2008年3月31日月曜日

明日の研修医

どんな形の研修がいいの? 確かにこれは難しい。今のやり方が少なくとも良くないと思っている以上、少しは考えてみる必要がありそうです。

医者が成長するためには何が必要なんでしょうか。まず必要なことは素養とでも言いましょうか、つまり医者になりたいという根本的なエネルギーみたいなもの。これはどんな職業でも同じだと思いますが、好きこそ上手の始めなのです。

もちろん金儲け的な発想だけでは、とうてい続けられない仕事です。社会に対して奉仕する気持ちが根底に必要です。生命という大きな責任を負うというリスクのかわりに高収入が得られたのは、昔の話。今は下手すれば公務員の方がよほど高収入です。

人のためになる仕事であるという、当たり前のことに喜びを感じるような素直な気持ちは絶対に必要なわけで、それが医者として自分を高めていく糧になります。これを教育で教えることは大変に難しい世の中になりました。となると、もともとの人格に期待するしかないかもしれません。

そういう風に考えることができない人は医学部を目指さない方がいいかもしれないですね。医学部での教育の中にも、こういう人文的な授業があってもいいのではないでしょうか。でも、もちろん収入があった方がいいに決まってますから、もっと医者の技術料的な医師個人の評価の上乗せがあってもいいんじゃないでしょうか。1年目が診ても教授が診ても値段が同じってあり得ないでしょう。

さて目出度く国家試験に通った暁には、すぐにでも最低限の仕事はできるようになりたい、と思うのは昔も今も同じ。しかし、医者というのはある種の職人ですから、技術は経験を伴わないと付いてきません。となると、学生の頃から実技を十分に行う必要があるわけですが、そのためには「犠牲者」が必要になります。もちろん嬉しいわけはありませんが、少なくとも大学病院で診療を受けることは、学生教育にも協力することに同意することであるということを患者さんに理解してもらうしかありません。もちろん、一定のルールの下でのことですけど。

最終目標は国家試験合格であるので、どうしても大学は国家試験予備校になってしまうことは避けられませんが、知識だけでは足りないことは、ずっと言われ続けているのですから、国家試験に何らかの実技試験が入ってきてもいいかもしれません。

そして、晴れて医者になったら、この親方の下で修行しようと心に決めて研修生活に入ります。ここまで医学の情報が肥大化してくると、オールマイティな医者というのはほとんど奇跡のような物です。そこで専門性とるか、総合性をとるか決断します。当然親方も、両者に分かれている必要があります。給料は少なくて当然、でもそのかわり親方は住むところを提供し、生活の保障する必要があります。

そして研修医はしっかりと研修して独り立ちする義務があるのですから、一定期間に一定の能力を備えたことを証明する必要があります。そこで研修試験をするのはどうでしょう。研修試験に合格しなければ、いつまでも研修が終わらない。これは大変なことです。

現実には専門医(あるいは認定医)制度が浸透して公的な意味を持つようになってきていますので、専門医を維持するためには継続的な研修が義務づけられているわけですから、研修医の頃から絶えずそういう環境にあっても違和感は無いような気がします。

一定期間が過ぎて試験に合格すると、いよいよ独り立ち。開業したい方はどうぞ。病院でがんばる方はそれもよし。研究者の道を選ぶとい手もあります。何はともあれ、患者さんのことを考えられる医療を提供できさえすればOKですから。

2008年3月30日日曜日

今の研修医

日本の医師の研修の制度は、最初に戦後インターン制度が導入されて始まりました。これは卒業後1年間の研修期間の後に国家試験が受けられるというもので、いろいろな問題を爆発させて昭和43年に廃止され、昭和44年から自分がたどってきたような研修課程が始まりました。

ここでの問題は医師免許を持っていない学生は医療行為ができないということです。従って、国家試験に合格して医師免許をもらっても知識の上では医師の資格があっても、現実には医療行為はしたことがなく、すぐには実働できません。

そのために2年間の研修が義務づけられていました。この間はほとんどの研修医はほとんど無いような給料でも卒業した大学に残ることが多く、一般病院は人員が豊富な大学から出向を受けて医師を確保して成り立っていました。

その結果大学の中の組織としては正式には存在していないはずの各科の教室、いわゆる教授を「天皇」とした医局の権限が肥大化してしまったのです。つまり教授の意向で人事が決まりますので、一般病院は大学の教室に対して絶対服従せざるえないことになります。

そして、「勉強させてもらう」立場の研修医は労働時間の規定も無く、給料もほとんど無しであり、昨今の「人権尊重」の風潮からすればあり得ないような環境で労働をしてきたのです。コミックの「ブラックジャックによろしく」は随分ともてはやされましたが、現実には研修医にあそこまで物を申す知識も経験もないわけで、自分からすればあり得ない話だと思います。

それはともかく、自分たちは「素直」だったのか、医者になればそういうものだと思っていたのか、そうやって医者になってきたわけですからこれまでの制度のに対して是非を問うつもりはありません。そして2004年に30数年ぶりに研修医制度が変更されることになりました。2005年には最高裁でも研修医を労働者として正当な扱いをするようにという判決も出たそうです。

大学以外の一般病院でも研修が可能となりました。また以前に比べて大学を一度卒業してから学士入学で医学部に入ってくる学生が大変増えてきました。かれらは、大学に残ることよりも、自分の都合の良い場所で、より給料の良いところに就職することを希望します。

また、一般的に最も仕事量的なきつさのある大学病院は敬遠されるようになりました。その結果、大学の研修医は半減。現在大学にいる医者の仕事量は増大。大学からの出向は打ち切りとなり、力の無い一般病院は医師不足で縮少。特に地方でその傾向は顕著で、この数年間で一気に進んだ「医療崩壊」の直接的な原因の一つになっています。

さらに研修医は1年間は必須科をローテーションし、次の1年間は希望でローテーション。かなりの研修医が高額の給料をもらって1ヶ月単位の細切れのローテーションで各科を「見学」してまわるという事態になっています。中には勤務時間が終わったと言って、夕方帰ってしまう研修医まで現れました。

自分も研修医を指導するために厚生労働省が関係した指導医の資格を取りましたが、なかなか今の研修医の気持ちを理解することは難しい。そういう意味でも医療の現場は大混乱の中にあると言えるのではないでしょうか。

大学の教室は人事という大きな権限をそぎ落とされ、大改革を余儀なくされましたが、とはいえ大学本部レベルで異なる医療環境にある各科の医師を管理することは不可能です。各科の教室単位のまとまりは不可欠でしょう。大きな病院がどんどん機能しなくなっているつけは患者さんに回ってきます。さらに開業医ににもそのつけは見える形で回ってくるようになりました。

現代の研修医はこのような環境の中にいることを自覚していることと思いますが、医師としての最も基本的な姿勢を考えてもらいたいと思います。医師は自分自身が商品であるサービス業です。どんな医師が診療をしても商品としての値段は同じですが、腐っていることがわかれば、誰もその店では買い物はしなくなります。自信を持って自分を商品棚に並べられるように、是非謙虚な気持ちで研修に励んでください。

2008年3月29日土曜日

昔の研修医 part5

さてさて、静岡から戻って後期研修医最後の年である5年目も箱根の病院へ出向です。ここは小田原厚木道路の終点で降りてすぐ、かまぼこで有名な鈴廣が近くにあります。国立病院なので身分は国家公務員です。

リハビリテーションを中心とした病院で、整形外科と神経内科の2科しかありません。ということは、整形外科で入院しているのは脊髄損傷の患者さんばかりです。そして、神経内科は筋ジストロフィや中枢神経の変性症などです。

つまり、脊髄損傷の患者さんは一生足が動かないか、あるいは手も動かないという人たちです。そして、神経内科の患者さんは、徐々に弱っていき必ず死が待っている人たちなのです。

当直の時は内科の患者さんのことで呼ばれることがありましたが、だいたい血を吐いたとか、意識がなくなったとか、心臓が止まったみたいなことばかりで、とにかく未来がありません。治療法はなく、何とかリハビリで少しでもがんばるしかないのです。

整形外科の患者さんはそれに比べると明るい。もちろん、一生手足が動かないということはショッキングなことですが、そのショックの時期を過ぎて前向きにリハビリをがんばるために入院してくるので、ほとんどの患者さんは精神的には立ち直っているのです。医者がすることはあまりありません。患者さんは自分で一生懸命リハビリをしているわけです。

さて、ここにはある意味不思議な患者さんが「住んで」いました。いわゆる傷痍軍人さんです。病院の敷地内ですが、普通の建物から5分間くらい歩いていった古い平屋の病棟に3人いました。だんだん亡くなって減ってきたそうです。

戦後ずっと入院しているわけですから、もう何十年もいることになります。奥さんも一緒にいます。病室の入り口には表札までついています。とにかく毎日散歩のように出かけていって、調子を伺います。この方々が亡くなるまではこの古い病棟は続くのだろうと思いましたが、あれから20年近く経っていますのでどうなったでしょうか。

そして最大の思い出は「猿」です。本物の猿なんです。裏山にたくさん生息していて、病院内の食べ物を狙ってしょっちゅう病院の建物に侵入してくるのです。一緒に出向していたのは3年目の後輩で、こいつがいわゆるミリタリー・マニアなんです。彼は空気銃を何丁か医局に持ち込んで、売店の商品を猿がかっさらっていったというと、追跡開始です。しばらくすると戻ってきて、「取り逃がしました」と報告があります。

実はこの時もう一人医局に不思議な方がいました。神経内科の先生なんですけど、ちょっと変わった感じの先生。数年後にある記事を雑誌に寄稿して、この記事が問題になって比較的名の知れた雑誌は廃刊に追い込まれたんですよね。

まぁ、それまで、医者になってからずーっと走り続けていたみたいな生活だったので、ゆっくりとした毎日は不思議な感じがしました。その分、教科書を読んだり、リハビリテーションや形成外科的な手技の勉強ができたのが良かったと思います。

1年間して終わりというときに古い病棟の看護師長さんに記念に折りたたみ傘をいただきました。少し伸ばしにくくなってはいますけど、今でもちゃんと使っています。

2008年3月28日金曜日

肉・肉・にく・にく・ニク・29・・・

皆さ~ん!!
確かにオージービーフですけど、わらじみたいですけど・・・・
でも、肉です!!肉です。肉、にく、ニク、29。

そんでもって、値段。値段ですよ。聞いてくれます? 一枚300g平均ですよ。3枚1パックで780円です。どうします? 奥様。買うしかないでしょ。美しが丘西のスーパーアオバですよ。問題ないですよ。値段を考えてください。買うしかないでしょ。

繰り返します。買うしかないでしょ。さて味は、意外とかみ切れます。わらじステーキはゴムみたいでかめないことが多いですけど、これは大丈夫。かめます。あ~、肉だぁ。他に言うことはありせん。

