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2022年9月3日土曜日

俳句の鑑賞 15 虚子と碧梧桐

明治の俳句が子規一人で成立していたわけではなく、江戸時代から続く宗匠を師と仰ぐ俳諧系列の俳人も存在しました。しかし、子規には特定の師は存在せず、主として新聞と自らが関与する「ホトトギス」に俳句や評論を発表することで、江戸からのシステムに挑んだと言えそうです。それは、維新後の新しい日本の形にもマッチして歓迎されたということ。

子規と同時代の新しい俳人として、最も重要な人物は「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉です。子規よりやや年長ですが、同じように早世しました。

春の日の巡礼蝶に似たるかな 尾崎紅葉

春の暖かな日差しの中、巡礼者が蝶のようにゆらりと歩いている。さすがに小説家ですから、ロマンティストな一面が俳句に顕著に出ているように思います。それに比べ、子規の俳句は泥臭く感じますが、より庶民的に受け入れやすいのかもしれません。

明治35年9月19日、正岡子規没。では、その後の俳句界はどうなったのか。もちろん、俄かに俳句史を語るほどの力量は有りませんので、ざっと知ることができた大まかな流れに沿って、名句鑑賞を続けていきたいと思います。

子規の門下生と呼べる人たちは大勢いましたが、子規の遺産はほぼ高濱虚子と河東碧梧桐の二人によって継承されたと言えます。

明治6年、河東秉五郎(かわひがしへいごろう)は、子規と同じく愛媛県松山市に生まれました。そして翌明治7年に、同じく松山で高濱清が生まれます。二人は明治21年、中学校で同級となり知り合います。明治22年、野球を通じて帰省していた子規と二人は初めて出会いました。明治24年、子規の門下に入り、二人は付かず離れずで研鑽を積み上げていきます。高濱は本名をもじった「虚子」という俳号を子規よりもらいます。

子規の紹介する目的で友人の柳原極堂が明治30年に創刊した「ほとゝぎす」は、1年で経営が行き詰まっていました。子規に頼まれた虚子は、明治31年に「ホトトギス」として再建して成功します。一方の碧梧桐は、子規と強い関係がある新聞「日本」の俳句選者を引き受けます。

子規は生前、「碧梧桐は冷やかなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐の人間を見るは猶無心の草木を見るが如く、虚子の草木を見るは猶有上の人間を見るが如し」と評し、二人の異なる趣が対立することを危惧していました。

実際、子規亡き後、親友であったはずの二人は決裂します。「ホトトギス」を継承した虚子は、子規の保守的な部分をより強調していくことになり、碧梧桐は子規の革新部分を受け継いだ形で、しだいに新傾向俳句に走り俳句革新運動の中心人物となっていくのです。


俳句を始めたばかりの明治24年春の二人の句を鑑賞してみます。

朧夜や我も驚く案山子かな 高濱虚子

続々と梅に後継ぐ桃杏 河東碧梧桐

虚子の句では、「朧夜」は春の季語、「案山子」は秋の季語です。案山子は年中あるので、季重なりはしょうがないのですが、この時はそこまで技巧的なことは考えていないのかなと思います。また「我も驚く」と直接心情を書くのはもったいない。一方の碧梧桐は、確信犯的に季語である春の「梅」と「桃」、夏の「杏」をたたみかけてきます。ただし、子規によって「梅散りても桃と杏の後備へ」と添削されています。

すでにこのごく初期の句作りで、二人の嗜好の違いが見え隠れしているのが興味深い。続いて明治29年春、だいぶ経験を積んだ二人の句です。

朧夜や空に消行く鞭の音 高濱虚子

赤い椿白い椿とおちにけり 河東碧梧桐

虚子は同じ「朧夜」から始まる句を選んでみました。さすがに、句に深みが増しています。碧梧桐の句は、初期の傑作とされているもので、子規が「印象明瞭。まるで絵画をみているよう」と大絶賛したもの。意欲的な字余りに挑んでいます。次は明治33年冬の句です。

遠山に月の当りたる枯野かな 高濱虚子

木枯や谷中の道を塔の下 河東碧梧桐

「遠山・・・」は初期の虚子の代表作とされています。ダイナミックな視点移動によって、情景が浮かび上がってきます。一方の碧梧桐は、このタイミングとしてはあまりパッとしない。当時谷中には五重塔があったそうですが、冬の寒さは伝わってきますが、あまり面白みは感じません。

子規のもとにいる間は基本的に成長過程であり、二人とも切磋琢磨して、抜きつ抜かれつの技量なのかなと思いました。もちろん、素人からすればはるかに優れた着眼点と構成力が見て取れます。後年の円熟の作品より、このような初期の作品の方が勉強になるのかもしれませんね。