2018年2月11日日曜日

記紀から知る建国の日


現在の日本国は、第二次世界大戦後の新憲法で「天皇は国民の象徴」とし天皇の政治的決定権はありません。それ以前となると、鎌倉時代から江戸時代までは実質的に武家に支配権を牛耳られたとはいえ、天皇を頂点とする王政国家でした。

統一国家の形は、飛鳥時代から奈良時代における律令制度の確立により形成されたわけです。その兆しといえるのは推古天皇の時代、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子が皇太子となって政権実務を任された7世紀初頭と考えられています。

古事記には、いつのことなのか確認できる細かい年月の記載はありませんが、正規の国史として編纂された日本書紀には、十干十二支や元号による記述があります。これらを中国・朝鮮の史料と対照させることなどにより、現在一般的な西暦に当てはめることが可能です。

ですから、少なくとも「天皇制」という形式のもとで国家として成立して約1400年の歴史があるということができます。ただし、「大王(おおきみ)」から「天皇」という呼称を用いるようになり、対外的に「倭国」から「日本」という国名を使い律令制を導入したのは天武天皇で、その志を継いで完成に導いたのは持統天皇です。となると、国家としてはおおよそ一世紀減って約1300年というのは、厳格に考えて間違いないところです。

「万世一系」の天皇による支配が始まったことを、国のスタートとするならば、日本書紀の記録上は、当然初代天皇とされる神武天皇(神日本磐余彦、かんやまといわれひこ)にまで遡らねばなりません。九州から東征して「辛酉の歳(神武天皇元年)の正月、52歳を迎えた磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称した」と記述されています。

神武天皇の実在性については不問にして、辛酉の年がいつなのかということが問題になるわけです。60年周期の十干十二支では、辛酉は58番目の年で、一番最近では1981年です。日本書紀に記載された項目を素直に当てはめていくと、最も近いのは紀元前660年が辛酉の年にあたります。明治時代に、この年を国の始まりとして「皇紀元年」と定めたわけで、例えば2018年は皇紀2678年と云うことができる。

そこで、辛酉の年660年1月1日を現在の暦に換算すると、西暦紀元前2月11日が神武天皇が即位した日であり、天皇制が始まった記念日と考えるようになりました。現在では、2月11日を「建国記念の日」とし、国民の祝日としています。

ただ、それを素直に受け入れるのは現実的には無理があります。日本書紀の記述には、天皇支配の正当性を担保するため、多くの歴史的事実の改ざんや創作が含まれていることは間違いありません。初期の天皇の生物学的に不可能といえる異常な長寿を含めて、多くの天皇の実在に関して疑問が持たれています。

そこには神代の「神話」からシームレスに話をつなぐために、意図的に時間の引き延ばしがされたと考えるのが妥当です。「邪馬台国」と中国から呼ばれた国が存在したのは3世紀のことで、女王である「卑弥呼」が亡くなったのは西暦247年か248年です。日本書紀では、神功皇后が卑弥呼であることを強く示唆する記述があり、神武天皇とそれに続く欠史八代と呼ばれる天皇が創作であるなら、崇神天皇あたりから実在するとして、現実的な時間の流れは1世紀あたりで、紀元前60年、西暦1年、61年が辛酉の年になります。

いずれにしても、信頼できる確実なデータは無いので、根拠にする話そのものの信憑性がはっきりしないわけですから、全面的に受け入れていくか、逆に全てを疑って考えるかしかありません。

また、皇統の継続性で言うと、問題になるのは継体天皇の存在です。皇子がいないうちに第25代の武烈天皇が亡くなった時、事実上皇統は途切れたという考え方があります。現在の民法上は、親族というのは6親等までという規定があるようです。ただ、現実的には、普通に親戚と呼んでいるのは4か5親等くらいまでではないでしょうか。

じゃあ、武烈天皇と継体天皇との間の系図はどうなっているかというと、二人それぞれの高祖父(ひいじいさんの父)が異母兄弟というもので、あえて言うなら10親等となるんでしょうか。元を辿っていけば「人類皆兄弟」ですが、さすがにこれで「万世一系」の主張にはかなり無理があるというものです。王朝で考えると継体天皇の即位、つまり6世紀初めから約1500年続いているということになります。

つまり日本国は、最長で約2700年、最短で約1300年続いている国だということで、いずれにしてもギネス記録であることには変わりないようです。何月何日であっても、一年に一度くらいは自分の国の歴史、風土、文化などを少しだけでも考えることは悪いことではありません。