とにかく今日はこれだけです。これだけ。コレダケ・・・

2008年3月27日木曜日

昔の研修医 part4

東海大学病院では2年間の各科ローテーションの前期研修医が終了した後、整形外科フィックスとなって今度は整形外科教室の医局人事で3年間の後期研修医になったわけです。3年目にはほとんど救命センターに入局しました状態で大学での生活をしたわけですが、4年目は遠く静岡県の病院に出向となりました。

静岡市と浜松市の中間、原子力発電所で有名な浜岡町の町立病院です。整形外科医長は東海大学医学部卒業1期生、つまり先輩。自分は7期生ですから、当時まだ11年目。30才そこそこの若さだったはず。でも、気っぷのいい人柄で、みんなから頼りにされ好かれていました。

もう何年も行っていないので、最近はどうなっているかわかりませんが、当時はほんとに原発以外にはなんにもない町でした。飛び降り自殺があったって、本人死ねません。一番高い建物が3階建てですから。駅が無いので、町の中心がはっきりしない。なんとなくこの辺かなぁ、という感じ。

医長先生が赴任した自分に、ご飯を食べれるところを教えてやるというので、毎日違う場所に案内してくれました。1週間たって、最初の店にまた行くというので、お気に入りなのかなぁと思ったら、「これでお店は全部まわった」とのこと。

ところがそれに比べて飲み屋が多いことにはびっくり。うろ覚えの数字ですけど、確か人口2万人にたいして飲み屋が200軒以上あったはず。これは原発で働いている人のためだそうです。でも、主立った飲み屋の前では定期的にパトカーが巡回して、出てきて車にのったところをがんがん捕まえていたそうです。

でも町の人々は大変温かく、よそ者の自分もすぐになじむことができました。この病院では、医者が少ないので救急的な実践的な医療が求められました。とはいっても4年目の医者にできることなんてたかがしれています。

膝の開放脱臼で、膝から大腿骨が10cmくらい飛び出ているなんていうのは、自分の守備範囲ですから何とかなりますが、明らかにくも膜下出血とか、血気胸なんて下手すりゃすぐに死ぬようなものには困りました。

首の痛みで来た患者さん、あまりに痛がるので入院させたら翌日から手足の麻痺が出始め、さらに呼吸で止まってしまいました。首の椎間板ヘルニアで、脊髄を圧迫したためだったんです。首に針を刺す(必殺仕事人状態です)超こわーい造営検査をやったりしました。

山道で見つかった変死体の検案をしたこともあります。まったく知らないところで死んだ人を見るのは、やはり気持ちのいいものではありません。毎週生まれたばかりの赤ちゃんの股関節の検診もありました。平均すると週に5人くらい生まれていたと思うので、5人×52週で260人くらい見たんでしょうか。

一度、大学から教授を呼ぶということになって、ホテルがないので自分の官舎にお泊めすることになりました。風呂は夜間に沸かしておくタイプで、200リットル一回分しかありません。先に教授に入ってもらいましたが、風呂から出てきた教授の一言は、「お湯は抜いておいたぞ」さらに教授はベランダに出て、手ぬぐいをバーンとはたくと手すりにかけました(ここは温泉じゃない)。朝食にはインスタントの味噌汁を出しました。「おー、味噌汁かぁ。旨い! うーん、旨いなぁ、これ。おかわり!!」って、用意がありませんよ。

まぁ、何をやっても知識や技術が貯まっていく時期なので、いろいろなことが経験できて楽しく過ごすことができました。残念なことが一つ。この時の医長だった先輩は数年前に肺ガンで亡くなりました。開業して4年、まだ50才前でした。今の自分くらいの状態ですかね。若すぎますよね。合掌。

2008年3月26日水曜日

蕎麦匠源

たまプラーザ南口からまっすぐ、新石川の交差点の方へ出てしまうちょっと手前。蕎麦匠源に行ってきました。マクシミリン日本版のような店です。客は自分たちだけ。BGMのない静かな部屋でゆったり。

蕎麦懐石のコースで、まず最初に、いわゆるお通しが蕎麦。それから飲み物。蕎麦豆腐、金目鯛の唐揚げ、煮物、天ぷら、お刺身などがほどよく登場。

最後に今日挽いたそば粉のみで、今目の前で打ってくれた蕎麦を楽しみます。蕎麦は蕎麦殻を取り除いて、やや緑色がかった感じ。ご主人は昔は普通の蕎麦屋をやっていたらしいですが、今はこだわりにこだわった純粋100%そば粉のみの手打ち蕎麦を作ります。厚さは1mmまでのばしていきます。まさに職人芸。

大変においしい蕎麦でした。しかも、うれしいことにおかわりができました。打った分はいくらでもどうぞ、という具合で、満腹です。最後にデザートは蕎麦餅のお汁粉(金箔入り)。値段もそんなに高くはなく、九の一軍団にもお勧めです。

謝恩会

3月になって始まったDr.Flickerのブログも絶好調のようで、ご本人の心配をよそに連日楽しい話が炸裂しています。これに呼応してブログの先輩であり「ライバル」のDr.Mのブログも熱が入っている様子。

昨日はこのお二人とあざみ野棒屋先生とご一緒して、ブログの裏側本音トークで盛り上がりました。いろいろな話はそれぞれの先生方におまかせするとして、同じ場所の別の店ではで東海大学医学部卒業生謝恩会を開催していたんですね。

自分の母校ですから、ちょっとびっくり。自分が卒業したのは、昭和の時代の話ですから、二昔以上前です。同級生の今でいう「セレブ」な方の関係で日比谷の高級なホテルで行われました。今と違うのは、まだ卒業はしても医師国家試験がまだなので、ほとんど盛り上がることもなくまったくといっていいほど記憶にない。

さすがにお祝いしている状況ではないわけで、毎日極度の緊張状態で最後の追い込み、つまり一夜漬けならぬ1ヶ月漬けにいそしんでいたわけです。最近は国家試験はすでに終了し、各自がだいたい自分の合否は想像できているのでしょうから、きっと会を楽しんでいるのだろうなと思いました。

あざみ野棒屋先生がお嬢さんの謝恩会に出るか悩んだととのことですが、なるほど今なら親も出席するような会になるんだと再認識しました。

長女の高校卒業の謝恩会は東京のホテル。社長が一緒に行きました。もちろんアルコール無しの宴会ですが、社長もけっこう楽しかったようでした。何にしてもサクラも満開。新たな扉を開く方々はガンバレ!!

2008年3月25日火曜日

119番ガイドブック

横浜市から119番ガイドブックというものが各家庭に配布されました。10月1日から救急車の対応の仕方が変わります、というアナウンスです。

一番大きなところは、電話の応対から場合によっては救急相談サービスで対応し、アドバイスをするということでしょう。最近の救急医療の問題に対する解決策の一つと考えられます。ただ、電話でどこまで緊急性を判断できるか疑問が残ります。「お腹が痛くて死にそうです」という訴えに対して、本当に死にそうなのかどうかなんてわかりません。

しかし。現実にあまりに救急車の乱用が目立つので、なんらかの歯止めになってもらえることを期待したいです。この中には救急車が要請された、実際にあったいろいろな事例が紹介されています。

湿疹がかゆい、昨日転んで肘が痛い、くつずれで足が痛い、昨日飲み過ぎた、耳に虫が入った、ストーブの付け方がわからない、ペットの具合が悪い、病院でもらった薬がなくなったなどなど。ここにはかなりソフトな表現が使われてはいますが、現実にはかなりひどいことがあります。

自分が経験したものでは、風邪気味で鼻水がでてしょうがない、普通の時間は混んでいて待つのが嫌だ、来るのに足がなかったからなどはよくある話です。

最近経験したものでは、あるデイサービス業者が利用者が転倒して救急車を呼んだのがあります。診察して特に問題なくデイサービスの人に連れて帰っていいと話したら、「そもそも連れてくる義務もないのに連れてきただけでも大変。連れて帰るなんてお断りです」といって帰ってしまいました。

また、夜中に腹痛で救急車を呼んだ30代の女性。薬を1日分出して帰宅をうながしたところ、これしか見てくれないのか、こんな夜中にどうやって帰れというのかといって受付で大暴れ。一時預かり金も払わず、診察券を投げ捨ててタクシーを呼んでかえりました。

そもそも救急車を利用すると言うことはそういうことです。往復を保証するものではありません。とにかく使う側の意識もただしていくことは大変重要ですね。

2008年3月24日月曜日

医療の値段が変わります

3月もあと1週間くらいで終わり。もう2008年の1/4が過ぎていくわけです。この時期は、卒業はいうに及ばず、入学もあり、仕事をしているヒトも退職・入職など出会いと別れが交錯するのでいろいろドラマが生まれますよね。開業してクリニックをしていると、あまり関係なくなり、毎日毎日一生懸命やるしかありません。

ただし、2年に1度は診療報酬点数の改定があるので、たいへんバタバタすることになります。診療報酬点数は保険医療を行っている場合の全国一律の適正化のための「医療の値段」です。今年はその年にあたり、これからいろいろしないといけないことがあるんです。

今回は全体の枠組みの変更は少ないので、比較的静かな感じがしますが、改定が発表されるのが3月になってからで、いつも間際の変更なので大変です。まず、今日は医師会で今回の改定の説明会があります。いろいろ届出をしなければいけないことがあるので、それの準備をしないといけません。

木曜日には電子カルテの入れ替えをします。電子カルテはメーカーがネット経由で入ってきてリモートでいじっていくので、担当の方が直接来るわけではありません。院内掲示のいくつかは直したり追加します。あわただしく過ごした後は、毎月のレセプト(保険診療の請求書)作成が待っています。

診療報酬点数は医療の定価であるわけで、一般の方はこの中の3割を自分で負担していることになります。はじめて大学から出向して一般病院の医長になったときに、事務の方から整形外科疾患の勉強会を頼まれました。そこで医者になって10年経ってからはじめて診療報酬点数表という分厚い本を読んでみました。本当に複雑で、なんのこっちゃ、という本なんです。

この国は何でもわかりにくくして、いろいろ抜け道を残しておくのが得意なんですよね。いわゆる玉虫色という奴です。疑義解釈というあんちょこが必ずついてきます。これを見ると、もっとわからなくなることも多々あります。それでも、一度全体を見るとだいぶ仕組みがわかるもんです。

そのあと大学に戻って保険委員をやったので、随分仕事がはかどりました。この時に共同指導とよばれる大きな監査があったのですが、大きな問題もなく終了できました(某大学は数億円の返還を命じられました)。クリニックの院長も医療経済学は最重要事項の一つですが、病院と診療所は微妙に違うところがあったりして、まだまだよくわかっていないところがいろいろあります。

純粋に医療だけをやっていればいいというものではないんですよね。ふぅ~。

2008年3月23日日曜日

昔の研修医 part3

医者になって3年目、前期研修医としてのいろいろな科のローテーションが終了し、整形外科にフィックスになりました。そうすると午後の一枠の外来を担当します。患者さんは天下の大学病院に受診しに来るわけですが、診るのは外来をするのは初めてに近い3年目です。

