなりました。夏でもみかんを食べることができるご時世ですから、こと食べ物に関しては季節感は薄れてしまいました。

例えば、晩春の季語である「山葵漬(わさびづけ)」などは、年がら年中スーパーで売っています。本来は、4月から5月の若い山葵の葉や茎を酒粕に漬けこんだものですが、なんだったら冷凍が可能なので、ちびちびと一年中食べることも可能です。


白子干す低き廂に浪荒び
 福田蓼汀

殺生の目刺の藁を抜きにけり 川端茅舎

「白子」は「しらこ」ではなくて「しらす」のこと。カタクチイワシの稚魚を塩茹でして干したものが一般的で、地域によってはちりめんじゃことも呼ばれます。基本的には春全般に渡って使える季語なんですが、生しらすならともかく白子干ともなると、まぁ手に入らない時期は皆無。「廂」は「庇(ひさし)」と同じで、「荒び」は「すさび」と読みます。

少し成長した鰯を干したもの。藁を目に通して5尾ずつくらいをまとめて売っている。最近は藁ではなくてストローだったり、最初から藁やストローは抜いてあったりします。さらに大きめのものを鰓を通してまとめたものは頬刺と呼びます。これも、春の季語ですけど、春だからってことさら美味しいという実感はありません。

木の下に其梅漬ける小庭かな 尾崎紅葉

梅干して人は日陰にかくれけり 中村汀女

スーパーに青梅が並ぶには初夏のころ。その梅を塩漬けにして数日すると日向に干すということを繰り返して作るのが梅干し。昔は各家庭で自家製で用意することが普通だったのでしょうから、「梅干」が夏の季語というのは納得できる。ただ、現代ではほぼスーパーで買って来るので、梅干そのものは季節感はありません。季語として使うのは、あくまでも梅を干すという工程に限られるようです。

軽くのどうるほすビール欲しきとき 稲畑汀子

缶ビール旅のはじまる男たち 大井雅人

「ビール」夏の季語。これを夏の俳句でしか使えないとなると、かなり無理があります。確かに夏にかーっとジョッキを開けるというのは爽快なんですが、これはあくまでもビャホールとかビヤガーデンでの話。夏以外でも、まったく問題なくビールは飲みますので、季節限定はきつい。

ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿 芭蕉

猪の荒肝を抜く風の音 宇多喜代子

これは何が季語? と思ってしまいますが、「鹿」と「猪」が秋の季語です。花札は秋が盛んだった・・・わけではなく、鹿は秋が交尾の季節で、猪は晩秋になると里に出てきてしばしば暴れるかららしい。うーん、かなり無理があるな。

サッカーの勝利の顔も拭かず立つ 福井貞子

声あげて吾を過ぐさっかー少年ら 大井氏悦子

確かにサッカーの高校生の大会は年末から年明けにかけて行われていますが、わざわざ冬限定でサッカーをするということはまずありません。冬の季語になったのは意味不明で、理解不能です。ラグビーなら多少そうかもと思えますけどね。

結局、時代の変遷が季節感を無くしているわけでしょうから、季語も進化させていかないと、ただの伝統芸能みたいになってしまいます。このあたりは、もう少し自由でもいいんじゃないかと思いますが、次代の歳時記に期待したいと思います。

2022年12月5日月曜日

俳句の勉強 61 暦とずれがある季語

細かいことを言えば、日本で使われてきた暦はけっこう変更されています。平安時代の途中から使われるようになった宣明歴(せんみょうれき)は、約800年の間、最も長く使われましたが、江戸時代なかばからは4回も使われる暦が変更され、最後の天保歴がいわゆる旧暦と呼ばれている最後の物になります。

旧暦は太陰暦と呼ばれ、月の満ち欠けを基本として成り立っていましたが、時代は明治となり、維新政府の都合もあって西洋と同じ太陽暦を使用することに決定されました。明治5年12月2日をもって天保歴を廃止し、翌日はグレゴリオ暦(新暦)を使用した明治6年1月1日となりまし。

