「病牀六尺」、死の間際まで書き続けられた子規の代表的な随筆。牀は床の本字で、「病牀」とは「病床」、つまり畳一枚分の世界が寝たきりの子規のすべてということ。「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである」と書き出します。
悲壮な現実と楽しみを夢想する内容は、死を目前としつつもなお子規の生来の陽気な面が顔をだしています。その一方で、「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」と記しています。
子規には、絶筆三句と呼ばれるものがあります。明治35年、ほとんどまともに起き上がることさえままならない状態の子規は、9月18日午前11時頃、妹の律と河東碧梧桐に手伝ってもらいながら、「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」と書き記し、その左に「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」、右に「をととひのへちまの水も取らざりき」と加えます。
書き終えると目を閉じた子規は、そのまま翌日、19日の午前1時頃に息を引き取りました。まさに辞世の句であり、絶筆となったこの三句は9月21日の新聞「日本」の一面に掲載されたのでした。
当時は、糸瓜(へちま)の絞り汁は咳止め・痰切りの薬として利用されていました。特に仲秋の名月の晩に採取したものは、ことのほか薬効があると言われていたようです。
糸瓜咲て痰のつまりし佛かな 正岡子規
季語は「糸瓜」ならば初秋・植物となりますが、しばしば議論されるのは「糸瓜咲て(へちまさいて)」となると「糸瓜の花」のことになり季語としては晩夏・植物ではないかということ。しかし、書かれた状況を考えれば、この句の切羽詰まった状況を伝えることにはどうでもよいように思えます。
上句は6文字の字余りの取り合わせで、上句に季語を含んでいるにもかかわらず、下句の「佛(仏)かな」の強烈なメッセージが印象的。糸瓜は花を咲かせて元気であるのに、その糸瓜水の効果も無く、痰が絡んでしょうがない自分は、すでに仏・・・つまり死人も同然であるということ。
痰一斗糸瓜の水も間にあはず 正岡子規
季語は「糸瓜」で、有季定型で上句で名詞体言止めで切れがありますが、上中下にかけて内容は一貫しているので一物仕立てと考えてよいのではないでしょうか。
一斗は18リットルですから、実際にそんなには出ませんが、ものすごく大量の痰を出るということ。痰の量があまりに多いため、糸瓜水がいくらあっても足りることが無いという内容です。
をととひのへちまの水も取らざりき 正岡子規
季語は「糸瓜の水取る」で仲秋・人事です。ただし、季語の「取る」を否定して「取らざりき」として用いています。有季定型・一物仕立てで、仮名が多くなったのは、筆を持つ手に力が無くなってきたからでしょうか。
これらの句を詠んだ9月18日の二日前は、まさに仲秋の名月でした。一番効くはずの一昨日の糸瓜水を取り忘れたことを後悔しているのか、すでにそれも無駄な物だと達観しているのか。
いずれも、自分を冷静に見つめる子規の姿が浮かび上がってきます。しかし、三句とも糸瓜にからむところは、糸瓜水を命の拠り所としていたのかと思います。悲壮感は少なく、自分の命が尽きることを悟りきっているものの、どこかに無念さがにじみ出ているようです。
子規の俳句は、心情とした「写生」が反映され、比較的わかりやすい。また、推敲の過程をたくさん公開していることもあり、俳句の改革者としての功績は認められても、作品そのものは駄句が多いとしばしば評されるようです。しかし、少なくとも子規に限っては、彼の人生そのものを知った上で鑑賞すべきものであり、作句するときに示唆に富んだものだと感じました。
全部は無理でも、できるだけ機会があるたびに子規の俳句を拾い上げていくことは忘れないようにしたいと思います。