さてさて、静岡から戻って後期研修医最後の年である5年目も箱根の病院へ出向です。ここは小田原厚木道路の終点で降りてすぐ、かまぼこで有名な鈴廣が近くにあります。国立病院なので身分は国家公務員です。
リハビリテーションを中心とした病院で、整形外科と神経内科の2科しかありません。ということは、整形外科で入院しているのは脊髄損傷の患者さんばかりです。そして、神経内科は筋ジストロフィや中枢神経の変性症などです。
つまり、脊髄損傷の患者さんは一生足が動かないか、あるいは手も動かないという人たちです。そして、神経内科の患者さんは、徐々に弱っていき必ず死が待っている人たちなのです。
当直の時は内科の患者さんのことで呼ばれることがありましたが、だいたい血を吐いたとか、意識がなくなったとか、心臓が止まったみたいなことばかりで、とにかく未来がありません。治療法はなく、何とかリハビリで少しでもがんばるしかないのです。
整形外科の患者さんはそれに比べると明るい。もちろん、一生手足が動かないということはショッキングなことですが、そのショックの時期を過ぎて前向きにリハビリをがんばるために入院してくるので、ほとんどの患者さんは精神的には立ち直っているのです。医者がすることはあまりありません。患者さんは自分で一生懸命リハビリをしているわけです。
さて、ここにはある意味不思議な患者さんが「住んで」いました。いわゆる傷痍軍人さんです。病院の敷地内ですが、普通の建物から5分間くらい歩いていった古い平屋の病棟に3人いました。だんだん亡くなって減ってきたそうです。
戦後ずっと入院しているわけですから、もう何十年もいることになります。奥さんも一緒にいます。病室の入り口には表札までついています。とにかく毎日散歩のように出かけていって、調子を伺います。この方々が亡くなるまではこの古い病棟は続くのだろうと思いましたが、あれから20年近く経っていますのでどうなったでしょうか。
そして最大の思い出は「猿」です。本物の猿なんです。裏山にたくさん生息していて、病院内の食べ物を狙ってしょっちゅう病院の建物に侵入してくるのです。一緒に出向していたのは3年目の後輩で、こいつがいわゆるミリタリー・マニアなんです。彼は空気銃を何丁か医局に持ち込んで、売店の商品を猿がかっさらっていったというと、追跡開始です。しばらくすると戻ってきて、「取り逃がしました」と報告があります。
実はこの時もう一人医局に不思議な方がいました。神経内科の先生なんですけど、ちょっと変わった感じの先生。数年後にある記事を雑誌に寄稿して、この記事が問題になって比較的名の知れた雑誌は廃刊に追い込まれたんですよね。
まぁ、それまで、医者になってからずーっと走り続けていたみたいな生活だったので、ゆっくりとした毎日は不思議な感じがしました。その分、教科書を読んだり、リハビリテーションや形成外科的な手技の勉強ができたのが良かったと思います。
1年間して終わりというときに古い病棟の看護師長さんに記念に折りたたみ傘をいただきました。少し伸ばしにくくなってはいますけど、今でもちゃんと使っています。