正岡子規の三大随筆と呼ばれている著作があります。
墨汁一滴 明治34年1月16日~7月2日 新聞「日本」連載
仰臥漫録 明治34年9月2日~明治35年7月29日
病牀六尺 明治35年5月5日~9月17日 新聞「日本」連載
これらはほとんど寝たきり状態になった子規が、ほぼ毎日、少しずつ書き留めたエッセイのようなもの。ただし、「墨汁一滴」と「病牀六尺」が、新聞の読者に読まれることを前提にしているのに対して、「仰臥漫録」は私的に描き続けていた日記であり、日々の「病人」の記録で公開は考えていなかったもの。
新聞連載は自分の病気の状態についての文章だけでなく、俳句の論評、新聞や友人などから見聞きした世間の話についての感想なども含まれ、自分を主観的に、ある時は客観的に見つめています。そして、当然、死期が近づくにつれ、重苦しさはどんどん増していくようです。
仰臥漫録は、その日に食べたもの(それにしても旺盛な食欲にはあきれますが)、飲んだ薬、来客、率直な気持ちとかの記録で、文章というより項目の羅列が多い。しかし、その分病人のリアルな心情があふれています。
特に注目されるのが10月13日の記述。妹は風呂に行き、母を電報を打たせるために出かけさせ、庵に一人きりになった子規は、硯箱の横にあった小刀と千枚通しを見入ります。隣の間には剃刀があるのは知っているが取りに行くことはできず、小刀と錐では死ねなくはないが、「病苦でさえ堪えきれぬに、この上死にそこのうてはと思うのが恐ろしい・・・(中略)・・・考えて居る内にしゃくりあげて泣き出した。その内母は帰って来られた」と書き、小刀と錐の絵を添えているのです。
これらの著書のところどころに、思いついた俳句がたくさん書きとめられています。当然、吟行にでかけるどころか、ほぼ畳一枚分の病床から動けない子規は、作句の材料にしたのは庵の庭や、室内の置物、そして自らの病苦や想像力などしかありません。
「仰臥漫録」開始早々の明治34年9月、子規の興味は糸瓜に注がれます。子規庵の庭には、棚が作られ去痰剤、あるいは食用として利用するために糸瓜などの瓜科がたくさん栽培されていました。「庭前の景は棚に取付いてぶら下りたるもの 夕顔二、三本 瓢二、三本 糸瓜四、五本 夕顔とも瓢ともつかぬ巾着形のもの四つ五つ」と記し、まつわる句をたくさん詠んでいます。
夕顔の棚に糸瓜も下がりけり 正岡子規
夕顔と糸瓜残暑と新涼と 正岡子規
そして、もう一つ、庭に植えてある鶏頭も子規お気に入りの句材です。
鶏頭のまだいとけなき野分かな 正岡子規
鶏頭や今年の秋もたのもしき 正岡子規
明治35年になると、月日の記載が飛び飛びになり、俳句も減ってきますが、題材も直接見るものではなく、いろいろと想像を巡らせたものが多くなりました。
蒲公英やボールころげて通りけり 正岡子規
「ボールがタンポポを避けて転がっていくようだ」ということですが、実は正岡子規の幼少時の名前、升(のぼる)です。ベースボールが好きだった子規は、「の・ぼーる」から「野球」という翻訳を思いついたそうです。ボールに自分を重ねているのかもしれません。
9月17日、「病牀六尺」の最後の記事に書かれていたのは短歌でした。子規は、俳句だけでなく短歌の改革者としても認められています。
俳病の 夢みるならん ほととぎす
拷問などに 誰がかけたか 正岡子規