飯島晴子は、大正10年(1921年)、京都に生まれ京都の高等女学校を卒業。戦後に、東京で田中千代服装学院で学び、服飾関係の仕事に就きます。昭和34年、夫の代理で「馬酔木」句会に出席したのをきっかけに俳句を作りだした遅咲きの俳人です。
昭和39年、藤田湘子が「鷹」を創刊すると、晴子も「鷹」に移動して初めから湘子を補佐します。「鷹」の代表俳人として活躍しますが、指導することが好きで得意だった湘子と違い、孤高を愛し、吟行も「大勢でがやがやして句作できるはずがない」と考えていたようです。
句会では立場上、参加者の指導を行わなければならない状況がありましたが、もしかしたら晴子にとっては忍耐を強いられる苦行のようなものだったのかもしれません。句柄は、写生を基本とするも、情に流されることが無く明晰な分析に基づく緊張感を持ったものと言われています。
泉の底に一本の匙夏了る 晴子
夏の屋外での食事などの後に、たまたま使い捨てのスプーンが泉の底に落ちて揺らめいているのを発見したのでしょうか。夏の行楽が終わったことを実感した瞬間なのかもしれません。
これ着ると梟が啼くめくら縞 晴子
「めくら縞」は紺色の無地の布のことで、比較的年配の方が着る着物に多い。めくら縞を着るということは、自分が年を取ったということなのか、あるいは落ち着いて見られたい気持ちなのか、知恵者と言われるフクロウは「よく似合う年になった」と啼くのか、あるいは「まだまだ早いよ」と啼いているのか・・・
この二句だけでも、他の女流俳人とはどこかが違う印象を持ちます。定番の「切れ字」を使わないことで、変に余韻を残さず言い切るところが緊張感の所以なのかもしれません。
さるすべりしろばなちらす夢違ひ 晴子
百日紅と言えば、普通は花色は赤。白い百日紅の花があたり一面に散っている幻想的な様子を平仮名で書ききって、下句では漢字で強い印象を与えるところが鋭い。「夢違い」は、良くない夢が正夢にならないように祈ること。
百合鷗少年をさし出しにゆく 晴子
百合鷗(ユリカモメ)は、カモメの仲間ですが雑食性で、しばしば人の食べ物も口にします。「少年が」ではなく「少年を」としたのはどういう意味なんでしょうか。主語は百合鷗になっています。少年が手に持っていた食べ物めがけて襲って来るところなんでしょうか。
茶の花に押し付けてあるオートバイ 晴子
茶の花は椿に似た小ぶりの白い花ですが、そこに無造作に置かれたオートバイとの取り合わせが、大袈裟に言えば文明による環境破壊のような高度経済成長期の日本の縮図を見た思いなのかもしれまぜん。
恋ともちがふ紅葉の岸をともにして 晴子
男性の誰かと見事な紅葉に彩られた川岸とかを歩いている様子。「恋とも違う」という否定的な表現は、「恋なのかしら」と感じたからこそ出てくる気持ちなので、表ではなく裏を見せられているような感じです。
豆ごときでは出て行かぬ鬱の鬼 晴子
節分です。普通なら「鬼は外」と楽し気に豆まきをするところのはずですが、晴子の鬼は出て行かない。晴子は次第に老人性うつ病に悩まされることになったのです。平成12年、79歳の晴子は自ら人生に幕を下ろしたのでした。