2020年12月24日木曜日

A.I. (2001)

21世紀最初のスティーブン・スピルバーグの作品は、新時代に相応しく、人工知能(artificial intelligence、AI)をテーマにしたものでした。

実はこのストーリーの基本構想は、巨匠スタンリー・キューブリックが用意した物。この内容はスピルバーグが監督することを望んだキューブリックは、80年代からスピルバーグと連絡を取り合って映画の実現に向けての動きが始まっていました。

1999年にキューブリックが亡くなり一度立ち消えそうになりましたが、遺族の強い希望によりついに映画化が実現したもので、スピルバーグが自ら脚本に参加し、キューブリックの原案をできるだけ尊重してまとめ上げたと言われています。

スピルバーグの映画では、父子の関係が表にも裏にも表現されていることが多く、前作「プライベート・ライアン」でも戦争に参加した父親に捧げるとしていました。しかし、今回のテーマは母と子の愛で、スピルバーグにしては珍しい。

確かにキューブリックが自らこの映画を作っていると、ハードエッジで母子の愛を硬質な物にしてしまい、キューブリック的なものとは合致しなかったかもしれません。確かに、スピルバーグ向きですし、娯楽性も兼ね備えたSF作品でのヒューマン・ドラマは得意なジャンルと言えます。

物語は19世紀末の児童文学「ピノキオ」をベースにしていることは明らかです。ジェッペットじいさんが、話をする丸太から木の人形を彫り、ピノキオと名付けました。ピノキオは楽しそうなことばかりに目が行って、危ない目にばかり遭う。巨大なサメに飲み込まれマグロに助けてもらって心を入れ替え、夢に現れた妖精によって本当の人間になるという話。

この映画の舞台は、地球温暖化により海面が上昇して、地球上の多くの都市が水没した150年くらい未来で、生活の中には高度な人工知能を備えた人間型ロボットが不可欠になっていました。人口を増やさないため妊娠は許可制となり、厳しくコントロールされているという設定です。

こどもがいない夫婦のために、少年型ロボットが開発され、しかも親に対して愛情を抱くように設計されました。そのディビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)と呼ばれる試作機が、事故で意識が無く回復の見込みのないこどもを持つヘンリー(サム・ロバーズ)とモニカ(フランセス・オコナー)の夫婦に与えられます。

最初は所詮機械だと戸惑う母親は、しだいに興味を持ち、ついに自分を母親と認識するプログラムをインプットしてしまうのです。母親と認めてくれる「こども」を手に入れたことで幸せな日々が戻ってきたのも束の間、回復しないと言われていた本当のこどもが意識を取り戻し帰宅してきました。

不要になった場合は、破壊処分と決まっていたのですが、モニカは自分を母親と慕うディビッドを「殺す」ことはできず遠い森の中で置き去りにするのです。ディビッドは、以前モニカが読んでくれた「ピノキオ」の話に出てくる「青い妖精」に本当の人間にしてもらいモニカと再会するため、いろいろな危険な目に遭いながら、ついに水没したマンハッタンで本当の生みの親ホビー教授のもとにたどり着きます。

ディビッドは教授が青い妖精ではないことに落胆し、海の底に落下していきます。そこにはコニーアイランドの遊園地の残骸があり、その中のピノキオのアトラクションの中に青い妖精を見つけたディビッドはエネルギーが無くなるまで、本当の人間になりたいと願い続けるのでした。

ここで終わりでも映画は成立しそうですが、恒例となったしばしば批判されるスピルバーグ映画のエピローグがあります。実際は、原案にもあるもので、キューブリックの意向を反映したもの。

地球は氷河期に入り2000年が経過しました。人類は滅亡しており、高度に発達した人工知能、スペシャリストだけが「生命体」として存在しているのです。彼らは氷の中からディビッドを発見し、人類を直接見た最後のロボットとして再起動します。

彼らは、ディビッドがたまたま持っていたモニカの髪の毛から、モニカのクローンを作りますが、一度意識を失うとクローンは二度と生き返らないとディビッドに説明します。それでも、やっと母親に会えたディビッドは、最高に幸せな1日を過ごし、夜になり二人は二度と覚めない眠りにつくのでした。

最大の見どころは、ディビッドを演じた、当時12歳だったハーレイ・ジョエル・オスメントの無機質なロボットから、愛情を持つよう変化していく演技。「フォレスト・ガンプ(1994)」でデヴューし、「シックス・センス(1999)」でも、その演技は絶賛された子役です。ただし、残念ながら彼自身はいろいろとトラブルを抱える大人に成長してしまったようです。

ピノキオは人間になって立派な大人になっていくのでしょうけど、ディビッドは人間になれたわけではなく、母親に会いたいという望みを叶え、その思い出と伴に消滅する。スペシャリストも機械を有機体にすることは不可能でしょうし、仮にできたとしても人類が存在しない未来では成長する意味もありません。

しかし、ピノキオのような結末は夢物語ですが、ディビッドには「現実的」な結末を用意することで、母親に対する深い愛情の永続性を肯定的に表現することができるわけで、願いが叶わないところで終わっていたら、ただの感情表現ができるロボットの話。

ロボットのSF哲学映画という一面を強調したアメリカでは、あまり評判は芳しくなかったようですが、日本での母子の愛情を中心にキャンペーンが行われ、かなりの興行収入を生み出しています。