阿波野青畝(あわのせいほ)は、本名、橋本敏雄、明治32年(1899年)に奈良県に生まれました。11歳の時に母親が病死、県立畝傍中学校で教師をしていた俳人の原田浜人から俳句の手ほどきを受け、大正6年、奈良に来た高濱虚子と初対面し、写生の錬磨をするようアドバイスされ「ホトトギス」への投句を始めました。そして、聴覚障害があった青畝は中学卒業後の進学をあきらめ、18歳で銀行に就職します。
「ホトトギス」にて頭角を現し、大正12年、商家の阿波野家の婿養子となります。大正13年には選者となり活躍するようになりました。昭和4年に、「ホトトギス」同人となると同時に、郷里で創刊された俳句誌「かつらぎ」の選者も引き受けます。昭和6年、第1句集「萬両」を出版します。
なつかしの濁世の雨や涅槃像 青畝
句集の最初の句。「濁世(ぢょくせ)」は仏教用語で、浄土に対する汚れた現世のこと。「涅槃(ねはん)」は煩悩を排して悟りを開くこと。涅槃像と言えば、釈迦が入滅する様子を表す仏像です。大正15年、27歳としてはかなり高い境地にある句です。
葛城の山懐に寝釈迦かな 青畝
昭和2年に生まれた青畝の代表作の一つ。山懐は山と山の間の窪んだ場所のことで、奈良の大和葛城山のふところにおそらく寺があって涅槃像が飾られている、あるいは山々に抱かれるように釈迦の寝姿が見えるようだとする句です。
大空の羽子赤く又青くまた 青畝
昭和8年、妻の貞が病死し阿波野秀と再婚。詳細は不明ですが、阿波野性なので貞の妹かあるいは親類でしょうか。この年の正月に詠まれたこの句は、羽子板がパッと大空に上がって、降りてくる様子です。耳が不自由な青畝は、赤く見えたり青く見えたりするする視覚情報を切り取ることに長けていると言えます。
昭和20年、「かつらぎ」は休刊を余儀なくされ、今度は秀とも死に別れます。また空襲により家を焼失し、西宮市甲子園に転居。終戦を迎え、「かつらぎ」を復刊し、田代といと再々婚しました。昭和22年、(亡くなった秀の遺志から)カトリックに入信し洗礼を受けます。
ミサの鐘すでに朝寝の巷より 青畝
ミサが始まる5分前に鐘が鳴り「響く」のだそうで、カトリックに入信していなければ朝寝をむさぼっていたということ。仏教からキリスト教への大転換は、さぞかし大変なことだったのかもしれません。昭和26年に虚子が「ホトトギス」雑詠選から退いたため、青畝は「ホトトギス」への投句をやめ、平成4年12月22日、93歳で亡くなるまで「かつらぎ」を中心に活躍しました。
天が下方のきすげは我をつつむ 青畝
高原に数えきれないほど作誇る黄菅(きすげ)が自分を包み込むようで、まるで天よりも高い所にいるようだという句。
山本健吉は「(同時代に活躍した俳人の中では)句風がいちばん軽く、物足りなさを感ずる場合も多いが、自由さと、愛情と、ユーモアを湛えた生活感情の陰翳深さにおいては、第一等である」と評しています。