夏季臨時休診のお知らせ

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2022年10月18日火曜日

俳句の鑑賞 30 山口誓子


昭和初期の「ホトトギス」を支えた俳人の一人が山口誓子です。後に、水原秋櫻子と共に「ホトトギス」を離脱し新興俳句勢として活躍しました。

山口誓子、本名、新比古(ちかひこ)は、明治34年(1901年)に京都で生まれました。父親は元島津藩家老でしたが仕事の関係で、誓子は2歳のときから祖父の元で育ちます。10歳の時に母親が自殺するも、誓子は両親のことはほとんど語っていません。11歳で、祖父が樺太日々新聞社長になったため、多感な少年時代を樺太(サハリン)で過ごすことになります。

この時期、読書に耽った誓子は、中学の国語教師から俳句を教わり、句会にも出るようになりました。17歳のとき京都に戻りラグビーに専念。19歳で旧制三高(現京都大学)に入学し、京大三高俳句会に参加するようになり、「ホトトギス」への投句を始めました。

思ひ切り石を投げたる枯野かな 誓子

大正10年、「ホトトギス」初投句したもの。樺太の景色が浮かんできそうですが、「客観写生」の「ホトトギス」としては、ほぼ主観描写なので入選はしませんでした。俳号は本名をもじり高濱虚子にあやかった「誓子(ちかいこ)」でしたが、大正11年、初めて虚子と対面した際、「君がせいし君か」と尋ねられたので、以来「せいし」を貫きました。

21歳の誓子は、京大に進学せず東京に出て東京帝国大学に入学し、早々に水原秋櫻子が再興した東大俳句会にも参加しました。しかし軽い肺結核を発症し、静養を余儀なくされます。

凍港や舊露の街はありとのみ 誓子

流氷や宗谷の門波荒れやまず 誓子

飾り太刀倭めくなる熊祭 誓子

大正15年、休学開けた誓子の句で、「ホトトギス」に発表されたもの。樺太の大泊港を詠んだもので、「舊露(きゅうろ)の街」は「(日露戦争前の)旧ロシアの街」という意味で、今はただあるだけで錆びれているということ。

「門波」は「となみ」と読み、波立つ海峡を表す万葉言葉。樺太に渡るための宗谷海峡の厳しさを詠う、初期の誓子の代表句です。熊祭はアイヌの伝統行事で、いけにえとして熊を供えたと言われています。これらの樺太での体験が、誓子の俳句の原風景と言われています。

大正15年に卒業すると、大坂に本社がある住友商事に入社、大坂に転居し、句会を通じて資産家令嬢と結婚します。「ホトトギス」内でも注目される存在になり、昭和7年に初めての句集を出版します。ここで、虚子は序で明らかに、前年に「ホトトギス」を離脱した秋櫻子側に傾倒する誓子を牽制し、誓子もまた花鳥諷詠だけではない新しい俳句への興味を隠しませんでした。昭和8年、率先して新興俳句を詠じる「京大俳句」の顧問に迎え入れられます。

北風強く水夫の口より声攫ふ 誓子

枯野来て帝王の階をわが登る 誓子

昭和9年、仕事で満州に出張した時の句。「きたつよくかこのくちよりこえさらう」と読みますが、大陸に向かう船の中で、強烈な冷たい強風で水夫たちですら声を出せないでいる様子です。満州の広大な地、皇帝の陵墓の様子、そして満州の市井の人々の暮らしなどを詠んで、虚子の選を経ずに自己出版という異例の形で第2句集を出しました。

昭和10年、誓子は秋櫻子の「馬酔木」に合流します。また、基本的に「有季」は重要と考える誓子は、京大俳句からも退くのでした。また胸の具合も芳しくなく度々療養生活をはさむようになります。軍国主義が強まる世相の中、昭和15年、言論弾圧のための「京大俳句事件」により、多くの新興俳人が検挙されましたが、誓子には官憲の手は及びませんでした。

昭和16年、療養のため四日市富田に転居。戦後に石油コンビナートが建設され公害の代名詞になる前で、誓子は眼前の海水浴場を散歩し目に入るものを次々と俳句にしていきました。

鷹の羽を拾ひて持てば風集ふ 誓子

海に出て木枯帰るところなし 誓子

昭和18年、海岸で鷹の羽を拾い上げた政治は、吹いてくる風が全部羽に向かってくるようだと感じます。昭和19年の「海に出て・・・」は代表作の一つさされますが、木枯らしは海に吹き出て戻ってこないという意味ですが、(誓子はぼやかしていますが)木枯らしは特攻隊を擬人化したもので、戦時中の寂寥感が描かれたものと言われています。

昭和23年、京大俳句事件で投獄された西東三鬼、「馬酔木」から誓子についてきた橋本多佳子らと俳句結社「天狼」を創刊し主宰になりました。昭和28年、台風による被害を受け西宮市に転居しました。「天狼」は順調に会員を増やし、昭和32年に朝日新聞社俳壇選者となり、その後も数々の褒章を受章しました。そして、平成4年、山口誓子は90歳にして樺太再訪を実現させます。

帰燕見てサハリンに来てゐしを知る 誓子

平成5年、神戸港花火大会で詠まれた句が、発表された誓子の最後の句となりました。その後体調を崩し「天狼」を終刊とし、平成6年3月26日、92歳の生涯を閉じたのです。

一輪の花となりたる揚花火 誓子

「ホトトギス」から離れた誓子でしたが、虚子は同人から誓子の名を削除することはなく、誓子も最後まで虚子を尊敬し続けたのでした。

山本健吉は、「近代俳句革新は、秋櫻子と誓子によって印されたのである…(中略)・・・秋櫻子がもたらしたのは感性の解放であり、誓子ははじめて俳句に知性を持ちこんだ」とし、誓子の俳句はその時代における感情によってモノトーンで描き出される風景画と評しています。