笑い事じゃありません。患者さんには申し訳ありませんが、こちらも必死です。患者さんをレントゲン検査に送り出した隙に教科書を調べます。それでも分からないときは、とにかく痛み止めのような薬を出して「また来週来てください」といってなんとかごまかします。

今はレントゲンなんて、ものの数分後には見れますけど、当時はまだ自動現像機もそう多くはなく、レントゲンを撮影して結果は来週なんてことも珍しくはありませんでした。のんびりした時代でしたね。

夜は夜で週に2回程度の当直があります。東海大学病院は神奈川県の西側半分で唯一の大学病院なので、鎌倉・藤沢付近から小田原、さらに伊豆半島の東側まで半径100km近くの守備範囲があります。

ここから来る救急車の数も半端ではありません。当時から救急車のホットラインは断ることは許されていませんでしたので、必ず見て何とか入院するベッドを見つけ、場合によっては翌日にでも転院させるためにあちこちに連絡をとるというのが日常茶飯事でした。

特に交通事故が多いので、たいてい一般外科と脳神経外科と整形外科が呼ばれ、3科で診察。腹部の外傷で緊急手術なんてことはよくあるわけで、そうすると後は整形外科でゆっくり治療していいよ、ってんで転院探しはこっちの仕事になってしまうのです。

交通事故では1カ所だけの骨折なんてめったにありません。外科がお腹を手術している横で、邪魔にならないように小さくなって骨折部を整復してギプスを当てたりしました。手術が必要な場合は、外科の後ですから、外科の手術が終わるのを待っているとたいてい徹夜になってしまいます。

整形外科で単独で手術をすることもありますけど、こういう場合麻酔科に行って緊急手術をさせて欲しいとお願いに行くわけです。準備の時間が2、30分できますので、この間に医局に戻ってひたすら解剖の教科書やら整形外科手術書を勉強します。

手術室から出ると朝焼けがまぶしくて・・・なんてことは普通のことで、そのまま通常業務に入ります。当直あけが休みとか、半休なんてことは考えたこともありませんでしたね。こんなことを3年目の医者と1年目の研修医でやってたんですから、ずいぶんと怖い物知らずでしたね。そのかわり、切羽詰まって必要な知識ですから、すべてが医者としての肥やしになったことは間違いありません。

週の行事としては教授回診とカンファレンスは重要です。とはいっても、「白い巨塔」のような怖い雰囲気はありませんけど。教授回診は朝8時から始まり、ほぼ全病棟に散らばっている患者さんを回るとたいてい10時くらいまでかかりました。途中で外来の者や手術があるものが抜けていきますので、最初は20人くらいいても最後は教授・助教授と道案内の研修医が一人なんてこともよくあります。

夕方からやるカンファレンスは新規入院症例、今週の手術症例、先週の手術症例などの紹介が主な内容ですが、夕飯抜きで早くても2時間はかかりますのでつらいもんがあります。学会が近づくと予演会といって、発表の予行練習が入りますので、いつ終わるかわかりません。

当時は今のように簡単にPCプレゼンテーションなんてありませんから、3週間前までに発表内容のスライドを仕上げて最初の予演会。いろいろ直しが入るので、作り直して2週間前に2度目の予演会。さらに作り直して本番というスケジュールでした。この予演会はかなり厳しくて、質問の雨あられでしたので、本番は本当に楽でしたね。

まぁ、昔の方が良かったとは言いませんが、こういう厳しい環境が無駄であったということはないし、自分が成長していく自信を形成していくことには大変役に立ったと思います。新しく医者になっていく若い方々にも、自分の中に医者としてのプライドをもってもらえることが大切だと思います。プライドを持てるようになれば、今の医療が抱えている問題の一部は解決が見えてくるのかもしれません。

昔の研修医 part2

医学は机上の勉強だけでは不十分で実践を伴う学問ですから、医学部を卒業しただけではな~んにもできません。それは新研修医制度の今でも同じ。いくらベッドサイドの実習をしても、それはあくまでも学生としてであって、医者としてはゼロであることに違いはあません。

自分が医者になって、さぁ病棟で仕事をしろといっても何にもできるわけではなく、はじめは先輩医師のあんちょこを一生懸命まねていたんですよね。とりあえず、こういう指示を出しておけというマニュアルは大変ありがたく、看護師さんもその辺はわかっていますから、いろいろ教えてくれるわけです。

ただ婦長はそんなにやさしくなく、出した指示に突っ込みを入れて研修医を「鍛え」てくれるのでした。「なんでこの点滴なの? なんでこの薬なの? 何であれしゃいけないの?」という具合に容赦ない攻撃を仕掛けてきます。

点滴を入れるために留置針を指す仕事は最初の関門の一つ。ヒトに針を刺すというのは、街角でやったら傷害罪行為ですよ。自分もはじめはポケットに10本くらいの針を持ち歩いていました。患者さんが許してくれても、ポケットの予備が無くなったら終了。患者さんには心から謝って、他の先生に頼みます。

これは完全な敗北ですが、なんでもがんばればいいというものではありません。入りそうな血管をつぶしきってしまったら、大変なのです。これは慣れてきても時々あることで、「手を変える」とすっとうまくいくことは珍しくありません。自信と過信は紙一重。患者さんという相手のいることを忘れてはいけません。

整形外科は午前中の病棟の大きな仕事は包帯交換処置です。当時は100人くらいの入院患者の処置をするのに、急いでやっても昼間で目一杯かかりました。一年目のぺーぺーは肉体労働なら何とかできます。とはいっても、少ない人数でぎりぎりですから、慣れてきてもかなりあせってやることになります。

そこで、ついついやってしまうのが、「セッシを鳴らす」ということなんです。セッシというのはピンセットのこと。看護師さんからガーゼなどをもらうときに思わずカチカチと音をさせてしまうのです。ある時、中堅の看護士さんに「セッシを鳴らすなんて、10年早いよ!!」と、びしっと言われたことがあります。

またある時はマニュアル通りに指示を書いていると、看護師さんから「なんでこの点滴なの?」と切り返され、答えられずにうなっていると、「考えたって分かるわけないだから、××先生(先輩)に聞いてきないさいよ!!」などとも言われてしまうのでした。

それでも一ヶ月すると、だいぶ様子がわかってきて、何となく形が作れるようになってくる物です。そうすると先輩医師からもやらせてもらえることが増えてきます。さらに一ヶ月経てば、簡単なことなら進んでやることができます。皮膚を縫うことは手術の基本ですから、やりたくてやりたくてしょうがない。

切り傷の患者さんが来ようもんなら、ほとんど鴨が葱背負って来た状態です。呉服屋の小僧のように縫ってばかり。最初はでこぼこでもぎざぎさでも、とにかく縫えれば満足(ゴメンナサイ)、何か医者らしいことをやっているなぁと一人自己満足している。

薬を出すときも、先輩マニュアル通りに馬鹿の一つ覚えのような銘柄を書きます。まぁ、それでもだんだん自分の考えが(しばしば誤りや思いこみがあるものの)入ってくるので心配はいりませんが、この辺は誰でも通る課程の一つですよね。

前期研修医のうちは自分の外来はありません。通常の外来では、処置当番、問診当番などに分かれていて、その中でも一番緊張するのが教授や助教授の書記当番です。これはドイツ語からベシュライバーと呼ばれていますが、教授が外来診察する横で、カルテに話や所見を書いていく仕事なんですけど、教授の外来をてきぱき進行させる使命があるわけですが、結局自分にとっては診察技術を学ぶ場なわけで、専門用語の単語もまとも分かっていない研修医が書いたカルテほどひどいものはありません。なんじゃこりゃ状態です。

ある時助教授が腰痛のヒトを診察台に腹ばいで寝かせて足を上に持ち上げていました。患者さんはそのたびに「ギャー」と痛がります。「ストレッチテスト陽性だな」なるほどこうやってやるんだ。勉強になるなぁ。後でレントゲンを見てびっくり。足の付け根の骨折だったんです。

それから、教授の書記の当番の時のことです。朝の病棟の仕事が多くて、外来に降りるのに少し遅刻してしまいました。降りたときには教授はすでに来て「書記なしで外来をやれというのか!!」といって近くのゴミ箱を蹴飛ばして帰ってしまったと言うんです。教授室に謝りに行って外来を始めましたが、うちの教授のいいところは後にひきずらないところ。始まればニコニコしていました。そんなこんなで仕事を覚えていくんですよね(教授の扱い方を含む)。

昔の研修医

この際だから、あざみ野棒屋先生のように、ブログで自分史をまとめておくのもいいじゃないというわけで、今までにも幼稚園の話、小学校の話など断片的に書いているわけです。今回は医者になってからの話。

自分が卒業したころ(昭和61年)の東海大学医学部は、大学に残ると各科教室に入局する研修医になります。とはいっても、実際の所属は病院であって、研修医は医学部長・病院長の下に年雇いで入っていたらしい。月給は基本給5万円+住宅手当2万5千円-源泉徴収7500円。当直は何回やっても0円。

実質的には、各教室がめんどうを見るわけですが、この間は各医局と自分の希望によって、いろいろな科を3ヶ月単位でローテーションします。整形外科の場合は、救命センター、一般外科、麻酔科は必修、リハビリテーション科と形成外科のどちらかを選択。残りの1年間が、整形外科で、そのうち3ヶ月は本院ではなく大磯病院でした。

自分はリハビリと形成外科はどうせ必要に迫られて勉強するだろうと思い、どうしても内科的なものを勉強したかったので選択できる一枠についてはわがままを言わせてもらいました。内科は呼吸器、循環器など種類が細かく分かれていたので、診断学全体を勉強するならと思い放射線科にしました。

これは今でも大正解と思っています。胸部レントゲン、腹部レントゲン、いろいろな造影検査など体中多岐にわたって見ることができましたし、なにしろ上部消化管(食道~胃~十二指腸)や下部消化管(直腸~大腸)の造影検査なんて整形外科医でやったことあるヒトなんてそうはいません。とはいえ、そういう技術そのものは現在必要ではありませんが、整形外科に絶対必要なレントゲンの基礎的な知識や扱い方についてはおおいに勉強になったわけです。

医師免許をもらって最初の半年は本院整形外科で、のんびり修行。11月から大磯病院整形外科、そして2月から放射線科。ちなみに4月から2年目になって基本給が7万5千円になりました。5月は外科で、続いて麻酔科という流れは絶妙でしたね。診断学を勉強して、実践する。さらに手術に必要な麻酔の勉強ということで、知識がどんどん上乗せされていけるように順番を組んでくれた当時の医局長に感謝です。

