2008年3月27日木曜日

昔の研修医 part4

東海大学病院では2年間の各科ローテーションの前期研修医が終了した後、整形外科フィックスとなって今度は整形外科教室の医局人事で3年間の後期研修医になったわけです。3年目にはほとんど救命センターに入局しました状態で大学での生活をしたわけですが、4年目は遠く静岡県の病院に出向となりました。

静岡市と浜松市の中間、原子力発電所で有名な浜岡町の町立病院です。整形外科医長は東海大学医学部卒業1期生、つまり先輩。自分は7期生ですから、当時まだ11年目。30才そこそこの若さだったはず。でも、気っぷのいい人柄で、みんなから頼りにされ好かれていました。

もう何年も行っていないので、最近はどうなっているかわかりませんが、当時はほんとに原発以外にはなんにもない町でした。飛び降り自殺があったって、本人死ねません。一番高い建物が3階建てですから。駅が無いので、町の中心がはっきりしない。なんとなくこの辺かなぁ、という感じ。

医長先生が赴任した自分に、ご飯を食べれるところを教えてやるというので、毎日違う場所に案内してくれました。1週間たって、最初の店にまた行くというので、お気に入りなのかなぁと思ったら、「これでお店は全部まわった」とのこと。

ところがそれに比べて飲み屋が多いことにはびっくり。うろ覚えの数字ですけど、確か人口2万人にたいして飲み屋が200軒以上あったはず。これは原発で働いている人のためだそうです。でも、主立った飲み屋の前では定期的にパトカーが巡回して、出てきて車にのったところをがんがん捕まえていたそうです。

でも町の人々は大変温かく、よそ者の自分もすぐになじむことができました。この病院では、医者が少ないので救急的な実践的な医療が求められました。とはいっても4年目の医者にできることなんてたかがしれています。

膝の開放脱臼で、膝から大腿骨が10cmくらい飛び出ているなんていうのは、自分の守備範囲ですから何とかなりますが、明らかにくも膜下出血とか、血気胸なんて下手すりゃすぐに死ぬようなものには困りました。

首の痛みで来た患者さん、あまりに痛がるので入院させたら翌日から手足の麻痺が出始め、さらに呼吸で止まってしまいました。首の椎間板ヘルニアで、脊髄を圧迫したためだったんです。首に針を刺す(必殺仕事人状態です)超こわーい造営検査をやったりしました。

山道で見つかった変死体の検案をしたこともあります。まったく知らないところで死んだ人を見るのは、やはり気持ちのいいものではありません。毎週生まれたばかりの赤ちゃんの股関節の検診もありました。平均すると週に5人くらい生まれていたと思うので、5人×52週で260人くらい見たんでしょうか。

一度、大学から教授を呼ぶということになって、ホテルがないので自分の官舎にお泊めすることになりました。風呂は夜間に沸かしておくタイプで、200リットル一回分しかありません。先に教授に入ってもらいましたが、風呂から出てきた教授の一言は、「お湯は抜いておいたぞ」さらに教授はベランダに出て、手ぬぐいをバーンとはたくと手すりにかけました(ここは温泉じゃない)。朝食にはインスタントの味噌汁を出しました。「おー、味噌汁かぁ。旨い! うーん、旨いなぁ、これ。おかわり!!」って、用意がありませんよ。

まぁ、何をやっても知識や技術が貯まっていく時期なので、いろいろなことが経験できて楽しく過ごすことができました。残念なことが一つ。この時の医長だった先輩は数年前に肺ガンで亡くなりました。開業して4年、まだ50才前でした。今の自分くらいの状態ですかね。若すぎますよね。合掌。