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2017年12月10日日曜日

古事記 (19) 雄略天皇の汚点


允恭(いんぎょう)天皇の皇子、穴穂御子(アナホミコ)は皇位を継承することなっていた兄の木梨之軽太子(キナシノカルノヒツギノミコ)を自殺に追い込み安康(あんこう)天皇として即位。古事記にはそれ以上の話は無く、安康天皇の弟、大長谷若健命(オオハッセワカタケノミコト)が第21代の雄略(ゆうりゃく)天皇に即位します。

最初のエピソードは、ちよっと天皇の傲慢なところが出ています。山道を通っていると、立派な家を見つけて「自分の御殿に似ていて生意気」と言うと焼き払おうとし、家主に土下座をさせます。

ある時、老女がやってきて「お仕えすることはもう無理」と言うので理由を聞くと、昔にたまたま見初めて「迎えを寄越すから待っていろ」と声を掛けたのを80年もの間忘れていたという話。また、討ちそこなった手負いの猪を恐れて木に登って逃げたなど、比較的呑気な話が続きます。

山で、自分と御付きの者たちとそっくりな集団と出逢い怒りますが、相手が善い事悪い事を一言で判断できる一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)であるとわかると、平伏し礼を尽くします。

124歳で雄略天皇が亡くなると、息子の白髪大倭根子命(シラカノオオヤマトネコノミコト)が第22代の清寧(せいねい)天皇となりますが、妻子がいなかったため、ついに天皇の血族が途絶える危機に直面します。

以上が古事記の記述。好色で呑気な雄略天皇像が浮かび上がってきますが、実は大悪天皇とも呼ばれる雄略天皇の本当の怖さは日本書紀でしかわからない。比較的、親から子へ自然に継承されてきた皇位が、力によって奪取されるドロドロの権力闘争(ある意味、王権の成熟)が展開される様子が書かれています。

允恭天皇は皇后との間に、木梨軽皇子(キナシカルノミコ)、名形大娘皇女(ナガタオオイラツメノヒメミコ)、境黒彦皇子(サカイノクロヒコノミコ)、穴穂皇子(アナホノミコ)、軽大娘皇女(カルノオオイラツメノヒメミコ)、八釣白彦皇子(ヤツリノシロヒコノミコ)、大泊瀬稚武皇子(オオハツセワカタケルノミコ)、但馬橘大娘皇女(タジマノタチバナノオオイラツメノヒメミコ)、酒見皇女(サカミノヒメミコ)という5人の男の子と4人の女の子をもうけました。

長男の木梨軽は長女の軽大娘となんと禁断の恋、まさに同父同母の近親相姦の罪を犯します。そのため、允恭天皇の葬儀が終わってから、安康天皇となった穴穂皇子は逃げ隠れた木梨軽を取り囲み自害させます。

そして弟の大泊瀬稚武の嫁に、父允恭天皇の異母兄弟である大草香皇子(オオクサカノミコ)の娘を迎えようと使者を遣わせます。大草香は承諾しましたが、使者が献上された宝を横取りし、拒否されたと嘘の報告をしました。安康天皇は怒って大草香を攻め滅ぼし、妻の中蒂姫(なかしひめ)を自分の妃、娘の幡梭皇女(はたひのひめこ)を大泊瀬の妻にしました。この時、中蒂姫は息子の眉輪王(マヨワノオオキミ)を連れてきます。

眉輪王は父の仇である安康天皇を刺し殺し、その報告を聞いた大泊瀬は裏で兄弟が関与していると疑い、まず八釣白彦を殺し、境黒彦も追及しました。境黒彦と眉輪王の二人は逃亡先で焼き殺されます。さらに安康天皇が後を託そうとしていた履中天皇の子供である磐坂市辺押羽皇子(イワサカノイチベノオシハノミコ)を、狩に連れ出し射殺し、その弟の御馬皇子も捕らえて処刑しました。

これは、もう完全に血の粛清というべき、父の仇討ちに名を借りた皇位継承権利者の大量虐殺です。皇室の万世一系が真実ならば、間違いなくその血筋の最大の汚点と言えます。

雄略天皇の後は、清寧(せいねい)天皇が第22代に即位しますが、磐城皇子(イワキノミコ)と星川稚宮皇子(ホシカワワカミヤノミコ)という二人の異母兄弟がいました。子は親を見て育つもので、この二人は(清寧天皇の指令により?)後に焼き殺されてしまいます。

清寧天皇は元々の名は、白髪武広国押稚日本根皇子(シラカミノタケヒロクニオシワカヤマトネコノミコト)という名で、生まれながらにして白い髪をしていて霊的な力を持っていたと書かれています。即位したのが23才、5年後に若くして亡くなっています。医学的には、アルビノと呼ばれる先天性の色素欠乏で、皇室の近親婚が続いたことの遺伝的障害が関与している可能性は否定できません。

いずれにしても、雄略天皇・清寧天皇の親子で皇位継承者をすべて排除してしまった結果、天皇家を継げるものがいなくなってしまうという大きな危機が訪れたことは古事記でも日本書紀でも同じ。権力闘争により自ら招いたこととはいえ、何とも困ったことになりました。