俳句って、現代の話し言葉・・・口語で作ってもいいんですけど、意外とこれが難しい。我々凡人は、好むと好まざるに関わらず、ある程度は昔ながらの文語表現を使った方が俳句らしく仕上げることができる。となると、ある程度は文語の知識も整理しておかないといけない。
俳句の「切れ」を作り出すのに重要な働きをしている、「けり」、「や」、「かな」などは頻出の文語表現ですが、いろいろと問題含みなのが「ありにけり」です。
木枯らしの果てはありけり海の音 池西言水
言水は芭蕉と同時代の俳諧師。冬の寒々とした木枯らしにも行き付く先が海の音として聞こえるんだなぁ、という内容の句です。
ここでは「ありけり」が使われていて、一般に江戸時代には「ありにけり」という間に「に」が入る表現は無かったと考えられています(もっとも、明治に近い一茶にはいくつか登場していますが)。「あり」は「存在する」という意味の動詞で、「けり」は過去を表す助動詞で、その一つ前の動詞または名詞と連用形接続をするとされています。
いや、もう、これだけでお手上げ感バリバリなんですが、我慢してもう少し先に進みましょう。俳句では「けり」とくれば、もっぱら終止形の詠嘆の表現。
帚木に影といふものありにけり 高浜虚子
帚木(ははきぎ)は、信濃国園原伏屋にある伝説上の木で、遠くから見れば箒を立てたように見えますが、近寄ると見えなくなるといわれています。昭和5年の虚子のこの句は、見えなくなる帚木でも、影はあるんだよなぁ、という内容。
「といふもの」とか「ありにけり」で10文字も使っているんですが、かなり曖昧な表現で凡人的には音の無駄遣いみたいに思えてしまいます。例えば「帚木は影はあり葉の摺れ聞こえ」みたいにたくさんの情報を詰め込みたくなるものです。
しかし、虚子は潔く帚木の幽玄なイメージを強調するため、よけいな言葉をバサっとそぎ落としたということ。だったら「帚木に影あり」で終わりでもいいんじゃないかとなる。ある意味、有季定型にこだわる虚子が無理矢理に五七五に引き延ばしたかのようです。実際は、この句では希薄な空虚さが見事に表現されていると評価されています。
明治になって「である」という口語が登場し、これに「けり」が付いて「でありけり」から「で」が省略され、語感をやわらかくするために完了の自動詞「ぬ」の連用形の「に」がはさまった・・・らしい。実務的には、5文字にして音数を整えるという目的もかなりあるとのことです。つまり本当の古語ではなく、なんちゃって文語ということ。
この時期の虚子は、積極的に「ありにけり」を多用し始めました。単純に「あったなぁ」というより、もっと強い詠嘆を柔らかい印象で作り出せることを発見したようです。その影響が広まって、一般化したといわれていますが、単純にこれを真似ることは、中身が薄くなることにつながる可能性を理解しておかないといけません。
秋簾日焼けしたままありにけり
練習のつもりで一句。夏に活躍する日よけの簾(すだれ)ですが、ついつい仕舞わずに秋になっても軒下にぶら下がっている状態を「秋簾」と呼び仲秋の季語になっています。日焼けしてだんだん色あせて、埃もだいぶついていますから、なかなか片付けようという気にならないのかもしれません。