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2018年2月25日日曜日
古代終焉 (4) 最澄と空海
多くの日本人が「自分は無宗教」だと思っているそうですが、現実には神道や仏教は生活の中の基本的な思想を作り上げるのに大きく関与していることは否定できません。そもそも、大多数の人は「初詣」に行って神に、そして墓参りをして仏・先祖に手を合わせています。
まずは、日本の仏教の歴史をごくごく簡単におさらいしましょう。
仏教は、釈迦によって紀元前450年頃のインドで始まり、中国・朝鮮を経由して渡来した人々により日本に伝わりました。本当の最初がいつだったかは、当然不明。公式には、6世紀なかばの欽明天皇の時代に、百済の聖明王から仏像・経典が送られてきたのが始まりとされます。
神事に携わる役目についていた豪族(物部氏、中臣氏)は新興の宗教に対しては否定的な立場であり、一方蘇我氏は積極的に受容を推進し、しばらくは皇位継承とも絡んで両者のせめぎあいが続きます。しかし、推古天皇の時代になって、厩戸皇子、蘇我馬子ら崇仏派が圧倒的な力を持ち、ついに朝廷内での優位が明確化しました。
8世紀になって、聖武天皇は、仏教の拡大を積極的に進めました。全国に広めるため、全国に国分寺・国分尼寺を創設し、また東大寺大仏造営を行いました。急速な拡大は、僧不足という問題を引き起こし、なんちゃって僧が増えてしまいます。そこで、中国から鑑真を招き戒律の教えを受け、僧になるための制度を整えます。
仏教の力が拡大するにつれ、朝廷に対しても物事を左右する力を持ち出し、鑑真死去後に代わって登場した道鏡は孝謙上皇を操り自ら「天皇」になろうとまでしました。桓武天皇は、反対勢力をそぎ落とす目的で遷都を行った際、仏教の肥大化した力も良しとせず、既存の寺院の新都への移転を認めませんでした。長岡を経て平安京で、新たな寺院を建立し、いよいよ国民全体への仏教普及が本格化する平安時代になりました。
さて、ここで登場するのが、現在でも仏教界のスーパースターとして尊敬され続けている二人の僧、比叡山を本拠に日本の天台宗の開祖である最澄、そして高野山を本拠に真言密教の開祖である空海です。
二人は同時代人であり、同じ時の遣唐使船に乗り中国で修業を行い、帰国後にそれぞれが仏教の普及に尽力し、そして対立もしたことで対比されて論じられる機会が多い。
766年、最澄は近江で比較的裕福な家の子として生まれました。この年は道鏡が法王になり、全盛を迎えた年です。12歳で出家し、14歳で得度し僧侶となりました。19歳で東大寺で受戒し、朝廷が認める正式な僧になります。これで平城京での地位が約束されたにもかかわらず、その数か月後には比叡山に入りました。
人を導くためには、六根清浄(目・耳・鼻・舌・身・意が清らかなこと)の達成、仏法真理の解明、戒律を守り執着を絶つ必要があり、その修業のための入山であり、その結果得た功徳を広く世の人々に施すことを自ら書き記しています。当時の制度化した僧侶制度のもとで、僧になることだけが目的になっていて、世俗化した官僚的な僧が多かったことに対する反発があったことは間違いありません。
霊山に籠り寝食を惜しんで修業を行う最澄は、先達と仰がれ少しずつ仲間が増えていきました。また、いろいろな仏典を集め研究しているうちに、もともと鑑真が持ち込んだとされる天台宗に出会い自分の進むべき道を見出しました。
794年、桓武天皇が平安遷都を行うと、比叡山のことは天皇の知るところとなり、797年に天皇の身辺の諸事のために尽くす10人の内供禅師(ないぐぜんじ)の一人に任じられました。理想だけでは志を実現できないことも理解していた最澄にとっては、天台宗を広めるための絶好の機会を得たということです。定期的な勉強会を開催し、従来の宗派の僧侶たちへも講義を行い、ついに桓武天皇より許されて804年に遣唐使船に乗り込むことができました。
中国で天台宗本山で勉強した最澄は、1年に満たない期間でしたが、修業を認められ、密教と禅の戒律も学び翌年に帰国しました。翌年には、従来の各宗派の分担を改革することに成功しますが、この年、最大の庇護者であった桓武天皇が亡くなりました。
一方、空海は774年に香川に生まれ、幼少から読み書きに秀でており、15歳で都(長岡京)に出て官吏になる勉強を始めます。しかし、ある僧(誰かは不明)との出会いから密教に傾倒し、19歳で大学を辞め、公的制度とは関係ない私度僧として畿内や四国での山岳修行を始めます。何らかの開眼をした空海は、24歳の時に初めての仏教についての書物を著します。その後「空白の7年間」と呼ばれる時期がありますが、おそらく平城旧京であらゆる仏教経典を勉強し、804年、30歳で東大寺で受戒、正式な僧侶になりました。
空海は僧侶になりたてでまったくの若僧であり、理由は謎とされていますが、最澄と同じ遣唐使船団の船に乗ることができました。遣唐使として政府からの公式派遣だった最澄と違い、空海は基本的に私費留学でした。空海の乗った船は、やっとのことで唐に着きますが、長安の都についたのは日本を出て半年後のことでした。
空海は中国密教を確立した恵果の下で学び、異例の速さでその極意を伝授されました。そして806年に、今まで日本には伝わっていなかった大量の経典などとともに帰国すると、809年に平安京に入り、密教の伝道者として急速に頭角を現したのですが、これは「薬子の変」で天皇側について唐風文化を好んだ嵯峨天皇の信認を得たことが大きいようです。
密教についても唐で学んだ最澄は、台頭してきた密教スペシャリストの空海に対して身を低くして教えを乞いました。空海から借りた書物を勉強し、法の伝授の儀式を受けています。
しかし、実は根本的な部分で二人の密教の解釈は異なっていました。最澄は、いろいろな考え方を取り込み最も優れた仏教である天台宗へ統合していくことが目的で、密教も無視できない含有されるものの一つと考えていました。しかし、空海は、密教は通常の大乗仏教と一線を画すより優れた仏法であると考えていたことが決定的な差になっています。
最澄は、そもそものスタートから「万人が仏性を宿した尊い存在で仏になれる」とし「法華経」が真理の教えとしています。空海は、密教以外は言葉で説いた釈迦の教えであり、密教は仏の悟りであり言葉にできないものであり、何かと経典を借りて読みたがる最澄の姿勢に対しては疑問を持っていたようです。最終的には経典を貸すことを止めたことで、最澄との関係に亀裂が入りました。そして、密教を学ばせるために空海の元に派遣した最澄の弟子が、再三の要請に応ぜず空海の弟子になりきってしまったことで、完全に決裂したようです。
最澄は、それまで3か所しかなかった戒壇院(正式な僧侶になるための受戒をする場所)を4か所目として比叡山に作るように働きかけを始めました。しかも、出家・得度の過程が無くても仏の道に進みたいと思う誰にでも受戒をできるようにするというものでした。しかし、その許可が下りる直前の822年に56歳の生涯を終えます。
空海はその後に、平安京の東寺、平城京の東大寺に修行道場を開設し、高野山に念願の本拠地造営に着手します。人間は死後に仏になるという通常の仏教の教えと異なり、空海は生きた身のまま修行により仏になれる(即身成仏)と説き、835年、自ら一切の食事をとらず永遠の禅定に入り(入定)、約2か月後に62歳で亡くなりました。弘法大師の諡号は、921年に醍醐天皇より送られたものです。