水原秋櫻子(みずはらしゅうおうし)は、大正年間にすでに「髙濵王国」と化した「ホトトギス」の中から、反旗を翻し、かつ成功した最初の俳人として記憶されます。
本名は水原豊、明治25年(1892年)10月9日、産婦人科病院の長男として東京神田で生まれました。後を継いで医師になるべく、旧制一高を経て大正3年(1914年)に東京大学医学部に進学、「ホトトギス」を購読するようになります。
大正8年、血清化学教室に後に俳句のライバルとなる高野素十と共に入局。同じ教室には、古畑種基(日本の法医学の権威)がいました。先輩の緒方益雄に誘われ句会に出るようになると、「ホトトギス」に投句を始め、大正10年4月に初入選をきっかけに入会、6月に高濱虚子と対面しました。
この時期、以前より興味があった短歌も積極的に勉強していたことが、秋櫻子の句風に生きていることは間違いないようです。大正11年、仲間と東大俳句会を設立し、大正13年、「ホトトギス」系の「破魔弓」の選者となりどんどん活躍の幅を広げていきました。
昭和3年、秋櫻子の意見によって「破魔弓」は「馬酔木」と改称されます。また、この年、昭和医学専門学校(現昭和大学医学部)、産婦人科学教授に就任。この頃から、秋櫻子は虚子の提唱する客観写生による有季定型に飽き足らない物を感じるようになるのです。
「ホトトギス」に発表した「筑波山縁起」は全体で大きな主観的イメージを想起させる連作という方法が取られ、虚子との関係に亀裂が入り始めます。これに対して虚子は「叙情的な調べによって理想美を追求する秋桜子の主観写生と、高野素十の純客観写生の表現とを並べ後者をより高く評価する」と公表しています。
決定的だったのは、昭和5年の第1句集「葛飾」の発行でした。当時、句集を出すには本編と同じか、またはそれ以上に序文が重視されていました。当然、俳句界のトップ「ホトトギス」系では「帝王」虚子が序文を寄せることが、句集を出すための必須条件であったにもかかわらず、秋櫻子はあえて自ら書いた「自然を愛でると同時に自らの心情も重視する」という序文を載せたのです。
馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ 秋櫻子
蟇泣いて唐招提寺春いずこ 秋櫻子
葛飾や浮葉のしるきひとの門 秋櫻子
啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 秋櫻子
これらの「葛飾」の句は、いずれも直接的な作者の主観は書かれていませんが、擬人化を多用して詩情豊かに思いが溢れている仕上がりになっています。典型的な客観写生が、無味乾燥にように感じられるのも理解できなくはありません。
昭和6年、秋櫻子は「ホトトギス」誌上に「自然の真と文芸上の真」を発表し、「ホトトギス」と完全に決別します。秋櫻子の主戦場となった「馬酔木」は、多くの賛同者が集まり勢力を急速に拡大し、ついに「ホトトギス」帝国の牙城の一端を崩すことに成功したのです。
主宰や選者が選んだものだけが発表できる慣例と違い「馬酔木」は自選欄を設け、秋櫻子も自著により積極的に「新しい」俳句理論を展開しました。
白樺を幽かに霧のゆく音か 秋櫻子
風雲の秩父の柿は皆尖る 秋櫻子
天使魚もいさかひすなりさびしくて 秋櫻子
「ホトトギス」離脱後の時期の句。瞑想的風景描写、擬人化を含めた積極的な主観内包が見て取れ、より作者の芸術的な心情が伝わりやすくなっているようです。これらは、現代に至る近代俳句の一つの主流として定着したものと思います。
戦後も「馬酔木」を中心に活動し、昭和56年7月17日、自宅で心不全により亡くなるまで俳壇をけん引する精力的な大きな力となり続けました。最後の第21句集「うたげ」から、絶詠となった句を最後に紹介します。
紫陽花や水辺の夕餉早きかな 秋櫻子
「餉(しょう)」は旅人や田畑で働く人の弁当の意味。おそらく葛飾の川べりで、紫陽花の咲く様子を見ながら夕飯としては早めの弁当を食べている情景を詠っているもの。印象派絵画のような俳句です。
評論家、山本健吉は「子規から虚子に至る写実の道をさらに発展させて、俳句の上に洗練された都会の感覚をうち出したのが秋櫻子である・・・(中略)・・・秋櫻子がもたらしたものは感性の解放なのだ」と述べています。