結果として、新暦と旧暦では実際の季節の変化として1か月くらいのずれが生じることになります。さて、そこで俳句で問題になるのが季語の扱い方です。季語が本格的に整備されるのは明治以降ではありますが、当然芭蕉らの江戸時代から旧暦に沿った形で知られていた旧暦を基にした四季・二十四節気・七十二候をもとにした言葉なので、旧暦の区切りをそのまま使用しているのです。

当然のことながら、体感的には冬なのに春、春なのに夏、夏なのに秋、秋なのに冬といったずれが生じていて、これがけっこう混乱する要因になっています。旧暦で考える季語の季節分けは、現在の新暦で1月~3月が春、4月~6月が夏、7月~9月が秋、そして10月~12月が冬となります。新暦との間には2か月のずれがある。このあたりは、伝統を守るという考え方もありますが、俳句が旧態然とした進歩を制限する悪習ということも言えそうです。


バレンタインデイと言えば、男性諸氏がうきうきする真冬の寒い時期のイベントですが、こういう昭和になって根付いたものでも、季語として「バレンタインの日」を使う場合は初春です。

バレンタインデー心に鍵の穴ひとつ 上田日差子

罪のなき嘘の煌めくバレンタイン 高見悠々

まぁ、どちらも何となくわかりますよね。これは生活・人事に関する事なので、ちょっと間違えると川柳になってしまいそうですが、寒い時期だからと言って寒さを表すようなものを入れ込んではいけません。

青柳の泥にしだるる汐干かな 芭蕉

汐干狩夫人はだしになりたまふ 日野草城

「潮干狩(汐干狩)」は初夏の風物詩というイメージですが、これは晩春の季語。つい、うっかり「海」とか使いたくなりますが、「海」は夏の季語で季違いの季重なりになってしまいます。

五月雨や大河を前に家二軒 蕪村

五月雨や湯に通ひ行く旅役者 川端康成

五月雨といえば、字のごとく五月の雨。普通なら春。ところが季語は仲夏です。「さみだれ」または「さつきあめ」と読みますが、「ごがつあめ」とは言わない。五月雨は梅雨の事ですから、「空梅雨」、「走り梅雨」、「送り梅雨」なども夏の季語なので注意が必要。夏の風物詩として定着している「七夕」、「盆踊り」は夏ではなく秋。食べ物だと、スイカ、枝豆、トウモロコシなども夏っぽいけど、全部秋の季語になります。

降る雨も小春也けり知恩院 一茶

小春日や鹽り青き蟹の甲 水原秋櫻子

一般には小春日和というと、春の暖かさとしてはちょっと寒い気候と想像する人もいますが、それは間違い。小春は陰暦10月の別称で、春のように暖かい日のことをさします。陰暦10月ということは初冬の季語になる。

他にも探せばたくさんこのような例は出てきますが、季語は少ない文字でしっかり情景を伝えるために機能しているので、面倒でもその役割を尊重しないと独りよがりな俳句になってしまうということです。




2022年12月1日木曜日

俳句の勉強 60 映像の強い季語


季語を使う上で、季語が持つイメージが強烈な物もあります。この場合は、その季語を使った時点で、内容が固定化されてしまいやすく、句作りを難しくしてしまいます。

そのような季語は、一般に行事関連の物が多い。例えば、三月三日の桃の節句は「雛祭」という仲春の季語になります。厳格に言えば、その日一日だけの行事ということになりますが、この季語から傍題として、雛壇、雛人形、親王雛、内裏雛、五人囃子、三人官女などなどの関連するものはたいてい傍題となっている。

こうなると、もうほとんどイメージは固定化してしまいますので、なかなか想像が膨らまない。膨らまないということは、類想・類句になりやすいということです。

雛祭る都はづれや桃の月 与謝蕪村

歳時記に載っているので秀句なんでしょうけど、「雛祭」、「桃」、「月」という三重の季重なりですし、雛祭りよりも月の美しさにフォーカスが当たっているようなきがします・・・

