2010年1月28日木曜日

マイルス・デイビス

ジャズという音楽は、もともと奴隷としてアメリカ大陸に渡った黒人の間で歌われていた歌が起源。日本人には想像もつかないような差別を受け、教会で発展したのがゴスペル。一方、広大な綿畑やトウモロコシ畑で働かされ、フィールドで発展したのがブルース。

南部のニューオリンズで、それらが楽器で演奏する形態として完成したのがディキシーランド。その娯楽性がダンスに向いていたのてを、うまく取り入れたのがスイング。これは白人が主にクラシックなどの理論も取り込みながら、グレン・ミラーやべにー・グッドマンのようなスターを生み出しました。

精錬されスマートになった音楽から、黒人はあらためて感情の発露を見いだしたのが終戦後のビバップの誕生で、その偉大な牽引役となったのがチャーリー・パーカーでした。ブルースを基盤にして、アドリブによる気持ちの高ぶりを表現する手法で、ジャスを黒人の元に取り戻しました。

マイルス・デイビスはそんな時代に登場してきたわけで、チャーリー・パーカーと共にビバップを推進しましたが、あるときただひたすら自由奔放に演奏することに疑問を抱くことになります。

40年代の末に、いわゆるビバップに対抗してクールと呼ばれる、しっかりと編曲し形のしっかりとした形式のジャズを始めました。これが、白人には受け入れやすかったのか、カリフォルニアを中心にウェストコーストジャズとして、主として白人演奏家を中心に発展しました。

50年代に入ると、マイルスは自由が無くなった音楽にはすぐに見切りを付け、あらためてエネルギッシュにアドリブを展開し、より自由に激しく演奏するハードバップに移ってしまいます。

マイルスのもとには後にスターになるほとんどのミュージシャンが集まってくるようになります。おそらくジャズという古典的なスタイルの音楽としては、もっとも活気のあった時代だったのかもしれません。

50年代末になってくると、マイルスはまたもやハードバップの限界を感じて、よりいっそう自由なスタイルを模索し始めます。その解答がモード奏法であり、ジャズ史上の頂点に立つアルバム"Kind of Blue"の誕生となります。

しかし、ここから自由の極限に向かう音楽が生まれてきました。フリージャズと呼ばれる音楽は、もはやメロディもハーモニーもリズムもめちゃくちゃ。ひたすらエネルギーの放出をしているのです。

マイルスはこのフリージャズがもてはやされた60年代前半、古い音楽という烙印を押されてしまいます。しかし、60年代半ばから、フリーのエネルギーを取り込みつつ、マイルスのスタイルを無敵のクインテットで確立していくのです。

そして、60年代後半になるといち早く電気楽器の導入、しだいに人気が高まりつつあったロックへもアプローチし始めるのです。そして、またしても新しいフォーマットの金字塔である"Bitches Brew"を世に送り出しました。

もはや、いわゆるジャズという概念から飛翔して、「マイルス」というジャンルの音楽としか言いようがない世界を築き上げていくのです。この頃にマイルスのもとに集まったミュージシャンが、今で言うクロスオーバーとかフュージョンという音楽の最初のスターとなっていくわけです。

それまで怒濤の快進撃でしたが、70年代半ばに突然健康上の理由もあって、いきなり音楽会から姿を消してしまいます。一時は死亡説が流れるほどでした。マイルスはどうしたのか、まったく情報がなく、本当に長い5年間でした。

しかし、81年に奇跡のカムバックを果たしたのです。ここからは70年代の形式を一部踏襲しつつも、よりポップでメローな面が混入してくるのです。

マイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーのポップ・チューンを取り上げたり、当時R&B系で人気のあったプリンスやロックバンドのTOTOとの競演など、より柔軟な姿勢が音楽に出るようになり、ついにはまだ出始めたばかりのラップでさえ取り込んだ音楽を展開するようになりました。

91年夏に突然、今までの自分の音楽の変遷を回顧するコンサートを行います。今では超一流と言えるそうそうたる門下生のミュージシャンが終結しました。ところが、その2ヶ月後まったく突然に体調をくずし他界してしまったのです。

結局、50年弱のマイルス・デイビスの活動によって、ジャズは隆盛を極め、そして衰退していったということが言えるかも知れません。そんなことをあらためて振り返りながら、これからしばらくはマイルスの残した音楽を時代を追って聞き直していきたいと急に思い立ちました。