11月と12月は久しぶりに整形外科に戻りました。そして2年間の前期研修医の最後が救命センター。ローテーションの最後になるのでそうとう「使える」研修医だったと思います。内科系の研修医と外科系の研修医はどこで見分けるか? 血だらけのヒトが運ばれてきた時は一歩前に出る、そして意識の無いヒトが運ばれてきた時は一歩下がるのが外科系です。内科系は逆。

4月になると、今度は後期研修医3年間のスタートです。基本給は、やっと人並みの14万円。そして当直料が1回5千円つくようになります(でも2万円くらいが限度だったように思います)。ここからは、ずーっと整形外科の医局にいて、いわゆる医局人事に従って動きます。自分はそのまま本院にいたので、事実上そのまま救命センター所属のような状態でした。

4年目は静岡に出向して扱いは地方公務員。救急を含む一般整形外科にどっぷり浸かっていました。5年目は箱根の病院で国家公務員。ここは脊髄損傷患者さんのリハビリテーション目的の病院で、慢性期の管理が中心。手術も褥瘡(とこずれ)ばかりでしたが、ここで選択しなかったリハビリテーションと形成外科的な勉強がたっぷりできました。これで後期研修医も終了となり、ついに試験を受けて東海大学の正式社員になります。

つまりここまではパート職員と一緒だったわけです。一度退職願を出した覚えがあります。まぁ、修行時代ですから、文句もいわずに安月給でがんばったもんだと思いますが、結局自分の医者としての下地をここまでに作られたわけですから、ある意味めぐまれた5年間だったと思いますね。

2008年3月22日土曜日

春は三月落花の形 比良の暮雪

さぁて、お立ち会い。蝦蟇の油は有名な落語。比較的よく知られている話で、ひたすら口上を覚えていないといけないので、ちょっと前座噺のような感じがしてしまいますが、実際は大道芸人になりきって演じるのは相当な技量が必要です。

一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が・・・そして、細かくなった紙を一気に、ふーっと吹き飛ばし、春は三月落花の形とくるわけです。この辺が無いものを見せる落語の真骨頂というところ。

そこで、やっぱり六代目三遊亭圓生師匠に登場してもらうわけです。この人は、とても品のあるしゃべり口ですが、こういう芸人のぞろっぺえなところの描写にかけてもたいへん優れていたわけで、それが戦後にいっきに名人といわれるようになった所以であるわけで、蝦蟇の油にしても大道へおちぶれた武士が生活のために怪しげな膏薬を売りつけるあたりの雰囲気を演じきっていました。

特にしゃきっとしている前半の口上と酔っぱらった後半の口上の演じ分けは見事で、最後に本当に血が出てしまったのかと思うほどでした。

実際には生薬で、蟾酥(センソ)という成分があって、局所麻酔作用と血管収縮作用があって、切り傷の痛みと出血を減らす作用があったということです。本当に蝦蟇の脂汗を煮詰めた物かどうかともかく、本当に効くなら手術の時に便利かもしれません。

2008年3月21日金曜日

Let's 医師会 3月

今日は医師会の理事会。今月初めに、大きな議題の予算案の総会も終わっていて、4月の診療報酬改訂の話は来週ということで、今回の理事会は比較的スムースに進みました。

今週は火曜日に横浜市医師会代議員会もあって、けっこう夜が忙しかったかも。それにしても、他の先生方の元気なことには驚きます。みんな、いつ寝てんだろうか。いろいろな仕事を分担していて、自分よりもひまそうな先生はたぶんいません。

特に医師会長は体力勝負ですか。こういうとりまとめをしても、一会員としての自分のためにはなりますが、特別得なわけではありません。会員全員がもっと積極的に参加して、自分にも返ってくるんだという気持ちになってもらいたいと思います。

自分は基本的には8時間睡眠でないと、どうも調子が出ません。最近は睡眠時間が減っている気がします。小かぜをちょこちょこひくのもそのせいかも。やはり、なかなか年取ってからでは大変ですよね。

今日は最終のバスに余裕で間に合いました。そこへ予備校帰りの高校生がぞろぞろ。
「捻挫ってどんなけがだよ?」
「知らねぇのかよぉ。捻挫ってのはな、大腿骨ってのがあんだろ。そんでもって鎖骨ってのがあって、軟骨がふつかって痛ぇんだぜ」
「だから足首をやっちゃうんだぁ」
「やっと、わかったのかよ」
「×××(ゲームの名前らしい)で打撲は全治3週間、捻挫は全治1週間だったぜ。てっきり打撲の方が重傷だと思っていたよ」
「ばかじゃねぇの。捻ってんだぜ」
よっぽと、教えてやろうかと思いましたけど、あまりに面白いのでそのままにしておくことにしました。受験には関係ないと思うけど、こことかここを見てもう少し勉強しろよ。

2008年3月20日木曜日

坦々風冷やしラーメン

まず、普通の味噌ラーメンを買ってきます。3食200円とかでOK。
豚挽肉をゴマ油で炒めます。ニンニクとショウガと味噌・醤油で味を調えます。
丼にラーメンスープの素を半分いれます。同じだけのコチジャンを入れます。そこへ長ネギを細かく切った物を入れたら、よ~くかき混ぜます。
麺はさっと茹でて、水で洗います。よく水をきったら丼に入れ、スープをよくからめます。
最後に挽肉をとばーっと乗せてできあがりです。

うまっ!!

老人会で喋ってきました

今日は午前中は長女の高校の卒業式。あいにくの雨でしたが、行ってきました。芸能人がいきなり登場することもなく、いたって平穏に式は終了。

壇上には校旗とか日の丸はありません。校歌斉唱はあっても国歌斉唱はありません。自分は君が代を聞いて、日本の思想的なことに思いをはせることもありませんが、少なくとも日本という国に住んでいる日本人として国歌を知らないこどもたちが増えている・・・実際うちのこどもも歌えません、というのはいかがなものか、と考えてしまいます。

閑話休題。その後、すぐにクリニックに行って、まず昼食。

なかなか行けなかったコーナンのフードコートで丸亀製麺のうどんを初体験。実際に麺を作っているところを待っている間にじっくり見ることができました。機械で半自動的に作っているんですね。品質を一定に保ち、かつ大量に作るためには当然のことです。讃岐うどんというと、足で踏んで踏んでこしを出すというイメージがありますが、まぁ値段からすれば普通においしいうどんだと思いました。

天ぷらのトッピングが揚げたてでいろいろ選べるのが嬉しい。人気No.1となっている野菜かき揚げをとりましたが、確かにさくさくしてなかなかいけました。

さて、クリニックに上がってすぐに資料を整理。というのも、今日は近くの老人会に呼ばれていて、整形外科関係の話をすることになっていたからです。地区の老人会ですから、あまり難しい話をするわけではないのですが、逆ににるべく簡単に話すことが必要ですから、別の意味で難しい。

行ってみると、30人くらいの方が集まっていて、意外と多いのに驚きました。さすがに明治生まれというかたはいませんでしたが、ほとんどは昭和一桁世代。ある意味では、日の丸のためにうちのこどもたちくらいの年齢を戦争の渦中で過ごしてきた方々です。熱心に聞いてくれるので、こちらもついつい熱が入りました。質問も多く、喋り甲斐があるというものです。

ブリとホタルイカのしゃぶしゃぶ

さとちんさんのブログでブリのしゃぶしゃぶを紹介していたので、どぉ~しても食べてみたい!! と思っていたところ、近所のスーパーアオバで養殖ですけど、一さく780円の半額シール付きをゲット!! さっそくやってみるべぇ、というわけで速購入。

さらに生のホタルイカも20はい入り1箱680円半額シール付きも発見。これは、いっしょにやってみようということになり、あわせて購入決定。味はゆずおろしポン酢。

昆布をたっぷり入れたお湯をわかして、ちゃぷちゃぷ、ゆらゆら。ホタルイカは30秒。薄く切ったフリはさっとお湯にくぐらせるだけです。これは・・・・う、う、旨い!! 旨いとはおもっていたけど、これほど美味しいとはびっくり。

ホタルイカはゆでたてで、柔らかいですもんね。そして、ブリはもちろん刺身でもおいしいわけですが、さっと熱がとおって甘みが増す感じです。また、油っぽさが減ってくれます。これはなかなか癖になる味ですよ。

ただ、残念なのは、魚くささが出てしまうので、最後におじやを作ることはできませんでした。

2008年3月19日水曜日

お世話になったあの方に・・・

先週のはじめに、鼻水がでるようになりました。くしゃみもでました。喉は痛くないので、どうもカゼというよりは、花粉症かなぁ・・・と思っていたら、本格的に花粉が飛び出したと週の後半には、ピタっとおさまってしまいました。

花粉症のある方は、週の後半から「つらいつらい」と言い出しました。おや、ちがうのかなぁ。

今日は朝から天気はいまいち。雨かポツポツ。昼からはザー。花粉は落ちてしまいますから、花粉症の方は辛くなかったことでしょう。でも、自分は鼻がつまってしまいました。鼻が出て、患者さんとしゃべっていてもつらい。呼吸困難になりそうです。

カゼだぁ。間違いなく、カゼです。頭痛もあるし、下がり気味のテンションを保つのに精一杯でした。幸い、天気のせいか早めに終了できましたので、今日は早めに寝かせていただこうと思います。

と、思いましたが、長女が明日は高校の卒業式。お世話になった先生の似顔絵クッキーを友達と作りました。ほとんどは国語のH先生の似顔絵なんですが、ひとつ混ざっているのは世界史のE先生。1000点満点体力勝負のテストで、例のラインの奇跡事件の先生です。

今日、職員室に持って行ったそうです。当然、受けたようです。H先生は「腐るまでとっておく」と言ったそうですが、食えよぉ~!!

