2017年12月9日土曜日

古事記 (18) 仁徳天皇と三人の息子


大仙陵古墳は大阪府堺市にある、日本で最も有名な最大級の古墳です。小学校の社会科以来、まず写真を見たことが無いという日本人はいないのではないでしょうか。

航空写真では、上から見ると大きな鍵穴のような形の、典型的な前方後円墳で、大きさは840m×654mです。出土品から、おそらく5世紀後半に作られたものと推定されています。

仁徳天皇陵とも呼んでいて、むしろこの別名の方が有名ですが、実は仁徳天皇の墓と「推定」されているだけで、本当に埋葬されているのが誰かは確認はされていません。

さて、古事記はいよいよ下つ巻に入り、ここからはおそらく実在性の高い天皇記が続きます。最初に登場するのが仁徳天皇で、ここだけはほのぼのとした雰囲気なのですが、以後は、天皇家内の血生臭い権力闘争が続くことになり、いかにも「歴史」らしい話が続くことになります。

仲哀天皇と神功皇后の間に生まれた応神天皇の二人の息子、宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラッコ)と大雀命(オオサザキノミコト)は皇位継承を譲り合っていましたが、ウジノワキノイラッコの急死によりオオサザキが第16代の天皇に即位しました。これは西暦では日本書紀の記述を信じるならば、313年のことです。

仁徳天皇は、治水工事や開墾を奨励し、港を作り内陸に堀をつなげ水上交通の利便を図りました。そして、国に煙が立ち上っていない様子を見て、民は困窮していると考え、三年間の税と労役を免除しました。自らも、宮殿の雨漏りくらいは我慢したりしたおかげか、また煙が経つようになったということです。ですから仁徳天皇の時世を「聖帝(ひじりのみかど)の世」と呼びます。

ある日、天皇は吉備の黒日売(くろひめ)を一目惚れで召し上げましたが、本妻の超嫉妬深い石之比売(イワノヒメ)に追い返されてしまいました。天皇は淡路島に行くことにして、そこからクロヒメと密会デートをしたりしています。

さらにイワノヒメが宴席用の食器を調達しに木国にでかけると、その隙に別の女性を宮殿に上げてしまいます。それを知ったイワノヒメはせっかく用意した食器を海に投げ捨てて別邸にこもってしまいました。天皇は、使者を使わせていろいろと歌にのせて許しを請うという話。

それでも懲りない天皇は・・・いろいろあって、83歳で崩御し、百舌鳥(もず)の耳原、つまり現在の大仙陵古墳と考えられている場所に埋葬されました。

日本書紀には、ウジノワキノイラッコは皇位を譲るために自殺したと書かれていますが、真相は闇の中。さらにいくつもの恋バナが書かれていて、仁徳天皇は善政を施す好色能天気人間という感じ。

仁徳天皇とイワノヒメの間の長男が、第17代の履中(りちゅう)天皇で、次男が第18代の反正(はんぜい)天皇、そして三男が第19代の允恭(いんぎょう)天皇となります。

古事記では履中、反正天皇の二人のことは省略されています。日本書紀によれば、それぞれ即位して6年、5年で亡くなっています。允恭天皇については、氏族の呼称が乱れているため、それを正しく定めることをしたというのが数少ない業績として書かれています。いわゆる戸籍調査をして、氏族を明確にしたということでしょう。

允恭天皇崩御後、長男の木梨之軽太子(キナシノカルヒツギノミコ)は皇位を継承するはずでしたが、粗暴なうえ同母妹とできてしまったため四男の穴穂命(アナホノミコト)が人気急浮上してきます。両者は武器を揃え内乱直前で、アナホノミコト側が相手を捕獲することに成功し、兄と妹を流刑にし、二人は自ら命を絶ちました。

アナホノミコトは即位して、第20代の安康(あんこう)天皇となりますが、即位後の話は日本書紀のみ。安康天皇は、仁徳天皇が日向の髪長比売(かみながひめ)との間に生まれた大草香皇子(オオクサカノミコ)を誤解から殺してしまいます。そして大草香皇子の妻であった中蒂姫(なかしひめ)を皇后に、大草香皇子の妹である幡梭皇女(はたひのひめみこ)を自分の弟である大泊瀬皇子(オオハツセノミコ、後の雄略天皇)の妻に迎えます。しかし、即位してわずか3年で中蒂姫の連れ子、眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺されてしまいました。