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2022年9月14日水曜日

俳句の鑑賞 20 飯田蛇笏

高浜虚子と共に、大正期の「ホトトギス」を牽引した最大の俳人が飯田蛇笏です。その業績は、現在も毎年選出される蛇笏賞として称えられ続けています。

飯田蛇笏、本名飯田武治は明治18年(1885)、山梨県境川村の大地主の旧家の長男として生まれました。当時この地域は、江戸時代からの俳諧がまだまだ盛んだったため、小児期より蛇笏は俳諧に親しんだようです。

中学に進学した頃から、子規らの「ホトトギス」を読むようになり、明治33年に上京。明治38年には早稲田大学に入学し、しだいに大学の俳句会の中心人物になり、「ホトトギス」へも投句するようになります。

しかし、明治41年に高濱虚子が小説に専念するため俳壇を引退すると宣言したため、蛇笏は投句を中止してしまい、明治42年には大学を中退し山梨に帰郷するのでした。戻ってからは、「国民俳壇」などに細々と俳句を発表します。

山梨にも河東碧梧桐の新傾向俳句の波が押し寄せてきますが、蛇笏は保守的な俳句を堅持し、大正2年に虚子の俳壇復活と共に「ホトトギス」へ投句を再開し注目されるようになります。大大正5年には「ホトトギス」と並行して「雲母」の主宰となり、山梨の地で着々と名声を積み上げていきました。

戦時下に「雲母」は活動を停止しますが、戦後、四男の龍太の助けもあり再開。昭和37年、脳卒中により77歳で死去、戒名は真観院俳道椿花蛇笏居士。「雲母」は龍太に引き継がれました。

山梨に戻ってからは、自らの住まいを山廬と称し、雄大な自然に囲まれた中で、有季定型の力強い格調高い作風の俳句を作り続けました。


たましひのしづかにうつる菊見かな
 飯田蛇笏

「ホトトギス」に投句を再開した頃の句。菊は秋の季語。菊を見るということは、秋に開催される展示会に足を運んだ時のこと。じっと見つめると、自分の心の奥底までが映っているように感じたということでしょうか。もしかしたら、彼岸の時期で祖先に思いをはせていたのかもしれません。

くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 飯田蛇笏

代表作とされている句の一つ。風鈴は夏の季語ですが、あえて「秋の」を付けたことで、仕舞い忘れて軒下にぶら下がったままの風鈴の景色が詠まれています。くろがね・・・南部鉄の風鈴はわざわざ「鳴る」としなくても鳴るものですが、夏に涼しさを感じさせる音とは違う、秋の風情を強調するためにわざわざ鳴らしているということ。

しめかざりして谷とほき瀑の神 飯田蛇笏

「注連飾(しめかざり)」は当然新年の季語で、和歌山県那智勝浦の那智の滝を詠んだもの。落差133mの那智の滝は飛瀧神社の御神体とされ、滝に向かう入口の新しい注連飾と、近づきがたい神聖な滝までの距離を詠んでいます。

凪ぎわたる地はうす眼して冬に入る 飯田蛇笏

「冬に入る(いる)」で「立冬」の傍題。現代で11月初めで、徐々に秋の気配が弱まり、冬が近づいてくる頃です。動きがとまった大地が、冬眠に入るかのように、まだ薄目を開けているくらいという情景。

みだるるや箙のそらの雪の雁 飯田蛇笏

雁は秋の季語ですが、ここでもあえて冬の季語「雪」を付けています。箙(えびら)は猟をする時の矢を入れて腰などにぶら下げておく容器のこと。雁の視点で、たくさんの矢を箙に入れた地上の猟師が自分を狙っているため、怖くて飛び方も乱れてしまうという内容。

誰彼もあらず一天自尊の秋 飯田蛇笏

最晩年、自らを総括するような句なので、辞世の句として扱われています。誰も彼もいない、自分だけしかいない。そんな中を俳句に邁進してきて、今は秋だということでしょぅか。