三島由紀夫。自分にとっては、1970年11月25日、市ヶ谷の自衛隊に籠城して割腹自殺を図ったことが、この人物を知ることになった最初。戦後の高度経済成長のピークを象徴した、大阪で開催された日本万国博覧会で盛り上がった日本人に冷水を浴びせかける事件だったと思います。
最初の出会いが衝撃的でしたが、その後、昭和を代表する小説家の一人であり、「仮面の告白」、「金閣寺」、「宴のあと」などの多くの後世に残る作品を発表しています。
三島は大正14年(1925年)、東京四谷に生まれました。華族出身の祖母の厳格なしつけの影響もあって、昭和6年、学習院初等科に入学。高等科に進学した際に、実は2級上に波多野爽波がいました。爽波の作った「木犀会」に参加した三島は、ここで俳句の指導を受けることになります。
実際、三島は俳句に深入りすることは無かったので、残された句も多くはありませんし、その内容も習作の域を出ない物が多いようですが、さすがに後に偉大な文学者・思想家となる人物ですから、一度は読んでみて損は無い。
ワイシャツは白くサイダー溢るゝ卓 三島由紀夫
真夏の喫茶店でしょうか、真っ白な開襟シャツを着て、炭酸の泡が溢れ出そうなサイダーとの取り合わせで暑さを表現しています。
三島由紀夫全集(新潮社、昭和51年)には、約40句が収載されています。
アキノヨニスゞムシナクヨリンリンリ 三島由紀夫 六歳
6歳の時の句があるというのは驚きですが、いかにもこどもらいし句。鈴虫が鳴くのは秋の夜と決まっているようなものなので、上句の5文字は不要。下句は「リンリン」では字足らずなので、「リ」一文字を追加したのかもしれませんが、かえって鳴き続けている感じが出て好印象です。
おとうとがお手手ひろげてもみぢかな 三島由紀夫 七歳
これもいかにもこどもの句。こどもの手を「もみぢ」と表現するのはありきたりで、大人がやると陳腐の誹りを免れません。
ふとレコード止みつ彫像の鋭き冷え 三島由紀夫 十五歳
さすがに高校生の年頃ですから、俳句の中身に奥行きが出てきました。レコードの音楽が止んで、静かになった居間でしょうか。部屋にある彫像の冷たさが急に思い出されたらしい。
三島は俳句に対する考え方をエッセイとして残していて、「問題は俳句の制作に当つて、いかにして、五七五の形式にむりやり押し込められたといふ緊迫感が得られるかといふことである・・・(中略)・・・俳人の心の中に、五七五といふ檻にふさはしい限界状況がひそんでゐなければならぬ筈である」と述べています。
角川の大歳時記では三島の命日は「三島忌」、「由紀夫忌」、あるいは「憂国忌」として季語にしています。文学者・思想家としての三島が、多くの俳人にも影響を与えたということでしょう。
三島忌の男美学の首飾り 井沢正江
少年の耳輪の揺れや憂国忌 黒川江美子
憂国忌美学の底に潜む修羅 丹治法男
副葬の口紅と刷毛憂国忌 江里昭彦
終わりに俳句ではありませんが、三島が自決する直前に詠んだ辞世の句を紹介します。
散るをいとう 世にも人にも
さきがけて散るこそ花と 吹く小夜嵐 三島由紀夫
益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに
幾とせ耐えし 今日の初霜 三島由紀夫