2017年12月7日木曜日

古事記 (17) 天之日矛伝説


古事記で、大雀命(オオサザキノミコト)が仁徳天皇として即位した、という記述の後に突然出てくるサイドストーリーが天之日矛(アマノヒボコ)の話。昔、新羅の王子であるアマノヒボコが海を渡ってきました・・・と、突然に始まる内容は次のような話。

新羅の阿具沼(おぐぬま)の岸辺で、昼寝をしていた女の陰部に太陽の光が射して赤玉を産み落としました。その様子を見ていた男が玉をもらい受け、通りかかったアマノヒボコに贈り物としました。

すると玉は美しい乙女に変身し、アマノヒボコは妻とします。しばらくは甘く楽しい結婚生活だったのですが、しだいにアマノヒボコは傲慢になっていき、ついに大きな夫婦喧嘩になりました。

「わたくし、実家に帰らせていただきます」と言い残して、船に乗って日本に渡り難波に住んで阿加流比売(アカルヒル)と呼ばれるようになります。アマノヒボコは、すぐに八つの宝(玉津宝)を持って追いかけてきましたが、難波では渡し場の神に邪魔されて上陸できず、近くの多遅摩国(たじまのくに)に住みつきました。

アマノヒボコは多遅摩で再婚して子孫を残しますが、六代目にあたるのが高額比売(タカヌカノヒメ)で、息長帯比売(イキナガタラシヒメ)、つまり神功皇后のお母さんだということです。

日本書紀では、もっと前の垂仁天皇の3年目に天日槍が帰化したとして登場します。垂仁天皇87年目に、天皇が「新羅の王子であるアマノヒボコが但馬にもってきた宝を見たい」とアマノヒボコの孫にあたる清彦に献上させますが、清彦は八つの宝のうち出石(いずし)の小刀だけは隠しました。その後小刀だけが消えてしまい、清彦の元に戻り、そしていつの間にか清彦の元からも消えて淡路島に祀られていました。

その他にも播磨国風土記にも、各地の地名の由来にアマノヒボコが度々登場してきますが、朝鮮半島から渡来した人々代々を総称するような名称としてアマノヒボコという呼び名が用いられたと言われています。

このアマノヒボコ伝説は、自分の勝手な想像かもしれませんが、神功皇后の正当性の説明なのかなと思います。天皇ではないのに記紀では別格扱いされる皇后ですから、相当皆を納得させる話が必要です。

皇后の祖先は、新羅の王子であり高貴な人であること。最初の妻は太陽信仰から生まれたもので、新羅から太陽が昇る方向、つまり日本出身であるという説明。神功皇后が新羅に攻め入ることも、本来新羅王の一族の末裔として問題ないことを示したいということではなかったかと考えられます。

但馬国一之宮である出石神社はアマノヒボコを祀り、古事記編纂時にはすでに渡来した人々が自分たちの繁栄を祈念して創建されていたと考えられているそうです。