2008年3月18日火曜日

中日ファンが私を戦いに引き込んだ


2000年は20世紀最後の年。世の中は2000年問題に揺れて始まりました。自分は母校を辞して春から女子医科大学へ転出し、新しいスタートを切った年なのです。その年の9月はシドニー・オリンピックで盛り上がり、最後の種目の女子マラソンが9月24日に行われ、朝からテレビ中継で日本中が湧いたのです。なにしろ高橋尚子が優勝して金メダルを取ったんですから。

しかし、その日はそれだけでは終わらなかったのです。夕方から自分は長男を伴って外出。電車に乗って、ついた先は東京ドーム。巨人対中日の今季最終戦を観戦するのが目的です。この年のペナントレースはほぼ読売ジャイアンツの優勝は間違いのないところでしたが、中々優勝が決まらず巨人ファンは毎日いらいらがつのっていたのです。昨日もだめ、今日もだめの連続でしたが、チケットを持っている自分としては昨日決まらなくてよかった、という思いでした。

巨人も残り試合はあと4試合。今日は2位の中日を直接叩いて優勝する最後のチャンスです。球場内はただならぬ雰囲気。しかし中日に2回に頼みの先発上原が打ち込まれ3点を先取されます。一方巨人は中日の先発前田の前に沈黙。6回にも1点を取られ4対0となると、もはや今日の優勝は消えたという重苦しい空気だけがドームに充満しました。

6回裏の松井の打席が終わると席を立つ人がぞろぞろ。7回が終わるとどはどは帰って行きます。自分も帰るのに混雑するのはいやなので、長男に「帰るぞ」といいました。長男はさっき勝ったジャイアンツ・メガホンを振り回して、「もう1回松井に打席が回るから見ようよ」というのです。まぁ、めったに連れてこれるもんでもないので、まぁいいかということになって、最後まで見る覚悟を決めました。

そして運命の9回裏。先頭の村田は三振。しかし、ここからです。元木、高橋由、松井と3連続ヒットで満塁。ピッチャーはギャラードへ交代。次は? マルチネスだぁ~。でも三振。三振でよかった、と思う間もなく江藤の満塁同点ホームランが飛び出し、その怒号のような歓喜の声がおさまらないうちに二岡の弾丸がライトスタンドに突き刺さったのでした。

長男はジャイアンツ・メガホンがばきばきになるまでそこらあたりを叩いていました。長嶋さんが宙に舞い、ナインがグランド1周するところまでいました。帰りの地下鉄の中で、前に座っている人に、「今ね、逆転優勝したんだよ」と話しかけたくなるのをがまんするのに苦労しました。今でも翌朝の報知はとってあるんです。

どうだまいったか、中日ドラゴンズ!!

Nardyさんのコンソメ・レシピ

さとちんさんのリクエストに応えて、早速コメントを返していただきました。Nardyさん、どうもありがとうございます。ただ、そのままコメントに埋もれさせてしまうには惜しいレシピなので、こちらに移しておきます。なお、Nardyさんは心はアイルランド人(?)の薔薇栽培の名手にて、ハードロック命の大和撫子であります。

以下コメントより転載

えぇ~、なんかリクエストが来ていますが、最後にやったのは2年前くらいなので記憶が・・・

コンソメの作り方は、本来は一度出汁を取ったあと、さましてから、再び野菜と細かく切った肉と卵白を混ぜたものを加え、中~弱火で沸騰させて、ポコポコと数時間煮込む・・・のだったはずです。

ポトフの再利用では、4人分(600~800mL)で卵白2個分くらいを軽くほぐして、冷めた状態の残り汁(野菜くずなどは一度濾しておきます)に混ぜて、中~弱火にかけて沸騰させます。

沸騰したら超弱火でアクと卵白と油が固まって蓋のように浮いてくるまで煮ます。スープがきれいになったら火を止めて、ガーゼとかリードのクッキングペーパーみたいなものを敷いたざるで、お玉でなるべくゴミを入れないようにスープだけをすくって濾します。

これに塩でちゃんと味付けをして、私は最後に醤油を1滴垂らしてできあがりにしています。

洋風卵豆腐や、野菜の千切りのゆでたものや、小さくつくった鶏肉のクネルなんかを浮かすと本格的ですよ~

2008年3月17日月曜日

簡単アイントプフ

アイントプフはドイツの家庭料理で、コンソメスープにソーセージやじゃがいも、ニンジンなどをいれて煮込んだもので、庶民的なものの代表だそうです。

フランス料理のポトフは同じようなものですが、煮込んだ後にスープと中身は別々に食べるのだそうです。アイントプフは、それぞれの家庭で味が決まっていて、どれが本物というのはないそうなので、うちのはこれ!っていえば、それがアイントプフになるわけです。

うちのはコンソメスープで作りました。ソーセージ、じゃがいも、たまねぎ、キャベツ、いんげんをことこと煮ました。ジャガイモも小さめに切れば、15分くらいでOK。時間もかからず、野菜を食べれて、美味しいんだから文句のつけようがありません。

時間が無いときの一品にお勧めですし、冷蔵庫の整理にも役立ちます。

2008年3月16日日曜日

逆立ちしたってクリニックは病院にはなれないからな

そうなんです。大多数のクリニックは院長が唯一人の医者で、さらに入院するためのベッドを持っていません。もちろん中には、複数の医師が勤務するクリニックもありますし、最大19床までのベッドを持っているところもありますが、それは大変わずかです。

病院は、複数の医師が分業化した様々なスタッフと共同で医療にあたり、連続的な治療が必要な状況では入院という方法で経時的により密度の高い医療を行うことができます。その中でも大学病院を中心とした大規模な病院は、研究と教育という医療全体の底上げの使命も担っています。

Dr.Mの本日のブログで、今の医療問題の一端が大変分かりやすく書かれています。萎縮医療、防衛医療といった言葉は本来さびしい話ですが、現実に今の日本の現状であることは否定できません。

いきなり、根底からひっくり返すことはかなり難しいことだとは思いますので、目先のことから改革していくことは間違ってはいないのでしょうけど、それにしてもあまりに現場を無視した数々の制度変更は、ますます医療の昏迷を深めているだけと考えている医師は少なくないでしょう。

例えば、4月からの診療報酬改定の中でクリニックの再診料が平日6時以降と土曜日12時以降の時間帯で引き上げられます。500円値上がりしますので、3割負担の方は150円の負担贈となるのです。これは「もっと金を出すから病院の負担を減らすためにクリニックは休まず働きなさい」という方針の現れの一つです。

病院の機能を引き出すために、入院の必要のない軽症の病人をクリニックに誘導しようという発想は間違っていないと思いますが、患者さんの立場で考えると、現実に値段が高いクリニックにわざわざ行くでしょうか。土曜日の午後に病院に再診して薬を出してもらうと3割負担の方だと540円くらいかかりますが、4月からはクリニックにかかった場合には730円程度かかり、200円くらいよけいに必要になるわけです。

もちろん、その時間にしかかかれないという方もいますが、それなら午前中に受診しようということになれば、混雑して一人あたりの診療時間はますます減ってしまいます。だったら積極的にそういう時間に診療をしようと思っても、スタッフに働いてもらうためにはさらなる人件費がかかりますし、だいたいスタッフがそろうでしょうか? むしろ病院に受診した場合の方が自己負担が多くなるように改定することはできないのでしょうか。

逆に病院はクリニックにはなれないわけで、はっきりとして機能分離を前面に出していくことが必要です。最初に書いたように、クリニックと病院の最大の違いは医療の密度と入院ができることです。いずれにしても、まず医療費削減を前提とした改定が続く限りさらに医療の問題は迷路に入っていくのでしょうね。高齢者は増え続け、医療費が増え続けることは避けられないのですから。

とにかく何十年かして「昔は良かった」とか「古き良き時代」といってもらえるような今であるように、できる範囲で精一杯がんばることしかできない小さなクリニックの院長のぼやきでした。

整形外科医は内科をする人ではなかった

整形外科で糖尿病の知識はいるか? って、基本的にはいらないわけですが、でも糖尿病で必ず起こってくる三大合併症というのがあって、目と腎臓と、そしてもう一つが末梢神経。この末梢神経障害の自覚症状というのが、手足のしびれとくれば整形外科にくることが多い。

こういうときに問題になるのは、原疾患の科の病気として扱うのか、あるいは症状が出ているところの科の病気として扱うのかということです。現実問題、糖尿病のコントロールがちゃんとついていなければ悪くなる一方ですし、そのうち筋肉の萎縮も加わってくるわけで患者さんは整形外科に相談に来ることが多くなります。

さらに動脈が閉塞して血流障害から手足が腐ってしまうような重篤な合併症を起こせば、もはやどう見ても内科ではどうしようもない。また、世の中には糖尿病を持っている整形外科的疾患の患者さんは山ほどいて、手術をする場合には短期的な血糖値のコントロールを余儀なくされるわけです。

そんなわけで、多少の勉強は整形外科医もしなければなりません。高血圧とか高脂血症とかのような内科的な疾患についても同様のことが言えます。大きな病院にいるときは、すぐに専門科の先生に相談ができますが、開業しているとなかなかままなりません。

ましてやリウマチの患者さんは、もともといろいろな薬を使用しているため全身をまんべなくチェックしていく必要がありますから、内科的な最低限の知識は必須と言うことになります。さらに当直バイトをしていると、内科的な問題ばかりなので、医局にいるときは、こうやってブログを書いているか、常勤の先生の本を借りて読んだりすることが多くなります。

それはそれで、勉強になっていいわけですが、不整脈が連発している状況でひやひやしながら手術をやったり、簡単に下がらない高血圧の患者さんに微量点滴を細かく調節しながら心臓に直接影響するような薬を使ったりするのは慣れていないので疲れますわぁ~・・・といいつつ、今日も当直にいそしむのでありました。

Stephane Grappelli in Paris

グラッペリといえばジャズ・バイオリンの草分けの一人(ちーぷさんもお気に入り)。フランスジャズの世界はジャンゴ・ラインハルトが元祖みたいなもんですが、ベルギー人のジャンゴの場合はジプシーギターがベースにあって、そのパートナーであったグラッペリは生粋のフランス人。より優雅な雰囲気の漂う音色は多くのヒトを魅了し、1998年に89才で亡くなるまで現役で活躍したわけです。

最近地元フランスでの録音シリーズのBOX SETが発売され、大変格安で手に入れました。たいていはHMVを利用しているのですが、今回はamazonから購入。7枚組のセットがHMVではおおよそ10000円(割引がつけられればおおよそ9000円)で、ばらばらに購入することを考えれば十分に安いのですが、amazonはその上を行く7000円台です。他の通販では12000円くらいが多く見られますので、これは絶対に買いの値段。

さて中身はオスカー・ピータソンとの競演盤2枚の他にコール・ポーター演奏集、スタッフ・スミスとの競演盤など主要な物が含まれていて、曲目もジャズ・ファンなら何度も聞いたことがあるスタンダードが一杯詰まっています。黒人のfunkyな演奏と違い、優雅な響きを漂わせるバイオリンはフランス料理フルコースをゆったりと楽しむようなところがあります。

とにかく無条件に楽しく、自然と足が動いてしまうのです。まじめに聞いてもよし、BGMで聞き流してもよし。しばらくクリニックのBGMに登場する回数が増えそうです。

2008年3月15日土曜日

関節リウマチ2008

関節リウマチの治療法は21世紀に入って劇的に変化しており、我々のような専門をうたっているものにも、ついて行くのは大変なことです。まして、インターネットの普及により、一般の方も簡単に様々な情報に接することができるため、正しい情報を選択していくことはきわめて重要なこととなっています。

昨年は診断上大変に有意義な抗CCP抗体測定の保健適応がなされ、日本で2番目に登場した生物学的製剤のエンブレル(エタネルセプト)の一般使用が解禁となりました。そして年末のエンブレル副作用報道の騒ぎまで何かと話題に事欠かなかった一年間でした。

