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2017年12月28日木曜日

日本書紀 (6) 大化の改新


乙巳の変(645年6月12日)の責任を取って皇極天皇は、軽皇子へ生前譲位しました。軽皇子は第36代の孝徳天皇に即位します。新政府は、保守勢力の天皇、左大臣・阿部内麻呂、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂と改革派の皇極上皇、皇太子・中大兄皇子、内臣・中臣鎌足の混成チームです。

この新政府が打ち出す一連の新政策が、「大化の改新」と呼ばれる律令国家への道の始まりとなります。律令制は、隋・唐によって確立された支配大系で、「王のもとにすべての土地や人民が服属する」との考え方のもとに、全体を統一する規律・規範を設け、またそれを実施するための厳格な官僚制度を整備したものです。

まず皇極4年を大化元年と改め、初めて元号を用いました。当時、強大な力を誇った中国のみが元号を使用していて、日本独自の元号を導入することは唐との対等の関係を内外にアピールする狙いがあります。

直後の大化元年7月以後、早くも改革政策が次々と実施されます。戸籍作成と田畑調査を開始し、それぞれの土地で勝手に裁きを行うことや賄賂の授受を禁止、武器を確認し管理すること、仏法を重視することなどを通達します。そして飛鳥から難波への遷都を行いました。この間、皇位継承権を軽皇子に譲り吉野へ出家した古人皇子の謀反がありましたが、新政府により即刻鎮圧されています。

翌大化2年1月に、新政策の基本方針をとりまとめたものを「改新之詔」として発表しました。教科書的に書けば、①公地公民制度(民の私有の禁止)、②地方区画の整備(畿内、郡を定義して中央集権国家体制の整備)、③班田収受の法(戸籍に則り一定の集落を決め、田の大きさによる定率税額制度)、④田の調の実施(旧支配体制の多様な税制の廃止)、といった内容です。ただし、明らかに日本書紀編纂時までに、一部が書き換えられたこともわかっています。

3月に薄葬礼を施行。これは権力者が大がかりな墓を作るのに、強制労働を強いて民が困窮していることにより、身分階級に応じて墓の大きさを規定するものです。これにより、古墳時代は終焉を迎えます。さらに冠位制度を刷新し、宮廷内の身分についても、より細かく規定するようになりました。

大化5年、改革にやや非協力的だった阿部内麻呂が死去し、蘇我倉山田石川麻呂も讒言により討伐され、保守派は一気に衰退します。中大兄皇太子による実効支配はさらに進み、元号を白雉に改元。朝鮮半島からの使者も頻繁になり、また遣唐使の派遣も行われました。

白雉4年、中大兄皇太子は、天皇の反対を押し切って、母・皇極上皇、妹・間人皇后、弟・大海人皇子、多くの臣下を連れて飛鳥に戻ってしまいます。天皇が、自分の息子である有間皇子を後継者に立てようとしたことが原因と言われています。

しかし根本には、しだいに重要性が増大していた外交政策での対立があり、唐に対して従順的な天皇に対して、対等な立場を主張し、場合によっては戦争も辞さない中大兄皇太子との間には決定的な亀裂が生じていたといわれています。

結局、難波に孤立してしまった孝徳天皇は失意の中で白雉5年10月に亡くなりました。そして、中大兄皇太子は・・・即位せず、何と皇極上皇を再度、斉明天皇として再び即位させたのでした。史上初の天皇の重祚(じゅうそ)であり、また再び女帝の時代となったのでした。