有季定型で花鳥諷詠を「ホトトギス」という土俵で生涯続けた高濱虚子に対して、無季非定型の自由律によって放浪の旅の中で心情を詠み続けた種田山頭火は、大正から昭和戦前の俳壇で対極にある存在と言えます。
種田山頭火、本名種田正一は、現在の山口県防府(ほうふ)市において、明治15年(1882年)に資産家の家の嫡男として生を受けました。しかし、正一が十歳のときに、母親が自宅敷地内の井戸に投身自殺してしまいます。このことは、正一が生涯の精神的な苦痛として背負っていたことは、容易に想像されます。
中学を卒業すると、上京し現早稲田大学に第一回生として入学しますが、精神的な問題のため中途退学し実家に戻り、父親と酒造りの仕事をするようになりました。明治44年、地元の文芸誌に山頭火の名前で投句を開始します。
釣瓶漏りの音断続す夜ぞ長き 種田山頭火
明治44年、山頭火ごく初期の句。上句が6音で字余りですが、おそらく「夜ぞ長き」は秋になると夜が長くなるという「夜長」の季語として使われ、ほぼ有季定型句と言えそうです。夜遅くまで井戸の水をくみ上げる音が重くのしかかって来るということだと思いますが、当然そこには自殺した母親のことが想像されます。
時代は大正となり、河東碧梧桐を師と仰ぎ、理解者であった荻原井泉水が主宰する「層雲」への投句が始まり、次第に頭角を現します。しかし、大正5年、酒造り事業は失敗し家屋敷をすべて失い、父親は出奔して行方不明。山頭火も、妻子をつれ熊本に移住し、古書店などを始めますが、なかなか軌道に乗りません。
闇の奥には火が燃えて凸凹の道 種田山頭火
大正6年、熊本に移り住んだ頃の句。写生の要素は無く、自分の心の奥底を文字にしたような句です。心の奥は闇で、様々な業火が立ち上がり、何をやってもうまくいかないという自身の境遇が盛り込まれました。
酒に溺れるようになった山頭火は、弟の自殺、自身の離婚などもあり、酒に溺れかなり自暴自棄的な行動に走るようになりますが、大正12年、熊本市内の報恩禅寺の住職、望月義庵のもとで寺男として修業します。しかし、大正15年、43歳となった山頭火は放浪の旅に出立したのです。
分け入っても分け入っても青い山 種田山頭火
旅立ちの初期に詠まれた、山頭火の代表句の一つ。「分け入っても」を繰り返すことで、黙々と歩き続ける山頭火の姿が浮かび上がってきます。「青い山」は若々しさを表し、自分と比べて自然の生命力の素晴らしさを実感したのかもしれません。
網代傘をかぶり、瓢箪を腰に振ら下げ、日々の托鉢によって旅を続け、10月に生まれ故郷の山口、翌昭和2年1月に広島、山陰、そして四国に渡ります。昭和3年7月、小豆島から岡山、再び山陽・山陰を行脚。昭和4年は広島から北九州、熊本、大分。昭和5年は九州中を歩き回り、昭和6年はほぼ熊本に落ち着きますが、長くは続かず年末に再び出立。
まっすぐな道でさみしい 種田山頭火
どうしようもないわたしが歩いてゐる 種田山頭火
昭和4年、ここには季語も定型もありません。ただのつぶやきと言ってしまうこともできますが、起伏の無い平坦な田舎の道がどこまでも続いている様子が見えてきます。そんなさびしさを感じる道を、歩くことしかできない自分だと否定しているようですが、その自然の中に自分の存在があることも確信しているかのようです。
昭和7年、福岡、長崎、山口、そして郷里に其中庵(ごちゅうあん)を結庵し定住を目指しました。しかし、昭和9年春、知人墓参のため東上します。広島、神戸、京都、名古屋、木曽路、信州などを巡りました。昭和10年8月、服毒自殺未遂。12月、其中庵を出て再び東上。
昭和11年、岡山、広島、門司から船にて伊勢。名古屋、浜松、鎌倉、そして4月に東京につくと荻原井泉水を訪ね「層雲」の会合に出席。さらに伊豆、甲州、信濃、新潟、山形、仙台を経て6月には山頭火の旅の北限である平泉に到達。日本海側から7月に船で其中庵に戻ります。
ここまでを來し水を飲んで去る 種田山頭火
平泉で詠んだもの。山頭火の旅は、死に場所を求めてのものと言われています。平泉まで来たものの、まだ生きている自分。ただただ水を飲んで引き返すしかなかったことで、どこかでいまだ生に執着していることへの懺悔をにじませているのかもしれません。
その後も度々九州各地を行乞。昭和14年10月、戦時色が強まる中、四国松山に渡り、香川、徳島、高知の霊場を遍路した後、松山に戻り一草庵を結庵。「柿の会」と呼ぶ句会を度々開催し、比較的平穏な日々を送るのでした。昭和15年10月10日、句会が行われる中、山頭火は泥酔して寝込んでしまい、自身が望んでいた「コロリ往生」に相応しく翌朝亡くなっているのを発見されます。享年58歳、戒名は解脱院山頭火耕畝居士です。公表された最後の句が、「辞世の句」として、松山市内の句碑に刻まれています。
もりもりもりあがる雲へ歩む 種田山頭火