しかし今年はさらに大きな話題があります。それは第3、第4の生物学的製剤の登場です。最近の厚生労働省の薬事審議会でアクテムラ(トシリズマブ)が承認され、さらにヒュミラ(アダリムマブ)も続いて承認される見通しとなっています。そうすると、おそらく夏頃に製品として市場に出回ることになる物と考えられます。

生物学的製剤とは、関節リウマチの病気で関節内で実際に骨破壊に強く影響しているサイトカインを攻撃する薬で、直接的な効果が期待できるわけです。2003年に日本で最初に登場した生物学的製剤はレミケード(インフリキシマブ)で、その絶大な効果はそれまでのリウマチ治療では考えられないくらいのものでした。

ただし、マウス型とヒト型の混合であるキメラ型とよばれる性質から薬を無効にしてしまう中和抗体と呼ばれる物を体内に作ってしまう可能性があり、そのために免疫抑制効果のあるメソトレキセート製剤を服用し続ける必要がありました。また、数時間かけての点滴で行うため、患者さんにも医療施設にも負担が大きかったことは否定できません。

ヒュミラはレミケードと同じ抗TNF-α抗体と呼ばれるものですが、完全ヒト型であることと皮下注射による投与が可能であることから、レミケードの欠点を大幅に改善した物といえるでしょう。もう一方のアクテムラはすでに別の自己免疫性疾患の治療薬として使われており、やはり絶大な効果が認められています。こちらは抗インターロイキン6(IL-6)受容体拮抗薬という位置づけにあり、点滴での投与となりますが、ターゲットとなるサイトカインが今までの物とは違う(エンブレルもターゲットはTNF-α)ので、他の薬で無効だった方にも効果が期待できます。

今までながれからすると、いずれも新薬は専門医のいる施設が登録しての限定的な使用から始まり、使用する場合には厚生労働省への全例登録ということが義務づけられることと思います。そして1年間程度の期間を経て、一般使用が許可されるということになると思われますが、この期間に副作用問題を含めた最低限の使用に際してのノウハウが蓄積されていくことになるわけです。

自分のクリニックもリウマチを専門としてやっているからには、これらの新薬も使用できる体制はとっていくつもりですが、この全例登録期間は慎重な対応を求められるので、今後様々な情報を取得していく必要があります。

何故広告はこうも大変なの?.

うちのような貧乏クリニックですが、細々と広告なるものを出しているわけです。特に3月から4月は転入・転出のシーズンですから、新しく都筑区に住まいを移してきた方々に認知してもらうことは大変に重要なわけです。

さらに横浜市営地下鉄グリーンラインがもうじき開通すると、今までの青葉区以外に港北区や緑区からも直通で来やすい位置にあるので、このあたりにも知られたいと思うのは当然なわけです。

医療については実質的な広告は厳しく規制されており、その網をかいくぐったぎりぎりの企画へのお誘いというのもしばしばあるわけです。全国誌でよくある名医紹介特集にのせませんか? みたいなのはそういう一つ。いずれにしても高い掲載費を工面するわけにもいきませんので、ごく限られたものに限ってやっているわけです。

まず、ビタミンママ。地域のおかあさんのための口コミ誌としてスタートして、だいぶ大きな情報基地として成長しています。開業からお世話になりましたが、それなりの数の患者さんが来院するきっかけになっていると思われます。読者やホームページの利用者はおかあさんが多いので、うちが力を入れている関節リウマチの患者さんの年齢層がかぶってきます。また、スポーツによる問題を含む小児整形外科の対象にもなっています。

お店などで無料で配布するパドの地域のドクター特集はディレクトリーとしての役割がありますので、昨年に続いてのせることにしました。各家庭に配布される都筑区医療マップも同様の意味で継続している媒体です。近くの町の自治会回覧板にも載せています。これらはいずれも数万円程度で比較的安い割には、保存性があって長期間継続しての広告効果が期待できるものと思っています。

そして看板広告として唯一のもので、最も金がかかっているのがセンター南駅改札を出て北側の出口5番に降りていく長いエスカレータの上の電飾です。もともとかなり大きめの物で、年間で100万円近くかかっていたのですが、今は同じビルのただ内科と共用しているので、だいぶ安く使えるようになりました。また、みなきたウォークができて、さらにコーナンの開店により人の流れが出始めたので、その効果はますます大きくなっていると思われるので、何とか死守していかなければと思っています。

そして、金がかからず絶大な効果が期待できるのがホームページです。クリニック全般のページ関節リウマチ専門のページ、そしてこのブログ。それぞれを何とか生かしてクリニックを知ってもらうことが、最も重要であると考えているわけです。特に同じ階の木村泌尿器皮膚科木村先生の知名度はインターネットを通しても抜群で、何とかその大きなお腹に小判鮫のようにへばりついていっておこぼれををいただかないと。

それとビルの入り口の立て看板や、最近裏に張り出したポスターなどは手作り品で、よく見ると大変にお粗末な物なんですが、現場を知ってもらうためには効果的だと思っています。横浜市の地域の条例でセンター南駅周辺のビルを飾ることはいろいろ規制があるため、ゲリラ活動で行っていて、ビルのオーナーにも怒られるのを覚悟でやっているところがあるんですが、幸い理解のある方で何とかお目こぼしにあずかっています。

でも結局は口コミが一番であることは、本当に思い知らされましたので、とにかくしっかりとお話しして、できるだけ早く治して、患者さんとの良好な関係を作っていくことが最高の宣伝活動であることはまちがいありません。

2008年3月14日金曜日

卒業

3月も半分を終え、ついこの前お正月と思っていたのにあっという間にサクラの便りを待つ今日この頃です。卒業は今の時期の一大イベントでして、誰でも何回かの卒業を経験しているわけです。

心から友人との別れを惜しんだこともあるでしょうし、この後にくる新しい出会いにわくわくしたこともあるでしょう。学校の卒業以外にも、仕事の上の卒業もあったかもしれません。

人生の節目は多くて困ることはありません。もちろん多すぎては問題かもしれませんけど、人は同じことばかりやっていたら飽きがきますから、絶えず自分のモチベーションを維持していく上でも、一定期間で区切ってその成果を総括する卒業というイベントは意味がありますよね。

我が家では長女が高校を卒業します。幼稚園、小学校、中学校に続いて4回目の卒業式はいよいよ来週。ここまでは親の責任は重大で、こどもの成長はイコール親の成長でした。大学からは半分大人ですし、自分で責任をしっかりともって貰う必要があります。

自分の卒業式はどうだったのかなぁ。あまり覚えていないんですよね。高校の卒業式は、意外とそれまで不良ぶったやつも皆学生服を着て記念写真におさまったんですよね。大学は、いろいろな学部と一緒で何が何だかよく覚えていない。成績優秀者が代表で証書をもらうので、自分らのような凡人はとにかくその他大勢として並んでいるだけです。ときメモのようなわくわくするようなエンディングとは、まったく無縁なわけです。

そんなですから、こどもにはできることなら、きちっとた思い出としていつか卒業を思い出せるようになってもらいたいものだと思います。長女は、もしも今回そうでなくても、まだ大学の卒業がのこっていますから、是非すばらしい青春を送ってもらいたいものです。

長男は来年高校を卒業するわけで、高校生としての最後の1年間をどこまで充実した物にしてくれるのでしょうか。そして、次男は・・・ノートに落書きしている場合じゃないよ。

2008年3月13日木曜日

いい医者になるのだな…

今日は午後は大学で外来、その後は新宿の京王プラザホテルまででかけてきました。T教授の退任記念式に出席するためです。久しぶりの大都会という感じで、知らない土地にいるようなものでした。

それにしても東京女子医科大学膠原病リウマチ痛風センターで勉強できて良かったと思います。多くの先生方と知り合え、それも某大学の教授や助教授に転出した偉い先生とため口をきけるなんて、ちょっと想像もできないことです。あらためて日本で最もリウマチ患者さんが多い施設であることを実感し、誇りに思うことが出来ました。

そこには事務職で働く人、検査技師さん、レントゲン技師さん、リハビリのスタッフそして看護師さんなど多くの方のサポートがあるのです。実際教授もこれらの方々のサポートがあってやってこられたわけで、今の自分のようなわがままな外来をやらせてもらえるのも、全てのスタッフがしっかりと自分の仕事をしているからなんですよね。ほんと、いいところです。

このセンターとの縁を作ってくれたT教授には感謝しても感謝しても足りません。医術を実践する医者としての自分(アプリケーション・ユーザー)にとっては、これからもちょっとは知識を刺激する医学者としての部分を刺激してくれると思います。

クリニックで一人で医療を行っていると、しだいに自分の殻の中に入っていってしまう気がするんですよね。それが正しくない方向に向かっていることはいくらでもあり得るわけで、自分を正すことは大変重要なことなんです。

今日は食事よりも話に夢中になってしまい写真がありません。帰りに渋谷で撮影した都会のネオンでご勘弁を。公園通りバルコ前。スクランブル交差点なんて久しぶりに見たなぁ。

2008年3月12日水曜日

意外と、料理も楽しいようで

そもそも料理ネタが多いのは何でよ? って、誰も質問してくれないので、勝手にお答えすることにしました。まず、時間が無い、というかまだ外食に走る経済的余裕が無いのでお店めぐりができません。ということは、作るしかないという現実的な理由があるわけです。

それはともかく、料理自体が嫌いではない、というか年取って医者をやめたら、のんびり飲み屋のおやじになりたい・・・なんてことを常々考えている(らしい)。メニューの無い店で、今日はこれを食べてよってんで、勝手に作った物を出すというのが理想。半年くらい稼いだら、半年はお店は休業して遊んで暮らす。なんて生活をしてみたい。まず無理でしょうけど。

料理をするルーツは何だったんでしょうか。考えてみると、小学生の時の家庭科の授業まで遡るんですな。いくつか作ったんでしょうけど、最初に作ったメニューが最もインパクトがあって、今でも覚えている訳です。

それはほーれん草のソテーとサラダのドレッシング。バターを溶かして、ほーれん草を炒めて塩こしょうで味付けするだけ。こんなシンプルな料理がめちゃめちゃ旨かった。今でも重要なレパートリーなのです。ドレッシングはサラダオイルとお酢を同量いれて塩こしょうで味付けという、これまたいたってシンプル。これもめちゃめちゃ旨かった。こちらも今でも基本レパートリーになっていて最後はここに戻ってくるという味なのです。

大学に入ってからは、テニス部は朝練があったので、5時に起床して5時半に家を出て6時新宿始発の小田急線急行に乗る。そして帰りは暗くなるまで練習して家に帰ると早くて9時くらいになるという生活をしていたのです。そうすると親の顔を何日も見ないなんてことがあって、自分でご飯を用意するしかないわけです。

臨床実習が始まるとアパート暮らしとなり、ますます料理をするしかない状況になります。さらにすぐ近くに住んでいたテニス部の先輩が、お茶碗とお箸を自分のアパートに置いていたので、ますます料理をするはめに・・・さらになじみになった近所のお店で、これはこうやって作るというような話をよく聞きまして、しだいにこんなになっちゃった、という訳だったんですね。