もたれ合ひて倒れずにある雛かな 高濱虚子

これは、立派な何段もある雛壇にたくさんの人形が飾ってあるという光景でしょうか。もたれ合うほど人形があるんですね。

雛の前今誰もゐず坐り見る 星野立子

そのたくさんの雛を飾ってもらった立子さん。おそらく来客が多い家でしょうから、なかなかじっくりと眺めるチャンスがなかったんでしょう。

どこの家庭にもありそうな風物詩的な「雛祭」よりも、神社仏閣が中心になって行われる地域のお祭りとなると、より大々的で雰囲気はかなり固定されてしまいそうです。五月十五日、上賀茂神社・下賀茂神社の共同の例祭は、京都三大祭りの一つである「葵祭」という初夏の季語。一番の見所は、牛車を中央に絢爛な古式豊かな衣装を纏った人々の行列です。行列は葵の葉を飾り、人々は葵の花を身につけたようです。

白髪にかけてもそよぐ葵かな 小林一茶

しずしずと馬の脚掻や加茂祭 高濱虚子

うちゑみて葵祭の老勅使 阿波野青畝

おそらく、いずれも祭りの行列を見物しての句だと思いますが、それぞれ注目した先がいろいろというところが面白い。皆が同じ光景を思い浮かべやすいわけですから、全体的なところを俳句にしたら同じになってしまいます。細かいところですが、あまり他人が注目しなさそうなポイントを探すことが大事ということ。

正月は固定化された季語のオン・パレードですが、例えば「出初」もその一つ。消防出初式という消防隊の儀式で、東京では1月6日に行われます。現代ではほぼ梯子を登って曲芸的な動きを見せてくれる所だけが思い出されます。

他の紅は劣る真紅な出初式 山口誓子

出初式ありて湘南草の庵 高濱虚子

巨匠と呼ばれるこの二人の句も、正直あまり面白くはない(と思います)。誓子は真正面から出初式を見て、真っ赤な色の印象が強かったことを句にしました。虚子は、出初式そのものはあきらめて、静かな自分の家のことを詠んでいます。

結局、どれでも俳句を作るのは難しいということなんですけど、映像を強く持っている季語を使う場合は、真正面から立ち向かわず、できるだけ端っこの方を突いてネタを見つけたわぅが良いということですかね。

2022年11月30日水曜日

俳句の勉強 59 映像の無い季語


俳句は少ない文字数で読者が内容を理解してもらえることが重要ですから、無駄な言葉を省くことはもちろん、言わずとも伝わる内容も削ります。そして、俳句の内容が映像として読者が想像できれば、説明を大幅に減らすことができることになります。

基本形として有季定型、つまり季節を象徴する季語を必ず使い、上句五音、中句七音、下句五音の構成で、どこかに「切れ」を含むという俳句を原則とするならば、季語によって誰もが共通の映像を思い浮かべることになります。

そういう意味で、季語は重要で、季語を使うことでおそらく言いたいことの多くを省略できることになる。その一方で、季語による縛りもあるわけで、何でも好きに入れれば良いというものではありません。

ところで、季語があれば映像が頭に浮かぶと言いましたが、例えば「水洟(みずばな)」という冬の季語なら、鼻汁が垂れている光景が浮かんできますし、場合によっては風邪気味のこどもの様子も想像できる。もしかしたら、花粉症で目も真っ赤にしているかもしれません。

ところが、一般に「時候」と分類されている季語は、明確な映像を持たないことが多い。この場合、何らかの追加の言葉を加えないとぼんやりした句になってしまいます。

単に「冬」と言えば、初冬・仲冬・晩冬を通じての季語になりますが、「冬」だけではあまりにも漠然としていて、何を映像として想像するかは、人それぞれ、千差万別になってしまいます。

中年や独語おどろく冬の坂 西東三鬼

中年あるあるみたいな句ですが、「の坂」をつなげて時候と場所を映像として想像できるようになります。下り坂なら滑りそうで「おっと」とか思わず口走るかもしれないし、上り坂だと、白い息を吐いて「あ~あ」とか言っていそう。

暦では小寒、大寒を経て節分で立春となり冬が終わります。冬が終わることを「寒明(かんあけ)」と呼び初春の季語。寒明けになったのに寒さが続く場合を「余寒(よかん)」という季語で表現します。実際の体感としては、2月前半なんて一年で一番寒い頃ですから、寒が明けた感じもしないし、寒が残っていて当たり前。これらの季語は明確な映像も持たないし、現実の感覚とずれているので、いっそう使い方が難しくなります。

