医者になって3年目、前期研修医としてのいろいろな科のローテーションが終了し、整形外科にフィックスになりました。そうすると午後の一枠の外来を担当します。患者さんは天下の大学病院に受診しに来るわけですが、診るのは外来をするのは初めてに近い3年目です。
笑い事じゃありません。患者さんには申し訳ありませんが、こちらも必死です。患者さんをレントゲン検査に送り出した隙に教科書を調べます。それでも分からないときは、とにかく痛み止めのような薬を出して「また来週来てください」といってなんとかごまかします。
今はレントゲンなんて、ものの数分後には見れますけど、当時はまだ自動現像機もそう多くはなく、レントゲンを撮影して結果は来週なんてことも珍しくはありませんでした。のんびりした時代でしたね。
夜は夜で週に2回程度の当直があります。東海大学病院は神奈川県の西側半分で唯一の大学病院なので、鎌倉・藤沢付近から小田原、さらに伊豆半島の東側まで半径100km近くの守備範囲があります。
ここから来る救急車の数も半端ではありません。当時から救急車のホットラインは断ることは許されていませんでしたので、必ず見て何とか入院するベッドを見つけ、場合によっては翌日にでも転院させるためにあちこちに連絡をとるというのが日常茶飯事でした。
特に交通事故が多いので、たいてい一般外科と脳神経外科と整形外科が呼ばれ、3科で診察。腹部の外傷で緊急手術なんてことはよくあるわけで、そうすると後は整形外科でゆっくり治療していいよ、ってんで転院探しはこっちの仕事になってしまうのです。
交通事故では1カ所だけの骨折なんてめったにありません。外科がお腹を手術している横で、邪魔にならないように小さくなって骨折部を整復してギプスを当てたりしました。手術が必要な場合は、外科の後ですから、外科の手術が終わるのを待っているとたいてい徹夜になってしまいます。
整形外科で単独で手術をすることもありますけど、こういう場合麻酔科に行って緊急手術をさせて欲しいとお願いに行くわけです。準備の時間が2、30分できますので、この間に医局に戻ってひたすら解剖の教科書やら整形外科手術書を勉強します。
手術室から出ると朝焼けがまぶしくて・・・なんてことは普通のことで、そのまま通常業務に入ります。当直あけが休みとか、半休なんてことは考えたこともありませんでしたね。こんなことを3年目の医者と1年目の研修医でやってたんですから、ずいぶんと怖い物知らずでしたね。そのかわり、切羽詰まって必要な知識ですから、すべてが医者としての肥やしになったことは間違いありません。
週の行事としては教授回診とカンファレンスは重要です。とはいっても、「白い巨塔」のような怖い雰囲気はありませんけど。教授回診は朝8時から始まり、ほぼ全病棟に散らばっている患者さんを回るとたいてい10時くらいまでかかりました。途中で外来の者や手術があるものが抜けていきますので、最初は20人くらいいても最後は教授・助教授と道案内の研修医が一人なんてこともよくあります。
夕方からやるカンファレンスは新規入院症例、今週の手術症例、先週の手術症例などの紹介が主な内容ですが、夕飯抜きで早くても2時間はかかりますのでつらいもんがあります。学会が近づくと予演会といって、発表の予行練習が入りますので、いつ終わるかわかりません。
当時は今のように簡単にPCプレゼンテーションなんてありませんから、3週間前までに発表内容のスライドを仕上げて最初の予演会。いろいろ直しが入るので、作り直して2週間前に2度目の予演会。さらに作り直して本番というスケジュールでした。この予演会はかなり厳しくて、質問の雨あられでしたので、本番は本当に楽でしたね。
まぁ、昔の方が良かったとは言いませんが、こういう厳しい環境が無駄であったということはないし、自分が成長していく自信を形成していくことには大変役に立ったと思います。新しく医者になっていく若い方々にも、自分の中に医者としてのプライドをもってもらえることが大切だと思います。プライドを持てるようになれば、今の医療が抱えている問題の一部は解決が見えてくるのかもしれません。