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2022年10月20日木曜日

俳句の鑑賞 32 山口青邨


昭和3年9月、「ホトトギス」の子規忌講演会において、高濱虚子らを前にして山口青邨は「どこか実のある話」という講演を行いました。その中で、「東に秋素の二Sあり、西に青誓の二Sあり。少なくとも今日はこの人たちの天下である」と述べました。

このことで、大正末から昭和初期に「ホトトギス」で活躍した水原秋櫻子、高野素十、阿波野青邨、山口誓子の四人を、有名な「四S」とという呼び名で称するようになりました。実に謙虚な物言いだったなと思うのは、同時代を共に共有した山口青邨も「東の青」であり「S」に他ならないからです。

山口青邨(せいそん)、本名、吉郎、秋櫻子と同じ明治25年(1892年)の生まれです。岩手県盛岡市で生まれ、5歳の時に母と死別。明治43年、旧制第二高等学校(現東北大学)へ、そして大正2年、東京帝国大学工学部に入学しました。大正5年に古河鉱業に入社し、足尾鉱山に勤務。この頃より「ホトトギス」購読を始めました。

大正10年、東京帝国大学工学部助教授。大正11年、高濱虚子から工学部に面白い文章を書いて送って来る人物がいるから会ってみたらどうかと言われた水原秋櫻子は、青邨の研究室を訪ねました。これが東大俳句会の始まりでした。しかし、青邨は俳句については素人同然であったので、それが冒頭の「五S」とならない要因だったのかもしれません。

しかし、正岡子規以来脈々と続いていた「山会(山が必ず登場する文章を書く会)」では、俄然早くから文章力の才能を発揮し、虚子も絶賛していました。俳句の方では、昭和4年に「ホトトギス」同人、昭和5年に初の巻頭句を飾ります。

人それぞれ書を読んでゐる良夜かな 青邨

みちのくの町はいぶせき氷柱かな 青邨

これらは、虚子がほめた初期のもの。仲秋の名月の各人過ごし方はいろいろ。文章や俳句の好みも人それぞれというところでしょうか。「みちのくの・・・」が初巻頭句となったもの。「いぶせき」とは心が晴れず、うっとうしい気持ちのこと。生まれ育った岩手の冬の閉塞感を詠っています。

山ざくらまことに白き屏風かな 青邨

人も旅人われも旅人春惜しむ 青邨

昭和5年は盛岡で創刊された「夏草」の雑詠選者にもなり、昭和9年、初の句集を刊行しました。客観写生を中心としながら、独自の表現手法がしだいに確立してきた時期と言えそうです。

昭和12年、ベルリン工科大学に留学し、帰国して昭和14年には教授へと昇進しています。戦時中休刊となっていた「夏草」は昭和23年、青邨によって復刊します。

たんぽゝや長江濁るとこしなへ 青邨

ベルリンへの往路、上海で詠まれたもの。足元に咲いていたタンポポと悠久の流れにある長江とをひとつにまとめあげた代表作です。

舞姫はリラの花よりも濃くにほふ 青邨

ベルリンの様子。森鴎外のドイツ留学を基にした「舞姫」を念頭に置いた句。一斉に咲き出した花の匂いよりも踊り子たちの方が匂いが強かったということ。

昭和28年、大学を定年退職し、名誉教授となります。昭和36年、俳人協会創立にて顧問に就任。昭和63年12月15日、96歳で肺炎のため亡くなりました。その病床で詠まれた、おそらく生涯最後の一句を紹介しておきます。

顔寄せてみな親しき人や汗ばみて 青邨

高い教養を反映させ、科学者として物事を客観視する反面、できるだけ単純に表現する句風と言われ、戦後から平成までの俳壇を牽引した大御所として活躍しました。