われら一夜大いに飲めば寒明け 石田波郷

仲間と酒宴で盛り上がる様子を、上中でしっかり映像として作りました。下句の季語は、実際の暦ではなく「寒さを吹き飛ばす」という威勢の良さの表現として利用しているようです。

鎌倉を驚かしたる余寒あり 高濱虚子

虚子の居住する、冬でも温暖な鎌倉だからこその句。立春を過ぎて、あまりの寒さに自分が驚いたのでしょうが、主観を排して擬人法で鎌倉が驚くとしています。

「夏の朝」という夏を通じて使える季語があります。これは、かなり難しい。水原秋櫻子による歳時記の説明文は「誰でも知っている感じを、筆でかき表そうとすると、かえて難しくなる」とし、その後の説明も何だか曖昧です。歳時記によっては、季語として収載していなこともあります。まぁ、夜明けが早いとか、朝から暑いとか、そんなところでしょうか。例句を探すのも大変です。

夏の朝病児によべの灯を消しぬ 星野立子

具合の悪いこどもの看病で夜明かししてしまい、朝になってやっと寝付いてくれたので、灯を消したということでしょう。季語として役立っているのかどうか判断しかねますが、少なくとも徹夜明けくらいの時間を提示する意味はありそうです。

このような季語はたくさんありますから、兼題に出されると悩みの種になります(もっとも、何が出ても悩むけど・・・)。まず季語の持つ雰囲気を大掴みして明確な映像を書き込むか、逆に映像を明示した後に雰囲気で収束させるかということなんでしょうけど、実践するのは本当に大変そうです。

2022年11月24日木曜日

俳句の鑑賞 47 桂信子


桂信子、本名、丹羽信子は大正3年(1914年)に生まれた、大坂出身の女流俳人です。

少し話を戻して、日野草城の連作「ミヤコホテル」のことを思い出しましょう。昭和9年に発表された、京都のミヤコホテルを舞台に、(想像上の架空の)新婚初夜のことを大胆に俳句としたため、その是非について大きな論争が巻き起こりました。

ごく普通の子女だったはずの二十歳の信子は、この「ミヤコホテル」に感銘を受けます。翌、昭和10年に俳句を始め、昭和13年に草城が主宰する「旗艦」へ投句を開始し師事しました。昭和14年、26歳で結婚した信子は、昭和16年「旗艦」の同人となりますが、その直後夫が喘息により急死してしまいます。

今で言うOLとして寡婦として生活していましたが、昭和20年には空襲により自宅が全焼し、命からがら句稿だけ持ち出しました。昭和24年、この激動の10年をまとめた第一句集を出版しました。

梅林を額明るく過ぎゆけり 信子

ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ 信子

夫逝きぬちちははは遠く知り給はず 信子

新婚の嬉しさを詠ったもの。おそらく夫と楽しく梅林を散歩したのでしょうか。料理初心者には煮豆は難しいのですが、うくまできなくてもそれを楽しんでいる様子が伺えます。しかし、夫の急逝により、その幸せは長くは続きませんでした。

湯上りの肌の匂へり夕ざくら 信子

ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜 信子

無邪気な喜びに満ちていた信子の俳句は、一転して静けさを持った独特のエロチシズムを漂わせるようになります。「湯上りの肌」というだけでも十分に艶っぽいのに、それが匂った上に火照った肌と桜を重ねる作りは凄さを感じます。着物をゆったりと着ると、おそらく白いうなじがよけいに目に映るだろうと思いますが、「会う」ではなく「逢う」相手は一体誰だったのでしょうか。

ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき 信子

湯上りの指やはらかく足袋のなか 信子

寡婦としての寂しさを、直接的な肉体的表現を使って表現しているのだろうと思いますが、この妖艶な情景は他の俳人の句には見られない独壇場です。これらの句からすれば、「ミヤコホテル」は艶っぽさでは可愛いものです。終戦後の時代の感性の変化は、信子に味方をしたようです。

