第2次世界大戦のもとで、ノルマンディ上陸作戦の後、一人の二等兵を探し出し帰国させるという任務を帯びた小隊が多くの命の犠牲を払う話は、普通に日本人が見ると理解に苦しむ。
この映画の理解には、ソウル・サバイバー・ポリシーという言葉を知る必要があります。アメリカで実際に法制化されたのは戦後の1948年のことですが、実際に戦争が始まると急速にこの考え方が普及していきました。
南北戦争の時にリンカーンもこの事を強く憂慮していたことで、戦争によって兄弟が全員戦死してしまうと、その家は断絶してしまう、それを防ぐために、生き残っているこどもがいれば軍務を免除して帰国させるというものです。
今も軍隊があり徴兵制度がひかれているアメリカでは、この映画の当時では常識的な考えになっていたと思いますので、この映画についてテーマに違和感を覚えるアメリカ人はいないのだろうと思います。
スピルバーグは、ノルマンディ上陸作戦に参加していたナイランド兄弟の実例をヒントにして今回の映画を組み立てました。準備のために長い時間が費やされたにもかかわらず、実際の撮影が始まると、何とわすが2カ月で撮り終えています。
2時間48分の映画の冒約30分近くを使って描かれる上陸作戦の戦闘シーンは、見るもの全てを戦争の恐怖・残酷の中に導きます。今まであったどの戦争映画の戦闘シーンも、これに比べればこどもの学芸会です。
上陸艇のハッチが開いた途端に、たくさんの兵士が銃撃で倒れ込む。中にはヘルメットを銃弾が貫通し、海中にも弾が飛び込んできて命を落とす。やっと上陸できても、迫撃砲によって、体の一部が吹っ飛ぶ。海面は血によって赤く染まり、そこらじゅうに屍が横たわる様は凄過ぎる。
この中に中隊を率いるミラー大尉(トム・ハンクス)がいました。ミラーでさえ、恐怖を感じ手が震えてしまうのです。やっと後続部隊の進入路を確保して一息ついたときに、ミラーに新たな命令が下ります。
「ライアン二等兵を探し出し、無事に帰国させろ」
ライアンの3人の兄が、前後して戦死したことが判明し、マーシャル陸軍参謀総長からの指令でした。ミラーは、7名の部下を引き連れて、パラシュートで降下した後に行方不明になっているライアンの捜索に向かいます。
しかし、途中でドイツ軍と遭遇して二人の部下を失う。休息している時、ミラーは「一人部下を失うと、それはその10倍の兵士を助けるためだったと考えるようにしている」と語り、「ライアンに20人分の命の価値があることを願う」として先に進むのです。
重要な橋を死守していた生き残り部隊の中に、ついに目的のライアン(マット・ディモン)を見つけ出しました。しかし、ライアンはここで戦うことを続けることが家族のためだと言ってその場を去ることを拒否します。
ミラーは、しかたがなく一緒に橋を死守する目的を達成した上で、ライアンを連れ帰ることにします。しかし、ドイツ軍は多くの戦車や重火器を装備して攻撃してきたため、仲間は次々と倒れ、ついにミラーも敵に銃撃されてしまいました。
ぎりぎりのところで応援部隊と航空支援により、ドイツ軍は壊滅しましたが、ミラーはライアンに「無駄にするな・・・しっかり生きろ」と語り息を引き取ります。
それから何十年もたって、ライアンが家族を連れノルマンディー米軍英霊墓地を訪れます。ミラーの墓標の前で、ライアンは同じく年老いた妻にも「私はいい人生を送っただろうか? 私はいい人間だったかな?」と問いかけます。
スピルバーグは、第2次世界大戦にまつわる映画としては、「1941」でその愚かさを茶化し、「太陽の帝国」で民間人も多くの犠牲を払った事を思い出しました。「シンドラーのリスト」では、その狂気が人を人として見れなくなる怖さを描き、そして今作ではついに正面切って戦闘の意味を深く問いかけてきました。
老ライアンのシーンは、感傷的すぎるという評価はしばしば見受けられます。実際、これがスピルバーグらしさであるんですが、一定の結論を観客に押し付けるというのはあながち間違った批判ではない。
しかし、ライアンは何十人もの命の価値を見出せるだけの、それは特別な人類に貢献するような大発明でなくても、充実した人生を送ることが期待されていたわけですから、ミラーが死んで終わりではなく、それを感じ取れる最後のシーンがあることはスピルバーグの重要なメッセージと感じました。
トム・ハンクスはこの映画の後、たびたび重要な俳優としてスピルバーグ作品に登場することになります。ハンクスの軍人としての務めを尊重しつつも、人間味も忘れない演技によっても、さらに映画の格が上がりました。
スピルバーグが、このような社会派の人間ドラマを作ることに、誰も異論をはさむことは無くなり、むしろ期待するようになったと言えるのかもしれません。