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2023年1月9日月曜日

俳句の鑑賞 54 寺山修司


戦後の昭和の時代、いわゆる高度経済成長期に、若者の文化に関連して「ヒッピー」と並んでよく使われた「アングラ」という言葉を覚えているでしょうか。今の若者世代にはまったく意味が通じないと思いますが、「アングラ」は権力に対抗して商業的ではない文化活動の総称として使われました。

アンダーグラウンド(地下)を略したもので、政治に限らず世の中のすべての権威を持つものに反対するような、時には非合法な活動を含む前衛的な文化・芸術活動であり、その独特な存在感は当時の若者に支持され一世を風靡しました。しかし、彼らも名前が知られるようになると、次第に表舞台に出るようになり、商業化へソフト・ランディングを余儀なくされていきました。

アングラ演劇では、唐十郎と共に有名になったのが、演劇集団「天井桟敷」を率いた寺山修司でした。昭和10年(1935年)、警察官の息子として青森に生まれた寺山は、戦後進駐軍の関連の施設などを転々とし、中学2年の時に同級生の影響で俳句を始めました。

昭和29年、早稲田大学に入学。寺山の興味は、俳句よりも短歌に移っていて、しだいに注目されるようになりましたが、その一方で歌壇・俳壇からは、有名歌・有名句からの引用と思えるような内容が多かったため「模倣小僧」と蔑称されてしまいます。

腎臓病を発症し、大学は1年で中退しますが、戯曲の処女作が好評を博ししだいに演劇関係の仕事が増えていきました。昭和42年に「天井桟敷」を結成し、評論集「書を捨てよ、町へ出よう」、映画でも「田園に死す」などの代表作を残し、昭和58年肝硬変・敗血症により47歳で亡くなりました。

目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹 寺山修司

燃ゆる頬花よりおこす誕生日 寺山修司

暗室より水の音する母の情事 寺山修司

恋地獄草矢で胸を狙い打ち 寺山修司

寺山は短歌については、リアルタイムに歌集を数冊ほど出版していましたが、俳句については40歳に近づいて初めて取りまとめた自選句集を刊行しました。これらは、その中に収載されたものですが、反安保に揺れた60年代の空気を多感な青春期に吸っていないとなかなか共感しにくい。

何となく伝わるものはありますが、定型ではないといって自由律とも言えず、季語は何かしら入っているもののまったく頼っていないというところが、まさに「アングラ」なのでしょうか。

ただ、アウトサイダーを気取っているものの、心の奥底ではどこかひ弱でいろいろな愛情を渇望しているような印象を持ちます。反発と渇望する気持ちとは、紙一重、表裏一体みたいなところかあると思います。

ふるさとの山の姿や絵双六 寺山修司

旅の鞄に菫いくども傷つけられ 寺山修司

蝉鳴いて母校に知らぬ師の多し 寺山修司

父ありき書物のなかに春を閉じ 寺山修司

寺山は、父の仕事のために青森県内を転々とする少年時代を過ごしたためか、「自分にふるさとはない」とうそぶいていたようですが、これらの俳句の中には捨てがたい郷愁のようなものを感じます。

父が出征したため母と二人で苦労した戦時中、そして戦死したため追いかけ抜き去りたくてもできない父親の背中をずっと見ているようなところもあるかもしれません。それらを自己解決できないうちに、寺山は早死したのです。