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2023年1月11日水曜日

俳句の鑑賞 56 森澄雄


森澄雄は大正8年(1919年)、兵庫県生まれの俳人です。父親は歯科医で、俳句を詠む人物でした。5歳から長崎に転居し、昭和17年に九州帝国大学を卒業してすぐに招集され、ボルネオで終戦を迎えます。

父親の影響もあり十代から俳句を始めていましたが、「馬酔木」で加藤楸邨に指導を受けたこともあり、昭和15年、楸邨が「寒雷」主宰・創刊した際には、すぐに師事し参加しました。

戦後は都立高校で教鞭をとるかたわら、「寒雷」の編集にも参加。昭和45年、主宰誌「杉」を創刊し、戦後俳壇を牽引しました。平成7年に脳梗塞を起こし半身にマヒが残るものの俳句を続け、平成22年、肺炎により91歳で亡くなりました。

同世代だった飯田龍太とは、しばしば比較されることが多く、龍太の自然賛歌的な土着性の句柄に対して、森は「人間探求派」と呼ばれた楸邨の教えをさらに進めた、日常生活に根ざした人生を詠むのが特徴とされています。

除夜に妻白鳥のごと湯浴みをり 森澄雄

まさにこれこそが愛妻俳句。湯浴みをする妻を「白鳥のごとし」とは、普通は照れて言えるもんじゃない。除夜とくれば、おそらく大晦日の事でしょう。一年の垢を落とすかのように、湯浴みする妻の肌の白さを白鳥に例え、本来はエロティックなはずなのですが、作者は今年もご苦労さまでしたと労っているかのようです。

磧にて白桃むけば水過ぎゆく 森澄雄

「磧(かわら)」は、石がごろごろしているような水際のこと。どこかの清流の河原あたりが舞台でしょうか。初夏の日差しの中で涼しげな風景を見ながら、取り出した桃の皮を剝いてみると、目の前の水もどこかに向かって流れていることに気がつきます。

これらだけでも龍太との違いは明瞭です。現実的な無骨な龍太に対して、森はロマンチストで俳句も詩的、時に抽象的です。上句でテーマを表さず、読み進めるにつれしだいに盛り上がっていくような作りが得意なのかもしれません。

昇天寸前早老婆の白日傘 森澄雄

「早」は、ここでは「日照り(ひでり)」と読み、夏の強い日差しと共に、干からびた感のある老婆を表現しているのでしょう。暑さのため、ふらふらと歩いている様子が、今にも倒れそうなのに、手にする日傘の白さだけがとても目立ったということ。

西国の畦曼殊沙華曼殊沙華 森澄雄

西国は、森が少年時代を過ごした九州の地のことか。水田の境界部分の歩ける土手を畦道と呼びますが、そこには曼殊沙華、いわゆる真っ赤な彼岸花が咲いている。それも一つや二つではなく、たくさんたくさん咲いていることを単語の繰り返しで表現しています。

曼殊沙華は天界に咲く花とされ、俗な表現として死ぬことを「西に行く」というのがありますので、単なる田園風景というよりは、仏教思想を基にして何らかの死を意識したものではないかと思えます。

ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 森澄雄

「ぼうたん」は牡丹の花。それが百、つまりたくさん咲いている様子は、まるで湯気がゆるゆると(ゆらゆらと)立っているかのように見える。自然の美しさを、普段生活の中で何気なく目にしているものに例える手法です。

鳴門見て讃岐麦秋渦をなす 森澄雄

これも鳴門の渦潮の荒々しい様子を、強風に大きく揺れ動く麦畑に例えた句です。例えですから、当然鳴門の渦が麦畑のはずはないので、それを虚構と言えなくもないのですが、誰もが納得できるような説得力があることが強みです。

いずれも、直接的な形容をせずに、作者の心情を強く押し出している作風です。現代の俳句に通じる基本形がここにあるように思いました。