波多野爽波(はたのそうは)、本名、波多野敬栄は、大正12年(1923年)に東京に生まれ、戦後の「ホトトギス」を牽引した俳人の一人。
学習院に初等科から入学し、中等科、高等科と進学しています。この間に体調をくずし療養している時に「ホトトギス」を読むようになり、昭和15年から投句を始め、星野立子の「玉藻」例会にも参加するようになりました。
学習院高等科で俳句仲間を増やし、昭和17年、京都大学入学。翌年、召集され中国の戦線で実戦を経験し、陸軍少尉として終戦を迎えます。帰国すると。すぐ「ホトトギス」、「玉藻」の再建に尽力し、1949年、最年少の「ホトトギス」同人になりました。
昭和28年、主宰誌「青」を創刊。その後、いろいろな俳句誌の垣根を超えた活動を通して、戦後俳壇の中心となっています。平成3年没、68歳でした。
チューリップ花びら外れかけてをり 爽波
爽波の有名な句の一つ。植物を題材にする時、特に花が咲く場合は、その盛りの美しさに目が行きがちです。しかし、ここでは花が開き切ってまさに花弁が落ちようとしている寸前を切り取ったところが新鮮です。
実は、高濱虚子によって爽波の「青」はチューリップに例えられたことがあり、ある意味、チューリップは爽波自身を表す花であり、「ホトトギス」との関係が暗に詠まれていると考えられています。また、この句が作られたのは平成2年で、病弱の爽波の自身の健康に対する不安も垣間見られます。
葭切や水を飛ぶとき茶色の羽 爽波
葭切は、大きな鳴き声が特徴の夏の水辺に見られる鳥。鳴き声で葭切の存在に気付いて、水辺を見ると、ちょうど飛び立った葭切の茶色の色だけが目に焼き付いたということでしょう。
一瞬の自然界の光景を客観写生する、発想力・描写力は、まさに虚子の直弟子として「ホトトギス」によって培われたものであることは間違いありません。ただ漠然としたムードよりも、写真で切り取るような現実に注目しているところが都会的かもしれません。
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 爽波
これも面白い。鳥の巣に入っていく寸前の鳥の描写です。動きが完結するところではなく、そのちょっと前か後を俳句にすることが特徴としてありそうです。完結していないことで、その後の小さなドラマをいろいろと想像できるのが楽しい。
朝に踏まれ寒星の下かへる靴 爽波
社会人としての爽波は銀行員でした。通勤地獄とも呼ばれる、仕事の行き来のラッシュを嫌と言うほど経験したのでしょう。朝はぎゅうぎゅう詰めの電車で靴を踏まれることは、まさに日常のこと。冬の帰り道、仕事に疲れて星空の下を帰る時は靴は踏まれることは無く、平穏を取り戻すのです。
冬空や猫塀づたひどこへもゆける 爽波
猫がするすると家の間を駆け抜けたかと思うと、ひょいと塀に飛びつき消えていく一瞬を目撃した作者は、その自由な動きが羨ましたかったのかもしれません。サラリーマンとしての不自由さみたいなものが、「冬空」という季語に凝縮しているように思います。
爽波の俳句実践は、自ら「俳句スポーツ説」として述べています。俳句は理論より実行。スポーツのように練習を繰り返すことが重要で、ものに即して反射的に対応し写生するための「体力づくり」が必要ということ。ですから、爽波は多作多捨を信条としていました。実はこのような考え方は、しばしば「俳句は筋トレ」と言う夏井いつき先生にも通じるところで、夏井先生も一つの季語で百句のような荒行を推奨しています。