2022年10月26日水曜日

俳句の鑑賞 35 西東三鬼


西東三鬼(さいとうさんき)、本名、斎藤敬直(さいとうけいちょく)は、明治33年(1900年)に岡山県津山市に生まれました。直接的な「ホトトギス」との関りが無く、戦前の新興俳句の中心俳人として活躍しました。

代々教育者の家柄で、地元の中学に入学しますが、18歳の時に東京に出て青山学院中等部に編入、21歳で日本歯科医科専門学校(現日本歯科大学)に入学しました。中学校以来、女性にはかなりもてたようで早熟でしたが、大学でも乗馬、ダンスなどに長じたモダンな学生であったようです。

大正14年に卒業し、シンガポールに渡航して歯科医院を25歳で開業しています。大いに南国を満喫していましたが、日本の覇権問題や自身のチフス罹患などにより3年で帰国、大森に医院を開業。昭和7年、医院は閉じて埼玉県朝霞綜合診療所歯科部長に就任、翌年、神田の共立病院以下部長となり、患者からの誘いで俳句を始めました。

風邪の子の熱く小さき手足はも 三鬼

ひそかなるあしたの雨に囀れる 三鬼

最初は「走馬燈」へのごく初期の投句で、選者は日野草城でした。次は「馬酔木」への投句したもの。創刊されたばかりの新興俳句系の「走馬燈」、「天の川」に以外にも、「ホトトギス」や「馬酔木」にも投句しており、師系にこだわらず句作にかなり熱中していようで、昭和10年には自ら同人誌「扉」を創刊するとともに京大俳句にも参加しました。

ガブリエル天使か北風に喇叭吹く 三鬼

氷下魚釣るあなた馬橇の影ゆくに 三鬼

水枕ガバリと寒い海がある 三鬼

昭和13年、脊椎カリエスで危篤となるも回復し、これを機に歯科医を廃業し、無季俳句に没頭しまが、昭和15年、いわゆる新興俳句運動弾圧のための「京大俳句事件」で特高に検挙され4か月間の留置生活を送ることになります。

右の眼に大河左の眼に騎兵 三鬼

砲音に鳥獣魚介冷え曇る 三鬼

積極的な反戦思想を表しているわけではありませんが、一般的な有季定型に対抗するかのような無季俳句で、戦争をイメージさせる俳句は権力の格好の餌食となったのでした。

終戦後は、石田波郷らと現代俳句協会を設立し、山口誓子の「天狼」の編集なども行いました。昭和27年、主宰誌「断崖」を創刊、昭和31年、角川書店の雑誌「俳句」の編集長などを経験。昭和36年、胃癌を発症し、翌年4月1日、62歳で亡くなりました。

中年や遠くみのれる夜の桃 三鬼

中年や独語おどろく冬の坂 三鬼

倒れたる案山子の顔の上に天 三鬼

妻子を東京おいて、神戸で愛人との間に子をもうけていますし、細かい履歴を見ると、いろいろなことに手を出して目まぐるしい人生を送ったような印象があります。これは、もともとの生業とした歯科医についても同じで、あまり腰を据えて仕事をしたようには思えません。

しかし、あちこちに手を出していろいろなことを吸収する力はすさまじく、少なくも比較的短期間に俳人としての成長を遂げているところは目を見張るものがあります。独特のユーモアを型にとらわれずに詠み、ふざけているようで実は悲しみをたたえるような、ピエロの持つ「ペーソス」という感情に近いような感じの句が多いように思います。

山本健吉は「他の新興俳句作家のように、伝統俳句に対する嫌悪感は三鬼には無い。俳諧への好奇心から新興俳句に入った唯一の俳人だった」と評しています。