2008年3月11日火曜日

カレー臭

カレーを食べたくなった。タマネギをみじん切りにして、炒め始めた。しかし、そこでカレールーが無いことに気がついた。ガビ~ン!! しかし、今さら後には引けない。しょうがない、粉から作るか。

こういうときはS&Bの赤いカレー粉の缶がありがたい。ドライカレー用に買っておいてよかったです。そこで、カレー粉作りなんですけど、フライパンにカレー粉の他に一味唐辛子、粗挽き黒こしょう、ガラムマサラ、セージ、オルスパイス、オレガノなどうちにあるありとあらゆるスパイスを混ぜ合わせ弱火で煎ります。

炒めたタマネギに肉を加え、しょうがとにんにくを入れて炒め続けます。ニンニクは例によってできるだけ一杯。さらに小麦粉をてきとーに振りかけて和えます。どろどろが好きな人は多めに入れます。でも、小麦粉は少なめにして、途中でパン粉を入れた方が糊状にならずにインド風になるんですよ。

水をまたまたてきとーに入れます。コンソメをいれてケチャップ追加、本当はトマトピューレとかホールトマト、できることなら生トマトを煮つぶしたいところなんですけど、無いのでがまん。煎っておいてカレー粉をとばーっと入れて煮込めばできあがり。

あっというまに売り切れでできあがりの写真を撮るのを忘れていました。そのかわり、家の中はカレー臭で充満することは覚悟してください。加齢臭ではありません。

2008年3月10日月曜日

あきらめて 年を取ったと 老眼鏡

ついに買ってしまった老眼鏡。いままで随分抵抗したんですけれど、いろいろ困ることが増えたんですよね。

思えば勤務医やめたのは、手のしびれと老眼で、手術がつらくなったからだったなぁ。でも、開業しても手術をやめられず、しびれはでなくなったけど、近い物が見えにくいのは変わりません。特に手の手術をしていると、細かいところが多く、思わず顔を近付けてしまうのですが、そうするとよく見えない。顔を話すと、遠くてよく見えない。

最初は百均の安物でいいや、と思っていましたが、どうも度数の弱い物でも目が疲れるんですよね。眼鏡屋さんで測って貰って、その原因がよくわかりました。

もともと右目は視力は0.2位で乱視あり。左は0.7位で、両眼の裸眼視力はかろうじて眼鏡無し運転可というレベルなんです。ですから、ほとんど左目だけでしか見ていないらしいんです。ですから、両方同じ度数の老眼鏡をかけると、左右のバランスが悪すぎて目が痛い。

でもって、老眼の度数は左+1.25で右+0.5というバラバラになって、実際かけてみると大変見やすいわけです。それにしても、年取ったなぁ~、はぁ~。

2008年3月9日日曜日

ぺたぺたあし・いたいたあし

さらにもう一つ。これは都筑区だけに限ったことではないと思いますが、いわゆる扁平足の問題を持った患者さんが増えたなぁ、と感じます。メディアでも若者の扁平足が話題になることがありますが、確かに若年化したと言えそうです。

足にはアーチという考え方があって、足の形を作っている複数の骨の並び方が前後方向に弓なりになっていて、これを縦のアーチと呼びます。また前側で指の骨が横に弓なりになっているのを横アーチといいます。

縦アーチが潰れた状態を扁平足、横アーチが崩れた状態は開張足(幅広足、だんびろと呼ばれます)。いろいろと原因はあるわけですが、複数の骨の連結がゆるんできたり、あるいは足の中の細かい筋肉が弱くなって起こることが多く、年齢とともに大なり小なり誰でも起こるものです。

しかし、足に合わない靴を無理に履いたり、運動不足、特に歩くことが少なくなったことが若年化に拍車をかけていると言えます。

足底の「たこ」や外反母趾も最終的には伴ってきますので、早めに自分の足のメンテナンスを行いたいものです。柔らかくて楽な靴ばかり探していると、ますます悪くなっていくことが多いので注意が必要ですよ。

おさらがずれる・なおさらいたい

もうひとつ、都筑区でクリニックをやっていて多いと思うのは、膝蓋大腿関節不適合症と呼ばれる問題です。膝蓋大腿関節亜脱臼、習慣性膝蓋骨脱臼なども同じような状態のことなんです。

患者さんの訴えは「膝を曲げると痛い」「膝を曲げると音がする」「膝ががくがくする」「お皿の骨がずれる」「お皿の骨が痛い」「膝が抜ける」「膝がはずれる」などなど。

要するにどういうとかというと、お皿の骨、膝蓋骨(しつがいこつ)と太ももの骨、大腿骨(だいたいこつ)との間の形が生まれつき悪かったり、あるいは太ももの筋肉が弱くて膝蓋骨をしっかり支えられなくて、膝蓋骨と大腿骨がうまくかみ合わないことが原因で起こるいろいろな症状なんですね。

運動量が増して膝の屈伸が増えてくる、でも筋肉が弱い10代後半から20代前半くらいの女性に圧倒的に多いのですが、整形外科疾患でそんなに多いものではありません。

もともと、自分のお世話になった大学の教授は、この問題の専門でしたので、年に100例くらいは患者さんが入院してくるのです。大学にいた頃は、ふつうにありふれた病気かと思っていましたが、大学を離れるとそうそういるもんじゃありません。

他の大学病院では年間数例と聞いたことがあります。リウマチ専門でやっているときは、当然診ることもありませんでした。ところが、開業してからは、うちのような患者の少ないヒマなクリニックにもかかわらず、月に一人くらいはいるんですよね。

都筑区は若いということでしょうか。ただ、若者も明らかに運動不足ということは間違いないように思います。

2008年3月8日土曜日

かたまった・こまった

横浜市都筑区は大変住民の年齢は若く、人口18万人の平均はおおよそ38才だそうです。今の高齢化社会の日本では、信じられない数字ですが、そのせいかやたらと「四十肩」の患者さんが多い。しかも、けっこう我慢して固まってから受診するというパターンが定番になっている、と感じているのは自分だけでしょうか。

これは仕事の上でも、なかなか自分の健康を優先できない、社会の中心を担っている世代であるということなんだと思います。一方、インターネットの利用率も高く、様々な情報を手軽に得ることができるはずなんですが、不確かな情報が多く、それに惑わされているのかもしれません。と、言いつつ自分もホームページで「四十肩」を紹介しているわけで、そのあたりの責任の一部は関係しているかもしれません。

四十肩は独立した病名ではなく、いろいろな原因によって出てくる共通の症状に対する呼び名です。一番問題なのは、痛みのために「動かない」と、肩の周囲の筋肉が萎縮して固くなってしまい、「動かなく」なり、より痛みを出しやすい状態になってしまうということです。ここから悪循環に陥って、がちがちに固まってしまうと、治療も時間がかかって大変です。

ここで難しいのは、「適切な運動」です。なんでもぶんぶん動かせばいいというものではなく、「動かされる」ようなストレッチ運動と弱くなった筋肉の筋トレが必要なのです。これを自主トレでやるのはコツが要ります。

仮に手術が必要な場合であっても、このような運動は必要になってきますので、肩を動かしにくいと感じたら、早めに適切な運動をしっかりすれば、比較的悪くしないですむ場合が多いので、軽いうちに相談してもらいたいと思います。

2008年3月7日金曜日

あざみ野棒屋先生はランナー part 2

あざみ野棒屋先生は、泌尿器科医の中では知らぬものはいないという、大変に著名な先生なのです。その大先輩をasobi.gifでいつもおちょくっている自分は何者? と言われてしまいそうですが、そういうものをそのまま受け入れてしまう懐の大きさが魅力であるといえます。

趣味も多彩で、我々が垣間見ることの出来るものは、そのごく一部なのです。今度の日曜日に都筑区ロードレースという短距離マラソン大会に出場するにしても、周到な準備を怠りません。事前にコースを走り、携帯品の違いなどによるタイムの変化もチェックしています。また、各ポイントでの通過時間まで、下調べがしてあり、まるで走るために生まれてきたマシーンの如しです。

でも、かなり謙遜したタイムを自己予想で出しています。いざ、走り出したら、きっと一気に駆け抜けていくように思います。沿道で応援する皆さん、発表されている通過タイムよりかなり早めに通り過ぎると考えて準備してください。

もしも、あざみ野棒屋先生を知らない人がいたら・・・走りながら「センター南医療ヴィレッジ!!」と、叫んでいるランナーを探してください!!

肉無し弁当

こどもが期末試験に突入しております。と、いうことは・・・弁当!! そこで、自分と社長の分だけでいいとなると、こんな弁当。

鰆の味噌漬け、蓮根のきんぴら、あとは適当に詰め込んで出来上がり。なんとなく健康的。でもかなり地味。しかし味は問題なし。今月は、こん感じでいきたいと思います。

2008年3月6日木曜日

イタリアン・ハンバーグだもんね


昨日から長女の友人が泊まりで遊びに来ていました。もう、何度も来ているので、うちがどんなに汚くても驚きません。こっちも気楽にお招きできます。でも二人とも違う大学に行くことになったので、もしかしたら今回が最後かもしれません。

そこで、「おとーさんの料理が食べたい!」という熱いリクエストに応えないわけにいきません。昨日は、帰りが遅かったので時間が無かったので、すぐにできる坦々鍋にしました。今日は違います。

ウ~ン、イタリア~ン。スパゲッティはもちろんですが、これは特に新しい物ではないので、今回写真は省略。タラコとペペロンチーノとナポリタンです。一人一人のお皿はチーズ・ハンバーグです。この際カロリー高めは目をつぶりましょう。

でも、実は超手抜きなのです。まずハンバーグはあざみ野業務用スーパーで売っている10個780円の冷凍。これがいけるんです。そのままでも、和風にしてもOK。今回はスパゲッティ用のレトルトのトマトソースをかけて、ピッザ用のチーズをふりかけ蓋をして、弱火で15分程度加熱。そうすると、チーズがとろとろになって極旨のイタリアン・ハンバーグになるのです。大好評のうちにディナー終了。トレビア~ン!!

あざみ野棒屋先生はランナー

今週の日曜日はあざみ野棒屋先生は都筑区のレースに出場です。
道ばたで旗を振って応援できないので、こちらで応援です。
フレー、フレー、棒屋!!
走りながらセンター南医療ヴィレッジの名前を叫び続けてください!!

