2022年10月21日金曜日

俳句の勉強 52 切れ

俳句でいうところの「切れ」というのは、一句の中を二つ以上に分割することで広がりと情緒をもたらすこと。また、終わりに用いることで独立性を生み出す効果もあり、短詩型の俳句で必須と言われています。

特に詠嘆の意味を持つ「や」、「かな」、「けり」は「切れ」を作る代表的な表現で、これらの明示的な「切れ」を作るものを「切れ字」と呼びます。

切れ字が入ると、読んだときに見えない休符記号が入っているような感じで、一呼吸間を取る感じになります。一般的には、3か所以上に切れを作るのは、ぶつぶつと途切れ途切れになってしまう印象になるので避けることが望ましいとされます。

ところが、これらの切れ字は困ったときの穴埋め的な使われ方が多々あって、自分も「月百区チャレンジ」では、どうにも思いつかないとこれらを乱用しています。結局、必然性が無く切れ字をおいたものは、客観的に見てつまらない句でしかない。

ちょっと本気で作句すると、たったの17文字ですから、無駄な文字をどれだけ排除するかが大事なポイントになります。となると、直接的に表現したい内容を含まない切れ字はあまり使いたくならない。また一般的な切れ字を使うと、文語感が強くなり古めかしくなるのも、ちょっと気が引けてしまうポイントです。

そう思って、最近の自作句をあらためて見直すと、いわゆる名詞で終わる体言止めという切れ方をしているものが多いことに気が付きました。松山市の俳句ポストに当句したものを並べてみます。

夏の海驚き払う飛ぶ海月

夏の海泣く子澄ませば傘の波

原爆忌手を止め未了の「黒い雨」

銀翼にフラッシュバック原爆忌

最初のは、名詞と動詞が並んだだけですが、それぞれで切れていて、三段切れ、数え方によっては四段切れという、やはり素人の作品ですね。次のは、季語の「夏の海」で切れて、最後が体言止めで切れるのですが、「こどもが泣いている」、「耳を澄まして聞いている」、「ビーチパラソルがたくさん並んでいる」と内容が多すぎで整理が必要です。

三番目は中と下を「の」で繋ぎ切れはありませんが、最後は小説名で体言止めです。最後は上と中を「に」で繋いで体言止めして最後に季語が来て切れるパターンです。

こうして声に出して読んでみると、やはり体言止めばかりだと硬い感じですかね。原爆忌のような硬派の季語の場合は悪くはないと思うのですが、夏の海の場合ではちょっと余情が出にくいようです。もっとも素人句であれやこれやと考えてもしょうがないんですけどね。

体言止め以外にも、動詞・形容動詞・形容詞・助動詞の終止形も「切れ」を作ります。となると、逆に切れがない俳句を作ることはほぼ不可能と言ってもいいくらいのもの。なかなか思いつくものではありませんが、切れのない句を無理やり作ってみます。


北風が池の水面をなでたかも


季語は「北風」で名詞です。「冬の空」みたいな5文字の季語だと、どうしてもそれだけで体言止めになってしまいます。切れが無いということは、「、」や「。」といった句読点が入れられないということ。散文調で、なんともダラーっとした感じになってしまいます。

北風が池の水面をなでにけり

「けり」で終わると、「なでているんだなぁ」という詠嘆が表現され、随分と俳句らしくなります。ただし、なでていることが一番強調されてしまう感じです。

北風や池の水面をなでにけり

「北風」に「や」をつけて、「北風が吹くような季節になったなぁ」とすると、切れ字が二つでやや主役が分散してしまう感じがします。

北風や池の水面をなでゆきぬ

「北風」だけに切れ字を使い、終わりは完了の助動詞「ぬ」の終止形の切れを残すと、季語が主役として目立ち、句全体もしまる感じですね。あらためて、切れを効果的に使うことが大事ということが理解できました。