女学生の黒き靴下聖夜ゆく 信子

一本の白毛おそろし冬の鵙 信子

女体のエロスのような内容は、ある意味、願望であり憧れの裏返しだったのかもしれません。中年期に入ると、女体の表現の仕方にも変化が現れます。もしも、自身にこどもがいたら、それが女の子だったら、その女学生はクリスマスイブの夜に黒い靴下をはきローファーかなんかで颯爽と歩いていくのかもしれません。髪の毛にブラシをあてていると、たった一本の白髪にも驚きます。老いを予感すると、鵙(もず)の速贄(はやにえ)の一本の枝を想像して戦慄するのです。

昭和45年、56歳で仕事を退職すると、自らの「草苑」を創刊・主宰します。俳句界の名立たる賞を多数受賞し、平成16年、90歳で亡くなりました。

2022年11月23日水曜日

俳句の勉強 58 寒卵で苦心

寒卵・・・「かんたまご」と読みます。それにしても、兼題にはすごくありふれたものか、あるいは聞いたことが無い言葉が出てくる。寒卵は聞いたことが無い方。どちらも難しいのは一緒です。

「寒卵」は晩冬の季語で人事生活に関する物とされていて、「寒中に鶏が産んだ卵。この時期は滋養が多く、保存もしやすい」とあります。冬だからことさら美味しいと意識したことがありませんでしたので、特に冬と結び付けて思いつくことが無いので困ります。

寒玉子割れば双子の目出度さよ 高濱虚子

これはわかりやすい。卵をわったら、黄身が二つ入っていた。誰でも何かラッキーっと思うところを詠んだもの。虚子でもこんなことで喜ぶんだと、微笑ましく思います。

寒卵薔薇色させる朝ありぬ 石田波郷

さすが「ホトトギス」系ではない波郷の句。有季定型を守りつつ、詩情性を重視。膳に生卵も出てくる冬の朝の一コマですが、「薔薇色させる」が深い。おそらく黄身の色が濃くて赤味が強かったことで、より美味しそうに思えたということでしょう。ちなみに、明らかに血が混じっていることがありますが、血卵(けつらん)と呼びます。

奴隷の自由という語寒卵に澄み 金子兜太

これはよくわかりません。19文字で、句切れがはっきりしないし、どう読んでも全部が字余りでリズム感が感じられない・・・でも、歳時記に載るんだから秀句ということらしい。使われる言葉の印象が強いのは兜太の特徴でしょうから、そこはよしとします。

大つぶの寒卵おく襤褸の上 飯田蛇笏

「襤褸(ぼろ)」はいわゆる「ボロボロ」、古くなった布などのこと。もちろん、ボロ布の上に卵を割ったわけではなく、質素なご飯、麦飯とか雑穀の上に載せた寒卵が御馳走だということ。農村作家としての蛇笏の面目躍如みたいな句だと思います。


寒卵つぶしてまぜれば醤油色


いくら寒卵と言って特別扱いしても、卵かけご飯にするとかけた醤油で茶色くなるよね、というつまらない句。もしかしたら夏場よりは美味しいのかもしれませんが、何しろ意識して試したことが無いのでわかりません。「潰す」、「混ぜる」というのは漢字だときついかなと思いひらがなにしましたが、動詞を並べるのはあまりよくなさそうです。

寒卵世界を駆ける日本人

やや時事俳句っぽいですが、白人中心社会の欧米の中で活躍する日本人へのエールくらいのもの。まぁ、あまり説明すると人種問題になりかねないので、サラっと終わらせておきます。

光射し二度生まれ出る寒卵

何か宗教的な雰囲気もありますが、特にキリストを寒卵に例えたわけではありません。卵として生まれた時、そして食べられるために殻を割れれる時、卵は2回生まれているんだなぁという気持ちです。卵の中では、カツンっと衝撃が走りヒビが入ると、さっと光が射しこんできて、卵もいよいよ活躍する時だと意を決しているのかもしれません。

例によってあまり人を唸らせるような俳句ではありません。いつまでたっても素人句のままです(もっとも素人ですが)。門前の小僧・・・と言いますが、暗唱できれば何とかなる念仏と違って、俳句は自分で考えないと駄目なので、さらなる修行が必要です。