2008年3月5日水曜日

クリニック血算・・・いや決算

今日は会計事務所の親分とうちの担当と方がやってきまして、昨年の確定申告についての説明を聞きました。うちがお願いしているのは、リッチフィールド税理士法人というところです。クリニックを数多く手がけていて、自分の経験からも実に的確なアドバイスをしてくれます。

うちのクリニックもけっして順風満帆で来ているわけではありません。でも、ポイントでのクリニック運営についてのアドパイスは大変にありがたく、ここまでなんとか来ているのもこの事務所のサポートによるところが無視できません。

さて、昨年はおおよそ5000万円ちょっとの売り上げに対して5000万円弱の支出があって、ほぼとんとん。年間では黒字になっていますが、微々たる物でした。それでも、何とか赤字ラインは脱することができました。しかし、当然生活はできません。

そこで、自分でもさすがに驚いたのは当直バイト。女子医科大学が年間でくれていたくらいの額の当直料をいただいていました。東京都都庁職員の給与ほどではありませんが、そこそこの額になっています。これは誰か(社長?)に是非褒めて貰いたいものです。ちなみに自分が当直に行っているところは、通常の当直料の2/3程度の安い当直料なんです。でも年を取ってくるとバリバリに救急車を受けるような当直はさすがにできませんので、しょうがないですね。

今のところ体力の限界は感じていませんが、こんな生活がやはりそう長くは続く自信はありません。コーナンの開店やグリーンライン開通には大きな期待を寄せているのは本音です。

とりあえず、今までの借金の関係で、今回も税金は還付。これで、この冬の患者さん減少のダメージの埋め合わせが出来ます。たぶん今のペースだと来年までは還付される可能性が高いそうです。これで何とか生きながらえることができるというものです。

都筑区ドクターブロガーに新しい仲間が増えた

今朝のBig News !!
都筑区で開業している医者で毎日ブログを更新しているのは3人と書いてきましたが、ついに期待の新星、ドクター・フリッカーが参戦。面白いことになってきました。

いつでも夢を

ますます、ブログがやめられない!! (誰に言っている??)

2008年3月4日火曜日

センター南医療ヴィレッジに仲間が増えた

センター南医療ヴィレッジというのは、自分たちが勝手に命名したものですから、住所として正式に使えるわけではありません。正式には横浜市都筑区茅ヶ崎中央51-1ベルヴィル茅ヶ崎ビルの3階と4階がクリニック・スペースになっていて、実際のところまだ3階の1室が空いているわけです。

でも、主要な科は揃っていますので、入院設備こそありませんが、たいていのことには対応できるはずです。今日は、そのセンター南医療ヴィレッジの運営会議、というか飲み会でして、詳細はあざみ野棒屋先生がレポートすると思いますので、そちらにネタはおまかせするとして、本日のトピックスは、ビルのすぐ近くにCMポートビルというのがありまして、そこのDr.Aが運営会議に初参加したということでした。

Dr.Aはほぼ同じ頃に開業している不妊症専門の産科をやっています。今日は正式にセンター南医療ヴィレッジの一員として認められました。これからはお互いに協力して、様々な問題に取り組んでいくことになると思います。医療は、特に開業医はそれぞれの個人の力量によってがんばっているわけですが、そうはいってもいろいろな情報交換というのは科を超えて大変に重要ですので、自分たちの小さなグループではありますが、一致団結して患者さんの利便性を向上させることができることは大変に大きな意義があるのです。

自分は自他共に村(ヴィレッジ)の雑貨屋さんと名乗っていますが、最近村の対面に大きなショッピングセンターが開店したので、そちら側からよくわかるようにポスターを作って貼らせていただきました。ただし、いかんせん手作りですから、よーく見るとあらがバレバレですけど、心意気だけは認めて貰いたい。

それぞれのクリニックの患者さんが増えることが自分にも反映することだと思うので、是非センター南のコーナンやエディオンに買い物にお出での方は、ここに医療ビルがあることをお見知りおきください。さらに近くにDr.Aもいることも忘れないでください。

本日は「飲酒ブログ」であるため、思いきっり宣伝になってしまいました。

2008年3月3日月曜日

頑固な患者さん

今日は一人のお年寄りの話。

今日はどうされたんですか?
腰から背中が痛いんです。ときどき足が歩いていると硬くなる。休むと歩けます。
レントゲンでも典型的な脊柱管狭窄症ですね。今までには治療したことは無いのですか?
A大学病院に行きましたけど、同じ病名を言われて薬を90日分だされました。飲んでも効果はありませんでした。今は親戚の勧めで、新宿にあるクリニックに言っています。自分よりも年を取った先生が、注射で軟骨ができて治ると言っています。
それはありえません。現在の医学では注射で軟骨を形成させることは不可能です。その先生は整形外科専門医ですが。
違うと思います。病名も違うと言っています。でも大学では相手にしてくれませんので、どうしようかと思っています。
どうしてうちにお出でになったのですか。
他の先生の意見を聞きたくて来ました。
だったら、あなたの場合は典型的なので、あまり他の話をすることもないですよ。現在は手術が必要な状態ではないので、大学病院に通うようなものではありません。内服が効果が無いのなら、頻繁に通えるなら物理療法で電気とか温熱を中心にしますし、あまり来れないようなら2週間に一度点滴をします。
他の先生にも聞いてみたいと思います。
それはかまいませんが、整形外科専門医なら、それほど悩む状態ではないので、何人に聞いてもあまり違う話はでませんよ。
じゃ、考えてみます。

この患者さんの場合には問題がいくつかあるようです。まず、大学病院の対応。大学病院は高度な医療を提供する場です。たとえば大学病院へかぜの患者さんが集中したら、大学でしか治療できないひとを治療する余裕が無くなってしまいます。

ですから、状態がはっきりしたのなら患者さんを近くの一般病院か、開業医に紹介すべきでしょう。90日処方というのは、いくらなんでも長すぎです。大学も経営が成り立たなくては存在できませんから、このような中途半端なことが起こってしまうのです。このお年寄りは、大学が自分を相手にしてくれないということから医療不信に陥っているようでした。

そしてもう一つは新宿のクリニック。かなりお年寄りの開業医の先生のようですが、自分の信念に基づいているのでしょうが、現在の医学的常識からかけはなれていることに気がついていないようです。それは大変に危険なことで、医療から学問を抜いてしまうと、最悪の場合ヒポクラテス以前の「祈祷師」と同じになってしまいます。

そして最後に患者さん自身。自分が納得できるまで、ジプシーのようにあちこちを転々と渡り歩いているのです。下手をすると正しいとか正しくないとかという議論よりも、自分に都合のい良い話が聞けるまで続くかもしれません。そうなる原因を作ったのは医者かもしれませんが、早くじっくりと治療をすることが大事であることに気がついてもらいたいと思います。

結局、このお年寄りが期待していたような説明は出来なかったかもしれません。むしろ、面白くない厳しい話をしてしまいました。患者さんが再診してくれるかどうかは、自分が患者さんを納得させられたかにかかっているようです。再診してくれなければ、自分の対応もま
かったということです。

2008年3月2日日曜日

ひな祭りディナー

今日は当直あけで、久しぶりに休日の日曜日でした。朝から眼鏡屋さんにいきました。次男にめがねを作ったのです。去年ルミエール眼科で眼鏡処方箋を出して貰っていましたが、本人がなかなかめがねを嫌がって、ここまでほったらかしになっていました。

ついでといっては何ですが、自分もついに老眼鏡を作ってしまいました。最初はできあいのでもいいかと思っていたのですが、検眼してもらうと、だいぶ左右で差があるので、結局オーダーメイド。そのまま食材の買い出しへ。

と、いうのも、我が家には、「社長」と長女と♀のミニチュア・シュナウザーがいるわけで、女の子の祭りであるひな祭りは無視できないイベントであるわけです。そこで、今日が日曜日なので、本日ひな祭りディナーの運びとなりました。

定番のちらし寿司をメインに鶏の唐揚げと刺身盛り合わせという、最近でき豪華な食卓となっています。とは言っても、ボリュームで勝負の鰹のたたき、とか特売唐揚げなど、サイドメニューはそれなり。

メインのちらし寿司は、あなご・玉子・ネギトロ・いくらを並べています。大葉の細切りが味のアクセントになっています。自分の領域をはっきりさせるために、これらの具材を五等分しておくことが大事なんです。でないと、いっきにガバーっとかっさらっていく奴らがいるのです。

でも、だいぶ我が家も少食になってきました。この前までは米5合分のちらし寿司を作っていましたが、今回は3合でたりました。

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春雨スープ・・・いえラーメンです

世の中には春雨スープなるものがいろいろあり、カロリーを多少気にする方々に人気のようです。ところが、これはスープではありません。春雨を食べるための、どちらかというと「ラーメン」に近い。

普通に丼一杯になるくらいの春雨がはいっていますよ。ちまちまとため込んで冷凍しておいた鶏皮で味を出して、豆板醤をてきとーに入れます。味覇(ウェイパァ)で味を調え長ネギ投入。最後にかいわれだいこんを乗せてできあがり。

いたって簡単ですけど、なかなかいけるのであります。

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2008年3月1日土曜日

話題のカップラーメン

コンビニのカップラーメン売り場でYahooの文字に目を奪われ、ついつい手に取ってしまいました。要するにマルちゃんの東洋水産とYahooがタイアップして新発売した、「本気盛(まじもり)」というシリーズなんですね。これをインターネットを利用して人気投票しようという、思わず両方食べ比べてみたくなるなかなかgoodな企画物なのです。

スペシャル・サイトを見てみると、開発の経緯が詳しくのっています。まず、どんなものがいいかというインターネット投票で「こってり」が選ばれ、続いてスープ投票で「豚骨と塩」が選ばれています。さらに具材の投票も行われ、その結果「鶏たっぷり濃厚塩味 with 鶏だんご」「ニンニク焦がし油濃厚豚骨味 with 王道博多系具材」の2種類が決まりマルちゃんが製作して発売ということのようです。

それにしても、企画の始まりから発売まで半年とかかっていないというのは驚きです。そんなものなんだ。実食してさらに3月なかばまでインターネットからチャンビオンを投票ということになっています。そんなわけで、自分はまんまと企画に引っかかって両方食べてしまうことになったわけでして、少しは味の批評をしないわけにはいきません。

では、まず豚骨から。焦がしニンニンク油というのは、つまりマー油のことでして、マー油と聞いただけで、すでに投票ボタンに指が触れてしまいそうです。味は・・・たいしたことはない。ふつーの豚骨系カップ麺の味です。確かに濃厚な感じですが、どちらかというととろみがついているようなまとわりつき感という方が正しいかも。麺は比較的太めで軽く縮れが入っています。具は王道というだけあって長ネギ、紅ショウガ、チャーシュー。ただ、カップ麺によくあるパターンで、それぞれが小さくて、あまり味がしません。

一方、塩味は鶏スープベースのようで、一般的な牛骨スープや、最近よくある和風魚だしスープとはちょっと違う。濃厚感は豚骨と一緒。麺も同じです。具材の鶏だんごは比較的大きくて、数があるので、けっこう味が感じられます。というわけで、本来なら豚骨の方が好きなんですが、今回は塩味に一票、ということで。さて皆さんのお好みはどちら?

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