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2022年10月11日火曜日

俳句の鑑賞 27 杉田久女


おそらく明治から始まる近代俳句史の中で、男女の別にかかわらず、俳人としても高い評価が与えられると同時に、最も悲劇的な人生を送らざるをえなかったのが杉田久女(すぎたひさじょ)ではないでしょうか。

杉田久女、本名久(ひさ)は、明治23年(1890年)に鹿児島市で生まれました。大蔵省書記官の父親の関係で、沖縄、台湾などの転勤生活が続き、明治41年、東京の高等女学校を卒業。翌明治42年、美術教師である杉田宇内と結婚し、夫の赴任地となる小倉に転居します。

宇内は真面目で、画家の道を夢見ていましたが、長女・次女をもうけ、現実の生活の中で芸術家の道をあきらめ教師として生きていくしかありませんでした。大正5年、たまたま兄から俳句を教わった久女は、「ホトトギス」に投句するようになり、高濱虚子を崇拝するようになったのが悲劇の始まりでした。

鯛を料るに俎せまき師走かな 久女

「ホトトギス」大正6年1月号に、初めて載った久女の句。当時、虚子が推奨した、いわゆる「台所俳句」ですが、正月の準備でたくさんの食材が所狭しと並び、鯛を料理する俎板が狭くなってしまったという情景を的確に詠んでいます。しだいに俳句にのめり込んでいく妻に対して、宇内は苦々しい思いがあったようで、夫婦の間には次第に口論が増えるようになりました。

花衣ぬぐや纏る紐いろいろ 久女

大正8年に入選した、久女代表作とされる一句。花見から帰ってきて着物を脱ぐときに、まとわりつくようにたくさんの紐をはずしていくという、男性では絶対に詠めない女性独特の視点が評価されました。花見で疲れてけだるい雰囲気と、着物を脱ぐ解放感とが混在し、下句の字余りが絶妙の余韻を残します。

しかし、大正9年、自身の腎臓病のこともあり、少なくとも必要な家事は疎かにしていないにも関わらず、俳句に理解の無い夫との間で離縁の話が出たため、仕方がなく俳句から身を引くことになります。久女はカトリックに入信し、教会活動に身を置くことになります。

われにつきゐしサタン離れぬ曼殊沙華 久女

この間に詠まれたもので、宇内をサタンと思ったのか、いろいろな忍耐を強いることになった俳句そのものをサタンと思ったのか・・・いずれにせよ、真っ赤な曼殊沙華によって、離れないサタンはさらに強固なものになっていくようです。

しかし、中村汀女、橋本多佳子ら同郷の後輩女流俳人らと交流するうちに、大正11年、再び「ホトトギス」への投句を再開するのです。

足袋つぐやノラともならず教師妻 久女

ノラはイプセンの「人形の家」の主人公で、夫の言いなりだった自分を捨て自立していく女性。ノラのように生きていけない自分は、教師の妻として足袋を縫ったりすることばかりしている、という自己否定的な句。しかし、一方で、芸術を捨て一介の教師になり下がった夫に対する不満を読み取れます。

谺して山ほととぎすほしいまゝ 久女

昭和6年、福岡と大分の県境、英彦山に詣で詠んだ句。久女の最高傑作として認知されています。「谺(こだま)」という広さをイメージさせる空間とホトトギスの繰り返す反響音、それらのすべてが自分の欲するままにあるという内容。新聞社主催の「日本新名勝俳句」コンテストで金賞の帝国風景院賞を受賞しました。

その前年、虚子は自分の次女である星野立子に、女性を対象とした「玉藻」を主宰させました。立子の俳人としての力量は評価されていたものの、久女には虚子の身内贔屓のように映ったかもしれません。

久女は昭和7年3月、九州の地で自ら「花衣」を創刊し、積極果敢に女流俳人の中心に身を置こうとしました。しかし、「花衣」の評判は上々だったのにもかかわらず、わずか半年、第5号で唐突に廃刊となります。「玉藻」陣営への遠慮、女性誌に対する嫌がらせ的な評論、また宇内との家庭内のストレスなどが重なったものと考えられています。その直後に、久女は「ホトトギス」同人に推挙されました。

この頃から、久女には自分の句集刊行という夢が膨らんでいきます。当時の慣例として、句集にはその刊行を許可するというお墨付きとなる主宰の序文が必要でした。当然、俳壇の中で強大な力を持った「ホトトギス」では、帝王虚子の許可は絶対です。

久女は、ことあるごとに虚子に句集序文を書いてほしいことを願い出るようになり、再三の手紙をしたためることで、かえって虚子から疎ましい存在になるのでした。久女の俳句は、昭和8年8月号を最後に「ホトトギス」に載らなくなります。しかし、それでも虚子を崇拝する久女は、他の結社に移ることもせず虚子に手紙を書き続けるのでした。


昭和11年春から夏にかけて、虚子は長期間の欧州旅行に出発します。その間も、久女は句集を出すべく様々な伝手を頼って奔走していました。欧州から戻った虚子は、「ホトトギス」10月号で、突然、理由の説明もなく久女同人除名を発表しました。おそらく、自分がいない間に出版の話を進めていたことに激怒したものと推察されています。

春やむかしむらさきあせぬ袷見よ 久女

同人除名直後、「俳句研究」誌に発表された句。前書きに「ユダともならず」と、裏切り者ではないという思いが添えられています。在原業平が「月やあらぬ春やむかし・・・」と自分は変わりないことを詠った短歌に寄せたもので、純情を示す紫色をモチーフにしています。

虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯 久女

その1年後、「俳句研究」誌に発表された句。「ホトトギス」を離れたにも関わらず、虚子による句集序文をもらった長谷川かな女を真っ向から敵視しています。またこの時期に星野立子句集が出版されたことも、虚子に対するいら立ちが垣間見えます。

昭和13年に数句が久しぶりに「ホトトギス」に掲載されましたが、昭和14年、「俳句研究」に「プラタナスと苺」と題する四十二句を発表したのを最後に、久女は俳句を作ることも完全に止めてしまったようです。しかし、これまでの自作句の中から千数百句を選び、注釈などもつけた清書原稿を長女の石昌子に託します。

同人除名以後、抜け殻になったのような久女は、昭和20年秋、大宰府の県立筑紫保養院に入院。翌年1月21日、55歳で亡くなりました。死後、虚子が久女から届いたたくさんの手紙を「国子の手紙」と題して、ほぼ誰の事かわかるような小説として発表し、その中でことさら国子が精神異常者であると強調したことで、久女死後も不当な評価が続くことになります。

しかし、昭和62年の田辺聖子の実録小説「花ごろもぬぐやまつわる・・・わが愛の杉田久女」以後、各方面から少しずつ修正され現在では、大正から昭和初期の「ホトトギス」女流俳句拡大の立役者として久女の正当な評価が復権したと言えます。