藤田湘子(しょうし)、本名、良久は大正15年(1926年)に小田原に生まれています。御幸の浜海水浴場の近くに生家はあります。中学は東京・芝公園近くの正則中学校に入学し、16歳の時に水原秋櫻子の「現代俳句論」に感化されて俳句を始め、17歳から「馬酔木」に入会します。
昭和20年、工学院大学に入学しましたが、徴兵され終戦を迎えます。鉄道省、後に国鉄に勤務し、昭和22年、「馬酔木」復刊記念大会で秋櫻子と初めて面会しました。
風音のやめば来てゐし落葉掻 湘子
記念大会の句。この句で初めて巻頭に選出され、昭和24年同人となりました。昭和30年に第一句集を刊行します。秋櫻子は序の中で、湘子の指導者として素質を指摘し、その理由として「立派な現役作者」であると評しています。
蝌蚪の水湧くがごとしや野かがやき 湘子
「蝌蚪(かと)」はおたまじゃくしのこと。晩春の季語となっていますが、カエルの種類によって一年中見られ多くは夏。ここでは、3月ともなって野原に緑が増えてきた様子ということ。第一句集の跋(あとがきのこと)は石田波郷によるもので、ムードを伝えることでは優れているが、形象が弱いことが弱点であると指摘し、年齢と共に成熟することを期待するとしています。
昭和32年、「馬酔木」の編集長となり秋櫻子を支えます。昭和39年、秋櫻子の了解を得て、衛星誌として「鷹」を創刊し代表同人となりますが、しだいに秋櫻子との関係が悪化してしまいます。湘子は「馬酔木」同人を辞退し、「鷹」を主宰することになりました。
暮れてきし血の冷たさに花林檎 湘子
音もなく紅き蟹棲む女医個室 湘子
波郷の指摘の通りで、ムードは満点なんですが、正直に言うと何を言いたいんだかわからない。物事の例え方が独特で、説明をしてもらわないと理解しずらい句です。また、説明してもらっても、だれもが納得するのか疑問が残りそう。
とは言え、「鷹」一筋となった湘子は、現代俳句協会でも実績を重ね、日本の高度経済成長期の俳壇を牽引する句作、評論、教育に活躍しました。著書としては昭和60年の「実作俳句入門」、昭和63年の「20週俳句入門」は、作句指南書として現在も多くの支持を集めており、再販が続いています。
羽抜鶏見て奥の間の磔刑図 湘子
枯山に鳥突きあたる夢の後 湘子
年を重ねて、ややわかりやすくなったような感じの句。何となく雰囲気を伝えるというところから、鋭角的に切れ込んでくる表現方法が強くなったように思います。昭和58年から丸3年間は、毎日一日十句を作り、「鷹」にすべてを発表しています。
けむり吐くやうな口なり桜鯛 湘子
年号が平成となった元年の句。春に捕れる鯛は、桜鯛と呼ばれ赤色が強く美味とされています。パカっと開いた口から火を噴きそうということ。やや前衛的ともいえる表現から、伝統的な写生を基にした表現に変わってきたようです。
平成17年、終の棲家となった横浜市青葉区の自宅にて死去、79歳でした。