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2018年2月28日水曜日

古代終焉 (6) 荘園制度の確立


日本史の時代区分では、旧石器時代、縄文時代、弥生時代、ヤマト王権が台頭する古墳時代、そして国家として確立する飛鳥時代までが古事記や日本書紀の範囲であり、史料も少なく考古学と合わせて考証する必要があります。実質的に古代と呼べるのはこの辺りまでとするのが妥当に思いますが、さらに奈良時代と平安時代半ばまでが古代の範疇に入っているのは、古代の次の中世が荘園制度を基盤とする社会と定義されているからです。ですから、そもそも荘園とはどんなものか理解しておかないと、古代の終点、中世の始まりがはっきりしません。


荘園は、時の政権の公的支配を受けない私的所有・経営の土地のことで、特にヨーロッパではいろいろな権限が領主に集中していました。中国、朝鮮でも荘園制度があり、それぞれの国情による差はあるものの、同じ頃に同じような制度が存在したことはなかなか面白い。

日本での荘園制度については、当然話は古代に遡らないといけません。弥生時代に入って農耕文化が根付いてくると、生産のコントロールが始まり、貧富の差が生じます。その中心人物が「王」として、小さな「国」があちこちに多数形成され始めました。彼らは後に「豪族」と呼ばれ、民衆を直接に支配していくわけですが、その中の一つが次第に勢力を拡大しヤマト王権となり、小国を統合支配していきます。

7世紀半ばの孝徳天皇の時代、実質的に政治運営を行った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともに、大化の改新と呼ばれる一連の政策を続けざまに行いました。この時に、戸籍・計帳・班田収授法をつくれというのがあり、豪族による民衆・土地の直接支配を否定し、初めて国家が管理運営する制度を発足させたことになります。

しかし、奈良時代に入り、人口の増加、田畑地不足から次第に班田収授法は次第に運用が難しくなっていきました。723年に開墾推進のため三世一身法が発布され、期限開墾した農地は三代まで私有が認めらましたが、期限付きなので実効性はありませんでした。743年には、期限を撤廃した墾田永年私財法を発布し、力を持った貴族・大寺社・地方の富豪が積極的な開墾を行い、実質的な私有地を持ち初期荘園と呼ばれるようになります。

10世紀になり、班田収授は実質的には行われなくなり、初期荘園の監督は地方行政に任せられるようになります。地方行政長官の役割を担う国司は、力を持つようになり、初期荘園の納税義務を免除したり、逆に一定の徴税を確保するために土地を取り上げたりするようになります。

11世紀には、中央の有力者へ土地を寄進する荘園が増え有力者への土地集中が起こると、租税免除、官吏の立ち入りを拒否する権利なども発生し、国家所有地と私有地の割合は半々になります。1069年に後三条天皇により荘園整理令が出され、厳密な審査が行われ、違法な手続きによる土地所有を摘発しましたが、一方で公的に認められる荘園制度を確立することにつながります。