季語を使う上で、季語が持つイメージが強烈な物もあります。この場合は、その季語を使った時点で、内容が固定化されてしまいやすく、句作りを難しくしてしまいます。
そのような季語は、一般に行事関連の物が多い。例えば、三月三日の桃の節句は「雛祭」という仲春の季語になります。厳格に言えば、その日一日だけの行事ということになりますが、この季語から傍題として、雛壇、雛人形、親王雛、内裏雛、五人囃子、三人官女などなどの関連するものはたいてい傍題となっている。
こうなると、もうほとんどイメージは固定化してしまいますので、なかなか想像が膨らまない。膨らまないということは、類想・類句になりやすいということです。
雛祭る都はづれや桃の月 与謝蕪村
歳時記に載っているので秀句なんでしょうけど、「雛祭」、「桃」、「月」という三重の季重なりですし、雛祭りよりも月の美しさにフォーカスが当たっているようなきがします・・・
もたれ合ひて倒れずにある雛かな 高濱虚子
これは、立派な何段もある雛壇にたくさんの人形が飾ってあるという光景でしょうか。もたれ合うほど人形があるんですね。
雛の前今誰もゐず坐り見る 星野立子
そのたくさんの雛を飾ってもらった立子さん。おそらく来客が多い家でしょうから、なかなかじっくりと眺めるチャンスがなかったんでしょう。
どこの家庭にもありそうな風物詩的な「雛祭」よりも、神社仏閣が中心になって行われる地域のお祭りとなると、より大々的で雰囲気はかなり固定されてしまいそうです。五月十五日、上賀茂神社・下賀茂神社の共同の例祭は、京都三大祭りの一つである「葵祭」という初夏の季語。一番の見所は、牛車を中央に絢爛な古式豊かな衣装を纏った人々の行列です。行列は葵の葉を飾り、人々は葵の花を身につけたようです。
白髪にかけてもそよぐ葵かな 小林一茶
しずしずと馬の脚掻や加茂祭 高濱虚子
うちゑみて葵祭の老勅使 阿波野青畝
おそらく、いずれも祭りの行列を見物しての句だと思いますが、それぞれ注目した先がいろいろというところが面白い。皆が同じ光景を思い浮かべやすいわけですから、全体的なところを俳句にしたら同じになってしまいます。細かいところですが、あまり他人が注目しなさそうなポイントを探すことが大事ということ。
正月は固定化された季語のオン・パレードですが、例えば「出初」もその一つ。消防出初式という消防隊の儀式で、東京では1月6日に行われます。現代ではほぼ梯子を登って曲芸的な動きを見せてくれる所だけが思い出されます。
他の紅は劣る真紅な出初式 山口誓子
出初式ありて湘南草の庵 高濱虚子
巨匠と呼ばれるこの二人の句も、正直あまり面白くはない(と思います)。誓子は真正面から出初式を見て、真っ赤な色の印象が強かったことを句にしました。虚子は、出初式そのものはあきらめて、静かな自分の家のことを詠んでいます。
結局、どれでも俳句を作るのは難しいということなんですけど、映像を強く持っている季語を使う場合は、真正面から立ち向かわず、できるだけ端っこの方を突いてネタを見つけたわぅが良いということですかね。